山陽町史の第3編 古代・中世 P297。
豊臣秀吉と厚狭(あさ)・埴生(はぶ)の記述
天正15年(1587)3月24日、豊臣秀吉は九州出陣の途次に埴生に宿陣しており、同20年(1592)4月18日、秀吉が名護屋(原文のママ)出陣の途次に再び埴生に宿したことがある。
秀吉については、その九州下向の節に厚狭市の枝村屋の枕流亭に立ち寄り主人のすすめる同家の造り酒を賞美して「霞海」と命名したとの説話が『溫山紀行』に見える。
その文には
「憩枕流亭、亭在厚狭市、醸酒為業、天正中、豊太閤征九州憩 此、
文禄元年、征朝鮮復憩、主人七世祖某献酒、賜銘霞海剣及襦」とある。
吉田東伍著『大日本地名辞典』
興味深い文章です。
「霞海」と名付けたとあるので、上記の文章を読むまでは、秀吉が秋から冬の時期、朝霧が立ち込める季節に宿泊したのだと想像していました。
ところが、吉田東伍氏によれば3月頃、4月頃に厚狭の枕流亭に宿したとの事です。
秀吉が宿泊した頃、厚狭川(七瀬川)に霞がたったのでしょうか?
文禄元年(1592)の朝鮮出兵の時には、枕流亭に何月頃立ち寄ったのか気になります。
千町ガ原に霞がたなびく頃、秀吉が宿泊していればお酒の銘柄を命名したことが事実と判明します。
吉田東伍氏が調べた資料が気になっています。
豊臣秀吉と厚狭(あさ)・埴生(はぶ)の記述
天正15年(1587)3月24日、豊臣秀吉は九州出陣の途次に埴生に宿陣しており、同20年(1592)4月18日、秀吉が名護屋(原文のママ)出陣の途次に再び埴生に宿したことがある。
秀吉については、その九州下向の節に厚狭市の枝村屋の枕流亭に立ち寄り主人のすすめる同家の造り酒を賞美して「霞海」と命名したとの説話が『溫山紀行』に見える。
その文には
「憩枕流亭、亭在厚狭市、醸酒為業、天正中、豊太閤征九州憩 此、
文禄元年、征朝鮮復憩、主人七世祖某献酒、賜銘霞海剣及襦」とある。
吉田東伍著『大日本地名辞典』
興味深い文章です。
「霞海」と名付けたとあるので、上記の文章を読むまでは、秀吉が秋から冬の時期、朝霧が立ち込める季節に宿泊したのだと想像していました。
ところが、吉田東伍氏によれば3月頃、4月頃に厚狭の枕流亭に宿したとの事です。
秀吉が宿泊した頃、厚狭川(七瀬川)に霞がたったのでしょうか?
文禄元年(1592)の朝鮮出兵の時には、枕流亭に何月頃立ち寄ったのか気になります。
千町ガ原に霞がたなびく頃、秀吉が宿泊していればお酒の銘柄を命名したことが事実と判明します。
吉田東伍氏が調べた資料が気になっています。