アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

ジャングルに生きる。

2008-03-25 | ボルネオの旅(-2009年)
プナン族の家族がハンティングに出かけるというので、着いていくことにした。

隣村のPa’ Lunganから戻った翌日のことでいささか疲れていたけれど、又とないチャンスだと思い、自らの体力の限界に挑戦!・・・とはじめから意気込んでいたのなら良かったのだが、「まぁせいぜい1~2時間の道のりだ」と聞かされていた(もしくは聞き間違えていた)ので、ほんの軽い気持ちで同行を決意したのだった。

誘ってくれたのは、ホームステイ先の家主でリアンのお父さん、デイビッド。
「僕は年寄りだから歩くのが遅い。僕と一緒に来れば大丈夫だよ。」


そして私たちはジャングルに分け入り、冒険は始まった。





Bario村を出てしばらく歩くと、だだっ広いバッファローの放牧地がある。そこを横断するように突っ切った先に、突然ジャングルの入り口は現れた。

どんどん狭くなっていくけもの道。

雨が降り出し、カッパを羽織る。

ところどころでは、木が荒々しく切り倒されて道がつくられていた。茶色く濁った川にはただ一本の丸太や竹がかけられていて、下を見ないように真っすぐ前を向き、そろりそろりとバランスをとって渡った。

森の様相は場所によって大きく異なる。細くて低い木ばかりのところもあれば、まさしくジャングルといった雑多で深い森が続くところもある。
ブッシュをかき分け、横たわる大木を乗り越える。けもの道は次第に小川に変わり、聞こえてくるのはビチャビチャという自分の足音だけ。水をしたためた粘土質の赤い土と、白くて砂状の柔らかい土がぐちゃぐちゃになって足元をすくう。もはや、靴や靴下やズボンの裾など気にしていられなくなる。


「もしかして・・・、来ちゃった?私???」


進んでも進んでも更に奥へと続いているけもの道をひたすら歩きながら自分に問いかけた。


“これは・・夢?・・・それとも罰ゲーム? っていうか、マジ???”





彼らが目指した目的地までは、結局5時間の道のりだった。しかも休憩は1回のみという超ハードウォーキングで。(3回の休憩込みで4時間かかったPa’ Lunganまででさえ相当キツかったのに!)
ちなみにプナン族の彼らだけだったら、2時間で到着しているところだという。ジャングルに育てられた強靭な足腰に、乾杯。。。


着いた先は、デイビッドの別荘ほか5棟ほどの小屋が建ち並ぶPa’ Berang (パバラン) という場所だった。



  +++++++++++++++++++++++++++++++



プナン族、正確には Penan族の人たちは、家族単位で森の中に住んでいる。
生活の中心は “狩り”で、獲物を求めて移動するのが常だという。

デイビッドによると、プナンの人口は約1万人ほど。Barioなどの村で暮らしているクラビット族が約5~6千人だというから、その2倍近くの人口がジャングルに点在していることになる。


私が体力を押し切って彼らに同行したのは、何を隠そう彼らにインタビューを申し込む絶好のチャンスだと思ったからだ。
木材の伐採企業に抵抗し続けている彼らの言い分や状況について。またジャングルでの生活を貫くポリシーについて・・・。


私が日本を発つ前、インターネットで知り得たニュースには、こんな記事が載っていた。

『2007年3月、マレーシア・サラワク州の熱帯雨林に住むプナン民族は、マレーシアのサムリン社による伐採に抗議するため、再び道路封鎖を設置した。』by ブルーノ・マンサー財団

つまりプナン族の人たちは、1980年代から伐採操業を阻止するための道路封鎖を度々行っていて、伐採企業やマレーシア政府との対立が続いているのだという。
(参考:http://www.jca.apc.org/jatan/trade/malaysia.htm 、http://www.kiwi-us.com/~scc/ )

ちなみにここでいう『プナン』とは Punan族のことで、私が同行した Penan族とは異なる民族らしい。が、いずれもジャングルで狩りを中心に生活していることに違いはなく、伐採による被害を被ってることも変わらない。


彼らの生活圏であり生活の全てでもある熱帯雨林を荒らし、資源を奪い取ろうとする伐採企業。彼らは当然、並々ならぬ怒りと不満を抱いているに違いない・・・と、私は安易に想像した。
そしてその背景にいる私たち先進国の人間に対しても、もしかしたら強い憤りを感じているかもしれない。私たちは何も知らずに、相変わらず輸入材を大量消費しているけれど・・・。


   +++++++++++++++++++++++++++++++


翌日の朝。
デイビッドの通訳の元、インタビューは実現した。

答えてくれたのは、一家の主である父親のタマ・ライ氏。
私「伐採企業との対立は、今どんな状況なんですか?」
タ「対立している地域もあるけれど、ここにはまだ来ていないよ。」
私「もしここにも伐採の手が回ってきたら?」
タ「どうしようもない。どう対抗すればいいのか僕たちには術がないよ。」
私「話し合いや交渉はしないんですか?」
タ「しているよ。伐採企業と対立している地域では、開発の見返りに現金を要求しているんだ。じゃないと我々は生活ができない。でも彼らは金は一切払わないんだよ。」

ダムをつくるときでも何でも、立ち退きを要求する場合には金の交渉で決着をつけるのがフツウだ。けれどここでは、かつては各民族が保有していた土地の所有権が、国の政策で一気に国に委譲されたため、定住していないプナン族の人たちは特にとても弱い立場に追い込まれている。

私「そうすると、お金さえもらえれば伐採は許されるということですか?」
タ「そうだね。でも彼らは絶対に金は払わないよ。」

「そうだ、払わない。1万人いるプナン人全てに金を払うなんてことはしないよ。」
デイビッドが口を添えた。

私「では、ジャングルで生活し続けているポリシーは何ですか?なぜ定住せずに、ワイルドな生活を続けるんですか?」

私は、きっと彼らにとっては失礼にあたるだろう質問を、恐る恐る投げかけてみた。





ちょうどこのハンティングツアーに出かける前日のこと、ダイニングで一緒にテレビを見ていたリアンがぼそっとこんなことを言い出した。

「プナン族の人たちは頑ななんだ。時代は常に変わっているのに、彼らは一向に変わろうとしない。国の支援を自ら断っているから健康面や衛生面で未だに多くの問題を抱えているし、教育さえ受けようとしないから交渉の仕方を知らないんだ。僕らクラビット族はいつだって彼らをサポートしようとしているのに、彼らは聞かないんだよ。考え方が古いんだ。」

実際リアンたち家族はタマ・ライ一家を度々食事に招き、古着を分け与え、彼らとのコミュニケーションを図りながらできるだけの支援や助言をしていた。それでも彼らは森での生活を選び、息子たちは学校に行くことを拒み続けている。



タマ・ライ氏は言った。
「変えたいんだよ。今の生活を変えて、便利な生活をしたい。でもどうやって変えたらいいかが分からないんだ。」



先祖代々、何百年にも渡って森での生活を営んできた。
例え有り余る程のお金をもらい「ここに定住すればいい」と言われても、 きっと彼らにとって生活基盤を変えることは、そう容易いことではないのだろう。


「熱帯雨林の伐採に関しては、どの民族も同じように反対しているんだ。ただプナン族だけが、交渉の術を知らないが故に過激な行動に出て、マスコミなんかの注目を浴びてるんだよ。」

リアンの言葉が重く頭に響いた。


変わりたい気持ちと、変わりたくない気持ち、変われない現実、変わることへの怖さ・・・。
プナン族の人たちは、「怒り」や「不満」よりも、もしかしたら何にも増して「困惑」しているのかもしれない。





そして私も同じく「困惑」していた。
ジャングルの中で暮らす彼らの生き方を心から尊敬する一方で、事実、その生活を脅かす側の大量消費国家に私は生きている。熱帯雨林の開発や違法伐採を続ける企業を非難はするものの、何をどうすればいいのか、具体的な行動は何ひとつできていない。

そして何より、企業への抗議活動を続ける彼らに “ジャングルでの生活を変えてほしくない” もしくは “変わりたいなんて思ってほしくない” と思っている自分が、なんだかとても無責任な人間のように思えた。



だけど何となく、ぼんやりと思うことがある。

「困惑」している状態は少なくともマイナスではない。安易に割り切ってしまうよりも、ましてや答えを出すことを諦めてしまうよりも、「困惑」しながら前に進むことは、答えを出すまでの大事な過程に違いない。


彼らがこの先どんな風に自分たちの生活を守り、どんな風に変化を受け入れていくのか。
私も、私にできることを根気づよく探しながら、現実と向き合わなきゃな、と思う。


“Food” がキーワードなのです。

2008-03-22 | ボルネオの旅(-2009年)
この村で初めてFood Festivalが開かれたのは3年前。
伝統食を見直し、観光客を呼び寄せ、村を活性化するのが狙いだという。今年は3月中旬に1週間開かれ、30人ほどの観光客が訪れた。

私が到着したのはちょうどその翌日で、まだ村に祭りの名残惜しさが漂っていた。
Barioというこの村の名前さえ知らなかった私が祭りに合わせて来られた訳はなく、しかしタイミングこそ逃したものの、祭りを成功させた主要人物たちのほとぼりの冷めていない内に話を聞くことができたのは幸いだった。


「食」のあり方が見直されているのは世界的なことで、ヨーロッパを中心に「スローフード」ブームが続いている。
ここBarioにFood Festivalをもたらした根源はイギリス人のJasonという人物で、彼によると、ヨーロッパではフードツーリズム(日本でいうグリーンツーリズム)のマーケットが相当な額に上っているのだとか。(正確な数字を忘れてしまった。。なんておバカさんm(_ _;)m)


彼は私に、そのスポットを見いだす条件を3つ教えてくれた。
①伝統的な食文化があること  
②景観がよいこと 
③交通手段が整っていること

Barioはこのうち③の交通手段が極めて乏しい(なんせ飛行機でしか来られないんだから。。)けれど、にも関わらず、特に欧米ではBarioの名が口コミで広がり、既に「知る人ぞ知る」人気の観光スポットになっている。ちなみに日本人でここを訪れるのは、熱帯雨林の研究者とその学生のみ。・・といっても過言ではない。あとは無計画ゆえに流れ着いた変わり者か。

そんなこんなで、とにかくジャングルの真ん中にあるこんな小さな村にFood Festivalの火は付いた。

詳細は実際に見ていないので何とも書きようがないが、様々な伝統料理が振る舞われた他、民族舞踊やゲームで人々は多いに盛り上がったのだという。もちろん、地元サラワク州での報道に加えヨーロッパの雑誌でも取り上げられている。


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村から歩いて4時間ほどの所にPa’ Lunganという村がある。
Miriで知り合ったパイロット・Davidのおススメだったので、ジャングルトレッキングを含め訪れてみることにした。

同行してくれたのは、ベテランガイドのLarry。中年らしからぬスマートな体型で、なかなか男前なナイスガイだ。

「これは野生の生姜で、茎も花も実も食べられるけど、根は食べられない。」
「この植物はこうやって皮を剥いで食べるんだ。」
「ぜんまいには食べられる種類が3つある。昨日君が食べたのはこの赤いやつだよ。」
「これも食べられる葉。肉と合わせて炒めると日本のスシよりずっと美味しいよ。」





Larryはところどころで立ち止まっては説明をし、生で食べられるものはその場で食べ方を教えてくれ、私はそれらを恐る恐る口にした。

彼らはときに、森のことを「ジャングル・スーパーマーケット」と呼ぶ。
欲しい食材は全て森の中にあるという意味らしく、確かに食卓に並べられるおかずは、どれも森の中で手に入れられる野生的なものばかりだった。





例えば今日の朝食はこんな感じ。
簡単に炒めたナシゴレン(炒飯)に、青葉の炒め物、小魚のフライ、タピオカ(イモみたいな根菜)のフライとマッシュボール。夜にはこれに加え、鶏肉やシシ肉、鹿の肉、魚、小貝などが並べられる。
時にはインスタントラーメンやクッキーも食べるけれど、あくまでおやつ代わりだ。


Pa’ Lunganで私たちを出迎えてくれたSupangさんは、食事のたびにひとつひとつ料理の説明をしてくれた。
「これは葉っぱとキノコを煮込んでつくったスープで、伝統的な料理よ。こっちはイノシシを焼いたもの。ソースに付けて食べるとおいしいわ。これは別のキノコと青葉を炒めた料理。全てジャングルスーパーマーケットのものよ。」

夫婦2人で営んでいる民宿風のアットホームな家には、特別なものは何ひとつない。
ただただ彼らの温かさと、手入れされた庭、丁寧に仕立てられたベッドメイキング、ダイニングに飾られたランの花なんかが、訪れる人の気持ちを穏やかにしてくれていた。


「そしてこれが、私たちが誇るBarioライスよ。知ってるでしょう?この辺りのお米は特別においしいのよ。」

「Barioはお米がおいしい」というのは、ここに来る前にも何度か耳にした。
標高が高いために朝晩の気温差が大きいこと、源流からのきれいな水が得られることなどがその理由だが、何にも増してBarioの人たちの気合いというか、米に対する誇りを強く感じる。

「日本の米と味比べしてみたこともあるんだよ。」
ホームステイ先の世話人・リアンは言った。
「こうやって、名前を隠してね、ん~おいしいね、こっちもおいしいね~って言ってさ、でも最後にはやっぱりBarioライスが最高だったよ。」

米粒は日本米のように太っちょではなく、少し細長くてパサパサした感じだが、炊くと水分を含んでふっくらと膨らみ、日本米に負けず劣らずしっとりした食感になる。どちらがおいしいかは好みの問題なので何とも言えないが、ここのお米は「最も日本米に近い」んじゃないかと個人的には思っている。


「でも、米をつくる人はだんだん減ってきてるんだ。」
リアンは続けて言った。
「Barioライスはブランドになってるけど、都会では他の安い米の方がよく売れる。Barioで米をつくっても、あまりいい収入にはならないんだよ。」

なんと、ここでも日本と同じ農業の問題があるのだ。
つまり、中国などの安米に押されて現金収入が少なくなる、若者が都会に流れる、農家が高齢化する、生産量が減少する・・・。Barioでは一部の米を直接ヨーロッパに輸出してブランドを保っているらしいが、それでも国内での需要が伸びない限り、全体的な状況が好転することは難しい。




この村の伝統と文化と景観を守るために、観光客を呼び寄せ、「食」をもってもてなし、自分たちの意識を高め、共に喜び合う。

Food Festivalやグリーンツーリズムは始まったばかり。

ジャングルに囲まれたこんなに小さな村で、新しい取り組みはゆっくりと確実に進んでいる。



いのちを食べる生活

2008-03-20 | ボルネオの旅(-2009年)
今はちょうど、イノシシのシーズンらしい。

昨日、散歩に出て宿に戻ると、リアンのいとこが狩ってきたらしい体長1mほどのイノシシの頭が台所に置いてあった。
「何、これ?」
籠から鼻先だけが突き出ているその物体を、私は怪訝そうに眺めて聞いた。
「あぁ、もらってきたんだ。」
リアンは何気ない風に答えながら、不審がる私の様子を面白がるようにちょっとニヤけてみせた。近くで親戚の女の子がそわそわしながらリアンの後を付いて回っている。
「ふーん。」
私は既にリアンと女の子などそっちのけで、どう見ても獣らしきその物体に目を丸くして見入っていた。短い毛がまばらにツンツンと生えているその鼻先は、少し湿り気を帯び、表面のしわの溝の辺りから今にも独特の獣の臭いが漂ってきそうなほどリアルだ。

「やるか。」
しばらくしてリアンはその籠から獣を取り出し、台所のシンクの上に無造作にドンっとそれを置いた。


日本でも、この一人旅に出るちょうど直前にシシ鍋をご馳走になったばかり。
「イノシシってどうやって解体するんですか?」
私は一人目を丸くして聞いていた。

狩った獣を解体するには、まず血を抜いて内蔵を取り出し、いくつかのパーツに切り離す。そして表面を軽く焼くか、もしくは熱湯をかけて柔らかくし、一気に毛を剥ぎ落とす。

全てこっちで見て知ったことだが、この毛剥ぎの作業がなかなか面倒で手間がかかる。毛さえなくなれば、あとは細切りにして調理するだけ。
こっちでは、鍋に放り込むまでの全ての過程が「男の仕事」と決められている。


「頭は欲しがる人が少ないんだよね。」
リアンはそう言いながら、その頭の毛に付いた寄生虫を手でつまんでは捨てた。すぐ隣では女の子がその手さばきを観察している。私は、まだ目の玉が青いイノシシの頭をレンズ越しに眺め、2人の様子も眺めながら、声も出せずにただシャッターを切っていた。





日常の中に、真っ赤な血のついた肉の塊や、まだ顔の付いた獣がフツウにある、というのは何とも不思議な光景だ。日本でこの光景を再現したら、きっと教育委員会かどこかからお叱りが来るに違いないが、ここではこれが「当たり前」。初めこそ驚いたものの、いちいち首をすくめてもいられない。

それでもやはり、台所に獣がもたらされる度に “不思議な” 気分になる。単なる “抵抗感” ではなく、“好奇心” でもない。心がシーンと静まりかえり、どこか安心するような、納得するような、しかし本当は逃げたいような、逃げたくはないような・・・。
ただ「これが現実なんだ」と目の前の光景を受け入れ、一体化していく感覚に、ある種の爽快感を覚えたりもする。


大学の頃に、友達同士で鶏の解体をしてみたことがある。
養鶏場で一羽の鶏をもらってきて、川辺で皆で首を絞めた。
肉を食べるということはどういうことなのか?・・・“いのち” に対するそんな “分からなさ” が、じわじわと広がり始めていた頃だった。

去年暮れから再びそういった類いの話題や議論を何度か聞いている。けれど、家畜を殺めて肉を得る過程は極端に私たちの日常から離れていて、教育やら食育やらで “いのち” の大切さが謳われる割に、一番大切な血なまぐさい部分は相変わらずタブーなまま。私を含め社会派の人たちがいくらその現状を疑問視したところで、“いのちを食べる” 実感が得られるようになるはずはない。


ところで、血を見たあとに食べる肉は、別に血の味がするわけではない。
・・・いやしかし、大学のあの時は確かに食べる時に抵抗感があったことを思うと、私が精神的に強くなったのか? それとも図太くなったのか・・・?
肉は肉の味がして変わりなく美味しいし、逆に丸々と肥えた鶏なんかを見たら、つい「おいしそ~・・・」と思ってしまう。

もちろん、仕留めた獲物の肉を無駄にすることはない。
村の誰かが大きなイノシシを担いで帰った日には、村のあちこちでバーベキューの煙が上がる。解体した肉がそれぞれに配られ、もしくは売られて何十人分もの御馳走になるのだ。



「狩り」や「獣」や「解体」など、日本の今までの生活ではまるで経験したことのない現代っ子の私が、それらを目の前にし、受け入れ、自分の日常感覚の一部にまで昇華させようとしている。そしてなぜかそれが、私にとっては実に “心地いい” 毎日で、とても “落ち着く” 空間になっている事実に、何より “不思議な” 感覚を覚える。
きっと、少なくとも人生の中で一度でもこうした経験を得られたことは、すごく幸せなことなんじゃないかと思う。


今夜も、村の誰かが銃を持って森に入る。

明日のご馳走は・・・・・サル? かもね。



デジブック公開*其の壱*ジャングル暮らし

2008-03-19 | ボルネオの旅(-2009年)
ジャングル暮らし



こんなデジブックをつくりました。
写真集のデジタル版。

まずは「ボルネオ島の編」です。

無料制作のため、30日間だけ見られます。

写真ビデオ展にはなかった写真の数々をどうぞご堪能ください。。。
(ちょっと肉肉してます。肉嫌いの方はご注意。)

世界一の村・Bario

2008-03-18 | ボルネオの旅(-2009年)
この村の何が「世界一」なのか?
それはマレーシア本島からボルネオ島に飛ぶ飛行機の中で聞かされた。

「あー、ここ、このバリオって村はいいよ。バリオ。ここは世界一だ。」

標高が高いからちょっと寒いけどね、とその男性はにっこり笑って言った。

何が「世界一」かというと、その男性が言うには、「お米」が世界一なのだという。
・・・タイ米に代表される東南アジアの長細いお米が「世界一」だなんて、ふざけた話を・・ と、私は腹の中で笑った。


けれどどうやらこのBarioという村が素晴らしいことは間違いないらしい、とその後何人かの話で私は考えを改め始める。
一体何があるのかはよく分からないが、手元にある英語のガイドブックにも「一度行ったら帰りたくなくなる」というようなことが書いてあった。
そこに住んでいるのは Kelabit (クラビット)民族で、Bario米というブランド米の産地・・・だとか。

私は予定していたムル国立公園を変更して、Bario行きの飛行機を予約した。


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12人しか乗れない小型の飛行機は45分間、せわしなくプロペラを回して熱帯雨林の上を飛行し、きれいに整えられた田んぼと数棟の集落が見えるその小さな村に無事着陸した。空港の建物は手づくり感あふれる白と水色の木造で、飛行機からその建物まで歩いていく間だけで全貌がすっかり見渡せてしまうほどのコンパクトさだ。村人らしき年寄りや子どもたちが、到着した飛行機を嬉しそうに眺めていた。


ところで私はガイドブックに載っていた Labang LongHaouse (ラバンロングハウス) をこの村での宿泊先に選んでいた。そして予約のために電話をかけたところ、こんなことを聞かされたのだった。

「空港に着いたら、誰にでもいいから“リアンの家に連れて行って”と頼んでちょうだい。タクシーやバスはないけど、誰でも快く連れて行ってくれるから。10RM (約340円) のお礼を払うといいわ。」

更に別の人からはこんなことを言われていた。

「空港のカフェにピーターという男がいると思うから、彼に声をかけてみたらいいよ。奴は別にカフェで働いてるわけではないけど、まぁ大抵いつもそこにいるんだ。僕が通っていた10年間は変わらずそこにいたから、きっと今でも同じだよ。」


・・・バスはない、タクシーもない、誰にでも声をかけていい、カフェに働いてもいない男が毎日通っている、・・・つまり全く想像がつかないトンでもなさそうな場所に、私は今足っているのだった。





Labang LongHouseは、60歳を過ぎた父親と息子のリアンが営んでいる実にアットホームなゲストハウスで、横一列にズラ~っと部屋が並んでいるボルネオ島の伝統的な家屋でホームステイ気分が味わえる、とても贅沢な宿だった。
このLongHouseと呼ばれる伝統的家屋は、長い家では端から端までが100m以上もあり、何十家族もの親戚一同が共同生活を送っているという。しかしそうした大人数での生活は今では珍しく、Labang家のようにゲストハウスに活用したり、クリスマスや祝い事で人が集まる場所になっていたり、はたまた大きな家に少人数がひっそり暮らしていたりするのが現状なのだとか。



リアンに村の簡単な地図をもらい、ぐるり一周歩いてみることにした。

「道は一本しかないから迷うことはないよ。ぐるっと歩いて2時間くらいかな。」


白い一本のでこぼこ道に導かれるように、私はゆっくりと歩き出した。
両際には刈り終えた後の田んぼが広がっていて、その向こう側に緑生い茂る山々が見える。
日本人、特に田舎育ちの者なら誰もが感じるだろう “懐かしい” 景色が、そこに広がっていた。

人々は、天然の素材でつくられた籠を担いで歩いているか、もしくは泥だらけのオートバイに2人乗りで走っているか・・・。たまに4WDのごつい車が荷物や人を運んで通り過ぎる。道がでこぼこのために水たまりがあちこちにあり、オートバイや車は上下左右に大きく揺れ、水を弾きながらゆっくりと走っているのだった。

ちなみにこの村の人口はわずか500人ほど。なので道ゆく人はそう多くなく、ましてや車などは数えるくらいしかない。恐らく村全体で2台か、3台か・・・。人気のブランドはTOYOTA。オートバイならHONDAやYAMAHA。ガソリンなどと一緒に、街から船で運んだそうだ。





そしてこの村の驚くべきは、「人」。
人がみな、驚くべき笑顔なのだ。

出会う人出会う人、みなが笑顔で挨拶する。
見知らぬ外国人の私にも、目が合えば必ずにこっと微笑む。

ここに来てようやく分かった、「誰にでも声をかけていい」理由。
こうして「一度行ったら帰りたくなくなる」場所はつくられているのだ。


率直に思った。

・・・うらやましい。そして、ここに住みたい。


もし何十年か前の日本がこんな風なのだったら、私は本当に昔の人を羨ましく思う。
車も電気も、贅沢品なんかは充分にはないけれど、人々の心に笑顔があり、他社を受け入れる余裕があり、村全体が穏やかさに満ちている。そこは少なくとも私にとって抜群に居心地がよく、理由などなしにほっと安心できる場所だった。


日本では「スローライフ」という言葉が流行っている。
けれど私たちは生まれたときから「ファーストライフ」の社会にいて、とにかく上を向いて頑張って頑張って頑張り通さなきゃいけないように教え込まれている。確かに「スローライフ」に憧れこそするものの、例えば農業を始めてみたところで余計にアクセクした生活を送らなきゃいけなくなる可能性だって低くない。

まさに「スローライフ」を形に表したようなこの村で、私は初めてその意味を知った。

スローライフとは、きっと心の問題だ。

心を穏やかに、自分や他人を思いやり、余裕をもって毎日を暮らすこと。
そんなゆったりした気持ちになるために、あまりに便利すぎるものは必要ない、もしくはない方がいいのかもしれない。

一度は経験してみるといい。
私はここで、こうして体中で「スローな」喜びを味わえたこと、そのことに感謝したいと思う。



第一回「アジアの力」の裏舞台。

2008-03-18 | お知らせ
2009年6月12~14日に開かれた「アジアの力~アジアの光と陰~」。

たくさんの方にご来場いただき、無事終えることができました。
応援してくださった皆さま、どうもありがとうございました。m(_ _)m


ここでは、特に ”強力な” 協力をいただいた方々を紹介させていただきますね。

まずイベントの後援をいただいたのは、
 ● 越前市教育委員会
 ● 鯖江市教育委員会
 ● 福井新聞社
 ● 福井テレビ
 ● FM福井
        の皆さま。
今回の企画趣旨にご賛同いただき、いわゆる “お墨付き” を付けてくださいました。

そしてイベントの取材・掲載をしてくださったところ。出た順に
 ◎ 月刊ウララ
 ◎ 情報誌 fu
 ◎ FM福井
 ◎ 丹南FMラジオ
 ◎ 福井新聞
 ◎ 毎日新聞
 ◎ 福井テレビ
         の皆々さま。
本当に有り難いことです。そして、取材を受けるのも楽しませてもらいました♪
ありがとうございます。


そしてそして、物質的に助けていただいた方々が、
 ☆ ピロール農法を推進している肥料会社・エルゴン
 ☆ 木工房 蔵
 ☆ フォトスタジオ夏目
 ☆ セーレン商事株式会社
             様々。
エルゴンさんには会場を無料で貸していただいただけでなく、イベントのポスターをプリントしていただいたり、準備段階から何かにつけご協力いただきました。

そしてそのお隣にある木工房 蔵さんには、クラフト体験の材料を用意してもらったり、私の写真会場で使った手づくりのイーゼル(写真の額を乗せていたもの)を作っていただいたり、またまた会場の準備でいろんな工具を貸していただいたりしました。

夏目さんには今回展示した全ての写真をプリントしてもらったのですが、夏目さんの並々ならぬご好意で、ほとんど紙とインク代のみ!という特別価格でご協力いただきました。
何度もスタジオに通い、プリントした写真をパネルに貼る作業も汗だくになりながら一緒に手伝ってくださったり、大きな写真がプリントされるまでの長~い時間、いろいろな話題で私の好奇心を満たしてくださったり・・・。更には写真を会場に展示する時にも、娘さんと一緒に駆けつけ手伝ってくださいました。



セーレン商事さんには、会場の窓に大きく展示した布プリントの「布」を、特別価格で提供していただきました。
あの布は、表面にインクが綺麗にのるように特別加工されたもので、しかも防炎加工までされているものだそうです。正規で買うと・・・高いです。
今回イベントの趣旨や私の活動内容などをご説明したところ、担当の方が自社のイベント用に保存している分を特別に分けてくださいまいした。
それを夏目さんのスタジオでプリントしてみてビックリ!!! 自分が撮った写真ながら、その仕上がりにうっとり・・・。セーレンさんの高い技術と、セーレン商事さんの厚いご好意に心から感謝します。m(_ _)m





最後に、これまた多大なご協力をいただいた個人の方々をご紹介。

そもそも今回のイベントを企画してくださったのは、あの会場敷地内に住んでおられる S・よし子さん。
ものすごくエネルギッシュな方で、回りの人たちをいつの間にか巻き込んでしまう不思議なパワーの持ち主です。その強力なパワーに私も背中を押されて、今回のイベントをここまで大きく成功させることができました。

そして「アジアの力」というタイトルを考えてくださったのは、三国でフリーのキュレーター(学芸員)をされている上出さん。土曜日に行われたトークショーの司会も務めてくださいました。さすがイベントや展示の企画に関してプロ中のプロ。今回の盛りだくさん過ぎるプログラムも上手~く整理整頓してくださいました。

写真会場の真ん中にあった柱に、山から取ってきたツタを巻き付けてくださったのは、建築士の藤原さん。
「毎朝6時半に山に登っている」という自然愛好家で、当日は、枝で可愛らしい自動車のおもちゃを作ったりもしてくださました。お孫さんはさぞかし楽しいだろうな~。こんなおじいちゃんが欲しい・・・。

またアジアンな雰囲気を出すのに一役買ってくれた、ヤギのアイちゃん・シロちゃん。
この2頭を連れてきてくれたのは、さかい農園の酒井さんです。まるでアイちゃん・シロちゃんの実の父親のような、つまりヤギにそっくりな(?)、穏やかで愛嬌いっぱいのおじさまです。




そしてそして! 
土曜日に行われたインドサリーの着付師は、鯖江で輸入食材の店をしていらっしゃるバングラデシュ人のシャンパさん。
自らもキラキラのサリーを着て、私が買い付けてきたインド産のサリーを美しく着せてくださいました。
ちなみにサリーを着るときのコツは、前ベルトの位置で最初に折り畳むサリー布の “折り方” なのだそうです。私たちが着物を着るときにその美しいラインを出すのにこだわるように、シャンパさんはサリーをとにかく丁寧にこだわって着せてくださっていました。

隣でやっていた「モンペづくり」担当は、美方町からわざわざ駆けつけてくれた、きれい系お姉さんのマイちゃん。
モンペだけでなく、私がインドで買ってきた布を使って、可愛らしいオリジナルワンピースを数着つくってくれました。もちろんその場で販売していたのですが、可愛すぎて商品だと思われなかったのかな?まだ私の手元に残っています。本当に可愛いから、是非私が買いたいくらい・・・。一品一品に愛情もたっぷり注がれています。



そのお隣では、いつもナチュラル系で愛嬌バツグンのジュンジュンちゃんが、私がアジア各国で買い付けてきたアクセサリーや布などを販売してくれていました。
とにかく自分が欲しいものばかりを買い付けてきたので、どれも思い入れがあり、かつどれもおススメできるものばかり。・・・だったのですが、その値付け作業というのが意外と難しいことを、今回よ~く思い知らされました。
私の金銭感覚がよろしくない上に商売はド素人なもので、原価を思い出しては適当に付けた値段を「そんなの安過ぎるよ~」とお客さんからも言われて2倍の金額を寄付してもらったり・・・。そこをジュンジュンちゃんが上手くフォローしながら手伝ってくれたのです。

その他、月刊ウララを見てボランティアを買って出てきてくれた、イケメン志田くん。
同じく準備段階で知り合って会場づくり(掃除)を手伝ってくれた、福井大学の野田くん。
当日のアジアンカフェで美味しいコーヒー/紅茶を入れてくださった近藤さん。
雑貨の販売で使わせてもらった超ユニークなトラックを貸してくださった内藤さん。
ヤギの敷き藁を提供してくれた、藁造形作家の村上くん。
トークショーで使った椅子を提供してくれた、大湊神社の松村さんと、それを運んできてくれた丸山さん。

その他いっぱいの人たちのお陰で、今回のイベントは支えられていました。
本当に、本当に有り難いことです。心から感謝しています。


それにしても、こうした手づくりのイベントというのは、まさに人脈の成せる技ですね。。。
手伝ってくださる人たちも、見に来てくださる人たちも、まさに自分のそれまでの人付き合いが試される・・・といっても過言ではありません。

今回はその辺を、プロドゥーサー役だったS・よし子さんがガッツリやってくださったのでこれだけ人が集まったわけです。いや~、素晴らしい。


ここを出発点に、今回新しく出会えた人たちとも結びつきながら、次回以降もがんばるぞー!

こうやって自分が学んだことを提示し、それによって再び自分が学ばせてもらいながら、相互作用で成長していくんですね~。人間って、すばらしいなぁ。

ボルネオ!!

2008-03-17 | ボルネオの旅(-2009年)
その島はマレーシア本島の東側、フィリピンのちょうど南に位置する。
日本の面積の約2倍もある、とても大きな島。

島には3つの国があって、左側がマレーシア、右側がインドネシア、そして左上の海岸に申し分けなさそうにちょこっとブルネイという国が在る。
私が訪れたのはマレーシアのサラワク州。中でも、北部のサバ州に最も近い「Miri(ミリ)」という街を旅先に選んだ。

ボルネオ島といえば、恐らく最も有名なのが「オラウータン」だろう。特にサバ州の国立公園に多く生息している。
「首狩り族」が昔いたことも、ちょっとだけ有名かもしれない。
もしくは「手つかずの森」「未開の土地」「野生動物の宝庫」・・・そんな神秘的かつ謎めいたイメージが一般的かもしれない。


私がこの島を選んだ理由は、そんな自然溢れるイメージと裏腹に、南部のサラワク州から大量の木材が輸出されている、とインターネットで知ったからだ。世界的にも主要な木材輸出国であるマレーシアにおいて、サラワク州からの輸出量が最も多いのだとか。

何なんだ、このギャップは・・・。

更にネットで情報を仕入れていく内に、「プナン人」という言葉を何度も目にするようになった。

「プナン人は自分たちの土地や生活を守るため、木材伐採の道路にバリケードをつくって抵抗を続けている。」
(http://www.jca.apc.org/jatan/trade/malaysia.htm , http://www.kiwi-us.com/~scc/)

情報が少々古いものの、そうやって地道に反対運動をしている民族がサラワク州にいるんだな、と私は思った。その現場の地図を載せていた唯一のページから、最も近い街はMiri(ミリ)なのだと知った。


憧れでもあった “自然溢れる” ボルネオ島へ、インターネット上で知った “問題の” 現場を探しに、私は複雑な心境を抱えて行くことになった。
島のイメージなんてものはない。全く想像ができなかった。一体どんな街並なのか、そもそも街なんてものはあるのか?まさか空港に着いていきなりジャングル、なんてことはないだろうけれど・・・。


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着いた先のMiriという街は、意外にも「ふつう」で小綺麗な街だった。
道路はアスファルトで日本車や韓国車がびゅんびゅん走っている。
建物はコンクリート。中国チックなよく似たものがずらりと並んでいる。
クアラルンプールみたいにイスラム教の布を被った女性は少なく、大抵の人はふつうの洋装をしている。
街路樹の緑が青々としている。空は青くて広い。
道幅が広いせいか、もしくは人ごみがないせいか、街全体がゆったりと穏やかな空気に包まれていた。


そうか、ボルネオ島っていってもフツーなんだな、と私は思った。

それもそのはず、今どき島全体が「未開」なんてことはあり得ない。ましてやここは日本の2倍もある大きな島。華僑が放っておくはずがない。


街の一角にあるドミトリー(安宿)に荷物を置いて、私は早速辺りの散策に出かけた。

街の中心部はアスファルトとコンクリートに街路樹があるくらいの無機質な風景だが、川沿いに行くと、水の上に建っている木造の家や、芝生に建てられた手づくりの小屋みたいな可愛らしい家、それらが集まった小さな集落なんかを垣間みれる。それはとても穏やかな風景で、通りがかりに出くわしたおじさんが「どっから来たんだい?」と気さくに話しかけてくれたりもする。

だけどひとつだけ気になることがあった。
川がひどく茶色いのだ。場所によっては赤いところもある。

「川が濁ってるのはどうしてなの?」

宿に帰って、同じ部屋の Josephに聞いた。彼はサラワク州の別の街で働いているマレー人。休日には一人で国内旅行するのが好きなんだそうだ。

「コーヒー色だったろ?あれは全部伐採のせいだよ。土が大量に流されるんだ。」

「赤いのは?」
「あれは何とかっていう酸の色さ。土の成分が溶け出た自然の色だよ。」

彼は大手オイル会社のシェルで働いているらしく、Bintuluという同じサラワク州内の街で進んでいるアルミニウム精製の一大事業のことや、そこで懸念されている公害問題のことも教えてくれた。

「ほとんどの人は、温暖化とか環境問題にはあまり関心がないと思う。経済のためなら仕方ないと思ってるんだ。それより今は公害問題が大きい。アルミニウム精製が本格的に始まれば海や川が間違いなく汚染されるし、そうじゃなくたって今は皆が車に乗っていて排気ガスを出している。エアコンだって使うし、プラスティックもたくさん使っては捨てている。それらを燃やせば有害な煙が出て酸性雨になるだろう?」


彼は、日本は何でもシステム化するのが上手だからいいね、と言った。日本では木を切ってもちゃんと植える、だけどここでは切りっぱなし。違法伐採だってあるんだよ、と。

「天然資源はいっぱいあるのに、僕たちは裕福にはなれないんだ。結局は政治なんだよ。ボルネオの資源はみんな本島に持っていかれるんだ。ここでの生活に不自由はないし幸せに暮らしてはいるけれど、だけどやっぱり不公平だと思う。テレビや新聞の情報操作だってあるしね。」

だけど政治に関しては、最近ようやく流れが変わりつつあるのだという。つい先日行われた選挙でそれまでの野党が勝ち、今は政治が混乱してはいるけれど、若者がちゃんと考え動いている証拠なんだと彼は誇らしげに言った。


私にとって全くの未知だったボルネオ島にも時代の波は押し寄せ、そして確実に変化が現れている。それは人々の生活に、環境に、心に、そして政治にも。

「意外とフツー」どころじゃない、私たちは同時代に生きている。


熱帯雨林へようこそ

2008-03-17 | ボルネオの旅(-2009年)
クアラルンプールの中心部から車で1~2時間ほどの郊外に、通称 FRIM(フリム)と呼ばれる熱帯雨林の研究機関がある。
友人のアンソニー君が「急遽大切な会議が入った!」と言うのでそのまま着いて来た。

FRIMの広大な敷地には、コースによって30分~3時間かけて歩ける熱帯雨林のトレッキング道がある。スタッフによればその森は原生林ではなくニ次的に(もしくは人工的に)つくられたものらしいのだが、森の様相、例えば樹々の高さや太さ、種類の多さ、草、ツタ類などは原生林を思わせるほどに素晴らしく、「鬱蒼と」している。


森を歩いて数分、あることに気付いた。

やけに騒がしい、のだ。


足を止めると更に四方八方からいろいろな音が聞こえてくる。

  ジィージィー

   ピッピッピッピ

    ザーーーーーーー

      フィ~イッ


そういえば7年前に熱帯雨林の研究に訪れたとき、何より1番驚いたのは次から次へと寄ってくる「虫」の種類だった。ただひとつとして同じ顔ぶれはなく、特に虫好きではない私でも、そのカラフルさと奇妙な姿形に、気持ち悪さを超えてじぃーっと見入ってしまった。

そうだ、熱帯雨林というのは「うるさい」ところなのだ。

様々な虫の音(しかも大きい!)に加え、いろいろな鳥があちらこちらでさえずる。
頭上を覆う巨木たちは風に木の葉を揺らす。
そしてこうした森の音が、そこに棲む生き物の豊かな世界を想像させてくれる。

ちなみに「樹冠」と呼ばれる森の天井は、同じ背丈の樹々がお互いに縄張りを張るように枝を伸ばし合ってつくられ、下から見ればちょうどパッチワークのような綺麗な模様を見ることができる。それは限りある太陽の光をお互いが効率よく分け合う方法であり、同時にその隙間から注がれる木漏れ日を幼木に分け与える方法でもある。
誰が仕向けたわけでもないそうした自然のシステムを、植物は長い年月の中で作り上げてきたのだ。


私は自分を囲んでいる大小の樹々をぐるっと見渡しながら何度も大きく息をした。

ここにどれほどの生き物が潜んでいるのか。
この地下に、どれほどの水が蓄えられているのか。
この一面の緑は、一体どれほどの酸素を放出しているのか。
ここでどれほど多くの生と死が繰り広げられ、それがどれほど長い間続けられてきたのか。

私たちは、たとえどんなに遠くに暮らしていても、必ず熱帯雨林の恩恵を受けて生きている。

あなたがいるから、私がいるー。
自然界で保たれている生き物同士のそんな微妙なバランスは、地球規模で考えても同じこと。
どこかが大きく崩れれば、必ず全体が崩れてしまうのだ。

だから、貴重。
だから、私たちは森を簡単に壊しちゃいけない。


写真を撮りながらゆっくりと歩く私の腕は、既に何十もの蚊に刺された痕で赤く腫れ上がっていた。袖の長いシャツは一応持ってはいたものの、迂闊にも七分袖だったのだ・・・。
次回は長~い袖のシャツを持参しようっと。
心も身体も、もっと緑で満たされるように。

モスクなアジア

2008-03-16 | ボルネオの旅(-2009年)
ここはマレーシアの首都・クアラルンプール。
人口の6割近くがイスラム教徒の国。

空港に降り立てば、頭から黒や白や色とりどりの布をかぶった女性が目立つ。
服は全身ずっぽりと緩いワンピース。これは特にイスラム教徒じゃなくてもマレーシアの正装みたいなものだ。

友人に連れられて行った先は、ピンク色の可愛い大きなモスクだった。
このモスクだけは、イスラム教じゃない観光客でも中に入って見学できるという。

ただし、純真なキリスト教徒である私の友人は
「僕は入れないから外で待ってるよ。」
とのこと。

一人よそよそと中に入り、これまたピンク色の ”観光客用” ムスリム羽織(?)を着る。
ゲートをくぐった先のすぐ左手側にその羽織は用意されてあって、いかにも着回している感じのあまり綺麗とはいえないそれらが、衣紋掛けに無造作にかけられているのだった。

中では本物のイスラム教徒が数人、床に額を押し当てながらお祈りをしている。観光客は境内では自由に動くことができるけれど、祈りの場である建物の中に入ることはできない。
私以外の観光客らしき人たちもまた、物珍しそうに中の様子を観察していた。


アメリカの9.11事件以来、「宗教対立」という言葉が目につくようになった。
特にイスラム教 VS キリスト教。
どちらもが相手を敵視して、その両者は絶対に混じり得ないような、そんなイメージをもってしまう。
日本では、その実情はなかなか分からないし、そうした人達の気持ちや感覚も分かりにくい。

ここマレーシアでは、確かにイスラム教徒が大半ではあるものの、キリスト教徒も仏教徒もヒンドゥー教徒も混ざっている。それぞれがそれぞれの信じるスタイルで、お互いに干渉することなく暮らしているように見える。
街にはモスクもあれば教会もあり、お寺もひっそりと建っている。

こうやって、ひとつの国にいろんな宗教があることの方が、世界的にみれば “フツウ” なんだろう。

ある人は他宗教のことを良く思っていないかもしれない。
けれどある人は、そんなことは全く気にせずに誰とでも友達になれるかもしれない。

私の友人だって、キリスト教徒ではあるけれどこうして快く私をモスクに案内してくれるし、別のイスラム教徒の友達だって、キリスト教のことを悪く言ってなんかいないもの。


日常的に自分とは別の宗教を信じる人と毎日顔を合わせる環境で、「宗教対立」なんて言葉は意味を成さないような気さえする。保守的な人、排他的な人、内心では全く受け入れられない人もたくさんいるだろうけれど、多宗教の日常というのは、少なくとも日本で想像するものより穏やかであることは間違いないと思う。

みんな “フツー” に生きてるんだ。

プランテーションとマーガリン

2008-03-15 | ボルネオの旅(-2009年)
日本を飛び立って約7時間半後、飛行機がマレー半島に近づいてきた頃にその光景は広がる。
目下、一面のプランテーション。

まるで大仏様の頭のように均一な緑色のボコボコか、もしくはこれからそうなろうとしている、まだ露な剥き出しの大地。

プランテーションには2種類ある。
「天然ゴム」か「油ヤシ」。
いずれも濃い緑が生い茂る豊かな森のように見えるけれど、実際にはそれらの樹脂や果実を大量生産する巨大農園だ。元々あった森林を破壊し、例えば50年前日本が山に杉や檜ばかりを植えたように、マレーシアではゴムと油ヤシが広大な大地を埋め尽くしている。

出迎えてくれたマレーシア大学大学院の友達、アンソニー君が言った。

「この辺りは元々森林だったんだけど、今ではこの有り様だよ。空港にまでプランテーションがあるんだ。おかげでマレーシア本島に原生林はほとんど残ってない。熱帯雨林に棲む貴重な動植物や絶滅危惧種が、どんどん減っているんだ。」


7年前、大学生の頃に熱帯雨林の研究のためこの地を訪れた。
熱帯雨林、つまり「森」という場所には、とにかくいろんな種類の樹や草や虫や動物が棲んでいる。そこに足を踏み入れると、驚くほどにうるさい虫の声。サワサワと葉が重なり響く風の音。そのどれひとつもが同じではない。一体どれほどの種類の生物が潜んでいるんだろうと、背筋がゾクッとさえする。

アンソニー君は続けた。

「ゴムと油ヤシの農園は安全だよ。本当に安全だ。だけど製造に関しては分からない。恐らく・・、特にパーム油の製造は環境に相当な影響を与えていると思う。なぜなら油ヤシは大量の化学肥料を必要とするからね。」

森から有用な木材を取り出し、木材供給の機能を失った森を一気にプランテーションに変える。その機能も失った土地が、最後に住宅地に変えられるのだという。

「経済的には、森を農園に変えれば利益が上がる。森はお金に姿を変えることで僕たちの経済を支えていて、そこには大きな価値があるんだ。だけど僕たちは、本来の森がもつ生物学的な価値や多様性の価値にも目を向けなきゃいけない。そこにはたくさんの動物や希少生物、更にはまだ人間に発見されていない生物だっているんだよ。もし僕らがお金の価値しか考えなかったら、それらは全部なくなってしまうんだ。僕らはお金を得ることはできる、でもお金にならない価値は、失えば永遠に取り返せないんだ。」


天然ゴムと油ヤシに関して、マレーシアは世界最大の生産国。
特に日本はそのほとんどをマレーシアから輸入している。
用途は、8割がマーガリン、マヨネーズ、調理用油など。(http://www.jccu.coop/eco/siryo/eco_060531_01.htmより)

全てはギブ&テイクで成り立っている。私たちが毎日お金を出して買い物をするように、日本国も多くのものや資源を他国から輸入し、そして資源を売る側の国々は、常に何かを犠牲にすることで自国の経済を成り立たせている。その代償が、いつか買う側にも訪れるかもしれないことを伏せて。


インターネットの情報によれば、つい3~4年前から「持続可能なパーム油生産」のための組織間での合意がされているらしい。それがどこまで効力をもって機能しているのか私は知らないが、どうか、せめて今在るプランテーションが環境にこれ以上の負荷をかけることなく管理されていくことを望むしかない。

「途上国が、森林の価値をもっと認識すべきなんだ。例えば希少生物が生息する地域は開発を避けるとか、保護と開発をどうバランスつけていくかを真剣に考えるべきだ。先進国は、金を出す代わりに欲しいものを提供しろと言うだけだろ?誰がそれ以上のことを気にかける?・・・そうだね、確かに買う側が商品の背景を知って、場合によっては買うことを検討することも大切かもしれないけどね。」


日本のニュースに上がることはほとんどない、未だに続くプランテーションの拡大。
そのやり方が、国際的にも草の根的にも、とにかくしっかりと監視されていってほしい。

売る側がやるべきことと、買う側がやるべきこと。
とりあえず明日スーパーに行ったら、マーガリンコーナーの前で立ち止まって商品を見比べてみようと思う。

はじめに。

2008-03-15 | このブログについて
「アジアの力」とは、生きる力です。
それは、どんな状況にあっても前を向く力です。

私が旅して見たものの数々を、そこに生きる人々の強さや逞しさ、そして優しさの一遍を、このサイトを通してお伝えしていこうと思います。そこから何かしらの力や希望を感じとってもらえたなら・・・。

光ある場所には必ず闇があります。
闇があるから光が見えます。
だから闇を見ることを恐れずに、そこにある小さな光を見失わないように、少しでもその光に闇が照らされるように努力したい。本当の「希望」は、そこにあります。


私たちが生きるアジアという大地は、本当にすばらしい。

まずは知ること、そして感じること。
そして思い立ったらどんどん旅立っちゃってください。
そこには想像を超えた「現実」や「矛盾」があり、それらを呑み込むように大きな「力」が在りますから。


このサイトではそうしたアジアの光と闇をリポートし、共に学び、考えるためのささやかな情報提供をしていきたいと思います。

「アジアの力」展開催までのお話。

2008-03-13 | このブログについて
「アジアの力」という写真ビデオ展が、2009年6月12・13・14日に福井県越前市で開かれました。

県内の新聞、テレビ、雑誌、ラジオにも取り上げていただき、たくさんの方々が足を運んでくださいました。本当に有り難いことです。


ところでこの「アジアの力」が開催されることになった経緯を少し・・・。

実は1年間の旅の途中で、2回、日本に一時帰国をしていました。7月と11月のことです。
その2回目の帰国時に、いつも私のことを面白がってくれ、何かにつけて飲み会を開いてくれているM氏が「一時帰国おでん会」たるものを開いてくれました。仲間同士が集まる、というよりは、彼の人脈で人が集まる、という不思議な飲み会です。

初対面の人や、顔には覚えがあるけど名前は覚えてない・・という人が何人かいる中、おでんをたらふく食べた私はそーっとパソコンを持ち出しました。
「あのー、せっかくなので、ちょっとだけ見ます?」とか言って。


とりあえず見せたのが、フィリピンのごみ山で撮った映像でした。
日本のNGO団体であるICANに提供するために撮影・編集した10分ほどの映像です。

「へぇ~!これ、ここだけで見せるのもったいなくない?もっとたくさんの人に見てもらおっさ!」

・・・・・へ?

思いっきり酒の席で、皆さん何に興味あるのかも分からず恐る恐る見せた映像に対する反応に、正直私は戸惑いました。

私「いや、そんなのいいです。これはNGOに提供するために作ったものなので・・・。一般に見せる用じゃないし。」
Sさん「なんで???せっかくつくったのにもったいない!」
Mくん「じゃ~第一回目、俺ん家でやりま~す!!」
Sさん「じゃ~二回目はウチで決定!!!」
私「・・・・・・はぁ。」


そんなこんなで、酔っぱらいなんだか正気なんだか分からないまま、話はその場でトントン拍子に決まってしまいました。


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その数日後、第一回目のビデオ展が、本当に!三国で開かれました。
会場は、藁造形作家の村上裕介くんのアトリエ。
「ぼくらのアジア」というタイトルを付けました。

ごみ山の映像に私が解説を付けてしゃべり、質疑応答の後みんなで鍋を囲んで語り合うという内容で、20人ほどの人が来てくださいました。今度は村上くんの人脈で人が集まったので、これまた私の知らない方ばかり。
「映像に出てくるのが女性ばっかりなのが気になるなぁ。男は何をしてるんだ?」
そんな意見・質問もありました。

そんな中、そこに来られていた写真家のIさんが、第二回(「アジアの力」第一回)の写真プリントを全面的に協力してくださることになりました。
鍋の用意を手伝ってくれたJちゃんは、「アジアの力」の物販で協力してくれました。
村上くんはヤギの寝床になる藁を提供してくれました。


こうやって、人が人を呼び、つながって「アジアの力」になったのです。

面白いでしょ~。
全てはあの夜の「おでん」から始まったのです。


「アジアの力」は「おでん」にあり!


いや~、人がつながっていく力こそが、「アジアの力」なんだろうなぁ~。

旅立つ前の長いお話。

2008-03-13 | このブログについて
突如、世界一周の旅に出かけたのは2008年3月。

それまで地元のテレビ局で報道記者を務め、天職だと思ったその職の延長線上にドキュメンタリー番組のディレクターを夢見、だったら世界規模でやっていけるようにとアメリカでドキュメンタリー制作のインターン(実地研修)をすることを決意。
しかし受け入れ先も決まっていざ出発!という矢先に、その映画監督さんががんで倒れ入院することに・・・。

監督さんのお身体を心配する反面、自分の行き先はどうしようもなく、その後半年間ほかの受け入れ先を探したけれど見つからず、困り果てていた頃にたまたま見つけたのが「インドでのインターン」でした。
Video Volunteer というその団体は、アメリカ人の若い女性がCNNを辞めて立ち上げたNGOで、決して裕福ではない現地の人達にビデオカメラを渡し、自分たちで自分たちの状況をリポートさせ、それを英語に訳してインターネットで配信するという活動をしています。
「これだ~!」と思って早速コンタクトをとり、何度かメールをやり取りして、インターン(もしくはボランティア)としての受け入れを許可してくれそうな手応えを得ることができました。

そこでせっかちな私は「最終の返答を待つだけなら日本にいなくても大丈夫!」と、早速インドに向かう準備を始めます。
「とりあえず行っちゃえ!」というわけです。
と、そこで思いついたのが「世界一周」でした。
「インドまで行くなら、せっかくだしいろいろ寄り道しようかな。」


「アジア」に特別興味があったわけではありません。逆に「アジアって戦後の日本みたいな感じなんでしょ。」くらいにしか思っていませんでした。
開発途上な街の喧噪、貧しさ、裸の子どもたち、段々畑、温かい笑顔、のどかな風景・・・。昔のありがちなモノクロ写真を思い起こさせます。

一方で “放浪系” の旅の代表格として、インドへの憧れはありました。一度ハマるとやめられなくなるらしい・・・。藤原新也さんの幻想的な写真などから、生と死が混在するインドのカオス的なイメージがありました。

「だけど本当のところはよく分からないから、この際気になる場所を見て回ろう。」

そんなこんなで、世界一周の準備が始まりました。


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最初に考えたのが、ルートです。
いろいろ行ってみたい場所があるはずなのに、いざ旅のルートを決めようとするとどこに行けばいいのか分からない。
地図を眺めれば眺めるほど、ピンポイントで選ぶことができないのです。

「そうか、全体的なテーマがないからだ。」

ということで、旅のテーマを決めることにしました。
「私は何を見たいのか?」「それを見ることで私はその後何をしたいのか?」、自問自答が続きました。

結果出た答え。
「ずーっと考え続けている環境問題に今後本腰を入れて取り組みたい。だから、その現状を今のうちに自分の目で見てみたい。」
パソコンを開き、インターネットで情報を集め始めました。

例えばこんな情報です。
『丸太の輸入量=日本:世界第3位。』
『インドネシアの合板を日本が大量輸入。その8~9割は違法伐採と推測される。』
『パプアニューギニアでかつて王子製紙が熱帯雨林を皆伐。森林の60%はすでに消失し、その90%は違法伐採だったと推定。』
『バーチャルウォーターと呼ばれる間接水(家畜を育てるため等に使用)の大量輸出入により、水が枯渇する地域が生まれる。日本の輸入先=1位:アメリカ、2位:オーストラリア』
『水産物の輸入量=日本:世界第1位。太平洋/大西洋のマグロ、タラ、ヒラメがこの50年間で90%減少。日本の輸入先=中国、アメリカ、チリ、タイ・・・』

それらはただの「情報」もしくは「データ」でしかないつまらない文字の羅列ですが、まさにこれからその現場に行くかもしれない!と思うと見事に立体的に浮かんで私に迫って来るかのようでした。

「この中から、実際に飛行機のチケットを買う場所を選ぶんだ・・・。」


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1年間で行ける場所なんて限られています。
ましてや「環境問題」なんて幅広いテーマなら尚更。大きな問題が勃発している場所だけでもアチコチ切りがありません。

なので、後は独断と偏見で。

以下、私が作ったルートです。

《日本→マレーシア→ボルネオ島→フィリピン→タイ→スリランカ→インド→ケニア→ドバイ→アメリカ→メキシコ→日本》

「世界一周航空券」というものを使えば、これだけ回って52万円。お得でしょう?
ちなみにこれ以外の国や地域に行く場合には自費になります。

そうして、「インドに半年」を第一目的にした欲張りな旅が始まったのです。