人は生きていて、何を楽しみに過ごせばいいのだろうか?最近感じてきた。楽しみ=幸せ、という公式は成り立つのだろうか?
「趣味」「子供の成長」「衣食」「ギャンブル」等ある。「趣味」はピンからキリまであって、何が良くて、何が悪いのか人の判断はサマザマ。「子供の成長」は、結婚して子供に恵まれれば、当たり前のことなのかと。「衣食」はブランド物の服を買い漁り、高い酒を飲み、評判の店の食べ歩きとか。 大抵は、この四つが生活のウェイトを占めているような感じだと思う。自分の廻りを見渡しても、大体当てはまる。しかし、当てはまらない人もいる。例えばAさん、50に少しで手が届く独身男性で母と二人で生活。母は軽い痴ほう症らしく、良く睡眠がとれないとの話。そのせいか、始業時間の二時間半前に出社して仮眠。特にこれといった趣味もなく、家に帰ってから、母の世話に追われて一日を過ごしている。「この人は母が亡くなってしまえば、果たして幸せになるのだろうか?」と余計な心配をしてしまう。
Bさんは50代半ばで、異国人の妻と二人暮らし。子供は居なく社宅暮らし。妻は日本語が不自由なため、隣近所の付き合いは無し。本人も特にこれといった趣味もなく、社内に知り合いは居ない。夏の暑い日は、妻をエアコンが効いた公共施設に送って行き、冬も暖房が効いた公共施設に送って、時間潰しをさせている。休日は、妻のためにあちらこちらへ連れていく。自家用車を持っていないため、冬は何も施せないらしい。 そして、年に二回は妻の実家に里帰り。寒い冬には妻はホームシックになり、時間差で帰国。まぁ、彼は妻の好きなことを施すことが楽しみなのかと。
この二人には自分の会社⇔家以外の付き合いが無く、「繋がり」という名の掛け捨て保険が無い、という共通点が見え隠れする。
そんな観察をしている一方で、自分を見てみると「子供の成長」とかにウェイトをおいたフリをして、たまたま、子供の部活で知り合った保護者とウマが合っていることで、繋がりを維持できた、と理由つけしている自分はどうなのか?と思ってしまう。
楽しみのカタチ、幸せのカタチはいろいろあっていいんだよな。それは、ヒトという哺乳類しか、かんじることが出来ないものなんだなぁ、と思う。
「趣味」「子供の成長」「衣食」「ギャンブル」等ある。「趣味」はピンからキリまであって、何が良くて、何が悪いのか人の判断はサマザマ。「子供の成長」は、結婚して子供に恵まれれば、当たり前のことなのかと。「衣食」はブランド物の服を買い漁り、高い酒を飲み、評判の店の食べ歩きとか。 大抵は、この四つが生活のウェイトを占めているような感じだと思う。自分の廻りを見渡しても、大体当てはまる。しかし、当てはまらない人もいる。例えばAさん、50に少しで手が届く独身男性で母と二人で生活。母は軽い痴ほう症らしく、良く睡眠がとれないとの話。そのせいか、始業時間の二時間半前に出社して仮眠。特にこれといった趣味もなく、家に帰ってから、母の世話に追われて一日を過ごしている。「この人は母が亡くなってしまえば、果たして幸せになるのだろうか?」と余計な心配をしてしまう。
Bさんは50代半ばで、異国人の妻と二人暮らし。子供は居なく社宅暮らし。妻は日本語が不自由なため、隣近所の付き合いは無し。本人も特にこれといった趣味もなく、社内に知り合いは居ない。夏の暑い日は、妻をエアコンが効いた公共施設に送って行き、冬も暖房が効いた公共施設に送って、時間潰しをさせている。休日は、妻のためにあちらこちらへ連れていく。自家用車を持っていないため、冬は何も施せないらしい。 そして、年に二回は妻の実家に里帰り。寒い冬には妻はホームシックになり、時間差で帰国。まぁ、彼は妻の好きなことを施すことが楽しみなのかと。
この二人には自分の会社⇔家以外の付き合いが無く、「繋がり」という名の掛け捨て保険が無い、という共通点が見え隠れする。
そんな観察をしている一方で、自分を見てみると「子供の成長」とかにウェイトをおいたフリをして、たまたま、子供の部活で知り合った保護者とウマが合っていることで、繋がりを維持できた、と理由つけしている自分はどうなのか?と思ってしまう。
楽しみのカタチ、幸せのカタチはいろいろあっていいんだよな。それは、ヒトという哺乳類しか、かんじることが出来ないものなんだなぁ、と思う。
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