gooブログのテーマ探し!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

解説-21.「紫式部日記」日記の構成と世界-道長A1

2024-06-30 10:58:07 | 紫式部日記を読む心構え
解説-21.「紫式部日記」日記の構成と世界-道長A1

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

**********
日記の構成と世界-道長A1

構成
A前半記録体部分
B消息体部分
C年次不明部分
D後半記録体部分

今回は「A部分一回目のA1」

  この部分には、彰子と道長を主人として賛美するまなざしが露わである。緊張感に満ちた冒頭部分は、中宮を迎えたこの土御門邸で、庭の木々の梢や遣水(やりみず:川から庭園に水路を造り引き入れた時の庭をながれる川水)の畔の叢といった言わば「道長支配空間」の自然のみならず、「おほかたの空」という天までもが、出産の季節の到来を知らせていると記す。
  それに引き立てられて、道長が揃えた僧たちの不断の御読経(24時間、絶え間なく行われる読経。12人の僧侶が2時間ずつ、輪番で担当する。大般若経、最勝王経、法華経を読む)が感動を募らせる。まさに天下一体となって、彰子の男子出産を盛りたて、祈るのである。

  冒頭から出産までは、最初に中宮彰子を登場させ、その後は道長、頼道、篤成(あつひら)親王の乳母となる女房宰相の君、そして彰子の母倫子と、主要な家族の一人一人にスポットライトを当てるようにエピソードを連ねてゆくことからも、明らかな構成意識が窺える。献上本「紫式部日記」の姿を多分に遺す部分であろう。
  主家を主役に、この家にとって一大晴事となった親王誕生劇を、女房の目で書いてゆこうとする気概が、端々に感じられるのである。

  そのことは例えば、道長と早朝、女郎花の和歌を交わした場面での表現にも見て取れる。この贈答は「紫式部集」にも載るが、そこでは状況は次のように記される。

   朝霧のをかしきほどに、御前の花ども色々乱れたる中に、女郎花いと盛りに見ゆ。折しも、殿出でて御覧ず。一枝折らせ給いて、几帳のかみより「これ、ただに返すな」とて賜わせたり

 女郎花さかりの色を見るからに露の分きける身こそ知らるれ

   と書き付けたるを、いと疾く

 白露は分きてもおかじ女郎花心からにや色の染むらむ

 (「紫式部集」六十九・七十)

  色々の花が咲き乱れる中で、道長は美女を意味する女郎花の花をことさらに選び、差し出す。しかも「これ、ただに返すな」とは、恋の誘いかけを袖にするなということだ。
  「もう女盛りを過ぎた私、殿のお相手はできませんわ」と紫式部が詠めば、道長は「いと疾く」詠み返す。「女郎花は自分の意志で美しく染まっている。お前も心がけ次第ではなかなかのものだよ」。多分に色ごとめいた香りが、家集には漂うのである。

  ところがその同じ素材を、「紫式部日記」は全く違うやりとりとして描く。

   渡殿の戸口の局に見出せば、ほのうちきりたる朝の露もまだ落ちぬに、殿ありかせ給ひて、御随身召して遣水払はせ給ふ。
   橋の南なる女郎花のいみじう盛りなるを、一枝折らせ給ひて、几帳の上よりさし覗かせ給へる御さまの、いと恥づかしげなるに、我が朝顔の思ひ知らるれば、「これ。遅くてはわろからむ」とのたまはするにことつけて、硯のもとに寄りぬ。

 女郎花盛りの色を見るからに露の分きける身こそ知らるれ

  「あな、疾」と微笑みて、硯召し出づ。

 白露は分きても置かじ女郎花心からにや色の染むらむ

  ここには、家集に見えなかった随身の姿が書かれている。随身は、警護のため勅令により特に与えられる武官だが、道長はそれを私的に従者としてとして使い、遣水の掃除などをさせているのである。
  その威容、紫式部は強い引け目を感じるが、それも家集には書かれなかったことだ。

  いっぽう花については、女郎花以外の花があったことが削られている。道長の言葉は紫式部に詠歌の早さを要求するもので、女房としての力を試している。したがって歌の意味も「女郎花に比べると我が姿が恥ずかしく思えます」となる。
  或いは「露」に漢語「露恵(情を顕わす?)」の意を匂わせて「この邸宅の女郎花のように、道長さまの恩恵を被りたく存じます」との意もあるのかもしれない。

  道長は自分が早く詠むのではなく「あな、疾」と、紫式部の詠歌の早さを評価する。そして「恩恵に分け隔てはない。お前も自らの意志で頑張りなさい」と励ます。道長はあくまでも、紫式部にとっては仰ぎ見る主家の長とされている。
  家集と「紫式部日記」のどちらが事実かについては不明だが、こうした書き分けが明確かつ意識的に行われていることは重要である。

次回は彰子に対する紫式部の見方(A2)です。

解説-20.「紫式部日記」日記の原形

2024-06-28 10:24:53 | 紫式部日記を読む心構え
解説-20.「紫式部日記」日記の原形

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

**********
日記の原形

  経験の浅い紫式部が、前半記録体に記されるようなこと細かな事実を見、またメモするには、主家から取材が許可されなくてはならない。才芸の女房として雇われた紫式部は、通常の業務に加えて主家のために晴儀(せいぎ:朝廷の儀式を、晴天の日に正式に執り行なうこと)の記録を作成する任務を、特別に与えられたのだろう。

  ところで紫式部は前半記録体の中で、「源氏物語」が作られた際、自分が書いた完成原稿はすべて手元から失せ、いっぽう草稿がまとまって流出してしまったと記し、無念さを顕にしている。
  献上本「紫式部日記」においては、その轍を踏まぬよう、自分のための写しを取っていたに違いない。それをもとに、大きく作り変えて誕生したのが、現行「紫式部日記」の原形だったと考える。

  現行形態さえ文学作品としての統一感に欠ける「紫式部日記」だが、これに首部が付いた私家本原形は、さらにまとまらない印象を呈するものだっただろう。だがそれは作者の意思が、この書き物を文学的に完成させるよりも、第一に情報として役立つものにすることを優先したためと考える。

  その「情報」ということの意味については、次項で述べる。本の製作には高価な紙を必要としたはずだが、この作品には「いとやつれたる」形で反故(書きそこなったりして不要になった紙)を使ったことが消息体末の挨拶文に記されており、そこからも、執筆がごく私的な営みであったことが窺われる。
  なお、公的な性格を持つ献上本が、献上先の貴さゆえに流布せず、私家本のほうが広まるのは、古典籍の世界でしばしば見受けられることである。

つづく

解説-19.「紫式部日記」一条朝以降

2024-06-27 10:06:21 | 紫式部日記を読む心構え
解説-19.「紫式部日記」一条朝以降

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

**********
一条朝以降

  寛弘八(1011)年五月、一条天皇は病に倒れ、六月二十二日に三十二歳の若さで崩御した。後継は彰子が産んだ篤成(あつひら)親王と決まった。紫式部は彰子と共に内裏を去った。

   ありし世は夢に見なして涙さへとまらぬ宿ぞ悲しかりける
 (「栄華物語」巻九)

その折のこの歌は、まるで中宮に成り代わってその心を詠むかのようである。

  この年二月一日、為時は越後の守に補任され、その地に赴いていた。紫式部の弟惟規は従五位下に叙されていたが、都での仕事を辞し、老父を労わって彼の地に下った。だが彼自身が病にかかり、越後で亡くなってしまった。

  紫式部は、長和二(1013)年五月二十五日の「小右記」に皇太后彰子に仕え応対する女房「越後守為時女」として見えるので、この時までは彰子や貴族に信頼されつつ働いていたことが確かである。

  だが為時が長和三年六月に任期途中で越後の守を辞退して都に帰り(「小右記」六月十七日)、やがて長和五(1016)年四月二十九日には出家してしまった(同、五月一日)ことから、紫式部も為時の越後下向中に亡くなったのだと解する説もある。

  それに従えば、紫式部は長和三年六月十七日以前に、四十歳前後で没したことになる。しかし「小右記」寛仁三(1019)年正月五日に実資(さねすけ)とその養子資平(すけひら)が太皇太后彰子のもとで会った女房に、長和二年五月二十五日の「為時女」と面影の通じる書き方がされており、これを紫式部と見る説もある。
  そうとすれば、紫式部は彰子の長男篤成が後一条天皇となり、その弟敦良が後太弟となった、天下第一の国母となった彰子の姿を見ることができたことになる。

  筆者は、紫式部はやがて宮仕えから身を引き、晩年を静かな思いで過ごしたと考えている。古文系「紫式部集」巻末歌がその心境を窺わせるからである。

   ふればかく憂さのみまさる世を知らで荒れたる庭に積もる初雪
 (「紫式部集」一一三)

   いづくとも身をやるかたの知られねば憂しと見つつも永らふるかな
 (「紫式部集」一一四)

  「紫式部日記」にも描かれる「憂さ」は生涯消えることがなかった。だがそれを抱えつつ、やがて憂さを受け入れ、憂さと共に生きる境地に、紫式部は達したのである。

  なお、紫式部は「尊卑分脈」に「御堂関白道長妾云々」と、伝聞の形ながら道長との関係を記される。「紫式部日記」年次不明記事の贈答に端を発する風聞と思われるが、「妾」の根拠は不明である。

  二人が情事を持った可能性はあろうが、その関係が「栄華物語」等他資料に言及されていないことを見れば、「妾」や「召し人」などといった継続的関係には相当しない、ほんのかりそめのものだったのではないか。
  ただ、それが当事者の心にもたらす意味はまた別である。「紫式部日記」での道長妻倫子の微妙な描き方、「源氏物語」での召し人たちの丁寧な描き方と共に、今後熟考すべき問題であろう。

つづく

解説-18.「紫式部日記」彰子という人

2024-06-26 10:22:40 | 紫式部日記を読む心構え
解説-18.「紫式部日記」彰子という人

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

**********
彰子という人

  紫式部は出仕によって、「源氏物語」の舞台である宮廷生活の実際に触れ、物語を書き続ける上での経済的支援も受けることができるようになった。だが最大の利点は、言葉を交わすことはもちろん会ったことなかった様々な階層の人々に会い、貴賤を問わぬ人間観察を深めたことだろう。中でも彰子という人との出会いで得たものは大きかったはずだ。

  彰子は道長という最高権力者の娘、今上天皇の中宮という貴人である。だがその生涯は、少なくともこれまではただ家の栄華のためにあった。十二歳で入内させられ、しかし夫にはもとからの最愛の妻、定子がいた。定子が亡くなると夫はその妹を愛し、彰子を振り向きはしなかった。

  彰子は十四歳から定子の遺児敦康の義母となったが、自身が懐妊することはなかった。おそらく道長のデモンストレーションという政治的理由の御蔭(おかげ)でようやく懐妊となったが、今度は男子を産まなくてはならない。彰子こそが苦を抱え、逃れられぬ「世」を生きる人であった。

  だが、彰子は紫式部に乞うて自ら漢文を学び、一条天皇の心に寄り添おうとした。晴れて男子を産み内裏に戻る際には、一条天皇のために「源氏物語」の新本を作って持ち帰った。自分の力で少しずつ人生を切り拓く彰子の手伝いができることは、紫式部の喜びであったろう。

  彰子は寛弘五年と六年に年子で二人の男子を産んだ。寛弘七年正月十五日には二男敦良親王の誕生五十日(いか)の儀が催された。「紫式部日記」巻末記事のその場面には、彰子と天皇の並ぶ様が「朝日の光あひて、まばゆきまで恥ず(づ)かしげなる御前なり」と記されている。この年の夏か秋、紫式部は「紫式部日記」を執筆し、彰子後宮を盛りたてる気概を示した。

つづく

解説-17.「紫式部日記」出仕

2024-06-24 09:48:51 | 紫式部日記を読む心構え
解説-17.「紫式部日記」出仕

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

**********
出仕

  家にいて書き始めた初期の「源氏物語」が、短期間で人気を博したのだろう。紫式部は寛弘二(1005)年か三年の年末には、彰子の女房として出仕することになった。ここには、道長か、あるいは紫式部にとってまたいとこである彰子の母源倫子の要請があったと考えられる。
  前述のように、道長は知的女房によって彰子後宮を彩り、いまだに懐妊を見ない彰子と天皇の仲を促したいと考えていた。道長は最高権力者で、紫式部の父為時の越前の守補任の際の恩人でもある。女房勤めの資質も意欲もない紫式部だったが、拒むことはできなかったはずだ。

  だが紫式部の内心は、居所が後宮に変わろうとも、常に「身の憂さ」に囚われていた。いっぽうで、紫式部を迎える彰子付き女房たちは、身も知らぬ才女を警戒していた。自分の殻に閉じこもる紫式部と、偏見によって彼女を毛嫌いする女房たちとはそりがあうはずもなく、紫式部はすぐに家に帰って、そのまま蟄居することになった。

  不出仕は五カ月以上に及んだ。復職はそれからなので、初出仕が寛弘二年末であったとしても、「紫式部日記」記事の寛弘五年秋までに、紫式部には実質二年余の経験しかないことになる。

  女房の世界は、主家に住み込み、主人への客に応対し、様々な儀式での役をこなす、「里の女」とは全く異質のものである。特に紫式部が激しい拒否感を抱いたのは、不特定多数の人に姿を晒すことや、男性関係が華やかになりがちなことだった。
  だが、「紫式部日記」によれば、寛弘五年の紫式部には大納言の君や小少将の君という職場仲間がいた。

  この年五月の土御門邸法華講で彼女たちと交わした和歌が、「紫式部集」古本系付載の「日記歌」なる後人作資料に載せられている。
  それによれば紫式部は華やかな法事を目の当たりにしつつ「思ふこと少なくは、をかしうもありぬべき折かな」と我が物思いの丈に涙ぐみ、大納言の君は「かがり火にまばゆきまでも憂き我が身かな」と詠み返し、翌朝には小少将の君も「なべて世の憂きに泣かるるあやめ草」と詠んでいる。
  出自や身分は違え、誰しもがそれぞれに苦を抱えて生きているということに、紫式部は思いをいたしただろう。

つづく