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朧月夜の「草の原」 (源氏物語)

2023-11-30 15:03:41 | 源氏物語のトピック集
朧月夜の「草の原」 (源氏物語)

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集

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  「源氏物語」の「花宴」を藤原俊成は「殊に艶なる物也」と讃えている。源氏に一夜拉致され密会した朧月夜の歌をみてみよう。

  朧月夜と呼ばれている女性は、左大臣家の婿の源氏にとっては政敵ともいえる右大臣家の六の君で、桐壺帝の一の女御である弘徽殿の末の妹(絵参照)である。それは宮中で花の宴が催された夜更けのことであった。源氏は藤壺(と呼ばれる建物)のあたりを徘徊しつつ、もしやと思う好機を考えていたが、さすが藤壺の戸締りはしっかりしたものであった。源氏は物足りぬ思いから、ふと弘徽殿の細殿に立ち寄ってみると、北から三番目の戸口が開いたままになっていた。女御はお召しがあって上の御局に上られたので、人少なである。入ってみると不用心にも奥の枢戸(くるるど:ドアのように開閉する戸)まで開いている。人はみな寝静まって物音もしない。

  そんな時に何と「朧月夜に似るものぞなき」と古歌を口遊(くちずさ)みながらこちらに歩いて来る女人があった。源氏はふいの出会いにうれしくなって、分別も忘れ女人の袖を捉えた。女は怖ろしいと思う様子であったが、源氏は「おぼろげならぬちぎりとぞおもふ」などとうたいかけながら、ゆっくりと抱きおろして、戸を閉めてしまった。一夜は早く明けて、源氏は女が誰であるかを知りたいと思ったが、女は名乗らずに歌を詠んだ。

   うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ

  「ふいにあなたと契りを交わした憂き身の私が、このままもし死んでしまいましたら、あなたは名も知らぬ女として、草葉の茂る墓原まではお探しになることはないでしょう」といっている。薄情な浮気男として源氏をなじっているのだが、その姿は「えん(艶)になまめきたり」と書かれている。

  この女性こそ、その後の源氏の運命を一時窮迫させる原因となる朧月夜の君であった。少しく奔放な情熱に身を委ねることができた朧月夜の君との恋に、源氏は夢中になり、夏の雷鳴とどろく中で愛し合っている現場を右大臣に見つけられてしまう。そして、東宮妃にもと予定していた姫を奪われたことで一家の激しい恨みを買うことになる。左大臣の致仕(ちじ:辞職)、源氏の須磨引退はここからはじまったのである。

  もう一つ、この歌がのちのちまで有名になったのは、建久四年(1193)藤原良経の主催する「六百番歌合」の中で、判者藤原俊成が下した判詞によるものだ。
  「冬上」の場で、題は「枯野」。良経と隆信の歌の勝負である。(左方と右方に分かれて勝負の)左方良経の歌は、「見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに」であった。この時右方から非難が出て、「草の原」は墓場のようで、この歌にはふさわしくないといわれた。この時俊成は「何に残さん草の原といへる。艶にこそ侍るめれ。・・・其の上、花の宴の巻は、殊に艶なる物也。源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也」と述べて、左方に勝判を与えたのである。以後、「源氏見ざる歌詠み」という不評を買わないための努力は、「源氏物語」に歌の根本にある人間理解や、情緒の醸成に作用する言葉の働きなどを学ぶようになり、人生のテキストとして尊重を深めるようになってゆく。

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」

後半 和泉式部の偲び歌 偲び歌を五つのパートから構想し詠みわけ

2023-11-28 10:16:23 | 和泉式部の恋と歌
後半 和泉式部の偲び歌 偲び歌を五つのパートから構想し詠みわけ

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集

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  前半からのつづき

    よひのおもひ
   不尽のねにあらぬ我が身の燃ゆるをばよひよひとこそいふべかりけれ
   こぬ人をまたましよりも侘しきは物思ふころのよいゐなりけり

  「よひ」という時間帯は「夕暮」のあと、まだ夜半には至らぬ頃である。しょうど恋人が人目を避けて来る頃でもある。待つ人は閨(ねや)にも入らず焦れて待つ頃だ。
  和泉式部はそうした時のわが身を「不尽のね」にたとえ、「わが身の燃ゆる」ことを訴えている。下句は「宵々に燃ゆる」ことを、火山の「夜火(よひ)」と掛けて洒落ているが、次の歌は「来ぬ人を待つ」夕べの物思いよりも、来るはずのない人を思いつつ起きている「宵居(よいゐ)」の物思いの方がどれだけつらいかわからないとうたう。

    夜なかのねざめ
   物をのみ思ひねざめの床の上にわが手枕ぞありてかひなき
   (物思いばかりをして寝た夜半の寝覚めに、気がつくと私は自分の手枕をして寝ていたのであった。あの方の手枕の中に眠ることもなく、何という情ないわが手枕の寝覚めであろう)

  よろこびにつけ、かなしみにつけ、共寝の夜の「手枕」の袖があることは、心強い同伴者の支えがあった日のことだったのだ。これらの歌はほぼ男に忘れられた女の悲しみに近いうたい方がされている。

    あかつきの恋
   住吉のありあけの月をながむれば遠ざかりにし人ぞこひしき
   夢にだにみであかしつる暁の恋こそ恋のかぎりなりけれ
   わが恋ふる人はきたりといかがせむおぼつかなしや明けぐれの恋

  「あかつきの恋」は、「きぬぎぬ」の場を意識している。何で「住吉」の月なのかは簡明、歌枕の名歌であるとともに「住みよし」という名詞自体が理想的でめでたい。月が「澄みよし」もかけられている。まるで思いが叶っているような「住吉」の暁、「ありあけの月」は「きぬぎぬ」の男姿の背景として眺められるべき月である。
  しかし和泉式部の現実にその人(敦道親王)はなく、それをここでは、死者としてではなく「遠ざかりにし人」とうたっている。自分を置いて遠く去っていった恋人という詠み方である。

  和泉式部は次に「暁の恋」を「恋のかぎり」(極値)だとうたった。恋の暁は一般的には「きぬぎぬ」の別れの思いだが、すでに対象(敦道親王)を失っている和泉式部にとって、それは理想的に回想されてゆく恋なのだ。
  しかしこの歌は思う人が夢にさえ現れてくれなかった暁の目覚めである。瞬時ののちにはその空しさを押しのけてあふれてくるリアルな、亡き人への悲しさがある。それはもう全く手の届かぬものゆえに、破格な激情となって涙に溺れるほかないものかもしれない。まさに究極の恋であり、完璧な恋とよべるものだといえる。

  こうした完結しきった理想的な恋の後に、「もし」ともう一度自問する。そして、第三首では、「わが恋ふる人」が暁に幻のように来たとしたら、自分はその幻とどう向き合えるだろうかと考えてみる。
  現実の肉体をともなわない幻のような「恋ふる人」との出会いに、和泉式部は自信がない。「わが恋ふる人はきたりといかがせむ」この上句は三句にいたって急に弱々と言葉がくずれている。そして四句は「おぼつかなしや」と詠嘆し、結句は、現と夢とのけじめがはかりがたいような「明けぐれの空」の混濁の中に自らの意識もすべり込ませてしまっている。「暁の恋」は、宮(敦道親王)との恋を反芻すると同時に、深い喪失感を目覚めさせるものにほかならなかったのだ。

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」

前半 和泉式部の偲び歌 偲び歌を五つのパートから構想し詠みわけ

2023-11-26 10:03:54 | 和泉式部の恋と歌
前半 和泉式部の偲び歌 偲び歌を五つのパートから構想し詠みわけ

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集

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  和泉式部はまた、偲び歌を「ひるしのぶ」「夕のながめ」「よひのおもひ」「夜なかのねざめ」「あかつきの恋」という五つのパートから構想して読みわけることを思いついている。うたうことによって、喪失感をやわらげるとともに、ここには人を思う一日のうちの情緒の変化がみられて作品としても魅力がある。

    ひるしのぶ
   かぎるらむ命いつともしらずかし哀れいつまで君をしのばむ
   (かぎりある命だから、私とていつ死が待っているとも知れないのです。ああ、しかしその命のかぎり、こうして苦しいまでに君を思いつづけることなのでしょう)

  明るい陽の光の中で思うとき人の存在は淡くなりやすい。まして死者を偲ぶ心は陽光のあまねくゆきわたるま昼間の景に負けているにちがいない。「命いつともしらずかし」と念入りに思い入れ深く歌っている三句の切れ目のあとを、「哀れ」と強い感嘆詞でうたいおこしているのも巧み。「いつまで」は「かぎるらむ命」に対応して、「命あるかぎり」となるだろう。

    夕のながめ
   今のまの命にかへてけふのごとあすのゆふべをなげかずもがな
   夕暮はいかなるときぞ目にみえぬ風の音さへあはれなるかな
   たぐひなく悲しきものは今はとてまたぬ夕べのながめなりけり
   忘れずはおもひおこせよ夕暮に見ゆればすごき遠(をち)の山かげ

  さすが人待つ時刻の「夕のながめ」には秀歌が多い。「かぎりある命」ゆえ「今」のまにも終わるかもしれないその命は、君を思う思いで張り裂けそうだ。いっそこの思いのまま死んでもいい、今日のような苦しい思いを、明日の夕べはしないために、という第一首。来る人を待って高揚する胸のときめきを凝縮したような白熱感をもってうたっている。

  第二首の「夕暮はいかなるときぞ」という自問には、人待つ夕暮れの切実を沢山体験した人の無限の思いがこもっていよう。

  第三首も「今はとてまたぬ夕べ」に死の現実に対する自覚はあるものの、「もうあの方を待たない夕べなのだ」という自己説得には、説得しきれぬ未練な悔しさが漂うものだ。

  第四首の「忘れずはおもひおこせよ」という死者への呼びかけは現(うつつ)の人への呼びかけと同じ呼気であるところがすごい。夕暮の「ながめ」は「物思い」の意味ではあるが、眼前にはさまざまな「景」もあったはずだ。人待つ思いをもって、ふと目を上げたとき、藍深く暮れかかる遠山が見える。ある終焉のかたちを思わせるようなその遠山の姿を、「ぞっと身にしむ」ような思いで見守る和泉式部である。「すごき」という和泉式部の感受には、再び会えない宮との距離を自覚させるものがあったのだろうか。

後半 につづく

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」

和泉式部の死者を偲ぶ恋の歌 敦道親王亡きのち

2023-11-25 08:47:51 | 和泉式部の恋と歌
和泉式部の死者を偲ぶ恋の歌 敦道親王亡きのち

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集

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  敦道親王亡きのち(既に正妻が実家へ戻った和泉式部の絢爛豪華な不倫同棲先の)敦道親王邸から自邸に戻った和泉式部は魂のぬけがらのような日々を送っていたのであろう。「和泉式部集」でみると、寛弘四年(1007)十一月二日の四十九日以降に大量の挽歌を残している。宮への偲び歌だが、それはもう相見ることのない人への恋の歌でもある。

    師走の晦の夜
   なき人の来る夜ときけど君もなしわが住む里やたまなきの里
    なおあまにやなりなまし、と思ひたつも
   すてはてむと思ふさへこそ悲しけれ君に馴れにし我が身と思えば
   思いきやありて忘れぬおのが身を君がかたみになさむものとは

  宮がなくなった年の師走、大晦の夜の歌だ。大晦はいまの節分がそれに当る。節分は年が行き、年が来る境目の夜で、こんな時に「なき人」の魂が帰って来るといわれていた。今日では節分に鬼が来るといって豆つぶてを打つが、昔は祖霊が族の繁栄を祈って祝福にやって来たり、親しい死者の魂が、懐かしんでくれる人のもとに帰ってきたりすると考えられていた。
  ここでは、宮の魂が帰って来る夜ときくが、宮のけはいも感じられなかったことを悲しんで、ありし日に待ち明かした宵のことなどを回想しているのであろう。「わが住む里やたまなきの里」という下句に哀婉な情がにじんでいる。

  次の歌の詞書には、「尼」になってしまおうか、という心迷いがあったことがわかる。しかし、結果として尼にはならなかった。その理由がこの二首にうたわれている。思いつめて得た理由が卓抜で、アイディアといってしまってはいけないが、着想が面白い。
  「尼になってこの人生を捨ててしまおう」と思う、しかし、よくよく思ってみると、そんなことを考えること自体が悲しいことだ。なぜならわが身こそが、一番「君に馴れ」親しんだ形見なのだという。「君がかたみ」であるからにはみだりにかたちを変えるわけにはいかないはずである。宮の傍らにあった時と変わらぬ自分の姿に、宮を偲ぶのが形見の役割であろうという決着である。

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」

和泉式部の失恋の歌 「蛍」の歌

2023-11-24 09:25:34 | 和泉式部の恋と歌
和泉式部の失恋の歌 「蛍」の歌

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集

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  「蛍」の歌といえば、やはり和泉式部の失恋の歌をあげないわけにはいかないだろう。

    男に忘れられて侍りける頃、貴布禰(きぶね)にまゐりて、御手洗川(みたらしがは)に蛍の飛び侍りけるを見てよめる

  もの思へば沢のほたるもわが身よりあくがれいづるたまかとぞ見る
    「後拾遺集」神祇(じんぎ:神祇官は神事を取り扱う) 和泉式部

    (物思いに沈んでいると蛍が青白い光を放って沢辺を漂うように飛んでゆく。あれはわが身から抜け出した寄るべない魂だと思うまではかなく)

  和泉式部の恋の歌は暗く内的なものが多い。この歌はまして「男に忘れられて侍りける頃」のものだ。「男」は藤原保昌だといわれている。最後に夫としたした人で、関白道長の信任あつい有能な家司(けいし)の一人だった。国守クラスの官僚であるとともに、源頼光と伍する武勇と智略をもっていたとする逸話も少なくない。
  しかし式部と保昌との間は歌集をみてもうまくいっていたとは思われない。破局は当然のことだったかもしれないが、式部もすでにかなりの年齢になっていたことだろう。半生を回顧する虚しい気分もまじる物思いであったにちがいない。
  この歌には、式部の様子に同情した貴船の神が励ましの返歌をしたと伝えられ、式部の歌につづいて「御返し」として載せられている。
   「奥山にたぎりておつる滝つ瀬のたまちるばかりものな思ひそ」
というもので、「玉」と「魂」が掛かっている。魂が遊離するまで思ひつめることはないと慰めているのだ。
  この歌はその後も多くの歌書、説話集に取り上げられ、真情のこもる和歌の言葉は、神明・仏陀の冥感(みょうかん:信心が神仏に通ずること)にあずかる力をもっているという証しとして語られてゆく。

  名歌の伝承はこのように和歌時代の教養として、まず人々の記憶にとどめられ、さまざまな場で語られたり、知的な会話の中に織り込まれて、文字を知る者どうしの心を繋ぐ役割をはたしたのである。

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」