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解説-29.「紫式部日記」日記の構成と世界-大弐三位賢子2

2024-07-09 15:44:00 | 紫式部日記を読む心構え
解説-29.「紫式部日記」日記の構成と世界-大弐三位賢子2

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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日記の構成と世界-大弐三位賢子2

今回は「大弐三位賢子2」

  親仁(ちかひと)親王は長暦元(1037)年に立太子した。時に東宮権大進となったのが高階成章(たかしなのなりあきら 990-1058)で、この出会いにより賢子は彼の妻となった。年齢は四十に近くなっていたはずであるが、長暦二(1038)年には男子為家を産んでいる。

  この歩みは、一条天皇の乳母橘の三位徳子と藤原有国を彷彿とさせる。徳子も懐仁(やすひと)親王(一条天皇)の乳母となってから有国と結婚し、資業(すけなり)を産んだのだった。

  やがて親仁親王は即位して後冷泉天皇となり、賢子は従三位典侍の官位を得た。後冷泉天皇の治世下で、天喜二(1054)年、夫の成章は受領として最高の太宰大弐に補せられ、翌年には従三位をを与えられて末席ながら公卿の一員となった。その夫婦共々の到達も、徳子・有国と同じである。

  賢子はただ一回の偶然で成功したのではなかった。生まれて数日で母を喪った後冷泉天皇に愛情を注ぎ、こまやかに導いたことは「栄華物語」(巻三十六)にも記される。後冷泉治世の優美な文化を褒める次の一節である。

   内の御心いとをかしう、なよびかにおはしまし、人をすさめさせ給はず、めでたくおはします。
   折々には御遊び、月の夜、花の折過ぐさせ給はず、をかしき御時なり。
   弁の乳母(賢子)をかしうおはする人にて、おほしたて慣はし申し給へりけるにや。

   (天皇の御気性は実に風流、もの柔らかで、人をお遠ざけにならず、立派でいらっしゃる。
   折々には管弦の御遊を開かれ、月の夜、花の折を見逃さない、風流な知性である。
   便の乳母が風流な人でいらっしゃって、天皇をそのように育てつけもうしあげたからだろうか。)

  女房の力が、一時代の文化度を高めることもある。賢子はそう「栄華物語」に認められたのだ。没年は不祥。永保二(1082)年までは存命であったと知られる(「為房卿記」同年三月十三日)。女房の手本のような人生だったと言えよう。

  なお、「栄華物語」正編は長元二年から六年(1029-1033)頃の成立と考えられている。紫式部亡き後、私家本「紫式部日記」が賢子の管理下にあったと仮定して、その最初の流出は、賢子が東宮第一皇子の乳母として地位を確立する時代と重なることになる。
  「栄華物語」正編の作者(あるいは編者)は、赤染衛門が擬されているように、道長家をよく知る人物であったことは間違いなく、賢子とは近い立場にあったと推測される。賢子は、作者に乞われて母の日記を貸したのではないか。その際、「消息体」以下を切り離し、前半記録体のみを渡したということもあり得る。「栄華物語」に引用される「紫式部日記」は、寛弘五年分のみである。


解説「紫式部日記」日記の構成と世界 おわり

解説-28.「紫式部日記」日記の構成と世界-大弐三位賢子1

2024-07-09 10:33:43 | 紫式部日記を読む心構え
解説-28.「紫式部日記」日記の構成と世界-大弐三位賢子1

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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日記の構成と世界-大弐三位賢子1

今回は「大弐三位賢子1」

  最後に、この作品の読者と想定される、紫式部の娘大弐三位について簡単に触れておきたい。

  大弐三位藤原賢子は紫式部と夫藤原宣孝との間に、長保元(999)年か二月に誕生した。長保三年に父を亡くし、その数年後に母紫式部が中宮彰子付き女房として出仕、やがてそれなりの重きを占めるに当たって、娘の彼女が将来宮仕えして女房となる道筋はついたと考えられる。
  下級貴族出身で累代の女房層女房、また「源氏物語」作者紫式部の娘としてである。

  賢子には私家集「藤原三位集」があり、そこには彰子に出仕した後の、貴公子たちとの恋の贈答も収められている。

  相手は、例えば藤原定頼(995-1045)。「このわたりに若紫やさぶらふ」と紫式部に声をかけたと「紫式部日記」に記される藤原公任(きんとう)の息子である。出会いは定頼の蔵人頭時代の寛仁元(1017)年から四年頃とおぼしい。

  また倫子の異母兄大納言源時中の七男朝仁(あさとう989-1034)とは、彼の頭中将時代、寛仁三(1019)年から治安三(1023)年頃に、情熱的な恋歌を交わした。

  また「後拾遺集」の大弐三位歌(恋四・792)詞書に「堀川右大臣のもとにつかはしける」とあることからは、道長と源明子との間の長男頼宗(993-1065)とも関係があったと知られる。

  「紫式部日記」には「高松の子君達」と一括して記され、彰子付き若女房にじゃれる姿を書きとめられた貴公子たちの一人である。

  賢子に大きなチャンスが訪れたのは、藤原兼隆の子を産んだときであった。兼隆は、道長の兄で世に七日関白と呼ばれた道兼の息子である。父の死後道長を頼り、「紫式部日記」の寛弘五(1008)年には二十四歳で、「右の宰相の中将」の呼称で何度も登場する。

  万寿二(1025)年、時の東宮敦良親王に第一皇子親仁(ちかひと)親王が誕生した。産んだのは道長の娘で彰子の末の実妹、嬉子(きし)である。
  だが嬉子は出産前にかかった赤裳瘡(あかもがさ)で衰弱していたためか、二日後に死亡(「日本紀略」)、さらに乳母に決まっていた女房も赤裳瘡にかかり辞退して、急遽賢子が代わりの乳母に抜擢されたのだった。

  「栄華物語」(巻二十六)には「大宮(彰子)の御方の紫式部が女の越後弁(賢子)、左衛門督(藤原兼隆:左衛門府の長官)の御子生みたる、それぞ仕うまつりける」とある。ここに「左衛門の督の妻」とは無いことに注意したい。当時二位正中納言の兼隆と彰子付き女房賢子との関係は、結婚とは呼べないものだった。だが、貴顕との恋は女房の誉れである。賢子はそうして得た子によって、願ってもない飛躍の機会を手に入れたのだった。

次回は 大弐三位賢子2 解説シリーズ最終回です。

解説-27.「紫式部日記」日記の構成と世界-D後半記録体部分

2024-07-08 09:49:20 | 紫式部日記を読む心構え
解説-27.「紫式部日記」日記の構成と世界-D後半記録体部分

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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日記の構成と世界-D後半記録体部分

構成
A前半記録体部分
B消息体部分
C年次不明部分
D後半記録体部分

今回は「D後半記録体部分」

  寛弘七年正月、紫式部はすっかりプロ女房になっている。

  この部分は、自身の今の到達を記し置いたものであろう。前半記録体の寛弘五年の行幸では、小少将の君と共に油断していて帝の到着に遅刻寸前となった紫式部だったが、この部分の敦良親王誕生五十日の儀では、暁から参上して準備に当たっている。親友の小少将の君は進歩なく遅い参上で、しかし二人の仲はむつまじい。
  他人の不行き届きを避難せず、自分は一人で粛々と、するべきことをする。紫式部は度量の広い女房になっている。

  また、この五十日(いか)の儀で御前の取り入れ役に当たった女房たちの、「袖ぐちのあはひ」がよくなかったと、後になって宰相の君が残念がった。それに対しては、「織物ならぬをわろしとにや、それあながちのこと」と、禁色である織物の着用は無理だと反論している。
  面と向かって言ったのではあるまいが、紫式部は自分の見識を持てるようになっている。かつて前半記録体の寛弘五年十一月の五節で、同僚たちの勢いに押されて左京の君いじめに加担してしまった紫式部とは、もう違う。

  さらに、正月二日、殿上の遊楽から帰った道長から「歌一つ仕うまつれ」と言われたときの対応にも、変化が見られる。
  かつて前半記録体の寛弘五年十一月一日、紫式部は同じように道長に詰め寄られ、「いとわびしく怖ろしげなれば」即座に詠んだ。だが今回の紫式部は「うちいでむに、いとかたはならむ」と、自分から詠まないという慎みを見せている。

  それによって、道長の「年ごろ宮のすさまじげにて、ひとところはおはしますを、さうざうしく見奉りしに、かくむつかしきまで、左右に見奉るこそ嬉しけれ」という本音の感懐を引き出し、さらに彼が「野辺に小松のなかりせば」という時宜(じぎ)に適(かな)った古歌の一節を口ずさむ機会を導いたのである。

  なおこの時の道長へのまなざしには、前半記録体の硬直的上下関係からは数段こなれた、心情的寄り添いが見られる。男子を二人あげた彰子を安堵の目で見つめ、来るべき東宮争いを、口に出しはしないが心に置きつつ、主家の晴儀(せいぎ)を記して「紫式部日記」は幕を閉じる。

次回は 大弐三位賢子1

解説-26.「紫式部日記」日記の構成と世界-C年次不明部分

2024-07-07 10:13:13 | 紫式部日記を読む心構え
解説-26.「紫式部日記」日記の構成と世界-年次不明部分

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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日記の構成と世界-年次不明部分

構成
A前半記録体部分
B消息体部分
C年次不明部分
D後半記録体部分

今回は「C部分年次不明部分」

  「十一日の暁」に始まる中宮御堂詣での記事と、「源氏の物語、御前にあるを」に始まる、源氏物語にまつわる道長との贈答、さらに「渡殿に寝たる夜」に始まる、深夜に局の戸を叩いた人物との贈答から成る。

  これらは年次が示されないことから「断片記事」とも呼ばれるが、三つの記事は無関係ではなく同質性を持つ。それは、紫式部がいかにも女房らしい風流をしおおせているということである。

  最初の記事では、月夜の舟遊びを見ての独り言がそれである。大蔵卿藤原正光の、若者に交じって舟に乗り込んだものの、年齢に気が引けて身を縮めている様子を目にして、紫式部は思わず「舟のうちにや老をばかこつらむ」と漏らしてしまった。
  それは「白氏文集」「新楽府」の一首「海漫漫」の内容を典拠としており、それに気づいた中宮の大夫藤原斉信(ただのぶ)は、すかさずその次の一節「徐福文成証拠多し」を朗詠したという。

  女房と貴顕との間の、漢詩文素養に基づいた格調高い応酬で、「枕草子」を彷彿とさせる。それも紫式部は、決して素養をひけらかしたのではなく、独り言のように言った言葉を斎信に聞きつけられており、これは節度ある風流であった。

  第二と第三は一連のものともされる。時の最高権力者道長から和歌で「「源氏物語」作者のおまえは「好き者」と評判だ、口説かずに素通りする男はおるまい」とからかわれて、紫式部は「私には殿方の経験などまだございません(実はこの時、娘賢子がいた)のに、どなたが「好き者」などと噂を立てていらっしゃるのでしょうかしら?」と上手にかわす。
  また夜に局の戸を叩かれ、その時は「おそろしさに音もせで明かした」が、翌朝送られた歌には返歌を贈り「ただ事ではないないというほどの叩き方でしたけれど、本当はほんの「とばかり」、つかの間の出来心でしょう?」と切り返す。

  この箇所は、紫式部と藤原道長との情事の有無という文脈で取りざたされることが多いが、「紫式部日記」の記事の主眼はそれではなく、あくまで和歌、しかも贈答を中心としている。

  「源氏物語」を軽く扱われ自身は「好き者」とからかわれて「めざましう」心外な思いであろうとも、夜中に侵入されかかり「おそらしさ」に身を硬くしようとも、言葉つまり知性によって丁々発止のコミュニケーションを持ちえたことを、一つの手柄として記しているのである。

  このようにここでの紫式部は、教養においても色事をめぐっても、貴顕男性にとって会話に手ごたえのある女房である。

  紫式部は消息体で女房生活指南を記して、男性貴族たちの「気の利いた会話のできる女房が少なくなった」という言葉に反発し、「彰子後宮にもっと風流を」と主張した。年次不明記事は、自身におけるその体験実例集である。事例なので時間軸から切り離して、消息体の直後にまとめ置いたのだろう。
  時間的には前半記録体に入るものもあるのかもしれないが、女房として迷い悩む自分を記した前半記録体には、貴顕と堂々と渡り合う姿はそぐわない。

次回は D後半記録体部分

解説-25.「紫式部日記」日記の構成と世界-三人の才女批評B2

2024-07-06 09:29:45 | 紫式部日記を読む心構え
解説-25.「紫式部日記」日記の構成と世界-三人の才女批評B2

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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日記の構成と世界-三人の才女批評B2

構成
A前半記録体部分
B消息体部分
C年次不明部分
D後半記録体部分

今回は「B部分二回目のB2」

  手紙の話題から、次は三人の才女批評となる。どのような才女こそが望ましいのか。結論は最初から用意されている。女房批評で得た結論の路線に沿った、作品も生きかたも重々しく本格的で思慮ある才女である。
  和泉式部は大歌人だが、天才肌の印象と醜聞により、ここでは賞賛が控えられ、赤染衛門こそがその良妻ぶりも合わせて評価される。
  清少納言への舌鋒の鋭さは、「枕草子」を丸ごと否定したいかの如くである。紫式部には、清少納言が定子文化を代表し、その追憶を今なお(定子が西暦1000年に亡くなった後も)支え続けていることへの危機感があったのだろう。

  私的には、紫式部自身の骨肉とも言える漢詩文素養を単なるアクセサリーのように扱われ、許せないと感じたということもあったのかもしれない。

  次には自分を俎上に載せ、自分がいかに人の目を憚り、抑制的に生きているかを縷々述べる。「我こそは」と思い上がって他人を批判する同僚の前で、煩わしさを避けるために「惚け痴れ」を演じていたら、皆から「かうは推しはからざりき」「あやしきまでおいらか」と驚き賞賛されて、それならばと「おいらか」を本性にするべく自己陶冶、結果として彰子の信頼を得たという。

  ここに来て、この文章は誰を読者と想定しているのかが、ようやくほの見えてくる。「消息体」には他見をはばかる話題が多いが、この箇所こそは、決して同僚には見せられないものである。そのようなことをすれば、その瞬間に、紫式部は自己の標榜する「おいらか」とは正逆の存在になってしまう。

  つまり、彰子後宮改革の気炎も、彰子を盛り立てる気概も、そのまま同僚に向かって放つものではないのである。ここに書かれた紫式部のすべてを受容し、そして決して漏らさないと紫式部が信頼する人、そのごく限られた相手だけに対して、この文章は綴られたのだ。

  紫式部は記している。「すべて女房は人当り穏やかに、少し心構えに余裕を持ち、落ち着いているのを基本としてこそ、教養も風情も魅力となるし、安心して見ていられるものです」。こうした教えで誰を導こうとしているのだろうか。

  消息体の読者として最も適(かな)わしいのは、娘の賢子である。消息体が執筆された頃、賢子は十歳を少し超えている。近い将来彰子の女房となり、母と同じ道を歩むことは見えている。そのための、母から子への実用的・具体的な指導書と考えれば、内容の露骨さにも、くどいと感じられるほどに熱のこもった口調にも合点がゆく。

  紫式部が最後に綴るのは、自己の漢詩文素養についてである。たまたま身についてしまった、だが世間では女性にそぐわないとされる教養、
  それを活かすにはどうすればよいのか。決してひけらかしてはならない。あくまで秘して、だが彰子に求められれば、「白氏文集」で最も儒学的なテキスト「新楽府」を進講する。それは第一に、彰子に一条天皇の教養を与えるということにもなった。
  紫式部は漢文素養を、自己が考える最も望ましい方法で活かしたと言える。

  消息体末の挨拶文には次のようにある。
  「御文にえ書き続け侍らぬことを、よきもあしきも、世にあること身の上の憂へにても、残らず聞えさせおかまほしう侍るぞかし」。手紙に書けないこととあるからには、消息体はやはり、実際の手紙が紛れ込んだものではない。改まった教導の論であり、意図的に書き込んだものである。

  また筆者(山本氏)はこの部分を、私家本の事実上の跋文(ばつぶん:あとがき)と考えている。ここに記されるとおり、良いことも悪いことも含め、彰子後宮界の出来事、紫式部自身の辛さ、それらを見つめ、我が「世」と「身」そして「心」の情報を漏らさず娘に伝えることが、私家本制作の目的だった。それは自ずと、人生苦を抱えながらの、女房として成長の足跡を辿ることとなった。

次回はC年次不明部分:道長との贈答などのC1