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8.紫式部の恋 続き3 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

2024-03-29 15:18:06 | 紫式部ひとり語り
8.紫式部の恋 続き3 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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別の妻の娘との交流、宣孝の身代わりはあり得ない実感

  またある時は、宣孝と別の妻の娘が桜の枝を送ってくれた。私とは血のつながらぬ娘だが、悲しみを分かち合える有難い相手だ。桜につけた手紙には「父が亡くなりこの家も手入れができず荒れてしまったけれど、桜はきれいに咲いてくれました」とある。

  自然は悠久、人は無常、ああそれは真実だったのだと思う。そうしたことも、これまでよく分かったいるつもりだった。だが頭で分かっているだけだった。無常ということは人が死ぬということで、それはこんなにも寂しいことなのだ。

  あの人の娘も、同じように実感しているのだろう。私は思い出した。宣孝は生前、この娘のことを随分心配していた。
  歌人中務(なかつかさ)に「咲けば散る 咲かねば恋し 山桜 思ひ絶えせぬ 花の上かな(「拾遺和歌集」春36番)」という歌がある。娘を亡くした歌人が山桜に娘を重ねて「思いは尽きない」と詠んだ歌なのだけれど、宣孝はいたく感じ入っていた。子煩悩な人だった。虫の知らせか、歌とは逆に自分が居なくなった時のことを心配していたのかもしれない。私は娘に歌を返した。

   散る花を 歎きし人は 木(こ)のもとの 寂しきことや かねて知りけむ
  「思ひ絶えせぬ」と亡き人の言ひけることを思ひ出でたるなりし。

   [「咲けば散る 咲かねば恋し 山桜」。そう嘆いてばかりいたお父様は、花が散れば木が寂しくなると分かっていたのでしょうね。自分に先立たれれば子のあなたが寂しがるだろうと、お父様は分かっていたのでしょうね。
   亡き人が「思ひ絶えせぬ」という和歌を口にしていたと思い出したのだ。]
   (「紫式部集」43番)

  これは春の歌だし桜を見て詠んだのだから、宣孝が死んでからもうほとんど季節をひと巡りした頃に詠んだのだ。だが私にはそのようには感じられない。自分の中では時が止まったようだったからだ。

  外の世界で年が明け、春の花が咲いても、宣孝との死別の痛みは癒えなかった。むしろこの歌のように、不意に様々な記憶が浮上しては私を驚かせ、泣かせた。記憶というものの鮮やかさ、それが有無を言わせず浮かび上がる時の荒々しさも、私は知った。

  思い起こせば、私は今まで多くの大切な人を喪ってきた。母、実の姉、そして親友だった「姉君」。だが母が死んでも姉がいたし、姉を喪った時には身代わりに「姉君」を慕った。それで少しは気を紛らわすことができていたとは、なんと幸せな私だったのだろうか。
  母を喪い、姉を喪い、「姉君」を喪っても思い知ろうとしなかった私だが、宣孝を喪ってこそ思い知った。文字通りかけがえのない人に、身代わりというものなどあり得ない。その人のいない世界を身代わりというものなどありえない。その人のいない世界を身代わりと共に生きても、それはやはり違うものでしかない。

  だが、私は生きなくてはならない。娘をおいて出家はできなかった。

この項終わりです。

8.失敗

2024-03-29 15:17:38 | 投稿ミス
8.紫式部の恋 続き3 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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別の妻の娘との交流、宣孝の身代わりはあり得ない実感

  またある時は、宣孝と別の妻の娘が桜の枝を送ってくれた。私とは血のつながらぬ娘だが、悲しみを分かち合える有難い相手だ。桜につけた手紙には「父が亡くなりこの家も手入れができず荒れてしまったけれど、桜はきれいに咲いてくれました」とある。

  自然は悠久、人は無常、ああそれは真実だったのだと思う。そうしたことも、これまでよく分かったいるつもりだった。だが頭で分かっているだけだった。無常ということは人が死ぬということで、それはこんなにも寂しいことなのだ。

  あの人の娘も、同じように実感しているのだろう。私は思い出した。宣孝は生前、この娘のことを随分心配していた。
  歌人中務(なかつかさ)に「咲けば散る 咲かねば恋し 山桜 思ひ絶えせぬ 花の上かな(「拾遺和歌集」春36番)」という歌がある。娘を亡くした歌人が山桜に娘を重ねて「思いは尽きない」と詠んだ歌なのだけれど、宣孝はいたく感じ入っていた。子煩悩な人だった。虫の知らせか、歌とは逆に自分が居なくなった時のことを心配していたのかもしれない。私は娘に歌を返した。

   散る花を 歎きし人は 木(こ)のもとの 寂しきことや かねて知りけむ
  「思ひ絶えせぬ」と亡き人の言ひけることを思ひ出でたるなりし。

   [「咲けば散る 咲かねば恋し 山桜」。そう嘆いてばかりいたお父様は、花が散れば木が寂しくなると分かっていたのでしょうね。自分に先立たれれば子のあなたが寂しがるだろうと、お父様は分かっていたのでしょうね。
   亡き人が「思ひ絶えせぬ」という和歌を口にしていたと思い出したのだ。]
   (「紫式部集」43番)

  これは春の歌だし桜を見て詠んだのだから、宣孝が死んでからもうほとんど季節をひと巡りした頃に詠んだのだ。だが私にはそのようには感じられない。自分の中では時が止まったようだったからだ。

  外の世界で年が明け、春の花が咲いても、宣孝との死別の痛みは癒えなかった。むしろこの歌のように、不意に様々な記憶が浮上しては私を驚かせ、泣かせた。記憶というものの鮮やかさ、それが有無を言わせず浮かび上がる時の荒々しさも、私は知った。

  思い起こせば、私は今まで多くの大切な人を喪ってきた。母、実の姉、そして親友だった「姉君」。だが母が死んでも姉がいたし、姉を喪った時には身代わりに「姉君」を慕った。それで少しは気を紛らわすことができていたとは、なんと幸せな私だったのだろうか。
  母を喪い、姉を喪い、「姉君」を喪っても思い知ろうとしなかった私だが、宣孝を喪ってこそ思い知った。文字通りかけがえのない人に、身代わりというものなどあり得ない。その人のいない世界を身代わりというものなどありえない。その人のいない世界を身代わりと共に生きても、それはやはり違うものでしかない。

  だが、私は生きなくてはならない。娘をおいて出家はできなかった。

この項終わりです。

7.紫式部の恋 続き2 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

2024-03-25 15:29:41 | 紫式部ひとり語り
7.紫式部の恋 続き2 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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続き2 喪失 宣孝の死

  宣孝の死後しばらくの間、私は時間の感覚を無くしていたように思う。妻が夫の喪に服する期間は一年。宣孝は夏に亡くなったので、決まりにより私は一年間を夏の喪服のままで過ごした(「小右記」長和三年十月四日)。

  ある時、知人から手紙が来て「この春は帝も喪に服していらっしゃる、悲しい春だ」という。春というのだから、もう翌年になっていたのだ。そう言えば年末に、長く病でお苦しみになっていた東三条院様がとうとう亡くなられて、帝が喪に入られた(「日本記略」長保三年閏十二月二十二日)。

  女院の崩御なので、子である帝だけではなく天下が喪に服する。だからその春は、世の中の誰もがみな喪服を着ていたのだ。前からずっと喪服姿でいた私は気がつかなかった。だが、私の衣と皆の衣は違う。私の喪服は夏衣。女院が亡くなられたのは冬だから、皆の喪服は冬衣だ。

   何かこの ほどなき袖を 濡らすらむ 霞の衣 なべて着る世に

   [どうして私ときたら、この取るに足らぬ分際の、薄い夏衣の袖を涙で濡らしているのでしょうね。天下がなべて女院様のために喪服を着ている世の中で、私一人が違う喪服を着て、私一人が違う涙を流しているのですね。] (「紫式部集」41番)

  女院様の大規模な喪を思うと、それに比べて宣孝がどれほどちっぽけな存在だったかが痛感される。たかが正五位下の下級貴族どまりで死んだ宣孝と、帝の母で女として初めて院の称号まで受けられた東三条院様とでは、生きていた時も違うが、死んでからも扱いが違いすぎる。世の中とはそういうものだと、私は初めて知った。

  いや、これまでもよく知っているとは思っていたのだけれども、それは形ばかり知った気になっていただけだったと分かったのだ。人ひとりの死に、こんなにも思い軽いの差があるのだ。本当に侘しい、哀しい。

次回「続き3 喪失 宣孝の死」につづく

6.紫式部の恋 続き1 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

2024-03-24 11:25:11 | 紫式部ひとり語り
6.紫式部の恋 続き1 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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続き1 喪失 宣孝の死

  そして冬に入った頃から、疫病が猛威を振るい始めた。流行は鎮西から始まり都へと襲いかかって、疫死者が後を絶たない事態となった(「日本記略」十一月是月(ぜげつ:このつき?)・今年冬)。そんな中、空に月を挟んで東西に二つの雲の筋がかかる。「不祥( 不吉であること)の雲」である。
  月は后の象徴、この雲は后への凶兆である。まさにそれはあたって、十二月十五日夜半から翌十六日未明にかけて、かねてより東三条院様がご滞在の平惟仲宅が火災で全焼、女院様は道長殿の土御門殿に避難されたが、ご容態が急変、危急の事態となった。

  それと全く時を同じくして、一条天皇の皇后定子様がご出産、女皇子はうまれたものの定子様は崩御されてしまう(以上「権記」十二月十五・十六日)。定子様といえば、私が越前に下向する直前の長徳二(996)年五月、ご実家の没落と共に出家されたにもかかわらず、翌年再び天皇に迎えられて、きさきに復帰された方だ(「小右記」長徳三年六月二十二日)。
  前代未聞の復縁は、ひとえに帝のご愛情の深きによる。後ろ盾のないきさきへの御寵愛に貴族たちからの風当たりも強く、彰子様の入内と相前後して一の皇子をお産みになったものの、世は歓迎しなかった。やがて彰子様が中宮に立たれ、定子様は皇后の名を与えられながらもすっかり圧倒されていると拝察された。その挙句の非業の死だ。

  世とはなんと騒がしく、また脆いものなのだろう。災禍、病、苦しみ、そして死。確かなものはどこにあるのか。定子様は享年二十四と聞く。帝もまだ二十二歳だ。私とて彼らと同世代だ、思うところが無いではなかった。だが私はこの頃には、未だそれを自分のこととして感じていなかった。
  定子様の四十九日にあたる二月五日は、たまたま春日祭りの前日だった。勅使に支障ができ、宣孝は代理を打診されたが、「かねてから痔がよくないから」と断った(「権記」二月五日)。そうしたささいなことがずっと続くと、私は思っていた。

  それが絶たれた。宣孝は疫病にかかり死んだ。私は正妻ではないので、夫と一緒に住んではいない。だから死に目に会うことはできなかった。私にとってその死に方は、不意に消えたも同然だった。

次回「続き2 喪失 宣孝の死」につづく

5.紫式部の恋 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

2024-03-22 18:02:58 | 紫式部ひとり語り
5.紫式部の恋 喪失 宣孝の死 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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喪失 宣孝の死

  宣孝が死んだのは長保(ちょうほう)三(1001)年四月二十五日のことだった。(「尊卑分脈」)。
  宣孝には死の影などなかったと思う。仕事は順調で、多忙だった。結婚した長徳四(998)年の八月には、それまでの右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)に加えて、山城守を拝命した。(「権記」同年八月二十七日)。

  山城国はこの平安京が置かれている地域だ。守は賀茂祭の行列などにも参加して、受領ではあるが雅で華やかな職だ。また、翌長保元(999)年には名誉なことが沢山あった。十一月七日、藤原道長殿の姫君である彰子様が帝に入内し女御となられた夜には、宴に奉仕した。上機嫌の道長殿に命ぜられ、藤原実資様にお酒をついだりしたのだという(「小右記」同日)。

  同じ月の十一日には賀茂の臨時の祭りの「調楽」と呼ばれる総稽古で舞い、会心のできだったようだ(「権記」同日)。また二十七日には、九国豊後の宇佐八幡宮へと遣わされる「宇佐遣い」として、勿体なくも帝のお言葉を携えて出発した(「日本紀略」同日)。帰ったのは翌年二月で、道長殿に馬二匹を献上した。(「御堂関白記」同月三日)。

  こうした日々の中で、私には娘が生まれていた。宣孝にとっても私にとっても充実した日々が続いていたと言える。もちろん夫婦だし、宣孝はもてる男でもあるしで、時にはつまらない喧嘩などがなかった訳でもない。だがそうしたことも含めて、今思えばすべてが大事なき日常だった。今日は昨日の繰り返しであり、明日はまた今日と似た日の繰り返しになるのだと、私は何の根拠もなく思いこんでいた。それはなんと浅はかな考えだったことだろうか。

  思えば宣孝が宇佐から帰った頃から、不吉な兆しはあったのだ。四月七日、大内裏豊楽院(ぶらくいん)の招俊堂(しょうしゅんどう)が落雷に遭い出火、灰燼に帰した(「日本記略」同日)。五月には一条天皇の母君である女院、東三条院詮子様の病が重篤となり、帝は天下に大赦を施された(同 五月十八日)。しかしその効果が見えないまま、道長殿までもが重病に臥された(同 五六月之間)。

  お二人が回復されたと思ったら、八月には大雨で賀茂川の堤が決壊。多くの家が流された。私のこの家はもちろん、東京極通りを挟んですぐ向かいの道長殿の邸宅土御門殿にも被害が及んで、庭の池があふれ海の如くであったという(「権記」八月十六日)。

次回「続き1 喪失 宣孝の死」につづく