アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

南京を取材した時のこと

2012-08-23 | 中国・台湾の旅

この間の領土問題騒ぎについて、これほど動揺したのは初めてだなぁと、改めて思う。

久しぶりのカラオケから戻った深夜、Yahooニュースで反日デモ拡大の写真と見て、胸にザザザーッと嵐が到来した。
関連するニュースを次々と閲読し、その日、日本人10人が尖閣諸島に上陸したことも知った。

半ば衝動的にfacebookに意見を投稿し、それでも胸騒ぎが収まらなくて、次の投稿を書いている間に「どうしよう」と「なんで?」が交互にワーッと押し寄せてきて、涙がこぼれた。

まるでコドモみたいなこの感情の高まりは、だけど一方で、2009年に行った中国取材に起因していたと断言できる。

   ♢  ♢  ♢

2009年10月、ある団体の南京スタディツアーがきっかけで、私はツアー同行後も単身で南京に残り、日本人について現代の中国人がどう感じているかを街頭インタビューして歩いた。
どこに記事を掲載するかも決まっていなかったけれど、とにかく私が個人的に知っておきたい、という気持ちが背中を押していた。

南京大虐殺や、韓国の慰安婦問題や、そういったいかにもダークなイメージを持つ歴史的事実について、私たちは(少なくとも私は)胸を張って「詳しい」とは言えない。結局何が真実かが分からないし、分かろうとするなら相当な勉強が必要になる。中途半端に勉強したくらいでは、ちょっとは詳しくなるかもしれないけれど、逆に偏った知識が刷り込まれて正しい判断ができなくなるかもしれない。
一端刷り込まれた知識というのは、くつがえすのが大変だもの。自分が勉強した時間や努力までもが否定されたような気分になるから。

それで、よく分からないまま電車の吊り広告や本屋に並べられた雑誌の表紙を眺めている内に、あのオドロオドロしい週刊誌特有のフォントと色使いにいつの間にか洗脳されていく…実際洗脳されていってる自分を感じた。

本当の南京を知りもしないのに、自分は南京を怖い場所だと思っている。
中国にはいろんな人がいると頭では分かっているのに、心の奥底では、どうしても“中国人”を好きになれない。
…そういう、感情のしこりができていた。

    ♢  ♢  ♢

南京は、行ってみるととても穏やかで温かい街だった。中国では珍しく、緑も多い。
街の第一印象というのはとても大事で、不思議なことにそれが人々の表情や寛容さにも上手く比例していると私は思う。もしくは、そこに住む人々の“気”みたいなものが空気中を漂って、訪れた人にプラスやマイナスの印象を与えるのかもしれないと思う。

その南京の街で、私はかなり無理矢理、50人の道ゆく人たちにインタビューをした。

ある時は通訳もなく独りで、「日本人に対する南京の人の感情を教えてください」というような説明書き(事前に中国語訳してもらった)を見せて自由にしゃべってもらい、全く意味が分からないままICレコーダーに記録する、という無謀なこともやった。(そして、それでも煙たがらずに答えてくれる!ということに心底ビックリした)

だけど50人の内のほとんどは、南京師範大学の大学院で日中関係史を学んでいたリュウ君に通訳をお願いした。
2人で(時には現地で友達になった子も含めて)南京大虐殺記念館に行き、出口の前で休憩している人たちにインタビューして歩く…それを何度も何度も繰り返し、「マキノさん、アンケートにしましょうよ」と言われても直接インタビューにこだわり、恥をさらして取材を強行した。

ちなみに、そこまで付き合ってもらったリュウ君には頭が上がらないほど感謝し、「これは仕事だから」と謝礼を渡そうとしたのだけれど絶対に受け取ってくれず、「これは僕の勉強です」と言い張るのだった。
そのリュウくん、取材の合間や行き帰りのバスの中で、中国人の本音をポツポツと語ってくれた。

「僕は日本のアニメが大好きです。漫画が特に。大学には日本語を勉強している人がいっぱいいますよ」
「だから僕の気持ちは複雑です。日本文化は好きだけど、日本のことを恨んでいる中国人は多いと思います」


(南京市内の並木道。車道とは別に、バイク道がある)

…確かに、私が日本人だと分かるだけでインタビューを避けられることは何度かあった。けれど、その数は予想した程ではなく、7~8回程度。それを遥かに上回る数の人達が、これほど怪し気な日本人の呼びかけにも足を止め、丁寧に答えてくれたのだ。これが逆に日本だったら(そして私が中国人だったら)、まずあり得ないと思う。

それで肝心のインタビュー結果は、「当時の日本人は残虐だ」とした上で、「だけど今の日本とは違う」と答えた人が7割。あとの2割も「責任は政府にある、日本国民に嫌悪感はない」とあっさり言ってのけた。中には「展示を見て、日本人は頭がいいと思いました」と言う人もいたくらい。
逆に「日本人は中国人を軽視していると思います」と答える人もいたけれど、それは日本の工場で働いた経験が元になっていた。これは歴史問題や教育云々ではなく、自分を含む戦後日本人が、直接または間接的に中国に与えてきた印象だと思う。…そしてこういうのは、広まるのが早い。

ところで南京大虐殺記念館は、中に入ると真っ暗なトンネルや模型なんかがいかにもヒュ~ドロドロという感じで、子どもから大人までが存分に“楽しめる”展示構造になっている。修学旅行で人気なだけでなく、地元のカップルがデートコースで行くこともよくあるらしい、と聞いたときにはたまげてしまった。


(南京大虐殺記念館の入場待ちの人々。週末には1日8千人以上が訪れるらしい。2009年)


(記念館前にそびえ立っている巨大な像。足元にいる“ヒト”が見えますか…?)


(街中でインタビューに答えてくれたカップル。最後に日本人へのメッセージを書いてくれた)


   ♢  ♢  ♢

だけど今も心に刻まれているのはこの取材自体ではなく、この時に出会ったある男性とのエピソードだ。

30代に見えるその人は、南京大虐殺記念館に週に2度も3度も通ってきているらしかった。
白いつなぎを着ていて、背は低め。単発で威勢のいい“あんちゃん”という雰囲気だった。

「日本人は嫌いだ!」と彼は開口一番、私に言った。

その時私は複数の見物人に囲まれていて、(恐らく)「変わった日本人がインタビューしてるぞ」という噂が回りに広がっていた。(できるだけ声を小さく、かつ目立たないように気を付けていたのだけれど、通訳付きではどこから見ても外国人で、しかも人だかりに動揺した私は相当目立つような動きをし始めていたと思う)

その男性ははじめ、人だかりの中から遠巻きに私を観察していた。
特にトゲトゲしい眼をしていたわけではないので、彼が「日本人は嫌い」だとは気づかず、なんとなく気になったその人にも気軽に声をかけてみた、というわけ。

それで「嫌いだ!」発言で私は一蹴されたのだが、その時も特に怒っている風ではなく、逆にほんの少し口元が弛んでいるように見えたせいか、あまり悪い気にならなかった。

「あ、そうですか、すいません」と私は軽く謝って他の人へ。
そうこうしている内に“そろそろお開き”という雰囲気になってきたので、その日の取材は終えて帰路に着こうと歩き出した。
するとさっきの男性が、未だに私の様子を窺っている。着かず離れずの距離で、特に話しかけてくるわけではなく、しかし明らかに物言いた気な表情でピッタリと歩調を合わせて付いて来るのだ。

”…なに?” と思う間もなく、私は自然に話しかけていた。

「この辺に住んでるんですか?」
また逃げられるかなぁと思ったけれど、彼は意外にもまともに答えてくれた。
「近くで働いてるんだ」
小さな声で、照れくさそうに、しかも少し笑っているような気がした。

「ここにはよく来るんですか?」「いつもこんなに人が多いんですか?」などと、たわいもない会話をしながら私たちは肩を並べて歩いた。ところどころリュウ君に訳してもらってはいたものの、見た目は何ら違和感なく、出口へと向かう人の流れに極自然に合流していた。

「どうして日本が嫌いなんですか?」と、内心ちょっと緊張しながら私は聞いてみた。

彼は少しの間だまり、急に顔を強ばらせて、ムシャクシャする気持ちを吐き捨てるようにして言った。
「日本人の心の中では、中国人は人じゃない。だから殺した」

「それは、日本政府がきちんと謝れば、許してくれますか?」
「…かもしれない」

どうしようもない、行き場のない怒りがそこにはあった。彼はきっと過去の先人たちに自分を重ね、中国人としてのプライドを傷つけられたことを深く深く恨み、虐げられた者にしか分からない悔しさを何年間も抱えながら生活してきたんだろう。彼が「暇になる度ここに来る」という、その憎しみの果てしなさを想って胸が痛くなった。

「だけど…、日本人の中にも、いい人だっているんですよ」
私にはそう言うのが精一杯だった。
「そうかもしれないね」と彼は我に返ったようにポツリと言って、「少なくとも君はいい人そうだ」と言って笑った。

   ♢  ♢  ♢

反日デモの報道を見る度に、彼のことを思い出す。
彼は、デモに参加しているだろうか、それとも、ほんの一瞬だけでも、あの時出会った風変わりな日本人を思い出してくれているだろうか。

デモの根本的な原因が必ずしも「反日」だけではないとしても、中国の多くの人が、日本に対するスッキリしない複雑な気持ちを抱えていることは事実だと思う。
戦後、様々な局面で(戦時中とは別の)侮辱感を味わった人たちは尚さら、「今こそ見返してやる時!」と内心思っているかもしれない。そう思われて当然の行為を、確かに一部の日本人はやってきた。日本でも、中国でも、他のアジアの国々でも。


それを「自分には関係ない」と思ってしまえばラクなんだけれど、なぜか…そう思えないのは自分の性分のせいか、何かにこだわっているのか、それとも報道出身者のお決まりな正義感からか…。
しかし深層心理を探れば、もしかしたら、小学校の頃から集団に馴染めず疎外感を感じてきた軽いトラウマみたいなものの反動かしら、と思わなくもない。
「LOVE & PEACE」なんてキレイ事ではなく、誰かが誰かを許容しない、されないという悲しさに、胸がツーンと痛くなる。

こどものいじめ問題が深刻になる一方の日本。
領土問題でぶっとんでいるけれど、こっちの根本的解決も、全く見えない状況にある。
中国や韓国にも、こどもに関する社会問題はたくさんあるんじゃないかな。

こどもの問題はオトナ社会の縮図だという。
日本も、中国も、韓国も、ツンツンしないで大人な対話をしましょうよ、と切に思う。



(南京の街角にて)


これまでとこれからのこと。ボルネオ

2012-08-10 | ボルネオの旅

第二の祖国であるボルネオ島・バリオ村と、わたしは今後どう付き合っていくか。
…そのことを、バリオ村に出会ったときからずっと考えている。

旅行者の一人としてたまに訪れる、というのではどうしてもイヤな理由は、多分、あの村を“自分の居場所”としてちゃんと位置づけたい、もしくは村人にそう認められたいと、強く願っているから。

どうしてバリオ村じゃなきゃいけないのか、という理由は、自分でもよく分からない。
恐らく明確な答えなんかはなくて、あるとすれば、「前世の血が騒いだ」という類いのもの…つまり超個人的で独りよがりで主観的な、「だってスキなんだもん」に尽きるように思う。

当然、日本の田舎で何か活動を始めようとする都会人が、必ずぶつかる「ヨソモノ」という壁が、そこにもある。
だけど日本の田舎出身の私にとってみれば、日本の田舎より、ボルネオの田舎の方が、ずっと「ヨソモノ」に対してオープンかつ開放的なんじゃないかな。

もしくは、日本だったら変に空気を読みすぎちゃって、誤読も相まって勝手に疎外感を感じてしまうところ、ボルネオでは楽観的でいられるからラクチン♪…ってことなのかもしれない。
…いやいや、それだったらボルネオでも他の土地でも、似たような田舎は至るところにあるしなぁ。


バリオ村に出会って以来、「土地とのご縁」を信じるようになった。
人、景色、空気感、におい、人の暮らし方、そして土そのもの。
そのどれもが自分を受け入れてくれそうな予感がしたとき、「ご縁」というのは結ばれるんじゃないかと思う。


バリオ村の社会的課題は、日本の田舎とよく似ている。

若者が都会に出て行ったまま帰ってこない
農業を続ける人が減っていく
自分たちの文化や風習が受け継がれなくなっている

それらが日本の場合と少し違うのは、単に村だけの問題ではなく、それが民族の問題だということ。
村の衰退と消滅は、民族としてのアイデンティティを失うことに直結するということ。
それは多分、「故郷を失う」のとは比較にならないほどの喪失感だろうなと想像する。

一時期は、そうした「民族的大ピンチ村」が世界にどれくらいあって、それぞれの村人がどんな取り組みをしているのか?…みたいなことを取材して回れたらいいなと思ってたんだよね。
だけどその構想は私のチカラ不足と資金不足と根性不足のために棚上げされ、その前に、もっと具体的なことで動けないか?と考えるようになった。その取っ掛かりとして、今回2年ぶりにバリオに飛んだというわけです。


そしてこうやってつらつらとブログを書きながら、頭を“そっちモード”に切り替えて、午後からバリオ企画を視覚化しようと思っています。
何と何を結びつけて、誰をどう動かして…と、全く初挑戦の連続だけれど、これは必ず新しい快感につながるはずだと信じているから。それに、これは今までにたくさんの情報(ネタ)をもらい、たくさんの写真を撮らせてもらった私の責任でもあるからね。

「取材人」であることを目指してきた自分の、新しい次のステージが始まる予感です。



(ボルネオのジャングルに自生する野生ショウガの花♡食用にも◎)


2012年夏 旅の全貌

2012-08-08 | ボルネオの旅

先日、ボルネオ~ミンダナオの旅から帰ってきました。
LCC(格安航空機)をこれほど乗り継いだのは…初めて?久しぶり? なので、記録も兼ねて記しておきます。
もしイレギュラーな旅をされる方は、片道購入が可能なLCCが超おススメ。
ほんと、「エアバス」という言葉がピッタリです。

7/18(水) 23:45 羽田発 → 6:10 クアラルンプール着
7/19(木) 9:30 クアラルンプール発 → 12:05 コタキナバル着

航空機:Air Asia
運賃:31684円(全て含む)





コタキナバルは、東マレーシア(ボルネオ島)サバ州の州都。
熱帯雨林エコツアーやオランウータンで有名なところです。

とはいえ、市街地はこんな↑感じ。
ショッピングモールがいくつかありますが、比較的こじんまりしたきれいな街です。
熱帯雨林ツアーに行く人は、更に飛行機で1時間のところにあるサンダカンという街に行くみたい。


7/21(土) 9:50 コタキナバル発 → 10:40 ミリ着

航空機:Air Asia
運賃:3622円(145MR)

これをですね、私はウッカリ乗り損ね、午後発のマレーシア航空便を別途購入する羽目になりました。

17:20 コタキナバル発 → 16:10 ミリ着

航空機:マレーシア航空国内線
運賃:6082円(240MR)



私と同じように乗り損ねた人が3人いて、そのうちの一人の女の子と一緒に次の便をとりました。
乗り損ねたのは空港のサインボードが間違っていたせいで、私たち4人は懸命にAir Asiaの職員に訴えたのだけれどどうしようもなく…。その日中にミリに着かねばならない私と彼女は、涙を飲んで別会社の航空券を買い直したのあります。


(マレーシア航空でも、国内線は小さい)


ミリは、サバ州の南にあるサラワク州の都市。
サバ州とサラワク州は、結構雰囲気が違います。
ひとことでいえば…サバ州は観光客誘致のためにすごく整備されている感じ。
サラワク州は華僑色が強く、整えられていないところが逆に魅力的?かも。





ミリでは、いつもはホストファミリー宅に泊まるのですが、今回は4年前に泊まったゲストハウスに泊まることに。
そのゲストハウスのオーナーであるDavid機長に再会できて、今回の旅の幸運をゲットしました☆



7/22(日) 10:05 ミリ発 → 10:55 バリオ着

航空機:MasWing
運賃:2888円(116MR)



バリオ行きの飛行機は、15人乗りくらいの小型機です。
もちろん機長席は丸見え。
客席の前方上には小さな扇風機が付いていて、いかにも「空飛んでる!」という生々しさを感じられます。



バリオはボルネオ島でもインドネシア領に近い奥地地帯にある小さな村です。
その辺一帯はクラビット高原と呼ばれ、標高が高いので真夏でも朝晩は肌寒いくらいで実に快適。
南国なのに…と行くときには妙な気分にはなりますが、まさに日本の避暑地にピッタリです。

2年ぶりに降り立ったバリオ村は、メイン道路がセメントで固められ、村の中心には大きなホールが建てられていて、随分発展したな~という印象でした。
でも懸念していたような“悪い”発展じゃなく、バリオらしい雰囲気を残しつつ、少しずつ便利になっている感じでホッとひと安心。実際、道路はやはりセメントの方がバイクで走りやすいです。これなら自転車でも走れるしね。

ここで、7/26-28の3日間、第7回フードフェスティバルが開かれたのです。
詳細は後日ビデオにて、ということにしますが、とにかく私はそれに合わせて来たわけで、同じくバリオに注目しているローカルツーリズム研究者や文化人類学者などの海外勢が何人か来ていました。

あと、イギリスからの高校生が100人ほど来ていて、ジャングルトレッキングやらボランティア作業やらをしていました。
彼らは1ヶ月もマレーシアに滞在して、各地でいろいろな体験をするのだそう。元植民地との交流事業?とはいえ、イギリスってやることが大胆だね…。


(フェスで売られていたお弁当。激ウマでした)

(いつもの夕飯。ジャングルフード)

(私が到着した日の前日にもらわれてきたメス犬の「スキ」)


7/29(日) 9:20 バリオ発 → 10:10 ミリ着
     14:50 ミリ発 → 17:00 クアラルンプール着

航空機:Air Asia
運賃:6195円 (248MR)



マレーシアの首都・クアラルンプールは大都会です。
写真は有名なツインタワー(&満月が真ん中に!!!)。

なんと今回、10年ぶりにココに来たので妙な感慨にふけってしまいました。
そして4年ぶりの友人にも会えて、たくさんたくさん話もできたしね。


(住宅マンションの窓には大量の洗濯物が!)

(LCCは大抵、飛行機まで歩く)

(そして階段で機内へ。今度はCebu Pacificね)

7/30(月) 18:30 クアラルンプール発 → 22:10 マニラ着
7/31(火) 5:40 マニラ発 → 7:25 ダバオ着

航空機:Cebu Pacific
運賃:16580円







マニラ行きの飛行機では、もういきなり「フィリピン!」という雰囲気になります。
まず機内のアナウンスが急にフィリピン訛りになる(Cebu Pacificだから尚更)し、お客さんも声が大きくなる…ような気がする。
私の個人的な気分としては、マレーシア→フィリピン の移動は、東京→大阪 に行くみたいな感じです。…なんというか、暑苦しくて疲れるんだけどやめられない! …みたいな。タガログ語やビサヤ語(フィリピン南部の言葉)を聞いてるだけで、あまりのチャーミングさに嬉しくなるもんね。


(ダバオ空港)

(ダバオはドリアンで有名な街!)

ミンダナオ島の大都市ダバオは、思いのほかピースフルなところでした。
ゲリラ闘争が未だ解決しないミンダナオ島なので、危険区域になっていないとはいえ、どれほどの危険度かしら~と思っていたのですが、外務省の出先である在ダバオ出張駐在官事務所にも出向いて確認したところ、スリや引ったくりの被害さえほとんどないのだそうです。
街の人いわく、「市長が厳しいからね」「フィリピンで最も安全な街だと断言できるよ」と。



ここでのミッションは、今年10月に予定している知り合いのツアーをコーディネイトすること。
まず日系人会の方にお会いしに行き、交流事業が可能かを相談。
次いで日本人墓地などを下見して、見学に何分ほどかかるか見て回りました。


(日系人会が運営するインターナショナルスクールのこどもたち。とっても雰囲気のいい学校です)

(戦争で亡くなった日本人兵士や日系人の墓地は、地元の人達がいつもきれいにしてくれています)


8/2(木) 10:55 ダバオ発 → 12:40 マニラ着
    15:20 マニラ発 → 19:55 関西着

航空機:Cebu Pacific
運賃:24406円




(月が自ら光りだす過程は、神秘そのものでした)


そんなこんなで無事帰国し、その日の夜行バスに乗り込んで、翌日の朝東京の自宅に着きました。

いや~、強行だったけど、なんとか最後までいったね。

ミッションも、ほぼ全てこなしました。
そのお話はまた今度。

…あ、そうだ、今回の旅で購入したモノを最後に公開しまーす。





ちょっと今回はいろいろ買いすぎたんですけどね、よく見るとほとんど日用品…。
まるで買い出しに行ったようだ、と帰国の度に思います。
(でもオイスターソースが約50円なんだから、やっぱり買わなきゃでしょ!!)