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9-前半.紫式部の育った環境 没落 (紫式部ひとり語り)

2024-04-30 13:47:29 | 紫式部ひとり語り
9-前半.紫式部の育った環境 没落 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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没落

  この荒れた庭。かつてはここで中納言兼輔と右大臣定方が酒を汲み交わし(酌み交わしの間違い?)、紀貫之が歌い、清原深養父が琴を弾いた。それから百年近くが過ぎたとはいえ、そう遠い昔と思えないのに、栄華はあれよあれよという間に過ぎ去った。

  延長八(930)年に醍醐天皇が亡くなると、後を継いだのは朱雀天皇、母は忠平様の妹の穏子中宮だ。天皇はたった八歳で、忠平様がすんなり摂政となられた。曾祖父ら一族が天皇の外戚だった終わった。失意の中、定方は承平(じょうへい)二(932)年に逝った。兼輔も翌承平三(933)年に世を去った。それ以後、政治の風は二度と我が家に吹いてこなかった。

  こうして、兼輔の息子、私にとって祖父である雅正(まさただ)の代から、家は凋落した。雅正は受領どまり、清少納言の父ではないが周防守や豊前守など受領を渡り歩き、位も死ぬ時にやっと従五位下と、貴族の最底辺にしかたどり着けなかった。

  それでも和歌の能力は保たれて、雅正も「後撰和歌集」に歌を採られている。しかしその詠みぶりはどうだ。

   花鳥の 色をも音をも いたづらに 物憂かる身は 過ぐすのみなり

   [花の色も鳥の鳴き声も私には空しい。この身はただ物憂い日々を過ごしているだけなのだ] (「後撰和歌集」夏212番)

  紀貫之から無沙汰を謝る歌を贈られて返した歌だが、なんとわびしい調べだろう。

  二人は互いに家を訪ね合う仲だった。(「後撰和歌集」春下137番詞書)。この時はたまたま貫之が病気で家にこもっており、雅正(まさただ)はそれを寂しがっているのだが、鬱屈の理由はそれだけではあるまい。こんな歌を受け取って、貫之は心配になったことだろう。自分の親が可愛がってやった貫之から逆に同情を受ける、これが雅正の現実だった。

  私はこの歌も、自分の作品に引いた。

   年頃つれづれに眺め明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋に行き交ふ空のけしき、月の影、霜雪を見て、そのとき気にけりとばかり思ひわきつつ、「いかにやいかに」とばかり、行く末の心細さはやるかたなきものから

   [夫が亡くなってから数年間。涙に暮れて夜を明かし日を暮らし、花の色も鳥の声も、春秋にめぐる空の景色、月の光、霜雪、自然の風景に触れては「そんな季節になったのか」とは分かるものの、心に思うのは「いったい私と娘はこれからどうなってしまうのだろう」と、そのことばかり。将来の心細さはどうしようもなかった。]
   (「紫式部日記」寛弘五年十一月)

  「紫式部日記」の中で私が、夫を亡くした後の寂しい生活を振り返って記したくだりだ。そんな場面で祖父の和歌が役に立つとは、皮肉なことだ。だが、これを書きながら私はどこか嬉しかった。華やかな歌でも苦しい歌でも、一家の歌を少しでも自分の作品に拾い上げ、もう一度活かす。それができるのは、ものを書く人間の特権ではないか。

つづく

8-後半.紫式部の育った環境 優雅な曾祖父たち (紫式部ひとり語り)

2024-04-28 12:03:21 | 紫式部ひとり語り
8-後半.紫式部の育った環境 優雅な曾祖父たち (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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後半・優雅な曾祖父たち

  兼輔邸の藤も見事だった。その盛りに兼輔は定方を招き、貫之を侍らせ夜を徹して宴と花を堪能したのだ。
  藤の花を女に見立てて「寝た」だの「色」だのと、曾祖父たちの歌は軽く、色っぽく、豪快だ。それに比して貫之の歌は、頭の中で作った体(てい)で、分かりにくい。「浅い」と「深い」の対比にも、機知を利かせようという魂胆が見え透いている。

  まあそれも仕様がない、貫之は曾祖父たちの前では、ここぞとばかりに歌の腕前を奮う必要があったのだもの。うちの曾祖父たちが、貫之の援助者だったからだ。そう、それは貫之だけではない。例の清少納言の祖、清原深養父(きよはらのふかやぶ)も兼輔邸に召されて、琴など弾いていたのだ(「後撰和歌集」夏167番詞書)。

  清少納言と私のことを、同じ受領階級に属するなどと、一緒にしないでほしいものだ。私の家は、少なくとも三代前には文化の庇護者、歌人たちの盟主だった。あちらは父親の清原元輔がようやく周防守(すおうのかみ)など遠国(おんごく)の国司になって息をついたようない家ではないか。

  歌人といえば、紀貫之と同じく「古今和歌集」の選者として名高い凡河内躬恒(おおしこうしのみつね)が、兼輔に名簿(みょうぶ)を提出したこともあった。名簿とは下僕の誓いとして差し出す名札だ。躬恒(みつね)は友人の貫之を通じて、兼輔に縁故を頼ってきたのだ。その際彼が貫之に贈った歌には、唸ってしまう。

   人につく 頼りだに無し 大荒木の 森の下なる 草の身なれば

   [誰にすがるあても無いのさ、大荒れに荒れた森の下草のように日の当たらぬこの身だから、ありがとう、助かるよ。]

  いくら生活のためとはいえ、ここまで卑下するものだろうか。いや卑下する。名高い歌人とはいえ本職はみな木端(こっぱ)役人、少しでも出世したいのが本音だ。すがりつくものがあればどんなに惨めな物言いで擦り寄りもしよう。そうするのが当然なのだ。しして兼輔は、深い懐を以て彼らに応えた。私の曾祖父はそういう人だったのだ。

  また、兼輔とくれば誰もが知っているこの歌。語り伝えられ、「大和物語」にも採られた逸話だ。

   堤の中納言の君、十三の御王(みこ)の母御息所を内に奉り給ひける始めに、「帝はいかがおぼしめすらむ」など、いとかしこく思ひ歎き給ひけり、さて、帝に詠みて奉り給ひける。

   人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな

   先帝いとあはれにおぼしめしたりけり。御返しありけれど、人え知らず。

   [堤中納言藤原兼輔が、娘の桑子様を醍醐天皇に入内させなさった時のこと。桑子様は後に帝の第十三皇子の章明(のりあきら)親王様を醍醐天皇をお産みになるほど寵愛を受けられたのだが、何分最初の頃は父君兼輔殿も不安でいらっしゃった。「帝は我が娘をどのように御思いになるだろうか」と、溜息もしきり。それで兼輔殿は、このような歌を詠んで帝に進上したのだという。

   人の親の心は、暗がりでもないのに迷うばかり。子を思う道に迷うのすね。

   醍醐天皇は兼輔殿の親心にしみじみ感動なさったということだ。御返歌があったはずだが、それはわかっていない。]

  「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」。私はこの歌を、「源氏の物語」に幾度となく引用した。他にもいろいろ文中に歌を引くことはあったが、おそらくこの歌を最も多く引いたはずだ。
  兼輔が、醍醐天皇に入内させた娘の桑子を思っての歌。親心から、娘を愛してほしいという願いを込めた歌だ。

  「恥ずかしながら親馬鹿で、子を思うが故に、闇の中の迷い人のように不安でしかたがございません」と、何と泣かせるのだろう。醍醐天皇も、一族胤子の子だ。兼輔の思いを聞き届けぬことがあろうか。帝は桑子を深く愛して、やがて玉のような男皇子、章明(のりあきら)親王まで生まれた。

  残念ながら即位なさることはなかったが、親王様は私の娘時代まではお元気でいらっしゃった。兼輔が遺した堤中納言邸、そう、今その一角に私が住んでいる、この広大な敷地の隣の御屋敷にお住まいだった。

つづく

7-前半.紫式部の育った環境 優雅な曾祖父たち (紫式部ひとり語り)

2024-04-24 11:44:22 | 紫式部ひとり語り
7-前半.紫式部の育った環境 優雅な曾祖父たち (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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優雅な曾祖父たち

  定省(さだみ)様が即位して宇多天皇となる前に、胤子は男子を産んでいた。これが、後の醍醐天皇だ。宇多天皇は基経様も娘の温子様を入内させたが、その方は内親王様しかお産みにならなかったのだ。胤子の快挙は、一族に僥倖をもたらした。醍醐天皇の治世下で、胤子の弟定方は帝の外戚として大躍進した。

  ただその政治家としてのあり方は、同じ時期に肩を並べていた藤原氏主流派の政治家たち、基経様の息子の時平家や忠平様(図の系図5)とは随分違っていた。

  時平様は漢学の家から右大臣にまで達した菅原道真を疎んで、大宰府に流してしまった。道真が大宰府で傷心の死を遂げた後、時平家がまるで祟られるように三十九歳で亡くなってからは、それを奇貨(きか:利用すれば思わぬ利益を得られそうな事柄・機会)とした忠平様の時代となる。

  忠平様やその御子孫は、道真への罪を時平様一人にかぶせて、自分たちとは切り離した。そうした陰謀や政争や口ぬぐいを繰り返しては生き延びるのが、義房様に始まる藤原氏主流派の方法だ。それに比べれば私の曾祖父たちは、余りに穏やかだった。穏やか過ぎた、とも言えるかもしれない。

  貴族社会に属するなら誰もが持っている「古今和歌集」、そして「後撰和歌集」。私はそれを開くたびに陶然とする。私の曾祖父たちの偉業が記しとどめられているからだ。だいたい「古今和歌集」の選者として名高い紀貫之などは、曾祖父兼輔の家に出入りの歌人だったのだ。兼輔は宴の度に貫之を呼び、歌を詠ませて褒美を与えた。「後撰和歌集」にはそうした折の歌が幾つも収められている。兼輔家の藤の宴には、同じく曾祖父の定方を招いたこともあった。

  藤原氏の名家では、しばしば邸宅の庭に藤の木を植えて、自邸の記念樹としていた。

つづく

6.紫式部の育った環境 光源氏を臣下の地位から皇統に返り咲かせたモデル (紫式部ひとり語り)

2024-04-21 19:10:12 | 紫式部ひとり語り
6.紫式部の育った環境 光源氏を臣下の地位から皇統に返り咲かせたモデル (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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光源氏を臣下の地位から皇統に返り咲かせたモデル

  胤子はやがて、時康親王の子で臣籍に降下していた源定省(さだみ)様と結婚した。(図の系図4)。
  ところがそれから間もなくして、時の陽成天皇が突然位を降りられることになった。天皇に子はおらず、このままでは後継ぎが途絶えてしまう。関白太政大臣の職にあった基経様は、天皇位を継ぐべき親王様を必死に探された。
  そして白羽の矢が立ったのが、既に五十五歳の時康親王、即位して光孝天皇となられた方だった。

  だが三年後、光孝天皇は重病に倒られた。子たちは全員臣籍降下している。再び、皇統存亡の危機。その時基経様に驚くべき提案をされたのが、基経様の実の妹で尚侍(ないしのかみ)を務めていた藤原淑子様だ。光孝天皇の子で自らが養子として可愛がっていた源定省様を、臣下の源氏から皇族に復帰させて即位させようというのだ。

  定省様の親王復帰は仁和(にんな)三(887)年八月二十五日、皇太子になられたのは翌日の二十六日。そして同じ日に、光孝天皇は崩御された。まさに綱渡りだ。何とめくるめく政治劇だろう。

  それにしても、こうしたことを私は、ただ歴史上のこととして知っているのではない。我が一族にまつわることとして知っているのだ。私は「源氏の物語」で、主人公の光源氏を、天皇の子でありながら源の姓に降下した人物とした。そしてその彼をやがて皇統に返り咲かせた。定省様のこと、我が家に関わる方の輝かしい出来事が頭にあってのことだ。

つづく

5.紫式部の育った環境 祖先の藤原良門の息子たちの出世 (紫式部ひとり語り)

2024-04-20 16:01:14 | 紫式部ひとり語り
5.紫式部の育った環境 五代遡る祖先の藤原良門の息子たちの出世 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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藤原良門の息子たちの出世

  私を五代遡る祖先にあたる藤原良門(よしかど)は、長良・良房様たちの弟だ。早世してしまったので本人は正六位内舎人(うどねり:警護・雑役、行幸の警護にあたる職)にしか達しなかった。

  だがその長男の利基は従四位上近衛中将にまで昇ったし、その息子で私には曾祖父に当たる兼輔は、従三位中納言と、公卿にまでなって活躍した。また利基には弟の高藤(たかふじ)がいる。私のもう一人の曾祖父、定方の父に当たる人だ。定方は何と右大臣にまで出世した(図の系図3)。それは同母姉の胤子(いんし)の縁故による。

  この胤子の出生については、心躍る伝説がある。高藤が十五、六歳の頃のことだ。彼は山科まで鷹狩に出て俄雨に遭い、ひと時軒先を借りた家で娘と恋に落ちた。山城国宇治郡の地元豪族にして大領(郡司における最高の地位)、宮道(みやじの)弥益(いやます)の娘、列子だ。こうした伝説の習いとして、娘は一夜のことで懐妊する。

  まるで「うつほ物語」の主人公仲忠の両親のようではないか。しかし生まれたのは仲忠とは違って女の子だった。これが胤子だ。その後高藤は父良門を亡くし、伯父の良房たちに可愛がられて出世を果たしながらも、一夜の娘のことが忘れられない。六年後に探しに行って涙の再会、しかもそこには可愛い女の子がいたという(「今昔物語集」巻二十二第七話)。

  実際には、胤子は高藤が十代で生(な)した子ではない。どう数えても二十代も半ばの頃の子のはずだから、これは作り話だ。だが、人にまつわって作り話が生まれるには、おおかた理由があるものだ。たとえばこの胤子が、やがて国母となるとしたらどうだ。

つづく