アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

死を悼む。

2008-09-27 | その他の国の旅

死に方について、たまに考える。


どこで死ぬのか。
どうやって死ぬのか。
誰がそばにいるのか。
どうやって葬られるのか。


ここスリランカでは、一般的に死体は埋葬される。
2~3日家に安置された後それなりに立派な棺桶に入れられ、仏教徒の場合はお坊さんが10人ほど家に来てお経をあげ、大勢の親戚や友人が行列になって棺桶を埋葬地まで運ぶ。
そして近しい人たちは大声で泣き、挙げ句の果てに気を失って倒れてしまう人も2~3人は必ずいるという。



人の死に際や埋葬の瞬間に立ち会うことは、自分の生き方を考える上で大事なことだ。

人は必ず死んでゆくんだ、ということを、こんなにマザマザと目の前に突きつけられ、残された人たちの悲しみを肌で覚え、死んだ後の世界を想い、もしくは死んでしまったらどうなるのか分からないことを知り、もう二度と開かないその人の目蓋を疑い、自分にも必ず訪れるその時を想像する、そのことの貴重さ・・・。

葬儀に集まった大勢の人たちの中に、小さな子どもがたくさんいるのを見ながらそんなことを思った。




それにしても、こっちの人の発狂の仕方には目を見張るものがある。
そんなに叫ばなくても・・・というレベルを超えて、それはウソなんじゃないの???と疑ってしまうほどの力の入れようで、まるで赤ん坊が意味も分からず連鎖して大泣きするように、枯れた涙をさらに絞り出して悲しみを表す。

友人の親戚の葬儀でもついに2人の男女が気を失って倒れ、埋葬終了後に車で運び出された。






ところでスリランカでは、 誰かが亡くなった後1週間家をオープンにし、訪れる親戚や友人をもてなすのが習慣らしい。
家族は1週間という長い間、夜一睡もせずに霊をなぐさめ、総勢何十人何百人という人にお茶や食事を振る舞う。

そして1週間後、疲れ果てた家族の顔には何か “やり遂げた” という充実感がみられ、更に皆で癒し合った悲しみが少しずつ前向きのエネルギーに変わっているように見えた。


こうやって死と向き合い、乗り越えていくんだ・・・。


それは決して形式ばったものではなく、残された者がお互いに悲しみや辛さを隠さずにさらけ出す、ある種の猶予期間みたいなものだと私は思った。皆で一緒にどん底まで落ち込んで悲しみ、そして這い上がるための。

そしてそのことをもって、きっと彼らは亡くなった者への感謝や敬意を表しているのだろう。



そうやってこの国では、皆が、きちんと、「死」と対峙して生きているんだ。



布売りの老婆たち

2008-09-22 | その他の国の旅
観光シーズンには多くの外国人観光客でにぎわう南海岸のビーチ。


大きなずだ袋を2つ担いだ老婆が、ホテルのテラスで朝食をとっていた私に向かって歩いて来た。

中から取り出したのは、簡素なつくりのシャツとビーチで身につける大きめのサロン。
昨日もこうして衣服を売り歩く老婆が私の元にやってきて、私は当たり前のように軽く老婆を追い払った。
ただ「No.」と、袋の中身も見ずにキツく断ったのだった。


テラスにやってきた老婆は、執念に私に向かって衣服を差し出した。
老婆はひどく痩せていて、こんな身体でよく重そうな袋を2つも持ち歩けるな、と私は思った。
そういえば彼女が歩いて来たのは砂浜で、歩くだけでも相当タフな仕事に違いない。

こうやって一日でいくら稼げるんだろう、と私はそのずだ袋を見つめながら思った。


15分か20分ほど考え続けて、私は結局、柔らかそうな黄色い布を一枚買った。
ところどころにシミが付いていたけれど、鮮やかなその色が何となく魅力的だった。


値段は500円ほど。外国人向けの豪華なディナーと同じ額。
だから地元の人にとっては5000円ほどの価値がある。

決して賢い買い物じゃない。


こうやって老婆を相手に金を払う私は、確かにひどく間抜けだろうと私は思った。
けれど15分か20分間考え続けた結果、それが本当にただの間抜けなのかどうか、やっぱり答えは見つからなかったのだ。


彼女が去った後も、私はそのことをずっと考えていた。

綺麗なホテルのテラスから私の何倍も長く生きている女性を見下している自分は、一体何様なのか。
私は一体、彼女よりエラいことを何かひとつでも成し遂げただろうか。


けれど考えても分からないなら、とりあえず彼女が売る物を買ってみる方がいいと、確かに私は判断したのだった。
後悔するかもしれないし、気持ちがスッキリするかもしれない・・・。
そして結局スッキリすることはなかったけれど、少なくとも、だれが富を得ているのか分からないような都会の一角で500円を費やすよりは、よっぽど納得がいく買い物だろうと、私は自分に言い聞かせていた。

エンターテイメントは大切だ。

2008-09-20 | その他の国の旅
サーカスを見に行った。

大人一人60ルピー(60円ちょっと)という破格の安さ。
恐らくこの世で最もシンプルかつハラハラするサーカスのひとつだと思う。

会場はいかにも移動式という簡素な造りで、小汚い木板でつくられた危なっかしい階段のような段々椅子が、パフォーマンス広場を挟んで両際にズラッと設置されていた。
私が到着したときには20人ほどしかいなかった観客は、上演時間が近づくにつれ徐々に増え、最終的には恐らく700人以上の老若男女で会場はいっぱいになった。



まず足と頭をくっつける中国歌劇団のような身体術を披露したのは、いかにも現地採用的なインド顔の若い2人の女性。
次いで新体操選手のような2人のマッチョが登場し、安いパイプのような棒に上って筋肉劇を披露した。

只今トレーニング中だと出て来たのは一匹の犬。4台のハードルをたどたどしく超えて回った。

大型の鉄棒やブランコは全てその場で組み立てる。
四方にある木製の柱にくくり付けたロープでパイプを引っぱり、支柱となる2本のパイプの下に小さな木っ端を入れる。

直径10メートルほどの狭い広場で、全ては繰り広げられるのだ。

                 
           


2人の男がピエロのような格好をして出て来た。
一人は身長1メートル程しかない障害をもった男で、その歩き方や仕草が何とも滑稽で可愛らしい。

2人は広場の中央に立ち、漫才師のように何やら可笑しげなことを話し始めた。
時に2人はインド顔の女性を呼んで別のパフォーマンスを促し、それに加わっては客を笑わせ、また時にはあらかじめ仕込んであったコントで会場を沸かせた。











そうやって2人のピエロが進行する形で再終幕に向かい始めた頃、いつの間にか観客とパフォーマーの間には微笑ましい一体感が生まれていた。


言葉さえ分かれば随分面白いのであろう2人のコントを眺めながら想像した。

この人たちの普段の生活や、笑っていないときの普段の顔や、家族の顔や、もしかしたら別の仕事もしているのかもしれないことや・・・、そして会場を満杯にしている人たち一人一人にも同じように普段の生活があって、それがどんなに辛いものだったとしても、今いるこの空間ではそれらを忘れて笑うことができる、その心情を・・・。


見渡せば、小さな子どもから大人まで皆が同じ方向を見て大口を開けて笑っていた。


そういえば日本では、映画も演劇も寄り席もチケットが高くてなかなか行けない。少なくとも現在の不況に喘いでいる人たちにとっては、とても気軽に行ける値段じゃない。
だからせいぜいテレビで流れる漫才やお笑い番組で孤独を癒すしかないんだ。
きっと昔はもっと、こうした気軽に楽しめるエンターテイメントが日常生活の近くにあったんだろうけれど。


経済的に貧しくて苦しい場所ほど笑いによって救われる場所が用意されているというのは、合点がいく一方、皮肉だなと思う。

その国がリッチになれば笑いの質が変わる、それは、何だか切ない現実に思えてしまう。
日本人がもはやこうした温かい生の楽しみを、なかなか味わえないように。



サーカスは再終幕を迎え、団員たちは力を合わせて大きな茶色いネットを会場いっぱいに広げた。
天井からぶら下げた2つのブランコを飛び移る、最後のパフォーマンスだ。

2人のピエロもここぞとばかりに観客を盛り上げ、パフォーマーが次々と宙を舞った。
私は、目をまん丸にして天井を見上げている子どもや大人を横目に見ながら、会場の一体感に身を委ねた。



爬虫類王国でトカゲに出会う

2008-09-13 | その他の国の旅
この写真の中に、トカゲがいる。

まるで回りに溶け込んでいて、撮った本人ですらよく眺めないと分からない。


場所はスリランカ南部、Sinharaja(シンハラジャ)国立公園。



ガイドの青年は時たま、急に腰をかがめて用心深く歩き、ふと後ろを振り返って言った。

「しぃーっ!静かに、ゆっくり歩いて来て!」

何を見つけたのか、息を殺して彼が指差す方向を見つめる。

「何?どこ??」
「あそこ!小枝の真ん中くらい!」


キツネにつままれているような気分で更に目を凝らして見ること2~3分。
そこには、微動だにせずじーっと上を向いたまま静止している緑色のトカゲがいた。






そもそもこの森は比較的最近になって価値が認められ、国立公園に指定されたらしい。

その「価値」のひとつが、爬虫類の種類の多さだという。



それにしても、森の中でトカゲを見つけるのは大変だ。
辺りが薄暗い上、緑色のものも茶色いものも回りの枝や幹の色に激しく同化している。動いてくれればまだ分かりやすいものの、彼らは本当に驚くほどピタッと静止して動かない。動かないまま、ひと所に2時間も3時間もステイしているらしい。

ちなみに私が見たあるトカゲの歩き方は、ピョンピョンと陽気に跳ね上がりながら素早く前進し、まさかこれがトカゲか?と疑いたくなるような全身運動で瞬く間に薮の中に消えていった。







こうやって ひっそりと森の中に生きている生き物に出くわしながら歩いていると、ここはまさに彼らの王国で、こちらが単なる訪問者なのだということを感じさせられる。

そもそも人間なんてほんの数百万年しかこの地球上に生きていないんだ。
それを彼らは、あのギョロッとした剥き出しの目で、じーっと私たちの動向を観察しているに違いない。
気づかれないように、回りの色に溶け込んで。


コンクリート社会に生まれ育った私には、動物たちの間に流れているそうした果てしない時間の流れが奇妙に思えた。それはまるで理科の教科書に書いてあった生物史の年表か何かが突然三次元世界となって現れたような感じで、今まで知識として分かっていたはずのことを、実は何も分かっちゃいなかったんだと思い知らされた証だった。


きっと「自然」というものの貴重さは、人間社会に生きる人の想像を超えて存在する。

そのことを、トカゲが教えてくれたんだ。



幸せのカタチ

2008-09-01 | ~2012年たわごと

「幸せ」とは、こういうことをいうんだ。

多くの人に愛され、たくさん笑い、将来の夢を共に語れる人に巡り会い、何かをやりたいとワクワクし、それぞれの国や土地やそこに住む人たちを愛おしく思い、本当にこの世に生まれてよかったと思える。

これが今まで自分なりに一所懸命生きてきた報いなら、神様もう充分すぎるほど頂きました、と言わざるを得ない。

もしくは今後私が果たすべき使命を、今ここで探り当てよとのお達しだろうか。



「幸せ」とは、こういう形をしているんだ。

目には見えないけれど、私は今、その表面の滑らかさや内側の柔らかさや温かさなんかを、ちゃんと感じることができる。



自分の心に従うこと。


自分の心の声を聞くことは、簡単じゃない。


けど、全ては経験。


自分自身のために積む、経験。