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7.枕草子の原点 枕草子執筆の経緯(3の3)

2024-10-16 10:11:59 | 枕草子
7.枕草子の原点 枕草子執筆の経緯(3の3)

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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7.枕草子執筆の経緯(3の3)

  その意味では、「枕草子」の「日記的章段」の多くは、むしろ「回想章段」と呼ぶ方がふさわしい。
  内容の中心は清少納言が定子に仕えていた西暦四(993)年から長保二(1000)年までのことだが、最も古いものは清少納言がまだ出仕する前、西暦三年の定子と一条天皇のエピソードになる。同僚から伝え聞いた話なのだろう。

  また西暦四年、清少納言が初めて定子に仕えた頃の思い出。華やかだった道隆、伊周ら中関白家の面々。長徳二年の政変による運命の荒波、しかしそれを受けつつ、しなやかに生き続ける定子の姿。これらに描かれる定子や清少納言はじめ女房集団は、よく笑い、活発で、常に風流を怠らない。
  描かれる時間が政変前のことであっても政変後の没落期のことであっても、わずか一つの章段を除いては、そこには幸福に満ちた定子後宮の姿しかない。

  描かれる定子の最後の姿は、長保二(1000)年の死の数か月前。凛とした后像のまま、死の場面は描かれていない。そしていくつかの章段に現れる過去を振り返る口調からは、定子死後という時間の経過が実感される。清少納言は定子の死後も、輝かしかった定子サロン文化を書き留めるという執筆方針を変えなかった。下命者その人を喪っても、定子に捧げるという思いを貫いたのだ。

  執筆は、長く続けられた。

  第二八七段「右衛門尉(ゑもんのぞう)なりける者の、えせなる男親を持たりて」には、「道命阿闍梨(どうみょうあじゃり)」が登場する。彼が阿闍梨に就任したのは、寛弘元(1004)年。紫式部が彰子に仕え始める前年だ。
  また、第一〇二段「二月つごもりごろに、風いたう吹きて」には、その当時は中将で、執筆時には左兵衛督(さひょうえのかみ)となっていた人物が登場する。史実を探すと、該当するのは藤原実成なる人物一人しかいない。
  彼の左兵衛督への任官は、寛弘六(1009)年。定子の死後、実に九年を経ても、清少納言は「枕草子」を書き続けていたのだ。紫式部が「紫式部日記」の清少納言批判を記したのは、この翌年のことだ。

  紫式部の清少納言批判を、清少納言本人が目にすることはなかっただろう。が、もし目にしたとしても、批判は的外れではない。むしろ言い得ていると、清少納言はきっと笑ったに違いない。闇の中にあって闇を書いていないのは、清少納言自身がそう意図したからだ。何はさておき、定子のために作ったのだ。

  定子の生前には、定子が楽しむように。その死を受けては、定子の魂が鎮められるように。皆が定子を忘れぬように。これが清少納言の企てだった。だが、一人の企てはやがて世を巻き込み、おそらくは清少納言の予測もしなかった方向へと進んで行くことになる。
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「枕草子」本文の引用簡略化は大変そうなので、しばらく考えます。

6.枕草子の原点 枕草子執筆の経緯(3の2)

2024-10-13 09:50:17 | 枕草子
6.枕草子の原点 枕草子執筆の経緯(3の2)

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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6.枕草子執筆の経緯(3の2)

  とはいえ、すぐに執筆に取り掛かったわけではなかったようだ。跋文には、託された冊子を「自宅に持ち帰って」書いたとあるからだ。

  女房は住み込みで働くので、通常なら執筆も内裏で行ったはずだ。しかし清少納言には、冊子を定子から受け取った後の長徳二(996)年秋頃に、事情があってしばらく定子のもとを離れ、自宅に引きこもったことがあった。「枕草子」の執筆は、その時本格的にスタートしたのである。

  書きながら常に定子の御前が恋しくてならなかったという。定子から離れて寂しかったから、というわけではあるまい。書いてある内容が定子や定子サロンに関わることだったから、書くごとに恋しさがかきたてられたのである。

  一旦、整理しよう。上の能因本系統「跋文」からは、次のことが知られる。

  この作品がもともと定子の下命によって作られたこと、定子が清少納言独りに創作の全権を委ねたこと、そして二人はこの新作に「史記」や「古今和歌集」の向こうを張る意気込みを抱いていたこと。
  下命による作品は下命者に献上するものであるから、執筆した後は、清少納言はこれを定子に献上したはずである。つまり「跋文」にしたがう限り、「枕草子」とは定子に捧げた作品であったのだ。

  その「枕草子」を、紫式部は「ぞっとするようなひどい折にも「ああ」と感動し「素敵」とときめくことを見逃さない」と批判した。

  前にも少し触れたとおり、「枕草子」の執筆が本格的になったのは、定子が長徳の政変によって出家した後の長徳二(996)年頃のことである。さぞや定子は絶望的な状況にあったに違いない。その彼女の前に清少納言は「枕草子」を差し出した。ならば、それが感動やときめきに満ちたものであったのは、定子を慮(おもんばか)ってのことに違いない。
  献上は定子の出家した年内のことになる。中宮の悲嘆に暮れる心を慰めるためには、今・ここの悲劇的現実に触れないことこそ当然ではないか。また、本来の企画が定子後宮の文化の粋を表すことにあったことも思い出さなくてはならない。
  中関白家と定子は、華やかさと明るさを真骨頂としていた。それに清少納言独特の個性が重なり、「枕草子」は闇の中に「あけぼの」の光を見出す作品となったのある。これを読んだ定子や女房たちは、自らの文化を思い出して自信を取り戻すことができたのではないだろうか。

  だが、ここに一つ問題がある。作品は定子に献上されたと記したが、現在私たちが手にする「枕草子」の特に「日記的章段」には、例えば登場人物の官職名などから判断して、明らかに定子の死後に書かれたとしか考えられないものがある。つまり「枕草子」は「跋文」の言う経緯によって一旦完成したのち、定子の死後までも書き続けられたのだ。

5.枕草子の原点 枕草子成立の事情(3の1)

2024-10-09 09:43:19 | 枕草子
5.枕草子の原点 枕草子成立の事情(3の1)

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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5.枕草子成立の事情(3の1)

  実は「枕草子」には、巻末に「跋文(ばつぶん)」と呼ばれる章段だあり、そのなかには作者が自ら作品の概要や制作の時期、作品が世に出た時期などを記すほか、作品創作のきっかけを明かしている部分がある。
  ここではより情報量が多くてわかりやすい「能因(のういん)本」系統の跋文を見ることにしよう。

   宮の御前(おまへ)に内の大殿(おとど)の奉らせ給へりける草紙を、「これに何をか書かまし」と、「上の御前には史記といふ文をなむ、一部書かせ給ふなり。古今をや書かまし」などのたまはせしを、「これ給ひて、枕にし侍らばや」と啓(けい)せしかば、「さらば得よ」とて給はせたりしを、持ちて、里にまかり出でて、御前わたりの恋しく思ひ出でらるることあやしきを、故事や何やと、尽きせず多かる料(れう)紙を書き尽くさむとせしほどに、いとど物おぼえぬことのみぞ多かるや。

   (中宮様に内大臣様の献上なさった草紙について、中宮様が「これに何を書こうかしら」とおっしゃり、「帝は「史記」という漢籍をお書かせになるということよ。こちらは「古今和歌集」を書こうかしら」とおっしゃったので、「これを頂いて、枕に致したいものですわ」と申したところ、「ならば受け取りなさい」と下さったのだ。それを持って自宅に戻り、中宮様の御前が恋しく思い出されること狂おしいほどであるなか、故事や何やと書いて使い切れないほど大量の用紙を使い切ろうとしたものだから、訳のわからない記事ばかりでいっぱいになってしまったこと)
   (「枕草子」能因本「跋文」〈長跋〉)

  定子に内大臣(伊周 これちか)から白紙を綴った冊子が献上された。彼の官職から、西暦五(994)年から長徳二(996)年までのことである。彼は同時に一条天皇にも献上していて、天皇はそれに漢籍の「史記」を書かせることにしたのだという。
  当時は古い時代の冊子は大きさと内容の品格が大方一致していて、「史記」など品格の高い書物は大型本に作られるのが普通だった。したがって内大臣が天皇に献上した冊子は大型で、格式ある書物を書くためのものだったと診られる。

  定子に献上された冊子も、同様に大型であった。なぜならば定子が「古今をや書かまし(「古今和歌集」を書こうかしら)」と言っているからである。定子は当初、格式ある大型本の体裁に似つかわしい、いわゆる〈古典〉をこの冊子に筆写させようと考えていたのだ。

  だが清少納言はそれを「枕にしたい」と口を出した。冊子が分厚いから枕にちょうどよいと、まずは冗談を言ったのであろう。この言葉に、定子にはひらめくものがあったに違いない。即座に「ならば受け取りなさい」と言って、冊子を清少納言に渡したからである。
  この時、格式あるこの冊子は、格式ある体裁をそのままに、古典ならぬ新作の冊子となることに決まった。この新作も下命者である定子の文化の粋を示すものでなくてはならない。清少納言はそれに挑戦することになったのだ。

4.枕草子の原点 定子再びの入内と死

2024-10-04 13:26:26 | 枕草子
4.枕草子の原点 定子再びの入内と死

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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4.定子再びの入内と死

  このままならば定子の人生は、一度は后として栄華を極めたものの零落して内裏を去った尼僧ということで、静かに終わっていたかもしれない。しかし定子には、さらなる浮沈があった。
  翌長徳三(997)年、天皇が再び定子を呼び戻したのである。厳密には定子の居所を中宮関係の施設に移しただけだったが、これを復縁の準備と見抜いた貴族たちは「天下、甘心(かんしん)せず(誰が甘くみるものか)」との批判を浴びせた(「小右記」同年六月二十二日)。

  確かに、唐突に出家するキサキも稀だが、それを復縁する天皇は前代未聞だった。長徳の政変後、天皇には中宮に次ぐ位の妃として二人の女御が入内していたにもかかわらず、彼は定子その人への哀愁を断ち切れなかったのだ。

  一条天皇の愛情の深さゆえ、しばらくは誰も手出しのできない状態が続いた。しかし天皇は、皇統の継続のため男子をつくる必要があった。定子にその兆しが現れたのは長保元(999)年春のことである。

  それと相前後して、最高権力者・藤原道長の娘である彰子が十二歳で着裳(ちゃくも)した。女子の成人式である。彰子の入内が秒読みの状況となるなか、道長は定子への露骨ないじめを開始した。
  十一月には、一日に彰子が入内。七日の夜には結婚披露の宴と初めての床入りが行われた。定子の出産は、まさにその当日の朝の事だった。生まれたのは皇子。一条天皇の後継第一候補・敦康(あつやす)親王の誕生である。

  天皇の喜びをよそに、貴族たちの目は冷ややかだった(「小右記」長保元年十一月七日)。また、尼である定子は神域では忌み嫌われるため、中宮としてなすべき神事を行えなかった。それを理由に、長保二(1000)年にはついに彰子が新たなる中宮に立った。

  ただ、天皇の強い意向があったのだろう、定子もかわることなくこの地位にとどまった。定子は中宮の正式名称である「皇后」、彰子は「中宮」と通称されるようになったが(「日本記略」同年二月二十五日)、このように一人の天皇のキサキが二人で最高位を分かつという事態もまた、前代未聞のことであった。

  そうしたなか、定子は一条天皇の第三子を身ごもった。そして同年十二月十六日未明、女児を出産した床で崩御した。享年は二十四である(「権記」同日)。

  この人生を、なんと形容すべきだろう。浮かぶのはおそらく、波瀾や苦悩という言葉ではないか。にもかかわらず、定子を描く「枕草子」は幸福感に満ちている。紫式部が違和感を唱えるのも、決して筋違いとは言えないのではないだろうか。