今週火曜のこと。
たまたま韓国滞在していた間に、友人のおなかにいた子が出てきてしまった。
37週目。
予定日より1ヶ月早い、ちょうど私が彼女と打合せを予定していた日の午前中だった。
「赤ちゃん、出てきちゃったよ~」
と、分娩から約2時間後に彼女があっけらかんと電話をくれたので私は余計にビックリしたのだけれど、翌日病院にかけつけたら、本当に出てきたばかりの赤ん坊が小動物みたいな細高い声で泣きわめいていた。
「ごめんねー。まさか出てくると思わなかったんだけど、明け方我慢できなくなって病院に来たら子宮口が9センチも開いてたよ!」
と彼女。
40歳での高齢出産なだけに心配していたのだが、全く無用だったようでホッとした。
肝心の赤ん坊は男の子で、頭から足の先まで真っ赤な皮膚に包まれ、まだ湯気が立ち上がりそうな程だった。それで、もしかして「赤ん坊」というのは、実際に赤いからそうネーミングされたのか?とふと思う。
おしめを変える時なんか、曝されたキンタマがあまりにドスの利いた色なので思わず目が釘付けになってしまった。こちらはさすがに「金色」ではなかったけどね。
そしてその子の顔を眺めていると、寝ているはずなのに急に眉毛を上げて眩しそうな顔をつくったり、そうかと思ったら急に口をしぼませて酸っぱそうな顔をしたり、一体どんな夢を見ているのか?と頭の中を覗いてみたくなるほどコロコロと表情を変える。
起きたら起きたで、目の前のオトナの顔をいきなりしかめっ面で睨んでみたり、そうかと思えば真綿のような天使の笑顔を瞬間的に見せてくれたり。赤ん坊というのはこんなに表現豊かなものなのか!と感動することひとしお。
一方で、こうした表情はいつ頃から減ってしまうのだろう…と思うと少し寂しい気もした。
「面の皮が厚くなる」前に、せめてコドモ時分は、本来の赤ん坊に負けず劣らない自由な感情表現ができるべきなんだ。それができないコドモは、やっぱり本来の姿じゃないんだろうなぁと思いながら赤ん坊の寝息を聞いていた。
♢ ♢ ♢
そうこうしている内に12時になり、友人のもとに食事が運ばれてきた。
これ↑、妙じゃないですか?
一番大きい器に入っているのはワカメスープ。
「韓国では産後にワカメスープを飲む」というのは彼女から以前聞かされていたのだが、まさかこんなにでかい器で出てくるとは思わなかった。
「これから1ヶ月間ずーっとこればっかり飲まなきゃいけないのよ」と彼女は既にウンザリ気味。
「毎日?3食とも?」と聞くと、
「そう。1ヶ月間。」
「なんでワカメじゃなきゃいけないの?」とさらに食いつくと、
「産後の体とか、母乳にいいんじゃない? でも多分これは習慣なだけと思う。」
しかしその「習慣」というのが、なかなかステキなのだ。
韓国では「母親が産後すぐに口にしたもの」という意味で、誕生日には必ずワカメスープを飲むらしい。
大勢での食事でワカメスープが出されれば「今日誰か誕生日なの?」と言うし、家族の誕生日には「今日はワカメスープつくらなきゃ」ということになる。
そうやって「お産」というものを「ワカメスープ」に置き換えて、いつも身近なものとして感じられるのは実にステキだなぁと思うのです。
さらに、ワカメスープはそれだけじゃなかった。
帰国後インターネットで調べてみると、産後食べるワカメには4つの効果があるのだそうだ。
1)母乳で失われがちな「カルシウム」と「リン」の補給
2)精神安定にも効果的な「ヨウ素」の補給
3)便秘予防
4)「カリウム」と「アルギン酸」補給による血圧降下作用
へえ~。
なるほど確かに理に適っている。
その他、韓国では「産後1週間は入浴&シャワー禁止」「部屋は28度に保って汗をかく」のが常識なんだそう。
再びインターネットで「産後 新陳代謝」と検索すると、「産後ダイエットで新陳代謝を上げるのは大事です」と書かれたサイトがバーッと出てくる。
「無理なダイエットは新陳代謝を低下させて太りやすい体質をつくってしまいます」…これもまた、なっとく。
♢ ♢ ♢
そもそも韓国には理に適った健康スープが山ほどある。
新ママになった友人いわく、「韓国料理はスープが基本」なんだとか。
そういう視点で外食すると、確かに確かに、スープメインの料理がいかに多いか!
日本でいう「麺類」のカテゴリーではなく、「スープの皿が一番でかい」類いの料理。
↑これはサムゲタンの一種で、干しきのこと鶏の煮込みスープ。
↑すいとん
↑韓国の雑煮「トックク」。小さくて平べったい餅がたくさん入っている。
ちなみに「出汁は何でとってるの?」と聞くと、「いろいろあるよ」と言う。
コンブや煮干しに加えて牛肉も多用。しかし豚骨は使わないらしい。
それで、たまたま韓国で出会った日本の人が、
「韓国料理はどれも健康的だから皆さん病気にならないんじゃないですか?」と言った。
それを受けた社会福祉法人の理事長さんが、
「そんなことはないですよ。韓国でも癌が一番深刻ですし、状況は日本と同じです」と返答。
…しかし私の目にも、やはりソウル市内で見るお年寄りは日本よりずっと元気そうに映る。カラフルなハイキング姿に身を包んだの60~70代の人はどこの地下鉄駅でもザラにいるし、その理事長さんが運営するデイケアセンタ―を見せてもらっても、日本でよくイメージされる湿っぽさはあまりない。
それでも韓国には韓国ならではの問題が山積しているようで、そのひとつを理事長さんは肩をすくめながら言った。
「韓国は儒教の文化ですから、若い人は基本的に年寄りを敬います。でもそのせいで、生活スタイルが変わってデイケアに通うようになっても、年寄りがなかなか自立しようとしないんですよ。若者が面倒を見てくれて当然だと思っている。」
一方で先の新ママは
「韓国は、日本みたいに国が出産のお金をくれたりはしないよ。妊娠したときに健康診断のための数万円をくれるだけ。あとはぜーんぶ実費。さらにその後お金がある人は、産後3ヶ月くらい育児施設に親子で泊まって子育てサービスを受けるのよ。お金がない人はヘルパーに家に来てもらうの。親に頼むのもいいけど、ウチみたいに高齢だと親も大変だからね。」
彼女の義母はとても「高齢」には見えなかったが、それでも親に子育ての全面協力は頼み辛い雰囲気なのだろうと思う。
若者と高齢世代のチグハグな自立観…とでもいったらいいのだろうか。
現代韓国もタイヘンだなぁ。
結局、年寄りには最後の最後までとにかく健康でいてもらい、若者も健康スープ効果でバリバリ働いてカネを稼ぐ…のが最もよい対処法のように思えてくる。
そのためにも、韓国の健康料理文化は最重要なのに違いない。きっと切実に…。
韓国料理が末永く健康で…つまり未来永劫インスタント化されないことを願います。
健康第一だね。
(↑これは松の葉の伝統茶。やたら酸っぱくて、いかにも健康によさそう)
以前、書こうかなと思って書かなかったことのひとつ。
お金のことについて、考えながら綴ります。
♢ ♢ ♢
いわゆる途上国を旅すると、「日本人=金持ち」という見られ方を必ずする。
それは比較論でいえば間違いなく、航空チケットが払えている時点で、旅人が通常出会い得る市井の人々よりは自分の方が遥かに金を持っている。
「金持ち」だと思われることに対しては戸惑うけれど、それは事実なんだから受入れるしかない。
そうやって開き直って街を歩いていると、 “明らかに貧しそう“ な人たちが手を差し出しながら寄って来る。
私は私なりのルールを決めて、その時々の感情に任せて小銭を渡すことにしている。
たまたま感情が動かない時や、ポケットの小銭が少ない時は渡さない。
そもそも1人ずつに小銭を渡していては切りがないのだから、…だけど目の前にいる人を透明人間みたいに扱うのは嫌だから、その瞬間の自分の状況と善意の程度に従うと決めたのだ。
こういうのは正解なんてないから、自分で決めたらそれでいいの。 と思っている。
♢ ♢ ♢
だけど、“その国の中では特段貧しいわけじゃない人” と友達になった場合。
もしくは、“そんなに貧しそうには見えない人”とご縁あって友達になった場合。
「友達」なだけに、自分ルールが定まらない。
それぞれ信頼度も違うから尚さらのこと。
最初に頭を抱えたのは4~5年前だった。
フィリピン・セブ島で知り合った2児の母、キャサリンに、旦那の仕事が行き詰まったから数十万円貸してほしいと頼まれた。
アメリカ船の船員をしている旦那には、一度だけ会ったことがあった。とても朗らかで、船員の制服がよく似合うフィリピン風イケメン。彼は、キャサリンにも将来のために専門を身につけてほしいと考え、養育に加えて彼女を会計士の学校に通わせていた。
その一家がピンチなのだと言う。
「ほんとか?」と少々疑ってはみたものの、キャサリンとは、家に泊めてもらっては恋話なんかを語り合った仲。そう無下にもできない。
日本の友達にそのことを相談すると、「絶対に貸さない方がいい」と、99%の確立で忠告された。
まぁ、フツーそうだと思う。
悩んだ挙げ句、結局その時ギリギリ貸せる金額3万円ほどを、次に会った時に手渡した。
のだけれど、手渡した時の彼女の表情が 「ありがとう~(涙)」 といった感じではなく、感謝しているのかしていないのかさえ分からない態度だったために私は愕然としてしまい、深く深く後悔したのだった。
「カネだけ渡して感謝もされないって、どういうこと?」と肚を煮えたぐらせて。
数ヶ月後、傷跡となって残った負の思い出を、別のフィリピン人の友達に打ち明けた。
するとちょっと意外な反応が。
友「フィリピンでは、お金を貸すのは商売のひとつね。ちょっとお金持ってる人はみんなする。いい商売よ」
私「高利貸しってこと?私は返してもらってもないよ。返してくれると思ってないし」
友「でもフィリピン人は、絶対に恩を忘れない」
私「感謝もしてくれなかったよ、貸したとき」
友「言葉で言わなくても、フィリピン人は絶対に恩を忘れない。絶対、彼女は一生忘れないよ」
…そんなもんか、と思って私の怒りは少し緩和された。
「常識」というのはややこしい。
自分は常識にとらわれていないと思っていても、相手の反応が期待外れだったということは、つまり自分の常識を相手に押し付けていたことになる。
そして一方的に怒り、ガッカリし、非難してしまう。
そしてこういうのは、外国人とのトラブルに限らず、日本人同士でもよく起きていることなんだな、と最近思うようになった。男女の違い、世代の違い、育ちの違い、状況の違いによって、私たちの間にはズレがいくらでも存在する。
近い人との間でこそ、それが顕著になるのかもしれないし、ズレた時の摩擦が激しいとも言えると思う。
だからね、今となっては思うのです。
自分の常識を外してモノを考えられるようになるために、外国人とのお金のトラブルは良い訓練だなと。
まず「外国人」というズレは最も分かりやすいし、かつ「お金」というのは最もシリアスで、失敗した時に最高の教訓になるから。
だから外国人の友達に借金をせがまれても、安直に自分ルールを適用せず、その都度悩む方がいいのです。
ちなみにキャサリンとは今も facebook でつながっている。
ただ、あれ以来、一度も会ってはいない。
まだ心の傷が完治していないなら、ちゃんと話し合ってしこりを解消すべきだと思うのだけれど、なかなかねぇ。一度ヘソを曲げた感情はそう簡単には戻らないらしいのです。
これもまた教訓。
人間関係を豊かに、また円滑にするために、何事も犠牲を払いながら学んでいこう。。。m(_ _)m
お金のことについて、考えながら綴ります。
♢ ♢ ♢
いわゆる途上国を旅すると、「日本人=金持ち」という見られ方を必ずする。
それは比較論でいえば間違いなく、航空チケットが払えている時点で、旅人が通常出会い得る市井の人々よりは自分の方が遥かに金を持っている。
「金持ち」だと思われることに対しては戸惑うけれど、それは事実なんだから受入れるしかない。
そうやって開き直って街を歩いていると、 “明らかに貧しそう“ な人たちが手を差し出しながら寄って来る。
私は私なりのルールを決めて、その時々の感情に任せて小銭を渡すことにしている。
たまたま感情が動かない時や、ポケットの小銭が少ない時は渡さない。
そもそも1人ずつに小銭を渡していては切りがないのだから、…だけど目の前にいる人を透明人間みたいに扱うのは嫌だから、その瞬間の自分の状況と善意の程度に従うと決めたのだ。
こういうのは正解なんてないから、自分で決めたらそれでいいの。 と思っている。
♢ ♢ ♢
だけど、“その国の中では特段貧しいわけじゃない人” と友達になった場合。
もしくは、“そんなに貧しそうには見えない人”とご縁あって友達になった場合。
「友達」なだけに、自分ルールが定まらない。
それぞれ信頼度も違うから尚さらのこと。
最初に頭を抱えたのは4~5年前だった。
フィリピン・セブ島で知り合った2児の母、キャサリンに、旦那の仕事が行き詰まったから数十万円貸してほしいと頼まれた。
アメリカ船の船員をしている旦那には、一度だけ会ったことがあった。とても朗らかで、船員の制服がよく似合うフィリピン風イケメン。彼は、キャサリンにも将来のために専門を身につけてほしいと考え、養育に加えて彼女を会計士の学校に通わせていた。
その一家がピンチなのだと言う。
「ほんとか?」と少々疑ってはみたものの、キャサリンとは、家に泊めてもらっては恋話なんかを語り合った仲。そう無下にもできない。
日本の友達にそのことを相談すると、「絶対に貸さない方がいい」と、99%の確立で忠告された。
まぁ、フツーそうだと思う。
悩んだ挙げ句、結局その時ギリギリ貸せる金額3万円ほどを、次に会った時に手渡した。
のだけれど、手渡した時の彼女の表情が 「ありがとう~(涙)」 といった感じではなく、感謝しているのかしていないのかさえ分からない態度だったために私は愕然としてしまい、深く深く後悔したのだった。
「カネだけ渡して感謝もされないって、どういうこと?」と肚を煮えたぐらせて。
数ヶ月後、傷跡となって残った負の思い出を、別のフィリピン人の友達に打ち明けた。
するとちょっと意外な反応が。
友「フィリピンでは、お金を貸すのは商売のひとつね。ちょっとお金持ってる人はみんなする。いい商売よ」
私「高利貸しってこと?私は返してもらってもないよ。返してくれると思ってないし」
友「でもフィリピン人は、絶対に恩を忘れない」
私「感謝もしてくれなかったよ、貸したとき」
友「言葉で言わなくても、フィリピン人は絶対に恩を忘れない。絶対、彼女は一生忘れないよ」
…そんなもんか、と思って私の怒りは少し緩和された。
「常識」というのはややこしい。
自分は常識にとらわれていないと思っていても、相手の反応が期待外れだったということは、つまり自分の常識を相手に押し付けていたことになる。
そして一方的に怒り、ガッカリし、非難してしまう。
そしてこういうのは、外国人とのトラブルに限らず、日本人同士でもよく起きていることなんだな、と最近思うようになった。男女の違い、世代の違い、育ちの違い、状況の違いによって、私たちの間にはズレがいくらでも存在する。
近い人との間でこそ、それが顕著になるのかもしれないし、ズレた時の摩擦が激しいとも言えると思う。
だからね、今となっては思うのです。
自分の常識を外してモノを考えられるようになるために、外国人とのお金のトラブルは良い訓練だなと。
まず「外国人」というズレは最も分かりやすいし、かつ「お金」というのは最もシリアスで、失敗した時に最高の教訓になるから。
だから外国人の友達に借金をせがまれても、安直に自分ルールを適用せず、その都度悩む方がいいのです。
ちなみにキャサリンとは今も facebook でつながっている。
ただ、あれ以来、一度も会ってはいない。
まだ心の傷が完治していないなら、ちゃんと話し合ってしこりを解消すべきだと思うのだけれど、なかなかねぇ。一度ヘソを曲げた感情はそう簡単には戻らないらしいのです。
これもまた教訓。
人間関係を豊かに、また円滑にするために、何事も犠牲を払いながら学んでいこう。。。m(_ _)m
2年ぶりにカーテンつくった。
チクチクチク…と、手縫いすること数十分。
適当主義の私は、寸法とかなんとかは測らない。
なんとなく山をつくって、なんとなくの長さを縫って、針金もなんとなくの大きさにへし曲げてN字型フックをつくる。
カーテンなんて、それでできちゃうんだから。
でも、代わりに布には執拗なほどの愛着がある。
今日新たにカーテン用におろしたのは、ネパールの布屋さんで買った花柄のサリー。
買ったときはセクシーワンピースをつくる気満々だったが、そんな技量はそもそも私には備わっていなかった。
2年前につくったカーテンはスリランカで買った中級品のサリー。
試着した時まるでウエディングドレスみたいだったから、うれしくなって思わず買っちゃったんだよね。
引っ越してからずっとずーっとやろうと思っていたことがようやくできて、とても満足な今宵。
ここ3ヶ月間、ウチの窓には大家さんが予めつけてくれていた日よけ用のシャワーカーテンが、無造作にぶら下がっていたのです。
あぁスッキリ。
そして、たまにこうしてチクチクやるのはいいもんだなぁと実感。
思わぬアイデアが浮かんだり、考えなきゃと思いながら後手にしていたことを静かに考えられたりと、ココロの塵がすーっと落ちていく感覚。…これ、すごく大事だわ。
ずっと迷っていたけれど、ミシンも思い切って買っちゃおうかな。
あくまで自分用のモノづくり=適当ソーイングは、右脳とお財布、両方にやさしい絶好のマイホビーになりそうだ♡
チクチクチク…と、手縫いすること数十分。
適当主義の私は、寸法とかなんとかは測らない。
なんとなく山をつくって、なんとなくの長さを縫って、針金もなんとなくの大きさにへし曲げてN字型フックをつくる。
カーテンなんて、それでできちゃうんだから。
でも、代わりに布には執拗なほどの愛着がある。
今日新たにカーテン用におろしたのは、ネパールの布屋さんで買った花柄のサリー。
買ったときはセクシーワンピースをつくる気満々だったが、そんな技量はそもそも私には備わっていなかった。
2年前につくったカーテンはスリランカで買った中級品のサリー。
試着した時まるでウエディングドレスみたいだったから、うれしくなって思わず買っちゃったんだよね。
引っ越してからずっとずーっとやろうと思っていたことがようやくできて、とても満足な今宵。
ここ3ヶ月間、ウチの窓には大家さんが予めつけてくれていた日よけ用のシャワーカーテンが、無造作にぶら下がっていたのです。
あぁスッキリ。
そして、たまにこうしてチクチクやるのはいいもんだなぁと実感。
思わぬアイデアが浮かんだり、考えなきゃと思いながら後手にしていたことを静かに考えられたりと、ココロの塵がすーっと落ちていく感覚。…これ、すごく大事だわ。
ずっと迷っていたけれど、ミシンも思い切って買っちゃおうかな。
あくまで自分用のモノづくり=適当ソーイングは、右脳とお財布、両方にやさしい絶好のマイホビーになりそうだ♡
切羽詰まって…というわけではないけれど、ちゃんとセルフプロデュースをしなくては、と思うようになった今日このごろ。
ビジネス雑誌を読んで、「やっぱり食わず嫌いせずにtwitterしよう」と思い至った。
それで始めました。ツイッター。
…だけど自分のページのアドレスがわからない。
なので ID=makinokanako で、もし宜しければ見つけてください。
ずっと「なんのためにつぶやくのか?」がわからなくて敬遠していたんだけれど、実際にやってみて納得した。
そうか、これは自分のための「メモ帳」なんだ。
ということで、これから私生活の中で気になったコトやモノや風景なんかを、メモしていこうと思います。
一方の facebook は、アカウントは5年ほど前からあったものの英語表記だったために使いこなせず、去年ようやく日本語表記に変えて徐々に慣れ親めるようになったところ。
日常の些細なネタや写真をアップするにはちょうどいい。
だけどなんだか最近、ちょっと飽きてきましてね。
…飽きたというか、これも目的に合わせて使うツールなんだよね、と。
基本的に飽き性なのは私の悪い性癖ですが、そもそも暇つぶしが下手なんだよね。
だからこれからは便利ツールとしての視点を盛り込むことにしましょ、と思ってます。
ブログはというと。
6年ほど前に初めて開設した時は、まさに仕事の鬱憤晴らしというか、ちょっと欲求不満解消ツールみたいなところがあったなぁ…。エロ系の暴露記事が多かった気もするし。
第一、本当に誰かに読まれているとは思っていなかった。特に顔見知りの人には。
それで「ブログに書いてあったね」とか言われて驚いたのだけど、まぁ、暴露して恥ずかしいものはあまりないのでその辺は大丈夫。と思って今に至ってます。
更新をガタンとしなくなったのは、だけど「飽きた」というより「書けなくなった」という方が正しい気がする。
中途半端に自分が書いた文や写真を売るようになって、どこからどこまで個人的に公開していいものか…という躊躇が発生したし、文章にはオチを付けなければ…と気張るようになったし、それに、発信する/表現するというエネルギーがどこかよく分からない方向に飛んでいってしまった。
だから、よほど伝えたいネタがないと書かなくなっちゃったのです。
だけどね、そろそろもう、そういう殻はやぶろうと思うの。
どこまでやり抜けるかはわからない。けど、これだけネット発信がフツーになったんだから、ちゃんと、自分のために利用しなくては。
ちなみに今、更新率がこんなに悪いにも関わらず更新する度に読んでくださっている人は60~80人。
半分がウソだとしても、30~40人。
学校1クラス分もの人たちが、何年間も私なんぞの成長を見守ってくれているんだ。
未だモゾモゾと自分の「仕事」を暗中模索している情けない私は、今年こそ、今年こそはと思いながら歳を重ね、はや今年で33歳。
本当は結婚もしたいし子どもも産みたい。だけど幸か不幸か、人生思うようにはいかないんだねぇ。
けど、1回きりの人生だからさ、最後まで不器用を貫こう。
ブログと facebook と twitter を使い分けて活用する。これを今年度の目標のひとつにします。
途中で途絶えたら、笑ってやっておくれやす。
(桜もいいけど椿もいいよ。完璧な自然のアート。)
先月撮影したRQWエコタワシの動画PV、こんな風になりました。
http://youtu.be/Bkr2-VKiYro
(埋め込みがなぜかうまくいかないので、URLで…(涙))
撮影のとき、最初のインタビュー右側に映っている高橋和子さんに大量のメカブ料理を食べさせていただき、さらにワカメ漁にも連れてってもらって感謝感激だったのね。
そのワカメ漁の動画も早く編集して、「こんな風になりました!」って早くDVDを郵送したい。
それにしても動画編集は自分の感性が試される…。
ボチボチでもやり続けること、磨き続けることが大切だな、と実感。
人生はマラソンなり。
RWQの新ウェブサイトはこちら→ http://rqwomen.net/
http://youtu.be/Bkr2-VKiYro
(埋め込みがなぜかうまくいかないので、URLで…(涙))
撮影のとき、最初のインタビュー右側に映っている高橋和子さんに大量のメカブ料理を食べさせていただき、さらにワカメ漁にも連れてってもらって感謝感激だったのね。
そのワカメ漁の動画も早く編集して、「こんな風になりました!」って早くDVDを郵送したい。
それにしても動画編集は自分の感性が試される…。
ボチボチでもやり続けること、磨き続けることが大切だな、と実感。
人生はマラソンなり。
RWQの新ウェブサイトはこちら→ http://rqwomen.net/