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アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

今日も工場日和-5 + カテゴライズに対する論考

2015-01-10 | 日本の旅

2時間、4時間、6時間…と同じ環境・同じ姿勢で単一作業を続けていると、頭の中は思考停止に陥るか、もしくは徐々に思考が移ろいで意外なアイデアがひらめいたりする。

 

私はまず、「◯◯人」とカテゴライズしてしまうことについて考えを巡らせた。

 

例のフィリピン人女子2人のお陰で、私はすっかり「フィリピン人」が嫌いになりつつあった。

フィリピンは私にとって最も身近な国であり、日本人に次いで最も多く尊敬する友人がいるにも関わらず、である。

 

そんな風に嫌ってしまうのは、私に問題があるんだろうか。

 

とりあえず自己正当化するために、過去のいろいろな記憶をたどってみた。

まず旅先で必ず聞かれるのは「何人?」であり、「日本人」と答えると、「オーゥ!HONDA!」とか「トヨタ イズ ナンバーワン!」とかいう反応が(相手が陽気な人なら)返ってくる。もしくは、「日本人は英語が下手なのに、あなたは出来るのね」と言われることも頻繁にある。それは私の英語がどうこうではなく、日本人=英語が下手、という図式が蔓延っている表れであり、それより少しでもマシな英語を喋る日本人は「例外」ということになるってこと。

逆に「何人だと思う?」と聞き返すと、韓国ビジネスが盛んな地域なら「韓国人?」と言われるし、中国企業が多く進出している所なら「中国人?」と言われる。

そこで「違う、日本人」と答えると大抵の場合は好意的に受け止められ、「いいねぇ、日本人は礼儀が正しい」とか「日本人はいい人たちだ」などと言われることもある。

「だったら韓国人はどうなの?」とか「中国人と何が違うと思う?」と更に聞いてみると、うすらぼんやり、その国における韓国人や中国人の振る舞いの一部が垣間みれたりする。

 

たとえばこんなことを言われたことがある。

「韓国人は上から目線でエラそう」@フィリピン

「中国人は自分が欲しいものに突進してきて、根こそぎ持っていく」@インド

「中国人は口うるさくて、韓国人はすぐカッとなる」@確かイギリス

(その他諸々は忘れてしまいました…)

 

日本人に対しても、たとえば日本で10年以上働いているブラジル人Kは「日本人は怖い、厳しい、悪い(威圧的)」と基本的に思っていて、そうでない友人などは「例外」ということになっているらしい。

それは彼が出会ってきた日本人の総合評価として、決して間違いとはいえないと思う。

ただ、それが全てではないことも確かであり、こんな人もいるあんな人もいると考えていけば、そもそも◯人は~と一括りになどできないことも当たり前の話。それを分かった上で、それでも◯人は~と思ってしまうのが人間心理というものではないかと思うのだ。

 

私は再びフィリピン人について考えを巡らせた。

 

最も鮮やかに蘇る記憶は、フィリピン・ミンダナオ島のダバオという街で、日本語教師のボランティアをしている元校長のY先生に聞いたことだった。

「こっちの生徒は、日本では当たり前のことが本当にできないんですよ」とY先生は何度も私に言った。

「日本では当たり前のこと」というのは、たとえば授業中にお喋りしない、先生の話をちゃんと聞く、勝手にトイレに行かない、といった類いのことで、日本なら小学校1~2年生でしっかり教え込まれる学びの基本姿勢である。

それを、フィリピンでは先生が誰も教えないためにY先生が1人躍起になって注意しているというのだった。

 

また、「フィリピンの方の多くは情報伝達ということをあまりせず、学校でも突然そのときになって言われることがとても多いです」とのこと。

日本人の会議があまりに長いのも問題だとは思うけれど、逆に計画をほとんど立てずに思いつきで言ったり、変更したりするのも問題過ぎる。
 
けれどこれはタイでも同じらしく、「たとえばイベントをやった後に日本だったら必ず反省会をするけど、タイではやりっ放しで何も振り返らない」と、タイの保育園で2年間働いた日本人の友人が言っていた。
 
 
つまり日本の常識はその国の人たちの常識ではない、というだけでなく、そうした常識がない環境で生まれ育った人たちにとって、私たちが私たちの常識に則って考える理屈もまた、「ピント外れ」の可能性が高いのである。
 
たとえば「お喋りしていたら仕事(や勉強)に集中できないから静かにしましょう」と言っても、彼らは「え…なんで…?お喋りしててもちゃんと仕事はできるよ」と心の中で思っているかもしれず、もしそうであれば、いくらこちらが「合理的理由で注意した」と思っていても、相手には「日本人は厳しい」というあまりに漠然としたものしか受け取られずに「支配ー被支配」の構図ができてしまう結果になり兼ねない。
 
それは少なくとも私にとっては不本意だった。
 
何か注意を促す時は、その理由も含めきちんと納得してもらわなければ意味がない。
私がいなくなったらまた同じ問題が発生するというのでは、注意した甲斐がないのである。
 
 
 
だったらどんな理由を付けたらいいんだろう…。
 
仕事中にお喋りしたらいけない理由…。
 
 
 
次第に頭がボーッとしてきて、私はまた次の論考に吸い込まれていくのだった。
 
 
(つづく)

今日も工場日和-4

2015-01-08 | 日本の旅

昨日と今日で、めまぐるしく続報が更新しました。

2人のフィリピン人女子について。

 

以下ご報告します。

 

  ♦   ♦   ♦

 

 社長の愛人Jと、いかにもパブ勤めのプリケツAは、朝から相変わらずお喋りが盛んだった。

私たちのラインは、最初の2人が小さなプラスティック部品を取り付け、次の2人がビスで板金を(別々に)固定し、それを私が総点検(工場では検査という)して、最後の1人が番号シールを貼って箱詰めするという流れ。

順番に、ブラジル人(女子)→フィリピン人(男子)→フィリピン人(プリケツA)→フィリピン人(愛人J)→日本人(私)→ブラジル人(女子) となっていた。

つまりそのお喋りは私のすぐ隣で展開されることになるため、いくら気にしないでおこうと思っても強制的に耳に入ってくる。それもオールタガログ語なので意味が分からない。

それならBGMみたいなものじゃないか、と思われるかもしれないが、素人が喋るただの雑談はラジオのようなわけにはいかず、しかも何言ってるか分からないことが余計に耳障りで私を苛立たせた。

一昨日からかろうじて改善されたことは声のボリュームで、「うるさい!」と言われないための配慮は感じられたけれど。

 

とにかく私はイライラを懸命に押さえて時間が過ぎるのを待った。

声を小さくされているからには、むやみに注意するわけにもいかないかなと思って。

 

また、もうひとつ私が我慢せざるを得なくなった理由(変化)があった。

愛人J が、「リーダー」と前後に書かれたビブスを着始めたのだ。蛍光黄色の。

それは、社長命令か何だか知らないが、日本人社員のライン担当者と愛人J が着用する、とても奇妙なものだった。
今さら一体誰にアピールしようというのか…。 

 

そしてハプニングは起きた。

 

総点検係の私が、パチンコ台(これもプラスティック製でパチンコ本体の裏側にあたる部分)を持ち上げ要所要所を黙視確認し、オッケーと思って次に引き渡そうとした時。

愛人Jが私のササッと後ろに回ってその台を取り上げ、日本人社員を呼びつけて言った。

J「ここ、ビスがちょっと斜めに入ってる」

社員「…あぁ、本とだねぇ」

J「ケンサで見落とした」

 

私は、はあ…?と心の中で大きく口をあんぐりさせて立ちすくんでいた。

 

「え… どこですか…?」とようやく声を出して指摘された場所を確認すると、それはものすごーく微妙にビスが傾き、ものすごーく微細に盛り上がっている、本当に0.5mmもない程の「ミス」なのだった。

私は白い布手袋をして言われた通りに触手確認をしていたのだけれど、手袋の上からでは全く感知できないほどの微細さだったのだ。

 

私「え…こんなの、触っても分かりませんけど…」

社員「でも一応、確認して」

私「あの、でも、どうしたらいいんですか? これ全部を黙視していたら今のスピードでできませんけど」

社員「スピード落としていいよ。30秒で1つ流れたらいいから」

 

そんなやりとりを横目に、J はすました顔して自分の作業に戻っていた。

 

こんのやろうぉぉ…わざとやりやがったな(怒りマーク×10000000)!!!!!!!!!!

私の全身は煮えくりたぎった。

ここが学校だったら絶対に玄関に飛んで行って靴に画鋲を入れてやるのに。

ここが女子トイレだったら絶対に上からホースで水をぶっかけてやるのに。

ここに誰もいなければ絶対に胸元つかんで尋問してやるのに!

 

頭からはまさにプシュー、プシューと湯気が漏れ出ていた。

2人は何事もなかったかのように再びお喋りを始めている。

…ありえない。

そもそもビス打ちをミスったのはプリケツ野郎だ。

それが全く非難されずに全て私のせいにされるというのはおかしくないか?

 

私は板金上のビス計8個を穴が空くほど凝視し、それまでの3倍ほど時間をかけて点検することにした。

そしてプリケツ女が打つビスのほとんどは、微妙に斜めに傾いていることを発見した。

「ちょっと、ビスが斜めになりやすいから自分でも確認してくれる?」

ぶっきらぼうに女に言うと、女は目を丸くして「はあ?」と訴えてきた。

A「なに? ビスが斜めだったら(社員に)言わなきゃダメじゃん」

私「言うほどじゃないの! 斜めになりがちだって言ってんのよ」

A「なに? 意味がわからない」

 

蒸気がマックスになって頭の毛が吹き飛びそうだ。

J が隣で「斜めになりやすいんだって」と捕捉するのが聞こえた。

私は大きく「バカじゃないの?」と書きなぐったような顔をつくって、ムスッとしたまま自分の作業に戻った。

 

頭の中では「ありえない、ありえない、ありえない」の連呼。

 

すると今度はプリケツ女が日本人社員を呼びつけ、「ビスがちょっと斜めになるのはダメ?」と甘い声を出して聞くではないか! なんだそれ?????????

日本人社員は「これねぇ~、そうなんだよね、どうしても斜めになるんだよねぇ」などと相づちを打ち、その横で女がこちらをチラと見ながら社員に何やら吹き込んでいるのである。

社員は「うんうん、うんうん」と頷くばかりで、女の真っ赤な口紅に接近されてはお手上げといった様子。

 

・・・・・・・・・。

 

私は言葉を失った。

 

こいつら、もしここに井戸があれば上から突き落としてやりたい…。

 

その後の私の葛藤たるや……… また明日書きます。

 

つづく。

 


多文化教育を考える旅-1章

2015-01-06 | 日本の旅

半年ぶりにその小学校に行き、校長先生と再会した。

実は今月末から約1ヶ月間、廊下の片隅で写真展を開かせてもらえることになったのです。

それで今日はその打ち合わせに。

 

学校で部外者の写真を展示するというのは、恐らくタダゴトではない。

先生は展示に教育的効果があると強烈に判断する必要があるし、その他の地域団体との兼ね合いもある。また何より保護者の目というのもあると思う。

そういうのを一切合切クリアしてくださったことに、ただただ頭が下がる思いであります。

 

多文化社会と多文化教育について、今日、校長先生と私は実に4時間半も語り合った。写真展示に関する相談事項を差し引いても3時間以上。

先生は、まず格差構造の二重化に対する懸念を話された。

たとえばこんなエピソードから。

ある中小企業が外国人実習生を受け入れたところ、最初は社員も地域の人たちも優しくウェルカムした。ところが次第に日本人は親玉気分になり、外国人実習生を奴隷のように扱うようになった。それは格差社会の下層にある中小企業が、更に下層をつくり出す構造そのものだった。

…というお話。

 

「それが進めば、地域は荒んでいく」と先生はおっしゃった。

「だけどこども達は放っておいても仲良くなります。国際化や多文化共生は、そうしたこどもたちが大人になる頃には自然に実現されるとは思いませんか?」と私。

それは私が去年からずっと自問自答していることだった。

国内における外国人支援は、本当に必要なのかどうか。

 

先生の答えはこうだった。

「そうなるかもしれないけど、そうはならない可能性もあるんじゃないかな」

たとえば学校内で、日本人の子と外国人の子が喧嘩をしたり差別的な発言をしてトラブルになることがある。そんな時、教師はどう対処したらよいか。

適当にあしらったり放ったりすれば、トラブルはそのうち水に流されて忘れられる代わりに再び同じトラブルが発生する可能性が残る。逆に先生がしっかりその子たちに向き合い、それは偏見なのだと指導すれば、こどもたちは相手の文化を尊重することの大切さにきっと気づく。その時は分からなくても、大きくなってからきっと。

そうした「気づき」を与えるのは必要だと思う、と先生。

 

なるほど…と私は合点した。

偏見や差別心は、何かトラブルが発生した時に「待ってました」と言わんばかりに牙を剥くヤクザみたいなものなのかもしれない。そのトラブルは外的要因だったり、ストレスなどの内的要因だったりするのだろうけれど、とにかく穏便でない状況下でヤクザはムクムクと起き上がり、ゴジラのごとく肥大化して火を吐きながら暴れ狂う。

そういう厄介な悪芽を、誰もが持っているような気がする。

 

だからこそ教育によって、もしくは啓蒙によって、一方的に火を吐かれた者の苦しみを分かってもらうことが必要なんだ。それもトラブルが小さいうちに。また社会に蔓延する前に。

 

私は自分の中に眠っている差別心を想った。

昔、誰だったか有名な芸能人が「差別は本能だ」という旨のコラムを雑誌に書いているのを見て、そうか、と思ったことがある。以来、自分はもともと差別的な人間であることを認めたら、気持ちがスッと楽になった。

差別とは、自分とは違う他者に対する防衛本能なのだ。…と言われれば、確かにそんなような気がしてくる。だって自分ではダメだと分かっていても、自然発生的に湧いてしまう感情や抵抗感はどうしようもないもの。

 

校長先生はおっしゃった。

「多文化教育っていうのは2つあると思うんです。一つは単純に国際理解の促進で、いろんな文化を知るということ。だけどそんな表面的なものだけだったら、教育とはいえない。もう一つ大事なのはね、人権の視点を持てるかということです。それはひと昔前に同和教育が行われ、その流れの中で在日朝鮮人を理解するための教育が行われた、その延長線上になければいけないと思う。目の前にいるその人の、背景やそこに至った経緯を知るということ。また知ろうとする実践。外国籍のこどもや親の行動を理解しようとした時、そのことをよく思うんです」

 

なんかもう…あぁ…って感じで心がフニャフニャになってしまった。

先生の言葉の端々には、私が去年から取材している教誨師(刑務所で罪人に宗教教育をしているお坊さんのこと)と全く同じ価値観が見え隠れしていたし、また私がこれまで様々に関心を寄せては心に散在させていたあらゆる問題意識にも見事に通じていたから。

 

そしてそれは言葉にすれば「人権」という表現なのだということにも、私は深く合点した。

 

帰り道、空を見上げれば大きな満月が浮かんでいた。

自分は完璧に導かれているということを、感謝せずにはいられない夜。

 

厄年と厄払い

2015-01-02 | 日本の旅

去年知り合った曹洞宗のお坊さんに「そぶみ観音がいいよ」と言われ、岡崎に向かった。

名鉄線・本宿駅から歩いて15分ほどの山間にある、渭信寺(いしんじ)。

加賀の前田利家の守り本尊だった御神体を、金沢大乗寺の住職が隠居する時に岡崎に持ってきたのが始まりだという。


そもそも厄払いというのは神社でやってもらうものだと思っていたけれど、お寺でもいいだって。

…へぇ、そうなんですか、と私は軽く答え、「じゃ、行ってきます」ということで初厄払いに出かけたというわけ。

 

 

元旦の昼間は人でごった返すというそのお寺には、若いカップルの姿もちらほら見られた。しかも夕方、しかも寒風とともに粉雪舞い散るこんな日に、正月祈願でお寺に来る習慣がある人々がたくさんいるなんて。

日本の年末年始を説明する時は「大晦日にはお寺で鐘つき、元旦は神社でお参り。寺と神社は似て非なるのよ」なんて知ったかぶって言っていたけれど、根本的に考えを改めなくてはいけないらしい。

 

本堂には正月飾りやお守り類が並べられていて、人々はその前をそろりそろりと歩きながら物色しているようだった。

私は内心ビクビクしていたせいか、そちらにはほとんど目もやらないで係の人を探して聞いた。

「あの、東京のKさんに紹介されて来たんですが、厄払い、していただけるんですか?」

若奥様らしいその女性は「あぁ、はい、いいですよ」と快く答えて私をカウンターに案内し、「とりあえずこれを書いてください」と祈祷届けのような紙を差し出した。

私はそれに名前や住所や年齢を書き、その後、テーブルの上にあった厄年表を覗き込んだ。

「あれ、私、もしかして厄年じゃない…ですか?」

女性は私の年齢を確認してから、「そう…ですねぇ」と少し戸惑った風に言葉を返し、「でも、厄除けというのはいつやられてもいいんですよ」とにっこり笑った。

 

おかしいなぁー。どこやらの神社で30代は2回くるって大きく書いてあったと思ったのに。

 

それで帰りの電車でググってみたら、やっぱり「女性の厄年は人生で4度ある」らしく、3度目の本厄が数え年で37歳(今年でいえば1979年生まれ)の人、と書いてある。

あれー、神社と寺では違うのか?

 

そこで他のサイトも見てみると、こんなことが書かれてあった。
(http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n128583)

「なぜ年齢かといえば、科学的な根拠はありません

厄年を何歳とするかは神社仏閣などによって異なり、一概に厄年は何歳とは断言できません

すべての神社仏閣で共通して厄年とされる年齢というものはありません

 

しかも元日に歳をとるとするか、立春(旧暦の正月)に歳をとるとするかも、神社仏閣によって違うのだという。だから「信じている神社仏閣があるならそこでいわれている厄年がその人の厄年であり、その信じている神社仏閣へ厄払いに行くのが本来の姿でしょう」ということで、結局は自分次第、みたいなオチなのだ。

がーん。

 

まぁしかし…。曹洞宗のお寺でご祈祷していただいたのは初めての経験で、それはとても興味深いものだった。

お経がぎっしり書かれてあるジャバラ構造の教本を、バラバラバラバラバラ…とまるでアコーディオンを奏でるように左右に揺らし、その後、まるでインド人がチャイを入れるかのように、1mほどの高低でザーーーーーーーーーーーッと上から下にジャバラを流すのだ。

ま~ぁそれはそれは見事な手さばきで、思わず見とれてしまうくらい。そしてトントントントンという乾いた音の太鼓が響き、途中で祈祷者の住所と名前と性別が読み上げられて(それもまた独特のイントネーションなので、自分の番になると恥ずかしさの余り吹き出しそうになりましたが…)、最後に一人ずつ前に出て頭に何やらを押当ててもらう、という流れだった。

加えて私だけ「厄除け」のために再度前に呼ばれ、オレンジと黄金色の袈裟に三角形の帽子をかぶった老僧に、厳粛なお祓いをしていただいた。

 

いやぁ。。。これだけしていただけば厄も吹っ飛んだでしょう。

と意気揚々となり、お礼を申し上げて帰路につこうとした時。ご住職がふと心配そうに声をかけてくださった。

「何か、疲れてますか?」

私「…そうですね、疲れてるかもしれません」

「いえ、なんとなく"気”が疲れてるような気がして。エネルギーが弱っているというか…」

私「そうですかぁ」

「何か楽しいことをして、リラックスされた方がいいですよ。すみません、ちょっと余計なことを申し上げましたが…」

私「そうですね。どうもありがとうございます」

 

ということで、すっかり暗くなった田舎道を、やっぱりそうかぁ~と思いながらトボトボ歩いて駅に向かった。

 

(つづく)


ふくしま01

2014-12-29 | 日本の旅

はじめて警戒区域の中に入った。

双葉郡、葛尾村。

かつて1500人ほどいた村民全てが車で1時間近くかかる三春町に避難しているため、今は誰も住んでいない。

 

正確にいうと「警戒区域」は既に解除されているのでもはや無く、「帰還困難区域」「移住制限区域」「避難指示解除準備区域」の大きく3つに分けられている。

漢字ばかりでややこしいので、それぞれA(帰還~)、B(移住~)、C(避難~)とすると、葛尾村は北東の一部地域がAとBで。その他75%ほどはCに指定されているらしい。

Cは年間20ミリシーベルト未満ということになっていて、除染が終われば順次帰ることが計画されている。大熊町、双葉町、浪江町はほとんどがAで、政府が不動産の買い上げを検討。飯館村や富岡町に多いBは、数年以内に20ミリシーベルトを下回ると考えられるので一時帰宅なら可能、らしい。

 

半年ほど前、東京の友人が「警戒区域の中、行けるなら行ってみたいよなぁ」と言った時、私は「行かない」と即答した。

率直に怖いと思ったし、行ったところでどうなの?という気がしていた。

だから今回も「うちさ行ってみっか?」と言われた時、「いいんですかぁ?」と誤摩化しながらも内心ではドキリとしていた。

 

でも、私が警戒していたその区域は、案外あっさりと道路の延長に現れ、何のへんてつもない普通の田舎町に続いていた。

検問があって白いビニールの服と帽子と長靴を装着させられるのかと思ったら、そんなの全然ない。

検問やバリケードがあるのはAの「帰還困難区域」で、そこまでに至らない村の中心部には、「特別警戒隊」と書かれたプレハブがあるだけだった。

 

案内してくれたMさんは元村議員で、本業は種牛の肥育だったという。立派な瓦屋根の家に、牛舎が2個3個と並ぶ 大きな敷地が小高い丘の上にあった。

 

村に入ってから線量計の値は0.2前後をさまよっていた。

Mさんに聞くと事故当初は2.0ほどあったというから、除染によって10分の1まで下がったことになる。

正直、除染なんて意味ないと思っていた私は、「ほぅ!」とビックリ。場所とやり方によってはかなりの効果が上がるらしい、と同行していたFさんが教えてくれた。

 

とはいえ、この辺りは、検問所はなくても自由な立ち入りは朝9時から夕方4時までと決められている。

驚くべきは、むしろ0.2という値は福島市内や郡山市内でもザラにあるということなんじゃないか?…と私は思った。

立ち入りを日中のみに制限するほどの線量下で、福島市や郡山市では何十万という人たちが日常生活を送っているんだから。(しかも市内のホットスポットと呼ばれるエリアでは、0.5~1.0の値が測定されるのももはや「日常」)

それって、どっちが危ないわけ…?

 

ところで葛尾村では、牛や馬の種付け業が盛んだったらしい。

繁殖用の牛や馬を育てて人工的にセックス(牛の場合は人工受精)をさせ、強くて丈夫なこどもを産ませて売る仕事。

村に行った日の前日、Mさんはその手腕を面白おかしく解説してくれ、酒を呑みながらひとしきり笑った。その後に原発事故後のことも話題となり、3月12日の爆発のニュースをどのように聞いたか、全村避難をどのようにしたか、4月中旬に一時帰宅した時の牛の様子、5月中旬に村中から270頭の牛を避難させた話など、まるでドラマを見ているかのようにパッパッと映像が思い描かれるほど生々しい話を聞かせてもらった。

ちなみに、避難させた牛を検査した結果は、牛舎飼いは汚染なし、牧場で放し飼いになっていた牛は全て白血病で殺処分になったそうだ。

 

 

葛尾村の人たちの帰還計画は、来年だったのが再来年に延期になったという。

線量は既に問題ないけれど、至る所に置き去りにされている除染土の撤去が進まないからだ。

Mさんは会話の中で、除染土のことを「魔物」と呼んでいた。

 

 

一度は警戒区域にまでなった土地に、戻るのが本当にいいのかどうか…と思っていたけれど、葛尾村に行って、Mさんの自宅に行って、そりゃ捨てきれんわなぁ…と率直に思うようになった。

 

いわき市の仲買人さんがおっしゃっていたことも、同時に頭をかすめた。

「最初は廃業しようという考えもあったんです。でも検査するうちに、これは大丈夫そうだぞと。親やおじいさんの代からずっとこの海のものを食べてきて、これだけの魚、無くしたくない。」

 

相馬で出会った若いママの言葉も思い出した。

「地元が嫌で県外に出て結婚したけど、今は故郷にいたくてしょうがないんよ。こういうのは、失いかけて初めて気づくのかも。」

 

だからといって帰還賛成!というわけではないけれど、なんとか帰って元の生活を取り戻そうとする人たちの気持ちや、帰還後の人口が減ってしまうことを心配する人たちの気持ちを、ないがしろにはできないなと思うようになったことは事実。

だってそこには以前と変わらない景色があって、手元の線量計も「大丈夫」と言ってるんだもの。

すっかりゴーストタウンと化しているのだろう「帰還困難区域」とは違う、心の揺らぎの苦しさを、私は車窓からぼんやり田畑を眺めながら想った。

 

私だったらどうしてるだろう…。

もしこれが30年後の自分に降り掛かってきた災難だとしたら。

 


ふくしま00

2014-12-29 | 日本の旅

福島のことを語るのは、とても難しい。

そもそも数回行ったくらいで何かを語ろうなんてこと自体、おこがましいのだけれど。

 

でも福島の原発に関するニュースが取沙汰される度に、福島全体のイメージはまたひとつ、またひとつと黒みを増し、それ以外に住む人たちとの間にどんどん深い溝ができていく。

だから、1度でも福島を取材した者の責任として、彼の地に行き続けることはマストだと思うし、また行き続けることしか今の私にはできない、と思って今回もとある活動に参加させてもらった。

 

その人は毎月大阪から福島に通い、トラックいっぱいの野菜を複数の仮設住宅に配っている。

震災の年から始めたので、もうすぐ50回に届きそうな勢い。

多くのボランティア団体が資金難を理由に撤退して以降も、その人は「これはボランティア活動ではなく自分がやりたいからやっているだけ」と言い張り、自腹を切って続けている。

私はそれにちゃっかり便乗し、大阪から向かう途中の名古屋で拾ってもらうというわけ。(もちろん交通費カンパはしますけど)

 

それで、これを機に福島のことをまとめたいと思うのだけど、そう思えば思うほど「まとめる」という作業が果てしなく感じられて、頭がボーッとしてしまう。

どうしよう…。今夜もギブアップ…かしら。

 

先日アップした「福島の水産の今」の動画に対し、いろいろなコメントが寄せられていた。

・海産物ならストロンチウム計測しないと意味はない。

・思いは理解しうるものの…検査の盤弱性(内蔵を外して測るなど)の上にある基準クリアの声では、感情論の安心の前に、信頼を得るには至れないのが本音。後は国民の自己責任と言われるのでしょう。

・福島の人達の姿や声だけを拾っても、この問題の答えは出てこないと思いますよ。

・福島産の食材を避ける人が悪意に基づいているかのような物言いには腹が立ちます。検査結果は事実。それをどう捉えどう行動するかは各自の自由のはず。

・福島だけではなく、青森から静岡ぐらいまでの食べ物は危険なので、「食べて農水産業者を応援」する必要は全くありません。

などなど。

 

誰かに、何かを、伝えるということ自体がそもそも難しいんだ。

福島に対して少しでも不安や疑問がある人は、全員が現地に行って直接福島の人たちと話をしたらいいと思う。けど、そんなことは不可能だし、福島の人たちだって、そんなことされたら疲れてしまう。またもしそのうち1割の人が実際に福島に行ったとしても、その先で出会う人が必ずしも腹を割って話してくれるとは限らないし、そもそも福島にもいろんな意見をもった人がいるから、出会った人の見解が福島全体を象徴しているなんてことはあり得ない。

だーかーら。

何か目的をもって福島を訪れた人が、もしくはたまたま訪れた先で何かを強く感じ得た人が、あの手この手で「福島の今」を発信するしかないんだ。
どんなに拙くても、どんなに難しくても。

 

ということで、明日以降、少しずつ、丁寧に、小出しに書いていくことにします。

そして海外の友達も福島のことを知りたがっているので、小出しの後には英訳が待っているのだ。

 

来年も、命をかけて誠実に生きようっと。。。

とりあえず、おやすみなさい~


ふくしまに向き合うということ

2014-12-27 | 日本の旅


(クリックするとYouTube画面にリンクします)

 

 

クリスマスイブの夜から今朝にかけて、福島再訪していました。

それは明日まとめるとして、まずは、その前日くらいに公開された動画をシェアします。

今年7月に「ジャーナルツーリズム」の中で取材したもの。 

 

ジャーナルツーリズムというのは、取材&発信活動に興味のある人たちが、取材旅行をしながらそのノウハウを学ぼうというイベントです。

今年2月に第1回「農業」をテーマに開催し、第2回は「福島」でやりました。

私のチームは2人の参加者+私で、水産業の現状を取材することに。

 

企画、情報収集、アポ取り、撮影、インタビュー、構成、編集…というステップを一つずつクリアして、ようやく完成できたのが上のリンク映像です。

 

これにかけた私個人の思いは、また後日。。。

 

ふくしま… あぁふくしま…。

と、今は感無量です。

 


今日も工場日和-3

2014-12-22 | 日本の旅

ずっと気になっていたブラジル人のカップルと、今日初めて同じ作業チームになった。

 

彼らはいつも無口無表情で、休憩時間の度にお弁当を食べる。

10:00、12:00、15:00の3回とも。

 

それで、どんだけ食いしん坊なんだろう、とか、どんだけ料理好きなんだろう、とか、いろいろ思ってみるのだがそれにしてもよく食べるので、すごーく気になっていたの。しかも彼の方は男前でガッツリ系、彼女の方はスラッとした才女系の容姿。とても食い意地張ってる感じではない。

 

作業がたまたま途中で中断した時、思い切って彼女に聞いてみた。

「ねえ、いつもお弁当、たくさんだね」

「そうそう。2時間で、いつも、食べる」

彼女は日本語があまり得意ではないらしく、知っている単語を探しながら一生懸命話してくれた。

「私、むす…ええっと何だっけ、むすこ? ここ、ええっと、マッス…」

「マッスル?」

「そう。マッスルにプロテインが必要ね」

「息子さんがいるの?」

「そう、2人。マッスルのために、2時間、いつも、食べる」

「2時間ごとに食べなきゃいけないの?」

「そうそう。息子は大きいからいっぱい、私はちょっとね」

「?」

「でも2時間」

「そっかー。息子じゃなくて、旦那さんね。旦那さんと、あなた、2人とも…」

「そうそう。卵8個、食べる」

「8個!?」

「白いところだけ。黄色いところ、コレステロールだから、ダメ」

「へ? 白いところを8個分食べて、黄色いところは捨てるの?」

「そう。毎日」

「毎日!? 2人とも?」

「そう」

「2人で16個!?」

「そうそう。たくさんね」

「それ…、病気?」

「そう、病気。ブラジル人は、日本人とちょっと違うね。日本人は体小さいから、きれい、けど、ブラジル人は、ここ(お尻を指して)とか、大きい」

「へえ~。卵8個… で、病院も行ってるの?」

「行ってる。チキンでもいい」

 

それにしても毎日卵白8個食べなきゃいけない筋肉の病気って何だろう…。

不思議でしょうがないけれど、また作業が再開してしまったので真面目モードに戻り、隙を見計らって再び聞いてみた。

 

「卵の白いところ、どうやって食べるの?」

「違うね、卵をこうやって、2つにして、白いところ、こっち、黄色いところ、捨てる」

「そうそう。その白いところ、どうするの?」

「水と一緒にして…」と彼女は懸命に説明してくれようとするのだけど、日本語がスムーズに出てこないためになかなか伝わらない。

そこでゴミ箱からさっき捨てたばかりの裏紙を取り出して、絵に描いて教えてくれた。

 

それによると、8個分の卵白は次のように調理される。

1、卵焼きの要領で卵白のみ焼く

2、ゆでたまごを作って、白身の部分だけ食べる

 

…シンプルの極みじゃないか。

 

「おいしいの?」

「大丈夫」

「塩は入れる?」

「ダメ。醤油もダメ」

「何もつけないの?」

「そう」

「…それって、おいしい?」

「おいしくない。でもしかたない」

 

そうだよね、と私は言って、卵白8個の生活を想像してみた。

…無理。…だよなぁ。

 

「お金かかるね」と言うと、「そう!」と大きく首を縦に振って、彼女はまたセカセカと作業を続けた。

 

いやぁ、びっくりしたなぁ。

そんな病気があるなんて。そんな闘病生活をしている人がいるなんて。

 

帰ってから「筋肉 病気 卵」でググってみたけれど、案の定、そんな情報はどこにも見当たらなかった。

ポルトガル語で検索したら、見つかるのかな。

 

そして夕飯のうどんに、今日は卵を2個入れた。

おいしいのは、やっぱり黄身だった。

 

 

追記:後日、別のブラジル人の友人に「卵8個病」の真相を聞いてみたところ、それは病気ではなく、筋力を上げるためにそう指導されることがあるのだということでした。
彼らはそれを病気と認識しているのか、もしくは日本語で上手く説明できないために手っ取り早く病気ということにしたのか分かりませんが、いずれにしても「毎日卵白8個」というのは大変だわね…^^;


今日も工場日和-2

2014-12-16 | 日本の旅

右脳と左脳の話が本当なら、工場内はきっととても良い脳トレの場かもしれないと思う。

先日のプレゼン研修会で習った。

ハッとするアイデアやひらめきは、トイレやお風呂や布団の中で起きやすいのだと。それは右脳を使っている時で、その時浮かんだことはその場でメモをとらないと、二度と出てこなくてもったいないことになりますよ、と。

工場の仕事中は、それが起きる。

もしくはそれを頻繁に起こすことができる。…ような気がするのです。

 

浮かんでは消えたコトは果てしない(そしてたわいなく、かつ はしたない)ので、いちいち紹介する価値はないのですが、一つだけ書いとこーと思ったことが…あったはず。…なんやったっけ。

…あぁ、やばい、忘れてもうたか?

うおっ…やっぱり書き留めんとあかんなぁ。。。 

 

と記憶と格闘すること5分。

 

そうそう。

この体を張った労働を将来にどう活かそうか、ということについていろいろ考えたんでした。

それで出てきたアイデア

1、外国人労働者が多い企業や工場を対象に、ダイバーシティ・マネージメント・ワークショップを開く

ダイバーシティ・マネージメントというのは、直訳すれば「多様性の管理」。様々な人種や性や年齢の人がいる職場を管理する方法またはスキルまたは役職で、既に大企業の中にはその専門部署があったりするらしい。

2、このまま工場労働者を数年続けてリポを書く

3、来春始める予定のインターネットテレビ局のチラシを、外国人のみんなにこっそり配って広報する

 

どれもできそうだけど、じゃあ具体的にどうするの?と考えると、途端に左脳が働き出す。

…そして、フリーズする。

どうやら身体的ルーチンワークと左脳回転とは、同時進行ができないみたいです。

 

それにしても、ここの工場の人はみんな優しい。

昨日(私が勝手に)激怒した波平上司は社長だと判明したのだが、その社長さんも、悪い人ではないことは充分伝わってくる。

私のチームの担当者さんなんて、「トイレ行きたい」と作業途中に何度も言うフィリピン人女子に、少しもキレることなくその都度作業を代わってあげ、自分の激務は残業に回すという寛容ぶり。
…いやぁ~、私だったら間違いなくキレてたっす、そこ。…と心の中で敬服する。 

 

気づいたことは他にもある。

フィリピン人とブラジル人の違いについて。

もちろん個人差があること前提に、フィリピン人はブラジル人よりも総じて陽気、かつ、社交的な感じがする。日本人社員とちょっとしたことで冗談言い合ったり、笑顔で会話しているのはフィリピン人。

あぁ~、だから男性はフィリピンのお姉ちゃんが好きなんだなぁ~、とつい思ってしまう。

ブラジル人は、日系が多いからかどうか分からないけれど、今の工場には真面目な人が多い。華やかさがないというか、質素というか。少なくともサンバのイメージとはかけ離れている。(そして私はそちらにより親近感を感じています)

 

恐らくそんなこと彼らにとっては当たり前(というかフツウ)なんだろうけれど、これだけ多国籍な職場に初めて来た日本人には新鮮なことが多すぎまして…。失礼承知でこっそり観察しているわけ。

 

そしてまた「コミュニケーション」のことをいろいろ思う。

上司と日本人派遣君との違い、とか。(←これはメモ)

あと右脳書きと左脳書きとか。(←これもメモ)

知性とセックスについてとか。(←これも)

 

また追々書きます。

工場効果でネタ溢れる幸せなり。

 


工場日和-1

2014-12-15 | 日本の旅

今週も始まりました、パチンコ工場。

今日のチームは7人。日本人2人、ブラジル人1人、ペルー人1人、フィリピン人3人の構成。

 

そして、その時はきたのでした。

部長か社長か工場長らしき、いつもウロウロしている波平さんみたいなオヤジ風上司が来て、作業中の私たちに向かって一言。

「ちょっと手を止めて!みんな、今の分だけやったら手を止めてください!」

私たちは、すぐに止めた方がいいのか、すぐでなくてもいいのか戸惑い、少々オロオロッと顔を見合わせていた…ら。

「こら、止めなさいと言っているじゃないか!」

とペルー人の女性に向かってペチッと叩く真似をして皆に正面を向かせ、説明し始めました。

 

「このカードをつくってきたから、休憩の前にはきちんとジコウテイを終わらせて、そうしてるでしょ? 休憩行く時には自分の分を済ませて、確認して、ってやっていると思うけど、それをやったらこのカードを上に乗せて、ここにちゃんと書いてあるから…ウンヌンカンヌン…」

 

…はあ? と思ったのは恐らく私だけではなく、皆がきょとんとして佇んでいました。

その「カード」に書かれてあったのは。

 

『作業終了済み

①休憩前は、自行程を必ず修了する

②休憩後は、自行程の確認をする』

 

…あの、これ、ここにいる全員が読めると思ってるんですか?

…しかも『自行程』って、何?

 

しらける私の前で、ペルー人の彼女はさらに眉をしかめ、首を突き出してカードを覗き込んでいました。

そうしたら!

 

「この人が一番分からんのだな、いつも! ペルーの、ミセスペルー!」

 

とまたもや彼女の肩を叩く真似をし、なぜか顔は私の方を向いて、わっはっはーという素振りを見せるのです。

 

私、怒り心頭…。

コノヤロウ…(怒)の思いを込めて、私はみんなに向かってゆっくりと言いました。

「休憩の前、終わったら、カード置く」

 

休憩時。

私は我慢し切れず、ペルー人の彼女に愚痴爆発。

「あのオトコ、ひどいね! あなたのこと、ミセスペルーだって! ちゃんと名前があるのに!」

「そうねぇ。でも私、分からなかった」

「私も分からなかったよ! 説明が下手なのよ!」

「なんで分からない、あなた日本人」

「日本人でも分からなかったよ、あなたのせいじゃない!」

「ほんとう!?」

 

そんなことをロッカールームでこそこそ話した後、昼食を食べに食堂に出ました。

そして彼女がお弁当を温めている間に、やかんの温かいお茶を注いでグビッと一杯。

「あなたも飲む?」と聞くと、

「それは多分、社員だけ」

「本当?大丈夫よ」

「あなたは日本人だから大丈夫。私は外国人だから怒られる」

「怒られたことあるの?」

「ないけど、怖い」

 

…そっか。

こんな風に壁っていうのは横たわっているんだな。

と私は納得しました。

 

きっと、その波平上司に悪意はなかっただろうし、差別しているなんても思っていないと思う。

もし自分が反対の立場で「ミスタージャパン!」と(同じ状況で)言われたら…なんて想像もできないんだろうし、想像してみたところで彼女たちの気持ちは分からないかもしれないとも思う。

実際その上司は、普段は外国人労働者の彼女たちに優しく接し、仕事がしやすいようにと細かい作業環境改善をしてくれているんだから。そう、あの『カード』みたいに。

 

ただ一つ、外国人とコミュニケーションする時のコツを、彼(もしくは多くの社員)は知らなさすぎるし、配慮してなさすぎて、実にもったいないなぁと思うのです。

せっかく皆さん優しい人たちなのに、喋る日本語が早すぎて(しかも無駄に多すぎて)分かりづらいんだもの。

 

それでも外国の人たちは、恐らく五感をフル活用して状況と命令を把握し、労働にいそしんでいる。朝礼も全く意味不明だと思うけれど、それはそれで朝礼らしくコトは済み、ノープロブレムなスタートを切る。

いやぁ~、これでよくトラブルや混乱なく回ってるなぁ~と、心底感心しているんです、私。

 

明日もまた、そのノープロブレムな職場を体験するために早起きします。

がんばっぺし。

 


派遣の旅に出た

2014-12-10 | 日本の旅

はじめての派遣、はじめての工場、はじめての単純作業…は、思いのほか楽しく、しかし思った通り、しんどかった。

でも今日の帰り、ブラジル人同僚に「立ちっぱなしでつらい!」と愚痴ったら、「当たり前ね!座ったら仕事にならないよ」と全うな返答をいただいたので、これ以上不満を垂らすのはやめようと心に誓った。

 

今日の作業チームは4人。

私を含む日本人が2人、ブラジル人が2人。に工場の職員が1人ついていた。

昨日は同じ作業を日本人2人とフィリピン人1人の計3人でやったのだけど、私以外の2人は早速辞めてしまったらしく、残る私が今日の新メンバーを率いる形になった。

やることは、パチンコ台の裏面にあたるプラスチック台づくり。

大枠の台に小さなプラスチック細工を取り付けたり、スチール板をビスで止めたり、それを梱包したりといったことを流れ作業でやる。私たちのチームは工場1階でそれを黙々と続け、2階では、別の作業チームがパチンコ台の表を飾るピンピカピンな部品づくりをやっているようだった。

 

工場には、私が属する派遣会社以外に、2つか3つの派遣会社から数人ずつが集められていた。

なので中には日本人も交じっていて、数でいうと劣勢なのだけれど、それなりに多様性の一翼を担っていた。

まぁ、多様性といってもブラジル人が最多で、次がフィリピン人、そして日本人という感じ。人種の比率は工場によって違うらしく、また、派遣会社によっても“何人が強い”というのがあるみたい。ブラジル人が多い私の派遣会社はブラジル人のAさんが送迎&申し送り役で朝礼に参加していたが、フィリピン人を多く連れてきている別の派遣会社は、いかにもフィリピンパブが好きそうな日本人男性が送迎係だった。


それで、仕事の中身はともかく、私はできるだけお友達をつくりたいなぁ~という下心で、何気に話しかけてみたり、輪の隅っこにいてみたりした。が、まぁそんな簡単に仲良くなれるわけはないので、長期戦を見込んで、あまり詮索しないように心がけています。

なんだけど。
昨日一緒になった日本人の派遣さんは、「ここ、なんか外人さんばっかやなぁ!」と目を丸くして、「何人なの?へぇ~可愛いなぁ。うらやましいわぁ!」などと積極攻撃に出てるやないですか。わぁぁぁぁぁ…と思って横で聞いていると、質問攻めにあっていたフィリピン人の子がスマホを出してきて子どもの写真を見せてくれたり、「夜はパブで働いてるね」なんて打ち明けてくれちゃったりもして、すげぇ…などと私は内心感心していた次第。

 

けれど基本的には、フィリピン人はフィリピン人同士、ブラジル人はブラジル人同士で輪をつくる。

休憩の時も、仕事の時も。

なので輪外の人には何を話しているのかサッパリ分からず、ちょっとやそっとの勇気では入っていけない。

しかも仕事中は全員がロボットになったみたいに真面目一筋になり、一言も喋らなければ表情も変えないというノンコミュニケーションぶり。いくら「私語はつつしみましょう」と貼紙がしてあるからといって、ロボットじゃないんだからさぁ…と言いたくなる。

 

でも、仕方ないのかなぁ。

彼らは恐らく社員が話す言葉自体を理解しているのではなく、その場の雰囲気とか、視覚的な情報で自分がどう動くべきかを判断しているんじゃないかと思うのです。

というのは、社員が説明する言葉遣いの難しいこと!

たとえば「最後はここを黙視して」とか、初めて仕事に来た外国人に「モクシ」なんて通じるんだろうか…?と私は一人でハラハラするばかり。大事なこと言ってんのに、通じてるような気がしないのは私だけか…?って。(しかも喋るの早いし!)

 

それでも彼らは、(たとえ日本語がたどたどしい人でも)ちゃんと言われた通りに動いているから驚いてしまう。

喋れないだけで聞けば分かる、ってことなのかしら。

だったら、むしろ日本人に対するのと同じように接する方が、フェアで良いということ…?

 

今日の帰り、フィリピン人のJちゃんが言った。

「別の工場はまた全然違うよ。ここはオジサンの社員が多いけど、若い人が多いところはもうちょっとイイ!」

 

そうか。

これから工場比較ができるようになったら、何か見えてくるものがあるかもしれないな。

 

ちなみに派遣バイトの時給は、人種や会社に関わらず950円のようだった。(これまた積極派の日本人派遣さん情報)

そこで派生する(もしくは一般的に派生しそうな)感情もまた、リアルに感じることができて感慨深い限り。

 

とにかく、しばらくがんばってみよう。

仕事はハードだけど、内容はそれなりに面白いし。社員さんも親切だし。

 

…そんな風に良きスタートを切れた、冬晴れの2日間でしたとさ。
(それにしても工場はめっちゃ寒かった!暖房意味無し!) 

 


朝鮮通信使を想う

2014-09-22 | 日本の旅

 

今日は旧東海道20キロ(8駅分!)をウォーキングしました。
「朝鮮通信使」という、江戸時代に数年に一度行われていた大行列の足跡をたどるイベント。

豊臣の時代に最悪になった日朝関係を改善すべく、徳川は、朝鮮半島から数百人規模のお客さんを招いて接待したのだそうです。

鎖国時代に唯一行われた国際交流。朝鮮ご一行様は、対馬から江戸まで何日もかけて歩き、道中の町々で厚い接待を受けたのだとか。きらびやかな衣装をまとった朝鮮通信使を、江戸時代の人々は憧れの眼差しで、こぞって見学に行ったそうです。


(東海道の途中にも朝鮮通信使の像が。)


調査も兼ねて始まったこのイベントは、約20キロずつ8回に分けて愛知県内を横断中。今日は6回目で岡崎宿~藤川宿まで歩きました。

全国何カ所かでも同様のイベントをやっているらしく、その全国ネットワークもあるんですって。


(カラフルな旗は、朝鮮通信使が掲げていたものの復元。この橋の先が岡崎藩!)


(途中で八丁味噌の工場を見学。せっかくなのでね…)


(100年もつというスギ樽に味噌をつけこみ、石で重しをしてました。こりゃ凄い)


(こうやって史跡を見学したり、大きなお寺さんを訪ねて旗にサインしてもらったり。当時は、100人以上の人が休憩&宿泊できる場所は寺院しかなかったそう。寺は公的な役割を果たしていたみたいです)


(法話の代わりに、合掌)


(今日はちょうど秋のお彼岸でした。真っ赤な彼岸花の中に真っ白バージョンも。)


(途中で地域解説をしてくださった鳥居さんは、地元でギャラリーを運営する画家さん。もともとは古墳に刻まれている模様を描いていたそうですが、日本の古墳は朝鮮がルーツだと知って韓国に通うようになったのだとか。ご自身も、純日本人だと思っていたけど遠い先祖は渡来人かもしれない…と、古来日本の歴史について話してくださいました。)


(休憩時には、主催者のお知り合いの方が梨の差し入れをくださいました。身体に染み込む…)


(こんな人形屋さんも発見)


(お地蔵さまにも見守られて…)


(ウォーキング日和な1日を充分すぎるほど堪能しました。)

ちなみに参加した方々は動機も職業もテンデバラバラで、「今日初めて」という人も私を含め何人かいました。
歴史好きな人、韓国好きな人、ただの飲み仲間だけど誘われて来たという人、在日コリアンの人、奥さんが日本人だというコリアンの人、研究者の人、その他もろもろ。

特に自己紹介するわけでなく、お互い何も分からずに歩き出したのですが、さすがに丸1日一緒に歩いていると仲良くなるもので、午後にはすっかり和気あいあいムードに。
帰りの電車では、逆にうるさいくらいの仲良し集団になっていました。 


(歩き終えてヘトヘトな私と、下見も含めて毎回2回も歩いているというチェボさん。)

 

政治的な外交がうまくいかないこんな時代だからこそ、日朝関係の改善を願うフツウの人たちが徳川公の精神に思いを馳せる。…デモでも抗議でもない、そんな静かな行進でした。

 


多文化教育のモデルを探す旅・序章

2014-05-27 | 日本の旅

その日まで、公立の小学校は、どこも似たり寄ったりだと思っていた。

学校教育に関するニュースには、明るい話題があまりないような気がする。教科書問題にしても、いじめ問題にしても、教育改革にしても、ニュースから受ける「学校」という場の印象は、「大変そう…」「大丈夫かしら…」「どうしよう…」そんな漠然としたものばかり。

だから、日本で子育てするのはイヤだなぁ~と、“タネ”のアテもないのに思ったりしていた。

 

その学校は大阪のど真ん中にある。

去年、外国にルーツをもつこどもたちを支援する日本語教室が大阪にオープンしたというニュースを見つけ、その学校の存在を知った。そこには「校長先生が地域の団体にSOSを求めたことがきっかけ」という説明が書かれてあった。

 

それはさぞかし困っておられるに違いない。

そしてその校長先生は、さぞかしアクティブな方に違いない。

そう思った。

 

その小学校は全校児童約190人のうち、42%が外国にルーツをもつこどもで、関係する国はなんと14にも及ぶ。一番多いのはフィリピン。次いで中国、韓国、ロシア、ガーナ、ルーマニア、インドネシア、ブラジル、アメリカなど…。

転入生も多く、中には日本語がほとんど分からないこどももいるという。

それで少人数制の日本語指導のほか、月に一度の国際学級や集会活動で国際理解教育を行っているのだそうだ。

 

ちなみに「外国にルーツをもつ」と表記するのは、中には日本国籍を有していたり本名が日本名の子がいるため。特別な配慮や支援が必要なこどもは、「在日外国人」に留まらなくなっている。

 

 
(校内には、各国語で書かれた貼紙が至る所に掲示してある)

 

それで、その「外国にルーツをもつこども支援」に真っ向勝負しているこの小学校の教育方針に、私はゾッコン惚れ込んでしまった。

 

まず、外国にルーツをもつこどもたちに必要なことは「アイデンティティの確立」であると掲げている点。

自分は何者か?という漠然とした不安を少しでも払拭できるように、自分の国のことを調べ、発表する時間を毎月つくっているという。それは一見、お手軽な国際理解教育のように聞こえるかもしれないが、限られた授業時間を割いて(しかも毎月!)先生方の指導エネルギーを注ぐには、それがこどもたちの成長に不可欠であるという確信がなければ続かないのではないかと私は想像する。

「たとえばフィリピンを知る集いをした時に、在日フィリピン人の方に来てもらってバンブーダンスを躍っていただいたんですよ。そうしたらフィリピンの子が生き生きと目を輝かせて喜ぶんです。こどもたちにとって、憧れの存在ができるというのは大きいですね」

と校長先生。その時のことを思い出しながら話す校長先生の目もまた、キラキラと輝いていた。

先生は更に、こどもたちの憧れを努力に結びつけられるよう、地区の生涯学習教室でこども対象のフィリピンダンス教室を開いてもらうことも望んでいるらしい。そうやってこどもたちの情緒は安定し、学習意欲が高まっていくという確信がそこにはあるからだ。

 

2つ目。

日本のことを好きになることも大切、ということで、和太鼓や琴、茶道などの日本文化体験も学校行事のひとつになっている。日本人のこどもたちにとっては「アイデンティティの確立」、その他のこどもたちにとっては「国際理解」になるのだが、そこに地元の大人たちが関わることで、単なる体験イベントではない住民同士の理解促進につながっているらしい。

 

というのも、これだけ外国にルーツをもつ人が多い地域だと、住民間で大小さまざまなトラブルが絶えないという切実な事情がある。

在日外国人の人たちの家庭事情も複雑で、女手ひとつでの子育てなど全く珍しくない。お母さんが夜間勤務の場合は、宿題を見てもらえないばかりか夜中一人で過ごすこどももたくさんいる。

 

そういった事情を勘案して、なんと、この小学校の先生たちは、始業時間までに遅刻欠席の連絡がないこどもを家まで迎えに行くという。

それを聞いて私はハッとした。朝9時過ぎに訪ねた時、校門から自転車で飛び出して行く若い男性が3人ばかりいた。こどもを送りに来た保護者かなぁと思っていたけれど、まさか先生が逆に迎えに行くところだったとは…。

 

学校がそこまでやるのには、もちろん理由がある。

「うちの学校は、生活指導について “スタンダード” をつくっているんです」と、校長先生は指を3本立てた。

 

1、あいさつをすること

2、時間を守ること

3、忘れ物をしないこと

 

「この3つは最低限守りましょう」と、こどもにも親にも徹底して伝えているのだという。

その心は。

「学校は学びの場ですから、まず、大きくなった時に困らないようにするのが大事な役目です」…と、言われてみればこれほど明瞭な答えはない。

 

だから、「遅刻はダメ」ということを先生が身を以てこどもにも親にも示す。

「忘れ物が多い」場合は親に学校まで来てもらい、持ち物の確認は親にも責任があることを説明する。

「親もどうしていいか分からない人が多いんですよ。そういう人に、いくら手紙を渡してもダメ、電話だけでもダメ。こっちは伝えたつもりでも、全然伝わってないんです。一番確実なのは、面と向かって話したり、一緒に選んだりすることですね」と校長先生は言う。

 

日本社会で生きていく上で、最低限必要なこと。

大人になった時に困らないように、今のうちに身につけておくべきこと。

学校がそれを教えるのは当然であり、それは回り回って日本社会全体のためになる―。 

校長先生のその強い信念は、惚れ惚れするほど明快で清々しかった。

 


(校長先生が朝礼で出すクイズ「ミスターYからの挑戦」もこどもたちに大人気)

 

社会も教育も、どんどん成果主義に向かっている昨今。教育現場でポリシーをもって働き続けることは、むしろ大きな苦しみを伴う時代になっている。

 

校長先生は、「学びの視点」という言葉を何度か口にした。

「教育とは、今日やって明日成果が出るものではない」、だから「そこに学びの視点があるかどうかを見極めることが大切」だと。

 

現状は、他の学校と同様(もしくはそれ以上)に厳しい。

日本語教育の先生が圧倒的に不足している中で、勉強ができる子への個別指導やフォローも怠るわけにはいかない。

こども同士のトラブルも、ないわけではない。容姿の違いをからかう子、習慣などの違いから喧嘩になる子…。一方で自分のこどもの学習ペースを心配する声もあがる。

 

そんな時はどうするか。

 

「現場では、トラブルは必ず起きます。それを予め防ぐことが大事なのではなく、起きた時にどう対処するか、それをきっかけに何を伝えるかが大切やと思うんです」と校長先生。

たとえば文化や容姿の違いをからかう子には、「違いがあることは悪いことか?」と問いかける。「○○君は、君が知らないこともいっぱい知ってるんやで」と。

 

日本語指導が追いつかない現状に対しては、ITタブレットの活用を研究中だ。物語の音読速度を調整できたり、知っている単語からイメージを膨らませられたり、一人の時でも対話形式の勉強が可能になったり…。そんな便利ツールがあれば、言語の理解が難しいこどもに限らず、障がいがあるこどもにも、単に勉強が嫌いなこどもにも役に立つことは間違いない。

 

そして校長先生は再び目を輝かせる。

 

「本来、こどもたちを点数だけで評価するなんてナンセンスなんですよ。うちの学校の子たちは、点数はトップでなくても、社会性の伸びはものすごいと思う」

 

そこには、こどもたちが互いに助け合ったり、学び合ったりしている場面を目の当たりにしている現場の先生ならではの自信があった。

それほど自分の学校のこどもたちを信じ、愛する先生に私は今まで出会ったことがない。

 

いつか私にもこどもが授かったら、こんな学校で、こうした先生のもとで、是が非でも学校教育を受けさせたいと強く思った。

 


(いろんな国籍の人が息づくグローバルエリア・大阪ミナミ) 

 

安倍政権は先月、建設分野を中心に外国人労働者を最長6年間滞在できる方針を出した。

それは災害復興とオリンピック需要が終わっても、次は福祉分野や農業分野で引き続き必要な労働力となる。有能な外国人女性が起用されれば、子育ても日本でと考える人が増えるかもしれない。

日本の学校教育現場は、確実に多国籍化すると山崎校長も予想する。

 

そのとき日本はどんな学校教育をし、日本の子にも、外国にルーツをもつ子にも、どんな学びを与えることができるだろう。

 

そう考えたとき、「この小学校が日本にあってよかった」と、私は率直に思った。

もしこのような公立学校が全国に増えたなら、その「多文化教育」で育ったこどもたちがつくる日本社会は、今よりもっと柔軟で包摂的なものになるんじゃないか?…と思うから。

 

そんな期待はあまりに淡く楽観的かもしれないけれど、そのためのモデルが既にあるのとないのとでは大きく違うはず。それに何より、私はそんな真のグローバル社会を見てみたいし、この小学校で育ったこどもたちが大人になる姿を想像するだけでもワクワクしてしまうのだ。

 

…とここまで書くと、きっと校長先生はおっしゃるだろう。「私たちの学校が完璧なわけではないですよ」と。

そのことも踏まえた上で、私は今後も各地の多文化教育を追いかけたいと思う。ワクワクするような近未来の教育モデルについて、「これだ!」という手応えが得られるまで。

 


福島ルポ ~それでも前を向く~

2014-04-12 | 日本の旅

先々月「月刊保団連」に寄稿したルポです。(一部匿名に変え、写真を大幅に増やしています)

取材は2013年11月~12月。

拙文ですが、福島の人達の声が少しでも伝わればと願って。

 

深夜3時過ぎ、白いライトバンが私を迎えにきた。京都で積んできたという野菜と大阪産のキムチ、アコーディオンに、運転手を含めて男性が4人乗っている。これから更に千葉で野菜を積み込み、福島に向かう。

Fさんがこうして福島に通い始めたのは20115月のこと。以来ほぼ毎月欠かさず、車いっぱいに野菜を積んで行くようになった。
私が同乗させてもらった去年11月は、通算27回目。仮設住宅を何カ所か回り、野菜をドサッと置く。あとはそれぞれのやり方で、自治会の人が中心になって平等に個人配布。

私たちは集会所に呼ばれて、タコヤキパーティが始まった。

「この前(大熊町にある)家に帰ったら、布団の上でムササビが死んでたんだよ」

「イノブタが急増してるんだよね、本当にどこにでもいるよ」

そんな会話が飛び交う中、男性の一人がアコーディオンを奏ると「待ってました!」と言わんばかりにリクエストが飛んだ。

ここは確かに福島の仮設集会所なのだが、見た目には全国どこにでもある公民館の、町内会か老人会といった感じだ。盛り上げ上手なおじさんがいて、テキパキと料理を運ぶ婦人たちがいる。和やかで、極ありふれた光景。

「この人達に、月に一回は会いたくなるんですよ。支援とかそういうことじゃない。僕は自分の思いで来ているだけなんです」とFさんは言う。

今回その現状を取材する機会をいただき、多くの人と出会い、笑い、泣き、怒りに触れた。
そして、それまで気になりながらも現場に足を運ばなかったことを、悔いた。

ある仮設住宅に暮らす81歳の女性が言った。

「辛いのはとっくに越した。お父さんと一緒にいれるうちは、それが心の支えかな」

凍える寒さの中、女性は背を丸めて私達の帰路を見送ってくれた。

福島に足を運ぶ意味が、私の中で少しずつ変わっていくのを感じた。

 


(野菜を積んだバンが到着すると、家の中から皆さんが袋を握りしめて駆けつける)


(千葉産の有機野菜は、農家の方がひとつひとつ丁寧に仕分けしてくれたもの)


■ ギリギリで生きている

「福島の人は、今、我慢の限界にきていると思う」と話すのは、鮫川村に住む進士徹さん。後述する子どもの自然体験事業『ふくしまキッズ』の実行委員長だ。
進士さんによると、ある仮設住宅では毎晩のように隣近所のいざこざが起き、110番通報しなければ収まらない事態が続いているのだという。

「よく“絆”なんていうけど、実際は生き地獄ですよ」と言う。

その深刻さを表す出来事は、私が取材する中でも起きた。

相馬市にある災害廃棄物の焼却炉で働く男性に話を聞いた時のこと。
40代の彼は、酒が進むにつれ「死にてぇ」と言葉を吐き捨てた。職場では休憩なしの過重労働で、少しでも手を休めると、管理室の窓越しにマイクで注意されるという。線量は高いはずだがマスクは着用しない。まるで奴隷のような気分になる。それに加えて、彼は父親の介護にも苦しんでいた。
そして私が取材させてもらった数日後に、自殺未遂をした。

前述のFさんは振り返る。
福島原発事故当初は、目が合うと咄嗟に顔を伏せる人が多く「まるで家族に犯罪者が出た人のような目」をしていたのだと。その茫然自失状態を少しずつ乗り越え、悲しみや怒りの感情を表せるようになって、ようやく原発問題に対して気持ちが整理できるようになってきたところ。
そこにきて、賠償金額の区別が住民同士を引き裂いている。

「もらってる人は億の額もらってるよ。仮設だって、姑が嫌だから自主避難してる人がいっぱいいるんだよ」

そんな声を何度か聞いた。ほんの一部の人に賠償金が集中している影響で、相馬市やいわき市ではパチンコやスナックが大盛況。職も選び放題なほど好景気。そして土地や賃貸物件が、東京並みに高騰しているという。

葛尾村の人達が暮らす仮設住宅で、支え合いセンター職員として働いている中島道男さんは、その異常な状況に危機感を募らせている。

「僕が住んでいる150人規模の仮設で、今、だいたい1割強の人がカウンセリングを要する精神状態です。その割合はどんどん増えている。今年は恐らく大変ですよ」

 


(至るところにオレンジ色に染まった柿の木が佇んでいた。誰にも食べられないまま雪をかぶる)

 

■ 仮設住宅で孤立させないために

集会所を訪ねた日は20人ほどの女性達が集まっていた。ちょうど若い母親に連れられて1歳の女の子が遊びに来たところで、どの人も顔をほころばせ、子どもを愛しそうにあやしていた。

この仮設の自治会長を務める松本操さんは、原発作業員の緊急時救助訓練を指揮した経歴をもつ、元消防の当直隊長だ。

「今、何が一番大変かって、“不安”なんですよ。少しでも皆が気持ちを楽にできる場をつくって、孤独にならないようにしないと」

松本さんは地域の安全を守るために、考えつくことを片っ端から実行してきた。たとえば仮設住宅の看板づくりや花壇づくり、講座、旅行、高齢者の安否を確認するための旗の設置など。
それでも孤立してしまう人が増えるのは、集団生活になじめなかったり、先行きが見えないために行動意欲を失ったりするせいだ。

中島さんは言う。
「心が貧しくなった人に必要なのは、心のごちそう、つまり希望です。それは誰かに与えられるんじゃなく、自分で取りにいけるようにならないと意味がない。そのためには、その人の話をひたすら聴き続けることです。時間がかかるけどね」

傾聴が必要な人、一人一人に向き合い、自ら立ち上がれるまで見守り続ける。それがどれほど根気の要ることか。

その日、集会所には40代後半の男性の姿があった。
彼は1年半もの間鬱状態が続いていたが、この日初めて酒を交わしに出て来たのだという。

「声をかけてもらえたのが、本当に嬉しいんです」

朴訥な口調で、彼は何度も2人に礼を言っては目頭を拭っていた。

どんなに道のりが険しくても、試行錯誤の地道な取り組みをあきらめないこと。その覚悟のようなものが、その場からじんわりと伝わってきた。

 

 
(集会所でお母さん達がつくってくれた豆腐の白和え餅。エゴマのような天然の実が入っている)


(松本さんに話を聞くワタシ。知らない間に撮られてました…) 

 

■ 迫られる自己責任と複雑な思い

福島市から郡山市にかけて放射線量を測りながら車を走らせると、所々で値がめまぐるしく変化する。たとえば福島県庁から国道4号線に出て、数km南下するまでの区間。私が携帯していたエステー製エアカウンターは、0.37~1.22μSv/hを彷徨った後、南向台小学校の校門前で0.81μSv/hを示した。
すぐ近くの横断歩道では、登校してきた小学生が補導員のおじさんとジャンケンをしている。マスクなど何もせず、全国どこにでもある朝の微笑ましい一幕と同じように。

私は激しく動揺した。
1μSv/hといえば、線量が高いことで知られる伊達市霊山と変わらないレベルだ。

「最初は外遊びを禁止していたんですが、子どもの体力低下を考えると弊害の方が大きいのかなと思うようになって…」

そう話してくれたのは、同じく福島市内で比較的線量が高いとされる野田町在住のSさん。小学5年生の娘を育てている。

「でも心から大丈夫と思って許しているわけではないんです。週末には家族で県外に出て、夏はキャンプ、冬はホテルに泊まっています。お金はかかるけど、うちは県外避難できないのでせめてと思って」

子どもの健康のためには、空間線量が低い地域に引っ越すのがベストだ。けれど一方で、母子避難がきっかけで離婚した夫婦が多いという噂もきく。また、これまでの習慣を厳しく制限したりされたりするストレスは、子どもにとっても大人にとっても並大抵ではない。

相馬市で2人の幼い娘を育てている女性は、その複雑な心境をこんな風に説明してくれた。

「結局、何も信用できないから不安になるんですよ。でも、だからといって心配しすぎてたら生きていけない。諦めじゃないんですよね、何て言ったらいいのかな、…気にはするけど、あまり考えないようにしてるっていうか」

福島の“普通”に見える光景は、私の目にはあまりに痛々しく映る。
「福島の人は大人しい」という意見を取材中に何度か聞いたが、それはつまり、SOSが聞こえにくいということではないか? 人々の芯の強さとは別に、確実にその声は存在しているのに。

 


(伊達市霊山から福島市に向かう途中の景色。ここでも子どもがフツウに外で遊んでいた)

 

■ 困難を乗り越える力を育む

Sさんが年に2回、娘を預けるところがある。
県内に住む小中学生を対象に、全国各地で自然体験キャンプを行っている『ふくしまキッズ』。今冬は北海道、福島南部、横浜、静岡、愛媛で230の子ども達を受入れた。

「このキャンプでは、たくさんの人に世話になることを大切にしています。自分の子どもには他人の世話になるなと教えてきましたが、それは間違いでした。世話になればなるほど、必ず感謝する心が育ちます」

説明会に集まった親達にそう力説するのは、事務局長の吉田博彦さん。
各地ではNPO法人のほか、公民館や婦人会、学生など様々な人が一緒に子ども達を迎え入れる。参加費は県外一律3万円。足りない分は支援金で補うが、当初から無料にしなかったのは「支援者と当事者が一緒に取り組む」ためだ。参加する子ども達には、全国に向けたメッセージを書いてもらうことで、福島の現状も発信している。 

「結局は自分を信じるしかないと思うんです。親として自分がしっかり勉強して、正しい情報を探すこと。でも限界はあるので、一緒に子どもを守ってくれる人達がいることが何より嬉しい。ここに娘を参加させることで、私の不安も解消されています」とSさんは言う。

子どもの変化に驚いている親も多い。
須賀川市に住むHさんは、2人の兄妹をこれまでに5回キャンプに送り出した。参加者の約7割を占めるリピーターの一人だ。

「キャンプから帰ってきたら、感謝の気持ちを口に出して言うようになったんです。もともと黙りがちな子だったのに、相手の話も聞いた上で自分の意見を言えるようになって」

代表の進士徹さんは言う。

「困難を乗り切る力は、できるだけたくさんの経験と見解を積み重ねることで育ちます。福島出身だからと引目を感じるのではなく、今こそ多くの人に出会って自信をつけてほしい。そして将来、正々堂々と生きてほしいんです」

 


(ふくしまキッズの参加説明会で挨拶する進士さん)


(説明会では、全国各地の受け入れ先団体が直接プログラムや注意事項を説明していた)

 

■ 土を耕し続ける

身のよじれるようなジレンマを抱えるのは、農家も同じだ。

飯館村で長く農業を営んできた高橋正人さんは、今も十日に一度は自宅に戻り、田畑の草を刈っている。
原発事故当時は85.1μSv/hあったとも言われる高線量地。現在、公式発表される飯館村の線量は2μSv/hほどだが、高橋さんの畑がある長泥は、常時3.5μSv/h以上あるそうだ。

仮設住宅で話を伺った日、高橋さんがぼそりとつぶやいた言葉が私の耳に重く響いた。

「田んぼさまに申し訳ねぇ…」

どんなに汚染されても、農地は耕せばセシウムが減る、だから耕したいのだと高橋さんは言う。これまで手塩にかけてつくってきた土を、そう簡単に見捨てることはできない。

一方で農地に関する本格的な研究は、二本松市東和で盛んに行われている。
もともと有機農業が盛んだったため、学会の縁で茨城大や新潟大など約30の大学が調査に入るようになった。そして微生物が豊富な粘土質の土には、セシウムを植物に移行させない効果があることが証明された。

事実、この地域の空間線量は0.21.2μSv/hあるが、『道の駅ふくしま東和』が独自に測定している野菜のほとんどはND(不検出)。検出方法や測定値、地域の状況についても、事前に連絡すれば職員が丁寧に教えてくれる。

この地域で農業を営む菅野瑞穂さんは、大学を卒業後、父の後を継ごうと就農した1年後に震災が起きた。当時23歳。東京の友人宅に避難して悩んだ末、戻ることに決めた。

「最初の1年間は不安の方が大きかったですけどね。ただ、それでも一歩踏み出さないと何も始まらないと思って…」

もちろん風評被害は深刻だ。イベント販売では、福島産だと分かって返品に来る人もいる。福島の人も、県内産を買わない傾向が依然強い。

それでも前向きになれる原動力は何かと尋ねると、「新しい出会いや夢があるから頑張れるんです」と笑顔が返ってきた。
将来思い描く自分の姿は、農業を通して都会と地方をつなぐこと。その思いは就農を決めた時から変わっていない。

「この地域の経過を自分の目で見たいから、放射能とも向き合うと決めたんです」

年に2回は自分の内部被爆量もチェックし、ブログや講演会で状況をアピールしている。主催する農業体験ツアーは、初年度の約50人から、去年は200人を超えるまでに参加者が増えた。

厳しい状況の中でも、消費者との輪は着実に広がっている。

 


(菅野さんのハウス。去年からイチゴをスタート。農業経営の模索がつづく)

 

■ 福島以外の人に働きかける

菅野さんが東京でアピールする場のひとつ『ふくしまオルガン堂』は、福島の食材だけを扱うレストランだ。去年3月、『福島県有機農業ネットワーク』が東京下北沢にオープンした。
店内ではほぼ毎週末イベントが開かれ、学生からサラリーマンまで様々な人が福島の現状を知ろうと集まってくる。私が訪ねた日は、新米パーティが開かれていた。

「福島に行くのは、正直、勇気が要りました」
と打ち明けてくれたのは、都内に住む30代女性。去年秋、菅野さんの農場に米の収穫に行ったという。

「でも、食べ物の安全を確認する行為は、自分達も引き受けないといけないのかなって。生産者に任せるばかりじゃなく、自分の足で見に行くことも大事だと思うようになりました」

また、相馬市やいわき市では被災地ツアーが人気を集めている。

相馬市の港近くで水産加工会社を再開している高橋永真さんは、仕事の傍ら、被災地ツアーの語り部を担っている。参加者は全国から、毎回3050人。福島の現状を知ってもらうのと同時に、観光によって地元の雇用を少しでも増やしたいという思いも切実だ。

「ほしいのは生き甲斐なんですよ。俺たちは、1日も早く普通になりたい。そのためには仕事をつくって、働ける人を動かすことです」

福島から東京や名古屋に戻ると、ネオンはあまりに眩しく、田園風景はあまりに穏やかで平和に映る。そのギャップに一瞬たじろぎ、次いで、疲れがどっと吹き出してくる。
双葉町に毎月一時帰宅している男性は、そのことを「時差ぼけしているような感覚になる」と表現する。まさにそんな感じだ。福島と福島以外の距離が、どんどん離れているような気がしてならない。

「助成金もどんどん減っていくしな。これからが正念場だ」と高橋さん。

福島とつながり続けようとする福島以外の私たちもまた、これからが正念場だ。私たちは「福島を忘れない」のではなく、「福島と一緒に乗り越える」ための新たな模索が必要だと思うから。

つないだ手を離さず、また、新たに手を伸ばす勇気が試されているように思う。

 


(相馬市の「はらがま朝市」。今も支援活動を続けているミュージシャンがライブをしていた)

 

■ フクシマを教訓に

状況の変化と共に、必要な支援は変わっていく。今はどのようなことが求められているのか。

たとえば田村市社会福祉協議会の今泉清司さんは、「帰還した後の住民の自立が課題」だと考えている。

「今は皆が近くにいて、少し歩けばコンビニもあって、ある意味便利です。けれど田舎に戻ったら、元の不便な環境に慣れるのにまた時間がかかる。私たちが個別訪問するのも今よりずっと難しくなります。なので1日も早く自立心を取り戻してもらえるように、皆を元気づける取り組みが必要だと思っています」

また相馬市では、小規模なコミュニティハウスづくりが進んでいる。
『一般社団法人 相馬報徳社』の渡辺義夫さんは、震災前は歯科技工士だったが、避難所での経験を経て地域づくりを行う団体を立ち上げた。

「相馬市は街中でも過疎が進み、核家族も一層増えました。なので声をかけないと人は集まらない。その対策は以前から必要だったんですが、震災によって拍車がかかったということです」

福島に限った問題でないのは、子どもの社会教育についても同じだ。
去年6月に立ち上がった『福島こども力プロジェクト』は、自然、スポーツ、アートなど様々な体験を通して、将来を担う人材を育成する。前述した『ふくしまキッズ』の他、対象年齢ごとに異なる複数の団体が参加している。

渡辺さんは言う。
「起きてしまったことは仕方ない。ただ、フクシマは未来のための教訓になってほしい」と。

それは原発事故や避難についてだけでなく、日本全国に共通する多くの社会的課題についても、福島に学び、共に解決の道を探っていくことではないかと私は思う。

 

■ 当たり前の有難さを見直す

今回、取材を通して出会った方々に、「あなたの今の心の支えは何ですか?」と尋ねて回った。
ある人は「一人で悩まずに済んでいること」だと答え、ある人は「感謝されること」だと答えてくれた。アンケートをとったわけではないが、10人中半数以上の人に共通していたのは、家族や仲間の存在だった。

普段は近すぎて、当たり前すぎて見えないことがたくさんある。

去年4月、『安達太良のあおい空』という詩集が出版された。著者の荒尾駿介さんは、二本松市に住む元獣医師。読者から「よく代弁してくれた」という感想が数多く寄せられているという。

中にはこんな一編が綴られている。

 

それが 気づかせてくれました
教えてくれました
平凡な 退屈な日常生活こそが
どんなに大切で 幸せだったのか
飽きるほど 退屈するほど見慣れた山河が
どんなに愛しいものだったのか

 

より多くの人に、一日でいいから福島に足を運んでほしい。
そしてそれは「支援のため」というよりもむしろ、自分自身の学びのためであってほしい。

福島に明かりが灯れば、それは必ず日本全体を照らす光になるのだから。

 

(終)

 


(取材させていただいた方々と、仮設住宅にて)


福島~それでも前を向く~リポ1

2014-01-03 | 日本の旅

去年11月から12月にかけて、3回福島県に取材に行きました。

その原稿を現在まとめているところなのですが、これがまた大量にあってなかなか上手くまとまらない…。

そこで、小出し先出し作戦ということで、少しずつこちらにアップしちゃいます。

福島の現状は、何千字という制限には収まらないもの。(しかも、より広く、少しでも多くの人に知ってもらいたいことばかり!)

ちなみにこういう別出しができちゃうのは、多分、(よくも悪くも)フリーランスの特権です。

 

とはいえ…、まずは手っ取り早く、取材直後にアップしたfacebook記事より転載しますね。^^;
(https://www.facebook.com/kanakijan)

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ふくしまキッズ☆ http://fukushima-kids.org/

 

about : 

福島県内在住のこどもたちを全国複数地域が受け入れ、保養や自然体験、生活体験などを提供する活動。

冬キャンプは、北海道2カ所・福島南部・横浜・静岡・愛媛の計6カ所です。

 

特徴(他団体との違い)は以下。

2011年当時から参加費を設定し、足りない分を支援金等でカバー。放射線からこどもたちを守るために、保護者と支援者(第三者)が一緒に取り組む活動であることを強調している。参加費は県外一律3万円。

・多団体で実行委員会を結成。受け入れ地の協力者も、団体から公民館、学生まで多岐にわたる。こどもたちは、「たくさん世話になる」ことで「感謝のきもち」が生まれるという。そのことは、帰った後のこどもたちに変化が顕著に現れると保護者さんの談。

・こどもだけで参加し、掃除、洗濯、調理などの生活を通して自立心を育むことも大きな目的。将来の福島を担っていける人材づくりを目指す。

・参加者は北から南まで全国の受け入れ先を選べる。(毎回同じところを選ぶことも可。人気の場所は選考あり)

・こどものメッセージを参加者全員が書き、受け入れ先に手渡す。そのことが福島の現状やこどもたちの現状を広く伝え、支援の輪を広げるもとに。

・応募人数が想定オーバーしても断らず、各受け入れ体制を必至で調整する。

・支援金の収支を徹底的に透明化し、保護者に説明。今年は支援金34,089,984円+参加費44,379,229円=収入約7500万円。支出は約4500万で、繰越金2600万円。(詳しくはHPhttp://fukushima-kids.org/2013年 予算概要/

・活動の目処を5年間とし、長期的には行政が継続するよう働きかけを行っている。民間支援が長期化することで、逆に「フクシマの子」が固定化する懸念も考慮。5年後のこどもたちの健康状態をみて継続を判断する見通し。

 

voice : 

昨日は福島市と郡山市で説明会。今日はいわき市で説明会を開いてます。

4人ほどの保護者の方にお話を聞いた結果を超簡単にご報告。

いろいろな不安はあるけれど、ふくしまキッズに参加することで不安が解消される。こどもを守るためとはいえ、親にできることには限界があるという不安。それを安心して任せられる存在があることが有難い。

最初は「避難のため」に参加させたけれど、今では「友達とのふれあい、コミュニケーション力をつけるため」という動機が大きくなっている。

もともと黙っちゃう性格だったのに、相手の話をちゃんと聞いて自分も意見も言えるようになった。こどもの成長を感じる。

こどものためにも有難いけれど、残される親にとっても有難い。普段は「草に触っちゃダメ」「××に行っちゃダメ」とピリピリしてしまうので、そうしたことからこどもも大人も解放される貴重な時間。

今は「外で遊ばない!」と厳しく言うことはなくなった(こどものストレスの影響が大きいため)けれど、心から大丈夫だと思っているわけではない。安心して遊ばせてあげられることがとても有難い。

お母さん同士は、顔の知れている近所の人ほど本音で話しにくいこともある。ママ会など小さなものはあるけれど、それらを繋げられる人は既に県外に避難しているので大きな輪にはなかなかならない。ふくしまキッズで知り合ったお母さん達といろいろな不安を話し合えることで、少しラクになれた。

 

vision : 

ふくしまキッズに参加できるこどもは小中学生。現在、その前(幼児期)やその後(高校生)も幅広くカバーし、継続して成長を見守れるように、県内の他団体と連携していく動きが出始めています。(福島こども力プロジェクト:https://www.facebook.com/fukushimakodomoryoku

あるいは、福島のこどもたちが日本を引っ張っていく未来も描けるのかも。

乞うご期待☆