山陽史話の表紙絵。
「行程記絵図」宝暦年中(1751年から1763年まで)、有馬喜三太の筆と伝わる。
表紙絵が面白く、眺めていました。
祢太郎塚が山川・下村の近辺にあります。
旧山陽道の北になり、現在は家が立ち並んでいる場所のようです。
今となっては、探す手立てはないのでしょうね。
松嶽山正法寺は「松法寺」と読めます。
祢太郎は寝の誤記と考えられますが、気になる表記です。
以前の資料で、禰太郎と表記されていた文献もありました。
仮説ですが、元々は禰太郎だったのがいつしか(江戸時代に)寝太郎になったのではないかと、推測しています。
この絵図に皇后岩が明記されています。
その皇后岩が昭和の河川改修で取り除かれたのは、なんとも残念。
地元の大切な歴史が喪失してしまいました。
せめて近くに移動されていたらと、残念至極。
実物や痕跡が消えてしまうと、
いずれは歴史から葬られる運命にあるのかと。
枝村家枕流亭に、
豊臣秀吉公の献上された剣と襦が保存されていたら、
国宝となっていたかもしれません。
末裔のどなたかが密かに保管してくれてたら良いのに。
山陽町史や山陽史話などを読んでいて、
厚狭の三年寝太郎物語のモデルは、
もしかしたら、
大庄屋で造り酒屋の枝村家さんのことではないかと、考えたりしています。
枝村家から佐渡の金山に甘酒が送られたと言われています。
いつの頃からか、寝太郎物語が古い草鞋と新しい草鞋を交換して、
砂金を取り出した作り話に変貌したのではないでしょうか?
(あくまでの個人の推測)
佐渡の金山に造ったお酒を送っていたと自慢するより、
草履を送っていたんだと地元の人々を煙に巻いたのではないかと?
自慢になる話をわざと照れ隠しでそのように創作したのではないかと、
憶測しています。