アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

家族の意味を知る。

2008-04-29 | ボルネオの旅(-2009年)
ここボルネオ島に来て、新しい家族ができた。

といっても、結婚したわけじゃない。

父さんは数年前に公務を退職して趣味のリサイクル等に明け暮れている。
母さんは中学校の現役校長。早朝から深夜まで忙しそうに動き回っている。
兄弟は5人。
一番上と四番目は、仕事と学校のため首都のクアラルンプールに住んでいる。
二番目の兄貴はジャングルの中。自分達の母語・クラビット語の辞書をつくっている。
三番目は私より二歳年下の弟で、年齢も顔立ちもスタイルも驚くほど実の弟にそっくり。大学の事務を仕事にしている。
そして末っ子が唯一の妹。高校生ながら母さんに変わって家事を完璧にこなし、それでいて兄貴たちへの甘え方もパーフェクト、という尊敬し得る愛しい妹だ。

ちなみに私の名前はキジャン。
友人が付けてくれた、クラビット族の名前。


ホームステイのお客さんだった私は、いつの間にか彼ら家族の一員になった。
家族の仲間入りをさせてもらった。

そして少しずつ、その意味や今まで感じることのなかった大切な感情を、彼らと過ごす日常の中でじんわりと学びとっている。


   +++++++++++++++++++++++++++++


「コミュニケーション」という言葉。
日本語に訳せば「会話」だけれど、もうちょっと英語のニュアンスを含めれば「交信」の方が近いような気がする。

私の苦手とするところ。

いや、正直にいえば、今までは得意だと思っていた。
実際、誰とでも話ができる。すぐに仲良くなれる。プライベートでだって友達はたくさんいる。

だけど、唯一苦手な相手があった。
それが自分の家族。
特に両親とは、反抗期が始まった若かれし頃から未だに上手く話ができない。
フツウに話をしようとしても、なかなか上手くいかない。

なんでだろう?と、ずっと思っていた。
原因はいくつか思い当たる。

私が幼稚だから。大人になりきれていないから。幼い頃に両親が仲良くなかったから。元々あまり話をしないから。両親が忙しくて話を聞いてもらえなかったことがトラウマになっているから。そもそも話をしたいと思えないから。

そして結局到達するところは、そんな自分の幼稚さを嘆き、両親を恨む醜い感情だった。



ここにきてようやく学べていることはそういうことだ。

「コミュニケーション」とは単なる言葉のやりとりではない。
お互いが心を開くこと、そのものだ。

「家族」というのは、そういう状態を完全に無条件で受け入れ合える間柄のことで、つまりだからこそ、自分が最も自分らしく居られる大切な場所(であるべき)なんだろう。


幸運にもマレーシアで得た私の家族は、別にこれといって私に優しくしてくれる訳ではない。
彼ら同士もまた、フツウに喧嘩をし、不平を言い、そして食事を共にし、フツウに笑い合う、きっと何ひとつ特別ではない、どこにでもいるフツウの家族。ただただ私という一人の日本人を受け入れ、また彼らのありのままを隠さずにさらし、君もそのままでオッケーだよ、とその一部として存在を認めてくれている。そのことがどんなに有難く、居心地がいいか―。


改めて思う。
「家庭を築く」ということは、お互いが心を開き、受け止め合える関係をつくることだ。

家族同士の会話や、スキンシップや、家族旅行はそのためのもので、単に多くの時間を共有すればいい、という安っぽい話ではない。だから簡単に心を開けないタイプの人は、きっとそれなりの努力をするしかないんだと思う。自分の「家庭」が欲しければ。



・・・ということは、どういうことだ?

私は自分の本当の家族に、心を開いていると言えるのか?

私を含めた家族の誰か一人でもが、今までにそういった努力をしてきたか?



会話が上手くできないのは、きっとそれが問題だ。
私は家の中で、頑なに心を閉ざしている。


一体どうしたらいいんだろう?

その答えを、私はマレーシアでの生活の中で見つけようとしているのだ。
それは簡単に言葉にできるようなものではなく、“なんとなく” 分かるような分からないような、まさに雲を掴むに等しい話なのだけれど、彼らの何気ない会話を聞いているうちに、相手の存在を認めることとか、自分が気に入らなくても許し合えること
とか、フツウでいることと自分勝手とは違うこととか、とにかく “なんとなく” そういった感覚を学んでいるのだ。

だけどもはや、いつまでも学んでばかりはいられない。
あとは実行あるのみ。
自分から心を開くことは容易ではないけれど、今なら、幼稚な私にもやればできるような気がする。

それはきっと、他でもない自分のため。
自分が自分を失わずに、いつも自分らしくあり続けるためだ。


がんばれ、自分。







「コミュニケーションが下手くそだ」と言われる現代の日本人。
暴力や殺人に露呈する「家庭」の問題も甚だしい。

本音と建前を使い分ける古き良き伝統とは別に、「コミュニケーション」の研究や教育がもっと盛んになってもいいんじゃないかと思う。それはきっといろんな事柄のすごく根本的な問題で、特に近所付き合いや親戚付き合いが少なくなってきている今の日本では、それらに代わる学びの場がもっともっと必要なんじゃないだろうか。

「建前のコミュニケーション」じゃなくて、「本音のコミュニケーション」。

本当の自分をどうアピールするか、そして相手の本音をどう受け止めるか。


いつか自分の家庭を築くときには、家族皆が心を開き合えるような、良い関係をつくろう。
マレーシアで学んだ “なんとなく” の感覚を思い出しながら。



オイルタウン・Bintulu

2008-04-23 | ボルネオの旅(-2009年)
サラワク州の州都・クチンと第二の街・ミリとのちょうど真ん中くらいに、ビントゥルという街がある。
ミリから長距離バスに揺られること約3時間。

そこは、石油会社・シェルが大規模に開発を手がけている、オイル産業の一大スポットだ。

その様を一目見たくて、私は一人、早朝の格安バスに乗り込んだ。
価格はミリから30リンギット(=約1020円)。3時間なら悪くない。





到着して市街地をぐるっと眺めた。

・・・想像していたよりつまらなさそうな印象。

コンクリート造りの同じような建物が並ぶ街並は、昔からこの辺りを牛耳っているんであろう華僑のにおいをプンプンと漂わせ、近くを流れる川や、その川辺にあるマーケットも、どことなく乱暴で煩雑とした雰囲気を持ち合わせていた。

「向こう岸に行くには、どうしたらいいんですか?」

川の向こうに、大量の丸太が積み上げられているのが見えた。

“とりあえず、行くっきゃないだろ。” 
そう思った私は、岸辺にいた見知らぬ人に船着き場の在処を聞いて回り、ようやくたどり着いた乗船場で客船をチャーターすることに成功。約10分間のチャーターで20リンギット(=約680円)という安さで船を独り占めすることになった。







伐採した木材の製材所は、見渡せる範囲で3ヶ所あった。いずれも川岸。

熱帯雨林から船で運ばれた丸太は、大海原に出る前にこうして加工されるらしい。
そしてそれら製材所に挟まれるように、この辺りに元々住んでいるマレー人の村があるのだった。


つまりそれはこういうことを表していた。

街をつくりあげている華僑(市内に住む人口の90%以上は中国人だという)が、 オイル産業や伐採企業らと共にこの地域経済の中心にいて、元々住んでいたマレー系の人たちは、未だ近くの村で川に依存した生活を送っている。
伐採のために茶色く濁った川辺で魚を獲り、育てた野菜を市内で売り、この地域自体はオイルマネーで潤っているはずなのに、彼らの村や生活が発展することはない。


翌日、私は そのKampung Jepakというマレー系住民の村を訪れるため、対岸に上陸した。






そこには、市内とは一転して穏やかな景色が広がる、とてもチャーミングな村があった。

行き交う人たちは、見慣れない顔の私に笑顔を向け歓迎してくれる。
溢れる緑、カラフルな家、青く広い空、ゆったりと流れる空気、朗らかに笑う村人たち、そして外から来た人間を受け入れるだけの余裕と、その中で感じる居心地のよさ。

Bintuluというこの街ははまるで、どんどん移り変わっていく世界経済の歯車と、それによってどんどん取り残されていく人々の生活とを上手く並べて絵に描いたような場所だな、と私は思った。

大きな川で隔てられたその対比は見事なもので、例えばこの川を毎日船で渡って学校に通う村の子どもたちや、街に働きに行く大人たちや、買い物に出かける若者たちは、一体どんな気持ちで街の発展を眺め、どんな気持ちで村に帰ってくるんだろう・・・。そんなことを想像したりもした。







ところで肝心のオイル・ステーションは、市内から村の反対側にタクシーを走らせること約30分。
メタリックなガス灯からオレンジ色の火を吹いている工場みたいなところが、LNGと呼ばれるシェルの一大オイル基地だ。

数年前までは丘の上から全貌が見渡せたらしいのだが、今は立ち入り禁止になっていて残念ながら丘に上ることはできない。それでもできるだけ工場に近づき、初めて見る石油の生産基地をこの目でしかと確認。
・・・だから何だ?という話ではあるが、自分の日常生活で最も頻繁に使っている石油の元に一歩でも近づけたかと思うと、何となく “見てやった!” 的なプチ満足感に浸れたりするのだった。





ビントゥルでは、更に郊外にある小さな村の近くで、数年後からアルミニウムの精製工場が始動することになっている。

帰りのタクシーの運転手によると、さすがにアルミニウムの精製には華僑(中国人)市民も反対らしく、深刻な公害が起きないかが懸念されているのだとか。


“つまらない” 街だと思ったビントゥルだが、これから郊外の村々がどう変化していくのかは注目されるところだ。

是非、何とか、村の人たちの笑顔が消えてしまうことだけはないように願いたい。



カリマンタン行った~!!!

2008-04-18 | フィリピンの旅(-2009年)




ところで国内の移動につかう飛行機ですが、今までで一番小さいのに乗りましたよ。


5人乗りのセスナ!



怖ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ・・・・・



パイロットはアメリカ人の若いお兄ちゃんで、一度軌道にのればパイロットは意外と暇らしく、上空では始終ヘルメットを外して隣の乗客と話してました;


ちなみに上空から見える田んぼみたいな広大な土地は、輸出用のエビの養殖です。
もちろんビッグマーケットは日本。
この辺一帯を覆っていたマングローブを切り開いて、カリマンタン島の沿岸にず~っと続いているんだそう。・・・パッチワークみたいな水面がとってもキレイな反面、複雑な気分になりました。
取り急ぎ失礼。



ホームステイにしませんか?

2008-04-14 | ボルネオの旅(-2009年)
ボルネオ島の北部・サバ州は、キナバル山をはじめ何かと観光資源が豊富なところだ。

そこで、観光旅行の際のおススメ情報をひとつ。

ボルネオを訪れるなら、宿はホームステイにするといい。
観光に力を入れているマレーシアでは、民家に泊まって生活や文化を丸ごと体験できる「ホームステイ」に力を入れていて、個人で看板を上げている宿のほかに、国家プロジェクトで4つの地域が支援されている。


私が訪れたのはそのうちのひとつ。
サバ州の首都・コタキナバルから車で40分ほどのところにあるPAPAR(パパー)という町。
その一角にあるコミュニティで、6年前にホームステイプロジェクトは始まった。





ホームステイというと、外国人を一般家庭に招いて数泊の間面倒を見る、というのが日本でのイメージだが、ここでは「ホームステイ=民宿」の意味合いだ。
つまりホストファミリーはいつでも宿泊客を受け入れられるように部屋や観光プログラムを用意していて、ただホテルと違う点は、その地域ならではの家庭料理が食べられること、そして家族との会話を楽しめること。

更にPAPARでは、ひとつの家庭だけではなく複数の家庭が一緒に客をもてなす “地域ネットワーク” もつくられていた。


日本でも同じようなニーズがボチボチと高まっているところ。
“田舎暮らし体験” や “農業体験” “グリーンツーリズム” の先には、民家に泊まってその土地の人と触れ合うことが期待されているし、農水省も田舎の活性化につながるとして、その受け皿づくりに力を入れている。


けれど、「地域で客をもてなす」というのは一体どういうことなのか・・・?

英語では「Community Business」と呼ばれるその具体的な取り組みを、私はここPAPARで初体験することになったのだった。





まず私が宿泊した家は、ここの地域ネットワークのコーディネイターを務めているウィリアム家。家主である彼が、この地域全体のホームステイ客の誘致と割り振りを行っている。

各ホームステイ先の家族はオペレイターと呼ばれ、必要に応じて会議が開かれたり役割分担されたりする。
そして集落の中心にあるインフォメイションセンターでは公式なイベントが開かれる他、集団で訪れた観光客への文化披露なども行われるという。


私が宿泊した1日目の夜。
ウィリアムが近所のオペレイターを夕食に招き、大勢での即席歓迎パーティの開きとなった。

ウィリアム家は仕事を退職した夫婦2人だけだが、他のオペレイターが家族を連れてやってくることで子どもから大人まで様々な顔が揃う。
この辺りにはどんな人が住んでいるのか、どんな近所付き合いをしているのか、地域のことをまだ良く知らなくても、彼らの表情や話し方を見ているだけで一気にその地に深く入り込めたような気分がする。

そして、この地域の主要民族であるKadazan(カダザン)族の衣装を着て写真撮影。
黒くてごついキツキツの布地にカラフルな刺繍、頭には農作業で使う菅笠のような素朴な帽子をかぶり、皆にはやし立てられながらご近所家族の若い息子さんとツーショットを撮ったり・・・。

こうして地域の人たちの顔を知り、彼ら同士の絆を見て、さらにKadazan族の文化を体験することもできるのだ。




そして3日目の夜。
再びオペレイターの家族や近所の人が集まり、今度は伝統食のSago(サグ=ヤシの一種)やココナッツを使った料理と、民族ダンスの披露が催された。








ちなみにこの Sago というは白い粉みたいな形で売られていて、それをお湯に溶かして練り、スープに浮かべて皿に盛られる。味は淡白で「美味しい!」という感じでは・・ないが、まぁ、こうした質素な食事が伝統なんだな、ということを舌で理解することができる。
ちなみにちなみに、ココナッツの内皮を削って焼いたものも、まぁ、「美味しい!!」という感じでは、残念ながらない。





ところでこうしたサプライズはどうやらプログラムのひとつとして用意されていて、どこかの家に客が来れば皆が協力して文化体験を提供することが、この地域の売りでもあるようだ。
そしてその収益は地域コミュニティの収入として還元され、メンバー同士の結束を強めていく。

またコーディネイターのウィリアム氏は、観光客にひとつのホームステイ先だけでなく複数の家に泊まってみることを勧め、各オペレイターにお金が回るよう配慮していた。
それは文化体験でいろいろな人の顔を見れるからこそできることで、観光客にとっても、次は誰々の家に泊まってみたい・・とリピート率を上げる結果になる。

実際、次はダンスを教えてくれた若い家族の家に泊まろう~♪と、近々再びPAPARを訪れる約束をしている私・・・。

「地域を知る」ということは、「地域に住む人を知る」ということだ。
そしてそれが最も観光客の心に印象を残し、“また来たい” と思う原動力になるのだと思う。





PAPARを訪れる日本人観光客は年間100人ほど。その一部は何度も足を運んでいるリピーターだという。
この地域の人が日本語を話せるわけではなく、旅行代理店が宣伝しているわけでもない外国の田舎町に、毎年100人の人が訪れているのだ。


ボルネオ島にいらした際にはホームステイにお泊まりなさい。
近所付き合いや親戚付き合いが希薄になっている日本で、ここを訪れる日本人観光客の多くが深い感動を味うことを、私が保証いたしましょう。

そして日本でも、人のつながりに感動できる温かいグリーンツーリズムが広がるといいなぁ。

・・・田舎にできることは、まだまだあるんだ!


ジャングルでもインターネットを!

2008-04-08 | ボルネオの旅(-2009年)
少数民族が暮らす小さな村にエコツーリズムを!という目的で各地域を巡回している、私たち「The Heart of Borneo」プロジェクトチーム。

しかしもっと具体的に説明すると、まず目標として掲げているのは、各地に「テレセンター」という名の情報拠点をつくることだ。つまり、インターネットができる場所を村の中心につくろう、というわけ。


・・・え?
 どうして昔ながらの生活をしてる人たちにインターネットが必要なの??

とつい思ってしまいがちだが、なんとその意外性こそが “ポイント” なのであります。


つまりこういうこと。

ジャングルの中に人知れずたたずむ小さな村ほど公的サービスや教育が行き渡りにくく、“時代遅れ” な感染病や不衛生な生活環境を改善できずにいる。
 ↓ 
衛星を使ったインターネットで外界とのつながりができれば、村の人は容易に情報を得ることができる。
 ↓
政府も保健/教育などの公的支援をしやすくなる。

                  というわけだ。


インドネシアのMalinau(マリナウ)という村で活動しているWWFのドイツ人スタッフは言った。

「ウチの優秀なスタッフの中にも、一体どうしてジャングルの僻地にインターネットが必要なのか、このプロジェクトのメリットを疑う人がいるわ。そういう人にはこう言ってやるのよ。もし、私が村の人とコンタクトをとらなきゃいけないときに、いちいち手紙を書いて、それを届けてくれる人を探して、一日かけて届けてもらって、更に一日かけて返事をもらう、そんなこと今どきやってられる?ってね。」





10年ほど前、Barioに変化をもたらしたのが「テレセンター」だった。

「eBario」という名のそのプロジェクトでは、村の中心にインターネットカフェのような部屋をつくり、事務所を構え、政府筋を呼んでセレモニーを開き、その延長線上で少しずつ観光客用のホームステイが整備されていった。
今ではヨーロッパを中心に口コミでBarioの名が広がり、村で観光客の姿を見ることは全く珍しいことではない。
(観光客は年800人ほど。私が訪れたホームステイ先で月平均10人ほどで、2週間の滞在中に村で出会った欧米人は5人だった。・・・商店街さえないような小さな村での話である。)


同じくサラワク州でジャングルの真っただ中にある村 Meringau(マリンガウ)。
テレセンターはまだなく、まさにこれからその設置にむけて調査が始まろうとしている。

「村一番の問題は貧困です。コミュニティ全体がとても貧しいのです。」

退職後に村に戻り農業を始めたDavid氏は言った。

「小学校は近くにありますが、それ以上になれば若者は街に出て教育を受け、仕事を探します。勉強せずに仕事にありつけなかった落ちこぼれだけが村に戻り、酒を飲んではたむろするようになっているのです。」

村にテレビのアンテナはあるようだが、実質、主な情報源はラジオのみだという。
私が村に到着したときにも、10人ほどの若者が何をするでもなく教会の前にたむろし、外国人の私を物珍しげに眺めては手を振っていた。





このプロジェクトの主要メンバーであり、僻地での観光ホームステイを研究・推進しているDr. Roger(ロジャー博士)は言う。

「昔はリッチな人がインターネットを使うことができた。でもこれからはその反対が大事なんだ。つまり、リッチになるためにインターネットを使う。特に情報が乏しいこういった僻地では、健康面でも収入面でも文化を受け継いでいくためにも、インターネットを導入して、さらに使いこなせるように村人をトレーニングしていくことが必要なんだよ。」



都市部を中心に全てが発展してきた陰で、農業や環境や文化といったアナログな分野では、どの地域でも多くの問題が負の連鎖によって悪循環をくりかえしている。
特にジャングルに囲まれた僻地では、特有の文化が残る一方で、村自体の存続さえ危うい状況に追い込まれている地域も少なくない。

David氏の言葉が胸を突いた。
「私たちは村の回りにあった森を奪われ、河を汚され、獲物もいなくなって、代わりにもらったものはトラックが走った後の埃だけです。」



連鎖を好転させるには、どうしたらいいのか?

インターネットやテクノロジーに少しでもその可能性があるとしたら、それらが成熟しつつある今こそ、まさに時代の変わり目に違いない。
森林の伐採や生物資源を利用する代償に、政府や企業がインターネット環境を整備すること。もしくはNGOなどがそれを支援すること。それによって村人が、今の時代に必要なIT技術を身につけ、自ら仕事を生み、外界から公的サービスや人を呼び寄せることも可能になること。・・・それは間違っても “マイナス” じゃない。



モノゴトは少しずつゆっくりとシフトする。
10年前にスタートした「eBario」でも、インターネットへの接続は未だあまりに遅くて居眠りできてしまうほど。
・・・根気強く、少しずつ、あきらめずに続けることが大切なんだろうと思う。

そうして、村に住む人々が、少しでも希望をもって自分たちの生活や文化を受け継いでいってほしいと祈っている。



ちょこっとINDONESIA☆

2008-04-07 | フィリピンの旅(-2009年)
予期せぬ旅・・・とは、つまりこういうこと。

“なんだか危なさそうだから今回はやめておこう。。。”
そう思って旅のルートから外した国が 「インドネシア」 だった。


マレーシアのサラワク州からサバ州に北上し、更に飛行機を乗り継いで西海岸から東海岸へ移動する。そこには Tawau(タワウ)という港町があって、インドネシア行きの船に乗り継ぐことができる。
向かうは、カリマンタン。インドネシアでも田舎中の田舎に値する。


コトの始まりは、Barioで出会った John Trawe という男性だった。

『ボルネオ―カリマンタン島に点在する少数民族の村々に、エコツーリズムを導入・推進する』というのが彼のプロジェクトで、そうした僻地に観光客を呼び込むことで、少数民族が抱えている経済的な問題や人口減少の問題など、様々な困難を改善するのが目的だという。
スローガンは『Peoples of the Heart of Borneo』。
ボルネオの心臓に当たる人たち―。

このプロジェクトのちょうど調査時期に私は運良く居合わせることができた、という訳だ。


と、そんなわけで村巡回の旅は始まった。

TAWAU に到着してまず驚いたこと。

・・・行き交う人々の「顔」だ。

いや、皆がそうなわけではない。けれど、たまに見かける人の顔ぶれが 、つまり“原始的” なのである。
横にでっかい鼻、色黒な肌、深く刻まれたしわ・・・・・。生物か歴史の教科書に出てきそうなその顔立ちに、私は失礼ながら目を丸くして(しかも恐らくちょっとにやけ顔で)まじまじと見入っていた。

ところ変わればこんなにも人相が変わるものか・・・。
TAWAUはまだマレーシア内だが、商売に来るインドネシア人も相当に多く、特に港の近くはまさに “混沌” とした活気があふれていた。





ところで、日本人がインドネシアを訪れるには、観光ビザを取得しなければならない。
日本から直接渡航するなら旅行代理店に頼むか大使館に申請すればよいのだが、外国からインドネシア入りする場合には、滞在国にあるインドネシア大使館(または領事館など)でビザを申請する必要がある。インターネットでは「インドネシアのビザは空港で取得可能」との情報が載っているが、どこから何で国境を越えるかによって状況は変わってしまう。

私の場合、TAWAU港でチケットを買う際にビザの提示を求められ、インドネシア人らしい若い男に、タクシーで5分ほどのところにあるビザ発行所に連れて行かれた。(彼は英語はほとんど通じず、Johnが交渉してくれたおかげで信頼できるに至ったが、私一人だったら果たしてどうなっていたことだか・・・。)
発行所の人の話では、他の地域からカリマンタンに入る際には、コタキナバル(サバ州の州都)またはクチン(サラワク州の州都)でビザ申請をしないといけないらしい。





そしていよいよ、国境超えの高速船に。

出国手続きを済ませ混雑する人ごみを抜けると、小型船がひしめき合う船着き場が目の前に広がる。色の黒い、やせた感じの男たちが、いかにも重そうなかばんや段ボールを2つも3つも肩にかついで、次々と船に乗り込んでは別の荷物を運び出している。

ここでは「荷物運び」がひとつの職業みたいなもので、客を乗せたタクシーやバスや船の到着を待ち構えていた男たちが扉が開くと同時にどっと押し寄せてきて、何だかよく分からないうちに何人ものそうした男に取り囲まれてしまう。しかも彼らは、一体どこからそのエネルギーが湧き出るのか不思議なほど威勢がよく、細い足腰に似合わず馬力たっぷりに軽々と荷物を持ち上げるのだった。

私みたいな外国人にとって、それは確かに “怖い” 感じがする。
何をしゃべっているのか分からないし、金目のものを狙われているような気がするし、第一「荷物を持ってやるから金を払え」というのは全くの有り難迷惑だ。

けれど、そういう状況に身を置いて、彼らの表情を観察し、自分が裕福そうな外国人であることを認識し、また彼らの “有り難迷惑な” 商売のやり方に慣れてくると、まぁ、それはそれでご苦労さんだな、と思えてくる。

このエネルギーが別の仕事に活かされれば、国の発展も容易に成し得れそうなものなのに・・・。
そんなことも、ふと考えたりする。


私はぼうしを深々とかぶり、背筋をピンと張りながら足早にJohnの後を追った。
が、後ろを振り返ればなんと、Dr.Rogerがデジカメで写真を撮っているじゃないか!
・・・・・え!いいの!?

ということで、“危ないかもしれない” と様子を伺っていた私だが、細心の注意を払うことを念頭に、カメラを持って船の周りをぶらつくことにした。



出会ったのは、人で溢れ返る港の風景と穏やかな海、そして船の裏側でのんびりと出港を待つ船員たちだった。

「日本人か? 何? 独身なのか? ちょうどコイツらも募集中なんだよ、ガハハ。」

年配の船員がやってきて、私の周りにいた若い船員たちをからかう。
専門学校を出たばかりだという20代前半の若い船員たちは、英語は通じないものの、皆ほがらかな笑顔で私を迎え入れてくれていた。

「日本は、あれだな、ス・・マ・・」
「・・・相撲?」
「そう、スモー!こうやるんだよ、ガハハハハ。」

相撲取りの真似をする陽気なおじさんの姿にどっと笑い声があがる。

「インドネシアもいいところだよ。カリマンタンの他にも、ジャワもスマトラも全部インドネシアだ。バリには日本人もいっぱいるしね。」





こうして、硬くなっていた私の心はホッと息を吹き返す。
どんなに危険そうな地域にも私たちと同じようにそれぞれの生活を営んでいる人々がいて、どんなに怖そうな人でも話をしてみなければ分からない温かさやユーモアを内に秘めている。

それを再認識するために「旅」をするのだ、といっても過言じゃない。
人に出会い、温かさに触れ、いつの間にかガチガチに固まっていた自分の固定観念や偏見が崩れ落ちる瞬間こそ、「旅」の醍醐味を味わえるのだ。
・・・そのためには、ちょっとした勇気が必要だけれど。






TAWAU港を出た高速船は、カリマンタンのTARAKAN(タラカン)という島に到着した。
寄ってたかる荷物持ち志願者の群れをくぐり抜けて、入国審査を無事済ませ、ホテルにチェックインし、近くの通りをぶらぶらと歩いた。

立ち寄った食堂でナシゴレンを頼む。
インドネシアといえばナシゴレン、くらいしか私には分からない。

「TAWAUから直接着たのね?だったらいいわ。NUNUKAN(ヌヌカン)を経由するととっても危険だから、かばんを常に抱きかかえてお金は靴の中に入れておかなきゃいけないのよ。気をつけてね。」

軒先にある調理場から、中国系らしい若い夫婦が片言の英語を一所懸命たぐりよせながら教えてくれた。
近くでは2人の娘が遊んでいる。

私はなんだかホッとした気持ちになって、注文したナシゴレンを一気にペロリと平らげた。





良き出会いと紙一重にある旅の危険―。

それでも、ピンと背筋を張りつつ「出会い」を求め続けることだと思う。
もしくはその判断力と柔軟性を鍛えるのが、「旅」なのかもしれない。


・・・いつか、もっとちゃんとインドネシアを旅しよう。
テロやら鳥インフルエンザやら良くないニュースが多い国ではあるけれど、代わりに私の心にへばりついた「偏見」という名のでっかい鱗を、爽快なまでにすっきり剥ぎ落としてくれそうな気がするから。




それにしてもナシゴレン、美味しかったなー。

言葉を守る。

2008-04-05 | ボルネオの旅(-2009年)
Kelabit Highlandと呼ばれるエリアは、ボルネオ島サラワク州の北東に位置する。ちょうどインドネシアとの国境に近いエリアで、昔は民族争いや領土争いが頻繁に起きていた。

ここ一帯に住んでいる Kelabit(クラビット)民族は、人口5000~6000ほどの少数民族で、20以上の民族が共存するサラワク州の中でも決して多い方ではない。


私がお世話になっているホームステイ先のLaban家では、母親のLucyと息子のLianが、自分たちの血筋であるKelabitの言葉を記録し、後世に伝えるプロジェクトを立ち上げている。Lucyによれば、学校の教科に入っていない Kelabit 語は、家庭で親から子に受け継がれるしかなく、それが今、危機的な状況にあるのだという。

「気づくのが遅すぎたのよ。Kelabit 語がまさに消えつつあることをつい数年前に気付いて、私自身、今パニックに陥っているの。」



言葉が消えてしまう・・・。

つまりそれがどういうことで、どれほど深刻な問題なのか・・・、その時、日本人の私には今いちピンとこないテーマだった。



話を聞いた翌日のこと。
Lucyに頼まれて、村にある2つの保育園に写真撮影に出かけた。

各保育園には、就学前の4歳前後の子どもたちが6~8人通っている。
保育園なので基本的におもちゃで遊んだりモノをつくったりして時間を過ごし、その合間に先生が簡単な単語や数え方を教えているのだが、つまりその「単語」が Kelabit 語(であるべき)で、訪れた2つの保育園では、Lianお手製の教科書(挿絵つき単語帳)や、マレー語を Kelabit 語に置き換えてつくった教材を使っていた 。





「小学校や中学校で習うのはマレー語と英語だけ。あと中国語や人口が多い民族の言葉は選択授業で習うことができる。でも Kelabit みたいな少数民族の言語は教科書さえないわ。」

保育園でも Lucy たちが関わっていないところでは教材がなく、先生が Kelabit 語に精通していなければ、正しい発音や文法さえ上手く教えられないのが現状だという。ましてや、都会で他の民族と同じ学校に通う子ども達はなおさらのこと。
そんな状況が、気づけば今までずっと続いてきた。







何年にも渡って公立小学校の校長を務めているLucyは、そんな現状に長らく気づかなかった自分を責めているようにも見えた。

「私でさえ、Kelabit 語をあまり上手くしゃべられないのよ。夫のDavidは、文法はあまり上手くないけど、単語はとてもよく知ってるわ。私は文法はできるけど、単語はあまり知らないの。」


文法、単語どちらともに精通している年配の Kelabit 族が健在なうちに、正確な言葉を記録し、教科書や辞書をつくらなければ、今や口伝えで確実にモノゴトが伝わっていくほど甘い世の中ではないということなのだろうか。



ふと、自分の母国語である日本語について思い返した。
小・中・高と国語を習ったにも関わらず、私は自由自在に日本語を操れている・・とは口が裂けても言えない。未だ自分の気持ちや伝えたいことを表す言葉の選択に、四苦八苦している。
・・・12年間みっちり国語を習った私がこの有り様。
教科書さえない Kelabit 語の継承が容易でないことは、想像に難くない。



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小型飛行機で約30分の街・Miriに、2週間ぶりに下り立った。

同行していた Kelabit 族の友人と、市内にある大衆食堂で夕食をとる。ふと友人の知り合いが通りがかり、相席することになった。
母親は Kelabit 族。聞けば、明日は娘さんの結婚式だという。
夫は父親と同じ中国人だ。


話が盛り上がる友人同士を横目に、娘さんに聞いた。

私「あなたは Kelabit 語わかるの?」
娘「家では、父親とは中国語、母親とは Kelabit 語で話してるんです。」
私「じゃあ、中国語と Kelabit 語とマレー語と英語、4つも話せるのね!」
娘「そうですね(笑)でも、Kelabit 語が一番好き。」
私「・・・じゃあ、もし子どもができたら、何語を教えるの?」
娘「それはまだ分かんないです(笑)」



ようやく、彼らが直面している問題の深刻さが分かった気がした。


飛行機でしか行けないジャングルの中にポツリとある小さな村でも、時代の波は確実に押し寄せる。「教育」の中に取り込まれない文化や言葉や慣習は、自ら意識的に継承していく他はない。



「言葉」とは何か。

きっと単に物事を伝えるだけの手段ではない。

ときに思考を促し、思いを共有し、文化をつくり、そして人々は “自分は何者か” を知る。
母国語の崩壊が意味するところは、つまり自分たちのアイデンティティや心の拠り所や誇りを失うことに等しいのだろう。



Lucyが言った。

「他の少数民族も、全く同じ問題を抱えているのよ。」


いくつもの民族が共存する国、マレーシア。
ダンスや民族衣装が観光の目玉としてもてはやされる一方で、その文化の核ともいえる言葉やアイデンティティがどんどん薄れていっているのは、何とも皮肉で悲しい現実だ。


「言葉」を記録し継承するLucyたちの取り組みは、まだまだスタート地点。
“生物多様性”と同様、せっかく生まれ育まれた多様な言葉の文化が消えてしまわないうちに、それらの価値が認知され広がっていくことを心から願っている。



人生で最も醜い足

2008-04-05 | ボルネオの旅(-2009年)
何より「聞いて~!!!」って感じなこと。

・・・・・この醜い足ですよ。



あまりキレイな画像ではないので小さめにしましたが、よく見るとしわくちゃです。
ジャングルを歩くとこうなります。

そしてこれが、ヒルに噛まれたあと。



足からふくらはぎ、更に首もとにまで(!)ヒルは這い上がって来ました。
今でも足に10個ほど痕が残っていて、むっちゃかゆい!!!!!

痛いのは噛まれた瞬間だけで、何がイヤかってそのあとかゆい!のがたまらんのです。
しかも噛まれ傷はなかなか消えず、蚊に刺された痕と相まって足がブツブツに。。。
きたねぇ~・・・・・。

気づけば常に足の甲の辺りをポリポリしている私です[:あせあせ:]


ちなみに「ヒル」は3種類ほどいるようで、ひとつはフツウの茶色いやつ。
もうひとつは横腹に黄色い線が入ったタイガーヒルという種類で、こっちの方が強烈らしい。



私もいくつも噛まれました(苦笑)

そしてもうひとつが葉っぱから人の腕や首などに侵入してくるヒルで、これは緑色をしているらしいのですが、まだこの目で見たことはありません。


ということで、しばらくスカートは履けない私。(もともと履いてないっちゅうの!)
早くヒル痕が治らないかなぁ~。