「安倍貞任の墓」と伝わっているお墓が分かりました。
以前尋ねたお墓の少し上に登った民家の近くにありました。
貞任踏切が右端に小さく見えます。
安陪(倍)貞任塚
平康五壬寅天 仲冬下九日卒
側に幸申塚。
安倍(陪)の「べ」のへんが違っていたり、
年号の康平が平康となっていたり、
9月17日が11月29日となっていたり、と誤りもありますが、
昔から、安倍貞任のお墓と伝承されています。
山陽町史の記述によると、
<古墳だったのではないか>と思われているようです。
「炎立つ」巻の壱は読了して、巻き弐 燃える北天 興味深く読み進めています。
以前尋ねたお墓の少し上に登った民家の近くにありました。
貞任踏切が右端に小さく見えます。
安陪(倍)貞任塚
平康五壬寅天 仲冬下九日卒
側に幸申塚。
安倍(陪)の「べ」のへんが違っていたり、
年号の康平が平康となっていたり、
9月17日が11月29日となっていたり、と誤りもありますが、
昔から、安倍貞任のお墓と伝承されています。
山陽町史の記述によると、
<古墳だったのではないか>と思われているようです。
「炎立つ」巻の壱は読了して、巻き弐 燃える北天 興味深く読み進めています。
なぜ南の長門(山口)に墓があるのでしょうね?
安倍貞仁について、只今勉強中です。
なぜお墓がここにあるのか? なぞだらけです。
観光検定ガイドによると、
前九年の役で敗戦後、貞仁の弟宗仁が伊予之国に流罪、以後のことは不明ですが、伊予より脱出して厚狭川をさかのぼり、この地に隠れ住み、兄貞仁のお墓を建てたのではないかとされています。
平安時代頃は、この場所の川幅も今よりはるかに広かったと思われます。
お墓の近くに宗仁屋敷・宗仁坂と呼ばれている場所もあるようです。
屋敷跡の場所と坂も探索したいと考えています。