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15.イギリス「イギリスの王室はドイツからの一種の移民」

2021-05-31 10:50:01 | 伝統国家イギリス
 「イギリスの王室はドイツからの一種の移民」 一部引用編集簡略版

  今日の大国といわれるなかで君主がいるのは、イギリスと日本だけだ。イギリスの王室はウィンザー家であるが、日本の皇室とはまったく体質が異なっている。
  イギリスをはじめとするヨーロッパの王室は、一種の移民である。エリザベス女王はもとはハノーファー家の人である。ハノーバーと英語式に発音してはならない。ドイツ読みではハノーファーである(ドイツではHannoverのvは「ファー」と発音するが、英語では「バー」である)。チャールズ皇太子が歴代のイギリス皇太子に伝えられる指輪をいつもはめているが、この指輪には英語でなくドイツ語で「イッヒ・ディーネ」(私は奉仕する)と刻まれている。

  ダイアナ皇太子妃は18世紀以来、最初のイングランド人の皇太子妃だった。エリザベス女王の父ジョージ6世(1895~1952年)は、初めてブリテン島の妃と結ばれた。スコットランドの伯爵家の娘で、現在のエリザベス皇太后である。ジョージ6世の母君はメアリー・フォン・テックであって、ドイツの王女である。統一前のドイツには小王国や公国がひしめいていて、ヨーロッパの王家の婿や嫁の産地として重宝がられた。

  エリザベス女王の夫君のフィリップ殿下(投稿者補足:先日亡くなりました)もドイツ系である。フィリップ殿下は1979年にアイルランドの過激派が仕掛けた爆弾によって爆死したマウントバッテン伯爵の甥に当たる。マウントバッテンという家名は第一次世界大戦が始まるまではバッテンベルクだったが、ドイツの貴族名では都合が悪いので、大戦中にドイツ語のブルク(山)を英語のマウントに直したものだ。
  ビクトリア女王(1819~1901年)の夫君のアルバート公(1819~1861年)も、ドイツ出身だった。ドイツのザクセン・コブルク・ゴータ大公の次男として生まれた。アルバート公は20年以上もビクトリアと結婚生活を送ったが、英語がさっぱり上達しなかったので周囲を困らせた。もっともイギリスやヨーロッパでは、国王や王族がその国の国語をうまく話せなかったり、理解できないということは珍しくない。天皇や皇后が日本語を話せないというようなことは想像ができない。

  イギリスの王室は現在ウィンザー家を名乗っているが、初めはハノーバー家と称した。イギリスの王位がスチュアート家からドイツのハノーファー家へ移ったのは、1701年にイギリス議会を通過した王位継承法によるものだった。
  当時のウィリアム三世に子がなかったため、王位継承法は王の没後に、メアリー二世の妹のアンが王位を継承することを定めた。アンには子どもがあったがみな早死にしたので、アンのあと血縁関係にあるハノーファー選帝候妃ソフィーとその子孫が、イギリスの王位を継承していくと規定していた。
  アン王女は1714年に死んだ。ところがソフィーも、その数週間後に他界していた。そこでソフィーの長子であったゲオルクがイギリスに迎えられて王位についた。ゲオルクはイギリスの王位につくと、名前をイギリス式にジョージと改め、ハノーバー朝を開いた。

  ジョージ一世(1660~1727年)はイギリスの王座に座ったとき、54歳になっていた。そこで生涯、英語を学ぼうとしなかった。アン王女の代までは、国王が重臣の会議を主催したが、王宮の会議室で会合したので、”キャビネット”と呼ばれた。”内閣”の語源である。
  ジョージ一世は初めのうちは重臣の会議に出席したが、じきに退屈した。エンサイクロペディア・ブリタニカ(大英百科事典)で「キャビネット」(内閣)の項目を引くと、「ジョージ一世は英語がからきし駄目だったので、1717年以後は出席するのをやめた」と書かれている。そこで、王の代理として「キャビネット」を主催する大臣が政治のうえで中心的な役割を果たすようになり、首相という新しい職制が生まれた。国王が英語ができなかったことから、近代内閣制度が生まれたのだった。

  ハノーバー家は、ビクトリア女王の死後に即位したエドワード七世(1841~1810年)によって、父の家名ザクセン・コブルク・ゴータを、英語式に発音してサックス・コーバーグ・ゴーサ家と改められた。そして第一次世界大戦が始まると、ドイツの家名では都合が悪いので、王家が所有するウィンザー城から名を借りて、ウィンザー家と称した。 
(おわり)

参考:加瀬英明著「イギリス 衰亡しない伝統国家」
 加瀬英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

14.イギリス「賢明な選択:ポンドをユーロに統合せず」

2021-05-29 15:25:08 | 伝統国家イギリス
 「賢明な選択:ポンドをユーロに統合せず」 一部引用編集簡略版

  1999年の年頭に、ヨーロッパ連合(EU)の15か国のうち、11か国が通貨を統合した。マルクやフラン、リラにかわって、ユーロが出現した。イギリスはEUのメンバーである(現状は脱退)にもかかわらず、すぐに通貨統合に加わることを見送った。賢明なことだ。イギリスでは通貨同盟への参加の是非をめぐって、論争が闘わされてきた。
  イギリスが通貨統合に参加するのを躊躇している最大の理由は、EUの通貨統合が最終的な政治統合へ向けた通り道となっているためである。通貨を統合したEU11か国は「ユーロランド」と呼ばれている。だが、多くのイギリス人がユーロランドに、かつてのナポレオンやヒトラーの影を見ている。イギリスにはユーロランドの外にあって、日本のように独立した経済大国となるべきという議論がある。

  しかし、EUの通貨統合や政治統合は、世界のグローバリゼーションの潮流に逆らうものだ。今日では、ユーゴスラビアやソ連、チェコスロバキアが分裂したように、民族がいっそう自分の道を歩もうとするようになっている。スペイン、イタリア、フランス、ベルギーでも、同じような動きが強まっている。EUの統合は時代を錯誤したものだ。イギリスでさえ、スコットランドがこれまでイングランド、ウェールズ、アイルランドとともに連合王国をつくってきたが、分離独立する可能性があるといわれている。

  2002年から、”ユーロランド”で、ユーロの紙幣や硬貨が11か国の通貨を置きかえることになるが、発表されたユーロの紙幣やコインのデザインはおぞましいものだ。これらの11か国が、古くて豊かな伝統文化をもっているのにもかかわらず、個別の人物や建物、風景を用いることがまったくなく、どこにも存在しない絵柄をあしらった無機的な意匠となっている。特定の国の人物や遺跡などを用いることができないというのが、理由である。

  加瀬氏はイギリスがEU統合に加わらないように願っている。エリザベス女王か将来の国王の肖像があしらわれたポンド紙幣や、硬貨がなくなってしまったら、イギリスがイギリスではなくなってしまう。(投稿者補足:イギリスはいったんEUに参加したが、通貨統合は拒否した。そして、結局EUも脱退してしまい、日本との協力関係を強化している)

  よい社会は、お行儀のよい社会だ。イギリスの政治家で、政治思想家として名高いエドモンド・バークは近代保守主義の基礎を作ったが、下級弁護士であるソリシターの家に生まれたから、中産階級の出身である。バークは「法よりも、作法のほうが重要だ。法と文明が作法という土台の上にもとづいているからだ」と戒めている。

参考:加瀬英明著「イギリス 衰亡しない伝統国家」
 加瀬英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

13.イギリス「ばかばかしいものとの共存」

2021-05-28 17:02:20 | 伝統国家イギリス
 「ばかばかしいものとの共存」 一部引用編集簡略版

  議会の開院式は、中世の慣習を守った華麗なものである。女王がダイヤモンドに輝く王冠をかぶって、バッキンガム宮殿から黄金の馬車に乗って上院に到着する。儀式は煩雑なものである。
  全員が中世の衣装をつけている。イギリスは衣装にこだわっている国だ。まず女王の一行を先導する黒い杖をを手にしたブラック・ロッド(黒い杖)と呼ばれる海軍提督が、「ただいま、女王陛下が到着された」と叫びながら、上院の重い扉を何回か杖で叩く。初めは内側では聞こえないふりをするが、そのうちに「だれか?」とたずね返して、ようやく厚い扉が開かれる。

  女王はかつて中世に国王がハウス・オブ・コモンズ=下院に兵士を入れて、議員を逮捕したことがあるために、下院に立ち入ることを許されない。それにしても、「ハウス・オブ・コモンズ」==「コモンズ」(平民)の「ハウス」(院)とは、なんと階級を差別した呼び名だろうか。
  女王が議会のなかに入ると、すでに首相、野党の党首、下院議員が待っていて、全員が女王に従って開院式が催される上院==ハウス・オブ・ローズ==ロード(貴族)たちの院の本会議場へ向かう。上院議員はみな純白の襟がついた真紅のローブをまとっている。

  1998年には上院議長のアービン卿が、17世紀からかわらない伝統的な議長の衣装が窮屈だといって、一部を簡略にすることを求めた。きつい黒い半ズボンと、黒い長い靴下を着て、大きなバックルがついた靴を履かなくてもよい許しを得ようと試みた。この結果、長い討論が行われたうえで票決にふされて、145票対115票の差で認められた。
  といっても、重い白銀色の鬘(かつら)をかぶったうえで、長い上着と金の縫い取りがあるローブを着るから、外から見たらあまりかわらない。また、アービン卿は議長の椅子にかつてのイギリスの富を示すウールサック(羊毛のクッション)が置かれているが、座りにくいと苦情を述べた。
  アービン卿は自分の姿が「まるで”不思議の国のアリス”に出てくる、蛙のフットマン(従僕)のようだ」といって、議員の同情を引いた。アービン議長はふつうの長いズボンと靴下と、「よく磨いたうえで」普通の革靴を履くことを許された。

  イギリスの有名な評論家は、イギリスの「民主政治は真面目さと、アブサーディティース(ばかばかしいもの)が共存していることによって、機能している」と論じている。

  これからイギリスは、どうなるのであろうか。貴族が過去を栄光に包もうとするのに対して、政治家はまだ到来していない未来を栄光に包もうとする。双方から、よいものを汲むほかあるまい。

参考:加瀬英明著「イギリス 衰亡しない伝統国家」
 加瀬英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

12.イギリス「日英同盟の威光」

2021-05-26 17:32:12 | 伝統国家イギリス
 「日英同盟の威光」 一部引用編集簡略版

  イギリスは第二次世界大戦が始まるまで、大英帝国として世界に君臨していたが、今日では小さなテーマパークのように思われている。観光客にとって、”イギリス”を売り物にしているテーマパークだ。
  明治以後の日本にとっては長いあいだ、外国と言えば、アメリカとイギリスが中心となっていた。日本の近代史はペリーの来航から始まっているが、今日までアメリカによって大きく振り回されてきた。千葉県の浦安にある東京ディズニーランドはアメリカ文化を象徴している。

  イギリスは明治時代を通じて、大英帝国の絶頂期のビクトリア時代に当たった。そこで欧米から学ぼうとしていた日本の関心は当然のことだが、イギリスへ向かった。
  日本では女学生のセーラー服の襟線は、ほとんどの場合、三本である。ポルノ映画の看板のセーラー服姿の女学生も三本線だが、これはかつての日英同盟に始まったものだ。そういえば、郵便ポストが赤い(アメリカとヨーロッパ諸国のポストは青い)のも、右側通行も、鉄道が狭軌なのも、イギリスと同じである。
  ちなみに、我が国の海上自衛隊のセーラー服の襟線は二本だが、なぜ二本なのか、防衛庁に問い合わせたところ、格別な理由はなく装飾的なものだということだった。

  バロー・イン・ファーネスといっても、日本では馴染みがないが、アイリッシュ海に面する造船の町だ。沖合に自動車レースで有名なマン島がある。日本の若い女性のあいだで人気が高い「ピーター・ラビット」の作者であるヘレン・ベアトリックス・ポッターが創作生活を送ったソーリー地方から近い。町の周りに、あの挿絵と同じように美しい風景が広がっている。ポッターと「三笠」は同じ世代に属している。
  この造船の町で1900年に戦艦「三笠」が起工され、完成したうえで日本海軍将兵によって、日本まで回航された。「三笠」は日露戦争の勝敗を決した日本海海戦の東郷平八郎大将の旗艦である。町には「三笠」を建造した古い石積みの船渠(投稿者注:せんきょ=ドック)が残っている。町民は「三笠」が、この町で建造されたことを誇りにしてきた。通りの一つが「ミカサ・ストリート」と命名されているが、先の大戦中にもかえることはなかった。イギリス人はむきにならない。

  日露戦争当時のロシアは強大な大帝国であり、日本は極東の小国にすぎなかった。その日本がロシア帝国を打ち破ったのは、全国民が愛国心に燃えて、結束したからだった。それに日英同盟条約が開戦の二年前に結ばれたことが、日本の勝利に大きく貢献した。この条約がなかったとしたら、日本は勝てなかったかもしれない。(投稿者補足:ロシア艦隊は北極側は凍結して動けないので、大西洋からアフリカとインド洋を遠回りに経由して日本に向け移動したが、イギリスは自国の植民地にロシア艦隊を寄港させなかった。ロシア艦隊の兵士は疲れ切った状況で日本海海戦に臨むしかなかった)

参考:加瀬英明著「イギリス 衰亡しない伝統国家」
 加瀬英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

11.イギリス「外国人が担ったイギリスの産業」

2021-05-24 13:53:20 | 伝統国家イギリス
 「外国人が担ったイギリスの産業」 一部引用編集簡略版

  中世以後のイギリスの経済発展は、外国人の力に負うことが大きかった。オランダ人やワロン人(ベルギー南部の人々)、フランドル人(ベルギー西部からオランダ南部、フランス北部の人々)などをはじめとする多くの外国人が、大陸からイギリスに住むことによって進んだ技術を伝えた。十四世紀から十五世紀にかけて、金貸しから徴税まで金にまつわる仕事といえば、すべて大陸からきた外国人が扱っていた。
  しかし、イギリスはこのころから外国人の力を借りることによって、原料の輸出国から製品の輸出国にかわった。なかでも原料としての羊毛から羊毛製品が輸出に占める比率が急激に高まった。一六一〇年代には、ロンドンだけに限っても、一万人以上もの外国人熟練工が働いていたことが記録されている。

  イギリスはローマ法王と袂を分かってから、カトリックが支配していた大陸に対して宗教的な別天地となっていた。十七世紀にはフランスから圧迫を避けた新教のユグノー(投稿者補足;宗教改革の思想家ジャン・カルヴァンの伝統を継ぐフランスのプロテスタント教会の別称。語源は明らかでない)が十万人近く、イギリスへ逃れてきた。これらの外国人労働者や起業家たちは、イギリスの羊毛、木綿、絹、ガラスをはじめとする産業を大きく発展させた。イギリスは時計をつくることができなかったが、ユグノーがロンドンをヨーロッパにおける時計づくりの中心地の一つにした。

  イギリスは着実に富を増していった。世界に先駆けて産業革命を成し遂げることができたのも、こうやって力を蓄えていったからだった。イギリスの経済史を読むと、一六八〇年には農業がイギリスの富の半分を生み出していたが、百年後の一七八〇年には農業の比率が三分の一にまで減ったと推定されている。

参考:加瀬英明著「イギリス 衰亡しない伝統国家」
 加瀬英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長