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3.枕草子の原点 中関白家の凋落

2024-09-29 15:58:18 | 枕草子
3.中関白家の凋落

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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3.中関白家の凋落

  ところが、幸福は長く続かなかった。長徳元(995)年、父の道隆が四十三歳で死亡したのである。伊周(これちか)は父の後を受け継いで最高権力者の座に就く算段ををしていたが、二十二歳の若さとあって、さすがにそれはならなかった。いくつかの経緯を経て、結局関白の座は空席のまま、天皇が公卿最上位に据えたのは、道隆の末弟・藤原道長であった。

  伊周は荒れた。そして翌長徳二(996)年、誰も予測しなかった大事件を起こしてしまう。彼はあろうことか、弟と謀って前帝・花山院(998~1008)を襲い、矢を射かけたのである。花山院が伊周の愛人に横恋慕していると勘違いしたのが動機だと、「栄華物語」(巻四)は言う。
  ただし、調べると他にも余罪があった。一条天皇の母を呪詛(じゅそ)した罪。政権争いで道長を推したことを怨んでという。
  また、天皇家以外には催行を許されない仏事「大元師法(たいげんのほう)」を秘密裏に行ったこと。道長から政権を奪還するための祈祷であったとおぼしい。
  これらは天皇家の人々を標的とする暗殺行為や天皇家の権威の侵犯とみなされ、一条天皇は彼を断罪せざるを得なかった。世に言う「長徳の政変」である。

  この時、折しも定子は、天皇との初めての子を身ごもり、実家に帰っていた。そこに伊周逮捕の勅使がやってきた。定子は兄と手を携え、行かすまいと阻止した。検非違使らが手をこまねくうち伊周が姿をくらましたため、邸には家宅捜索の手が入ることとなった。

  京中の貴顕から庶民までが野次馬と化して邸を取り囲みごった返すなか、邸内からは家人のすすり泣きの声が聞こえたという。天井裏から床下までを探り、果ては寝室の壁を破るほどの大捜索のさなか、絶望した定子は自ら髪を切り、二十歳という若さで出家した。(以上、「小右記」長徳二年四月二十四日~五月二日)。

  女性の出家は夫との離別を意味したので、定子はこの時点で実質的には一条天皇の妻ではなくなったが、中宮の称号のみは残された。

  貴族の諸日記は出家後も彼女を「中宮」と呼び続けている。長徳の政変の後も定子には不運が続き、邸宅が全焼した。身を寄せた縁者、高階明順(あきのぶ)の宅で、十二月十六日には皇女・脩子(しゅうし)内親王が生まれたが、「日本記略」(同日)はそれを妊娠十二ヵ月での出産と記す。にわかには信じがたいが、胎児の発育が遅れるほどの心労がが母体を襲っていたということか。

  これだけでも、「紫式部日記」が言う「ぞっとするほどひどい」状況に適っている。後の章で詳しく述べるが、実は「枕草子」の執筆が本格的に開始されたのはこの頃である。「春は、あけぼの」をはじめとするあの明るい章段たちは、実は定子の周囲を覆っていた闇の中から生まれたのだった。

2. 枕草子の原点 定子の栄華

2024-09-23 11:46:30 | 枕草子
2.定子の栄華

山本淳子氏著作「枕草子のたくらみ」から抜粋再編集

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2.定子の栄華

  清少納言は正暦四(993)年から一条天皇の中宮定子のもとに仕え、やがて「枕草子」の執筆を始めた。紫式部が知っていた過酷な背景は、この定子に関わる。定子は、一条天皇の最愛の后であるとともに、悲劇の后だったのである。

  もともと定子は、西暦元(990)年、この年関白に就任する権力者・藤原道隆の娘として十四歳で天皇に入内した、押しも押されもしないキサキであった。
  平安時代中期、朝廷の最上層部で権力を握ろうとした貴族たちは、競って家の娘を入内させた。娘が天皇に愛されて皇子を産み、家の血を受けたその皇子がやがて即位して、身内という強力なつながりのもとで自家の権力をさらに盛り上げてくれることを願ったのである。

  特に摂政・関白は、天皇の代理あるいは助言者という最高職であり、天皇の身内であれば何かと都合がよかった。あわよくばその職をと狙って、貴族は娘たちを後宮(后妃の暮らす殿舎群)に送り込んだ。キサキたちが居並ぶ後宮は、そのまま政治の戦いの最前線であった。

  ところが、定子の場合は違っていた。定子は一条天皇がまだ十一歳の時に初めて迎えたキサキであり、他に競いあう相手などいなかった。そして他にキサキが迎えられぬまま、定子は同じ年のうちに早くも中宮、つまりキサキの中で最高位の称号を得た。
  完全に敵なしの中宮、それが定子だった。一条天皇より、三歳年上の定子は明るく知的で、どちらかといえば内気で学問好きな天皇の心を捉えたのだ。

  道隆の家を「中関白家(なかのかんぱくけ)」と呼ぶ。美男で明るく冗談好きの父・道隆(「大鏡」「道隆」)、国司階級出身で女官勤めに出ながら、男顔負けの知性ゆえに玉の輿に乗った母・高階貴子(たかしなのきし)。両親の長所を譲り受けて、男女ともに
華やかで知性もある子供たち(「大鏡」「道隆」)。

  特に定子の三歳年上の兄である伊周(これちか)は漢詩文の素養に長け、場面に合った詩句を朗々と歌ったり、自分でも漢詩を作っては自慢げに披露したりする才能の持ち主だった。(「本朝文粋」)。
  道隆は伊周を一条天皇の側近に就け、さらにわずか十八歳で、現在の内閣閣僚にあたる公卿の一員へと引き上げた(「公卿補任(ぶにん)」)。

  ここに定子の存在も力になっていたことは、言うまでもない。漢文を好んだ一条天皇のために伊周は内裏に上がっては手ほどきに勤しみ、その場にはやはり漢文をよく知る定子が控えて、ともに和やかな時を過ごした。天皇にとって中関白家の人々は家族であり、心を開くことができる数少ない相手だった。

  清少納言が定子のもとに仕え始めた正暦四(993)年、中関白家は、まさに栄華の極みにあったのである。