アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

「世界とこどもの写真展」プレ開催

2015-01-31 | 2015年たわごと

連載気分だった工場日和がすっかり中断状態になってしまい、これではただの愚痴&怒りブログじゃないか…と心から反省中。

ですが、とにかく目の回る忙しさだったことは確かで、今日ようやく、それが一段落しました。

 

何に駆けずり回っていたかというと、例の写真展。大阪の某小学校で、一昨日からはじまりました。

 

 

展示したのは、A1サイズ8枚と、A4サイズ約100枚。

なんせ学校の廊下(しかも靴箱の上!)なので、悩みに悩んだ結果、白い段ボールで一面を覆い、壁をつくることにしました。

パネルは途中で落ちてこないように、強力な両面テープでガッツリ貼り付け。

これで再使用できないことが決定。。。したわけであります。^^;
(A1パネルはさすがに再使用しないとお金が続かないので、ピン留めorイーゼルにしました)

 

この制作過程で、考えたこと数知れず。

 

そもそも私はなぜここまでガンバルのか…、ということについて。

それは、時間的資金的支出を考えると、とても今の自分が敢行すべきことではないからです。

 

深層心理的な理由は幾つかあるものの、恐らくメインの原動力は2つなのかな、と考え至りました。

ひとつは危機感。

こども(あるいは若者)の殺人事件や自死が頻発していたり、ヘイトスピーチ等で信じられない言葉が公然と発せられていたりする昨今、なんだか日本中がストレスに覆われて、こどもや外国人や障がい者など弱い立場の人たちが真っ先に“やられて”いるような気が(私は)しています。

それは温暖化問題に似ていて、比較的条件の良い地域ではその影響の深刻さは感じられにくい。大きな被害が出るのは大抵、もともと気候条件が厳しい乾燥地帯や洪水地帯、つまり途上国です。 
それがどんどん進んでいって後戻りできなくなった頃に、 他人事だった問題が自分事となって日本でもニュースに取り上げられるようになる。そしてそれまでひっそりと苦しんできた人たちは、その根本的原因が議論されることもなく単なる過去の災いとなってしまう。

すっごく漠然としてますが、そんなイメージです。

それが当たっているかどうかは分からないけれど、自分がそう感じてしまっている以上は何かアクションを起こさなければ気が済まず、その努力なしにただ暗いニュースを読んで未来を嘆くほど無責任なことってないんじゃないか、と思ってしまっているの。

…なんてクソマジメな愛国精神なんでしょう。

 

もうひとつは、ご縁です。

この小学校の校長先生が掲げる教育方針にあまりに激しく共感して、つまるところ、惚れてしまったというわけ。
…そうなると、ミツグ君になってしまうのです。私。

展示作業中に校長先生は何度も様子を見にきてくださり、その度に「うわっ!すごいなぁ~」と感嘆の声を上げてくれました。その大阪人らしい反応がまた嬉しくて、本当にやってよかったなぁ…としみじみ。

教育方針とは一般に「多文化教育」と呼ばれるもので、特に外国ルーツのこどもが多い地域や学校では欠かせない「異文化コミュニケーション」や「相互理解」の土台となるものです。

易しい言葉でいえば、「自分に自信をもって、かつ自分と同じように他人も大事にできるようになること」…かな。

そのためには自分の地域のこと(自文化)と、その他の地域のこと(他文化)を知る機会が必要なのだと校長先生は言うのです。まさにそう、そうなんですよ。自分を知るためには外を見ることが大切で、外を知るためには自分を見ることが大切ということ。
私が何百万円もかけて世界を駆けずり回り、ようやく気づいた核心です。

 

だから、その一助となるなら何でもします!…というのが正直な心境。

同じポリシーをもつ人たちの協力で、最も素直で多感な時期のこどもたちに向けて自分の思いを表現できるなんて、それほど有り難く、かつ効果的なアクションは他にないっすよ。。。と思うわけです。

 

 

展示写真に囲まれた保健室の先生がおっしゃいました。

「写真に囲まれてると、なんだかすっごく気分がいいわ。もうずーっと置いといてくださいって感じです」

 

それぞれの国に、私たちと同じように笑ったり泣いたりしている人たちがいるということ。

ただそれだけのことを私は伝えたいんだろうなぁと、展示した写真群を眺めながら思いました。

 

これは人間讃歌。

 

この愛が、いろいろな思いを抱えて生きているこどもたちに、少しでも届きますように。

 


今日も工場日和-4 + 同和教育的思考

2015-01-11 | 2015年たわごと
次に巡ってきた考えは、我ながら突拍子のないものだった。
 
憎き愛人J をせめて架空の世界でコテンパンに侮辱してやろうと、私はハゲ社長と愛人J の肉の絡み合いを妄想し始めたのだ。
 
 
あの威圧的なハゲ社長だったら、きっと夜の要求も相当なものに違いない。
 
いや待てよ、逆に愛人J がS譲に化けることも想定できるかも。そういえば顔がSM漫画に出てきそうだし。
 
いずれにしても接吻は確実…だとして、それはどんな光景なのか…。


妄想が進むにつれ、たとえば社長の顔の脂の乗り具合や、いつもジト~っとした目つきで他人を見るその視線の先、満員電車でありがちな鼻にツンとくるオヤジ臭なんかが、実にリアルに私の脳内に広がった。
 
そして思った。
 
 
 
これは大変だ…。
 
 
 
具体的に想像するそのどれもが、フツウ、まだ若い女にとっては堪え難い苦痛に他ならなかった。
 
同じ初老でもダンディなオジサンなら話は別だ。つまり年齢が問題なのでもなければ、毛があるかどうかが問題なのでもない。
 
問題は「その社長」。
私は一目見た時から「なんか気持ち悪い」と感じていた、それくらい何やら独特のオーラを発しているのである。(女に一瞬で「気持ち悪い」と感じさせる男性なんて、そう多くいるもんじゃありません)
 
 
 
にも関わらず、それができてしまう J って、…何?
 
一体何に困っているの…?
 
 
 
私はハッとした。
 
これかぁ! これが校長先生の言っていた「同和教育の延長上」ってやつなんだ!
 
何か不可解な人や現象に出くわした時、その人自体を責めるのではなく、そうなった背景や経緯をまず考えること。
 
 
 
私はフィリピンの街に立ちすくんでいる J を想像した。
 
路上で物乞いする裸足のこどもたち、甘い声を出して白人を勧誘する水商売のギャル、青白いドブに溜まったプラスティック袋の山、そうしたドブの真横に座って飴やタバコをバラ売りする老人たち…。
 
フィリピンという国の大変さは、重々承知していた。
 
そんな状況を変えようと奮闘している人たちがいる一方で、事実、何も変わらない現実が重く大きく横たわっている。
 
 
 
そもそも日本で働いている日系フィリピーノには、大きく分けて2種類の人がいる。
 
ひとつは日本が貧しかった戦前にフィリピンに移住した日本人の家族および子孫。
もうひとつは、80年代以降エンターテイナーとして日本へ来たフィリピン人女性が、日本人男性との間に子供をつくったケース。
 
いずれも彼・彼女たちは「日系フィリピン人」として日本で働いている。
 
 
前者の旧日系人は、2世までは日本人(ほとんどは父親)の教育をしっかり受け、教養も高かったらしい。
けれどそうした父親たちはこぞって戦争に駆り出され、戦後は日本に強制帰還させられて家族だけがフィリピンに残された。そうなると、もはや日本は元敵国であるから、日本人の血が混じっているなどとは口外できなくなり、中には自分のルーツを知らないまま成長した人もいるという。
そうした人たちの身元証明作業は、今も細々と続けられている。
 
 
では現在日本で働いている日系フィリピン人に何か差があるか?というと、どちらも似たり寄ったりだ。
 
旧日系人会の学校でボランティア教員をしているY先生(日本人)によると、3世以降の旧日系人にはこんな問題があるらしい。
 
・両親が日本で働き、祖父母がこどもを育てているため、多くのこどもはほとんど学校に来ずに遊んでいる。祖父母は食事を与えるだけで、しつけはほとんどしない。
 
・大人になったら親と同じように日本へ働きに行けるため、勉強しなくてもいいと思っている。
 
・両親が毎月お金を送ってくれるので暮らしは裕福。しかし働く厳しさは教えられないし、親の背中を見ることもできていない。
 

後者の新日系人についてはちゃんと取材したことはないけれど、こどもが産まれた後、日本人男性とは別れて(中にはこどもも認知されずに)母子家庭として暮らす人が多いと聞いた。
もちろんそうでないケースもあるとは思うけれど。
 
 
 
そんなこんなで、フィリピンは自国が大変な上に、そこから飛び出してくる人たちも独特の背景を持っている場合が多い。
 
愛人J の場合は一体どうなのか。
 
 
 
その日の作業が終わり、タイムカードを押しに行く途中で J と鉢合わせになった。
 
私は、まだ何と聞いていいか分からないままだったのに、気づけば声をかけていた。
 
「ねえ、フィリピンに仕送りってしてるの?」
 
「してるよ」と J はあっけらかんと答える。口元には真っ赤な紅が塗り直されていた。
 
「仕送りって、だいたいいくらくらいなの?」
 
「いろいろ」
 
「20万とか?」
 
「そんなにしない! 20万は大きいよ!」
 
「じゃあ10万くらい?」
 
「そんなにしない! 3万とか、5万とか。家族が多い人は5万くらい」
 
「へぇ。でも(日本で働いてる人は)フィリピンに家とか建てるじゃん」
 
「うん」
 
「あれは3万とか5万のうち幾らかを貯金して建てるわけ?」
 
「そう」
 
「ふーん。そうなんだ」
 
 
 
なんとも取り留めのない会話だったけれど、私の気分は随分ラクになった。
 
J は普通に話してくれたし、話している時の私のキモチも、至って自然だった。
 
妄想ではもっと深刻な送金事情があるだろうと踏んでいたので、それが的外れだったのは肩すかしな感もあったけれど、そんなことはもはや二の次になっていた。
 
 
同和教育的思考は、硬くなった人の心を、考え方ひとつで柔らかくしてくれるものなんだな。
 
すげー。
 
 
とはいえ、私が本当の意味でこの件を乗り越えるには、あと一悶着せねばならないのです。
 
(さらにつづく)

今日も工場日和-5 + カテゴライズに対する論考

2015-01-10 | 日本の旅

2時間、4時間、6時間…と同じ環境・同じ姿勢で単一作業を続けていると、頭の中は思考停止に陥るか、もしくは徐々に思考が移ろいで意外なアイデアがひらめいたりする。

 

私はまず、「◯◯人」とカテゴライズしてしまうことについて考えを巡らせた。

 

例のフィリピン人女子2人のお陰で、私はすっかり「フィリピン人」が嫌いになりつつあった。

フィリピンは私にとって最も身近な国であり、日本人に次いで最も多く尊敬する友人がいるにも関わらず、である。

 

そんな風に嫌ってしまうのは、私に問題があるんだろうか。

 

とりあえず自己正当化するために、過去のいろいろな記憶をたどってみた。

まず旅先で必ず聞かれるのは「何人?」であり、「日本人」と答えると、「オーゥ!HONDA!」とか「トヨタ イズ ナンバーワン!」とかいう反応が(相手が陽気な人なら)返ってくる。もしくは、「日本人は英語が下手なのに、あなたは出来るのね」と言われることも頻繁にある。それは私の英語がどうこうではなく、日本人=英語が下手、という図式が蔓延っている表れであり、それより少しでもマシな英語を喋る日本人は「例外」ということになるってこと。

逆に「何人だと思う?」と聞き返すと、韓国ビジネスが盛んな地域なら「韓国人?」と言われるし、中国企業が多く進出している所なら「中国人?」と言われる。

そこで「違う、日本人」と答えると大抵の場合は好意的に受け止められ、「いいねぇ、日本人は礼儀が正しい」とか「日本人はいい人たちだ」などと言われることもある。

「だったら韓国人はどうなの?」とか「中国人と何が違うと思う?」と更に聞いてみると、うすらぼんやり、その国における韓国人や中国人の振る舞いの一部が垣間みれたりする。

 

たとえばこんなことを言われたことがある。

「韓国人は上から目線でエラそう」@フィリピン

「中国人は自分が欲しいものに突進してきて、根こそぎ持っていく」@インド

「中国人は口うるさくて、韓国人はすぐカッとなる」@確かイギリス

(その他諸々は忘れてしまいました…)

 

日本人に対しても、たとえば日本で10年以上働いているブラジル人Kは「日本人は怖い、厳しい、悪い(威圧的)」と基本的に思っていて、そうでない友人などは「例外」ということになっているらしい。

それは彼が出会ってきた日本人の総合評価として、決して間違いとはいえないと思う。

ただ、それが全てではないことも確かであり、こんな人もいるあんな人もいると考えていけば、そもそも◯人は~と一括りになどできないことも当たり前の話。それを分かった上で、それでも◯人は~と思ってしまうのが人間心理というものではないかと思うのだ。

 

私は再びフィリピン人について考えを巡らせた。

 

最も鮮やかに蘇る記憶は、フィリピン・ミンダナオ島のダバオという街で、日本語教師のボランティアをしている元校長のY先生に聞いたことだった。

「こっちの生徒は、日本では当たり前のことが本当にできないんですよ」とY先生は何度も私に言った。

「日本では当たり前のこと」というのは、たとえば授業中にお喋りしない、先生の話をちゃんと聞く、勝手にトイレに行かない、といった類いのことで、日本なら小学校1~2年生でしっかり教え込まれる学びの基本姿勢である。

それを、フィリピンでは先生が誰も教えないためにY先生が1人躍起になって注意しているというのだった。

 

また、「フィリピンの方の多くは情報伝達ということをあまりせず、学校でも突然そのときになって言われることがとても多いです」とのこと。

日本人の会議があまりに長いのも問題だとは思うけれど、逆に計画をほとんど立てずに思いつきで言ったり、変更したりするのも問題過ぎる。
 
けれどこれはタイでも同じらしく、「たとえばイベントをやった後に日本だったら必ず反省会をするけど、タイではやりっ放しで何も振り返らない」と、タイの保育園で2年間働いた日本人の友人が言っていた。
 
 
つまり日本の常識はその国の人たちの常識ではない、というだけでなく、そうした常識がない環境で生まれ育った人たちにとって、私たちが私たちの常識に則って考える理屈もまた、「ピント外れ」の可能性が高いのである。
 
たとえば「お喋りしていたら仕事(や勉強)に集中できないから静かにしましょう」と言っても、彼らは「え…なんで…?お喋りしててもちゃんと仕事はできるよ」と心の中で思っているかもしれず、もしそうであれば、いくらこちらが「合理的理由で注意した」と思っていても、相手には「日本人は厳しい」というあまりに漠然としたものしか受け取られずに「支配ー被支配」の構図ができてしまう結果になり兼ねない。
 
それは少なくとも私にとっては不本意だった。
 
何か注意を促す時は、その理由も含めきちんと納得してもらわなければ意味がない。
私がいなくなったらまた同じ問題が発生するというのでは、注意した甲斐がないのである。
 
 
 
だったらどんな理由を付けたらいいんだろう…。
 
仕事中にお喋りしたらいけない理由…。
 
 
 
次第に頭がボーッとしてきて、私はまた次の論考に吸い込まれていくのだった。
 
 
(つづく)

今日も工場日和-4

2015-01-08 | 日本の旅

昨日と今日で、めまぐるしく続報が更新しました。

2人のフィリピン人女子について。

 

以下ご報告します。

 

  ♦   ♦   ♦

 

 社長の愛人Jと、いかにもパブ勤めのプリケツAは、朝から相変わらずお喋りが盛んだった。

私たちのラインは、最初の2人が小さなプラスティック部品を取り付け、次の2人がビスで板金を(別々に)固定し、それを私が総点検(工場では検査という)して、最後の1人が番号シールを貼って箱詰めするという流れ。

順番に、ブラジル人(女子)→フィリピン人(男子)→フィリピン人(プリケツA)→フィリピン人(愛人J)→日本人(私)→ブラジル人(女子) となっていた。

つまりそのお喋りは私のすぐ隣で展開されることになるため、いくら気にしないでおこうと思っても強制的に耳に入ってくる。それもオールタガログ語なので意味が分からない。

それならBGMみたいなものじゃないか、と思われるかもしれないが、素人が喋るただの雑談はラジオのようなわけにはいかず、しかも何言ってるか分からないことが余計に耳障りで私を苛立たせた。

一昨日からかろうじて改善されたことは声のボリュームで、「うるさい!」と言われないための配慮は感じられたけれど。

 

とにかく私はイライラを懸命に押さえて時間が過ぎるのを待った。

声を小さくされているからには、むやみに注意するわけにもいかないかなと思って。

 

また、もうひとつ私が我慢せざるを得なくなった理由(変化)があった。

愛人J が、「リーダー」と前後に書かれたビブスを着始めたのだ。蛍光黄色の。

それは、社長命令か何だか知らないが、日本人社員のライン担当者と愛人J が着用する、とても奇妙なものだった。
今さら一体誰にアピールしようというのか…。 

 

そしてハプニングは起きた。

 

総点検係の私が、パチンコ台(これもプラスティック製でパチンコ本体の裏側にあたる部分)を持ち上げ要所要所を黙視確認し、オッケーと思って次に引き渡そうとした時。

愛人Jが私のササッと後ろに回ってその台を取り上げ、日本人社員を呼びつけて言った。

J「ここ、ビスがちょっと斜めに入ってる」

社員「…あぁ、本とだねぇ」

J「ケンサで見落とした」

 

私は、はあ…?と心の中で大きく口をあんぐりさせて立ちすくんでいた。

 

「え… どこですか…?」とようやく声を出して指摘された場所を確認すると、それはものすごーく微妙にビスが傾き、ものすごーく微細に盛り上がっている、本当に0.5mmもない程の「ミス」なのだった。

私は白い布手袋をして言われた通りに触手確認をしていたのだけれど、手袋の上からでは全く感知できないほどの微細さだったのだ。

 

私「え…こんなの、触っても分かりませんけど…」

社員「でも一応、確認して」

私「あの、でも、どうしたらいいんですか? これ全部を黙視していたら今のスピードでできませんけど」

社員「スピード落としていいよ。30秒で1つ流れたらいいから」

 

そんなやりとりを横目に、J はすました顔して自分の作業に戻っていた。

 

こんのやろうぉぉ…わざとやりやがったな(怒りマーク×10000000)!!!!!!!!!!

私の全身は煮えくりたぎった。

ここが学校だったら絶対に玄関に飛んで行って靴に画鋲を入れてやるのに。

ここが女子トイレだったら絶対に上からホースで水をぶっかけてやるのに。

ここに誰もいなければ絶対に胸元つかんで尋問してやるのに!

 

頭からはまさにプシュー、プシューと湯気が漏れ出ていた。

2人は何事もなかったかのように再びお喋りを始めている。

…ありえない。

そもそもビス打ちをミスったのはプリケツ野郎だ。

それが全く非難されずに全て私のせいにされるというのはおかしくないか?

 

私は板金上のビス計8個を穴が空くほど凝視し、それまでの3倍ほど時間をかけて点検することにした。

そしてプリケツ女が打つビスのほとんどは、微妙に斜めに傾いていることを発見した。

「ちょっと、ビスが斜めになりやすいから自分でも確認してくれる?」

ぶっきらぼうに女に言うと、女は目を丸くして「はあ?」と訴えてきた。

A「なに? ビスが斜めだったら(社員に)言わなきゃダメじゃん」

私「言うほどじゃないの! 斜めになりがちだって言ってんのよ」

A「なに? 意味がわからない」

 

蒸気がマックスになって頭の毛が吹き飛びそうだ。

J が隣で「斜めになりやすいんだって」と捕捉するのが聞こえた。

私は大きく「バカじゃないの?」と書きなぐったような顔をつくって、ムスッとしたまま自分の作業に戻った。

 

頭の中では「ありえない、ありえない、ありえない」の連呼。

 

すると今度はプリケツ女が日本人社員を呼びつけ、「ビスがちょっと斜めになるのはダメ?」と甘い声を出して聞くではないか! なんだそれ?????????

日本人社員は「これねぇ~、そうなんだよね、どうしても斜めになるんだよねぇ」などと相づちを打ち、その横で女がこちらをチラと見ながら社員に何やら吹き込んでいるのである。

社員は「うんうん、うんうん」と頷くばかりで、女の真っ赤な口紅に接近されてはお手上げといった様子。

 

・・・・・・・・・。

 

私は言葉を失った。

 

こいつら、もしここに井戸があれば上から突き落としてやりたい…。

 

その後の私の葛藤たるや……… また明日書きます。

 

つづく。

 


多文化教育を考える旅-1章

2015-01-06 | 日本の旅

半年ぶりにその小学校に行き、校長先生と再会した。

実は今月末から約1ヶ月間、廊下の片隅で写真展を開かせてもらえることになったのです。

それで今日はその打ち合わせに。

 

学校で部外者の写真を展示するというのは、恐らくタダゴトではない。

先生は展示に教育的効果があると強烈に判断する必要があるし、その他の地域団体との兼ね合いもある。また何より保護者の目というのもあると思う。

そういうのを一切合切クリアしてくださったことに、ただただ頭が下がる思いであります。

 

多文化社会と多文化教育について、今日、校長先生と私は実に4時間半も語り合った。写真展示に関する相談事項を差し引いても3時間以上。

先生は、まず格差構造の二重化に対する懸念を話された。

たとえばこんなエピソードから。

ある中小企業が外国人実習生を受け入れたところ、最初は社員も地域の人たちも優しくウェルカムした。ところが次第に日本人は親玉気分になり、外国人実習生を奴隷のように扱うようになった。それは格差社会の下層にある中小企業が、更に下層をつくり出す構造そのものだった。

…というお話。

 

「それが進めば、地域は荒んでいく」と先生はおっしゃった。

「だけどこども達は放っておいても仲良くなります。国際化や多文化共生は、そうしたこどもたちが大人になる頃には自然に実現されるとは思いませんか?」と私。

それは私が去年からずっと自問自答していることだった。

国内における外国人支援は、本当に必要なのかどうか。

 

先生の答えはこうだった。

「そうなるかもしれないけど、そうはならない可能性もあるんじゃないかな」

たとえば学校内で、日本人の子と外国人の子が喧嘩をしたり差別的な発言をしてトラブルになることがある。そんな時、教師はどう対処したらよいか。

適当にあしらったり放ったりすれば、トラブルはそのうち水に流されて忘れられる代わりに再び同じトラブルが発生する可能性が残る。逆に先生がしっかりその子たちに向き合い、それは偏見なのだと指導すれば、こどもたちは相手の文化を尊重することの大切さにきっと気づく。その時は分からなくても、大きくなってからきっと。

そうした「気づき」を与えるのは必要だと思う、と先生。

 

なるほど…と私は合点した。

偏見や差別心は、何かトラブルが発生した時に「待ってました」と言わんばかりに牙を剥くヤクザみたいなものなのかもしれない。そのトラブルは外的要因だったり、ストレスなどの内的要因だったりするのだろうけれど、とにかく穏便でない状況下でヤクザはムクムクと起き上がり、ゴジラのごとく肥大化して火を吐きながら暴れ狂う。

そういう厄介な悪芽を、誰もが持っているような気がする。

 

だからこそ教育によって、もしくは啓蒙によって、一方的に火を吐かれた者の苦しみを分かってもらうことが必要なんだ。それもトラブルが小さいうちに。また社会に蔓延する前に。

 

私は自分の中に眠っている差別心を想った。

昔、誰だったか有名な芸能人が「差別は本能だ」という旨のコラムを雑誌に書いているのを見て、そうか、と思ったことがある。以来、自分はもともと差別的な人間であることを認めたら、気持ちがスッと楽になった。

差別とは、自分とは違う他者に対する防衛本能なのだ。…と言われれば、確かにそんなような気がしてくる。だって自分ではダメだと分かっていても、自然発生的に湧いてしまう感情や抵抗感はどうしようもないもの。

 

校長先生はおっしゃった。

「多文化教育っていうのは2つあると思うんです。一つは単純に国際理解の促進で、いろんな文化を知るということ。だけどそんな表面的なものだけだったら、教育とはいえない。もう一つ大事なのはね、人権の視点を持てるかということです。それはひと昔前に同和教育が行われ、その流れの中で在日朝鮮人を理解するための教育が行われた、その延長線上になければいけないと思う。目の前にいるその人の、背景やそこに至った経緯を知るということ。また知ろうとする実践。外国籍のこどもや親の行動を理解しようとした時、そのことをよく思うんです」

 

なんかもう…あぁ…って感じで心がフニャフニャになってしまった。

先生の言葉の端々には、私が去年から取材している教誨師(刑務所で罪人に宗教教育をしているお坊さんのこと)と全く同じ価値観が見え隠れしていたし、また私がこれまで様々に関心を寄せては心に散在させていたあらゆる問題意識にも見事に通じていたから。

 

そしてそれは言葉にすれば「人権」という表現なのだということにも、私は深く合点した。

 

帰り道、空を見上げれば大きな満月が浮かんでいた。

自分は完璧に導かれているということを、感謝せずにはいられない夜。

 

今日も工場日和-3

2015-01-06 | 2015年たわごと

今年も始まりました。

今月はかなり連日行く予定です。

 

しかし。

午後から思いも寄らぬ事態になり、私のイライラ虫は大増殖・大氾濫を起こした。

同じチーム(工場ではラインと呼ぶ。複数人が同一線上に並んで流し作業をするから)のフィリピン人女子2人が、ペチャクチャペチャクチャとお喋りしながら作業をし始め、数十分で収まるかと思いきや何時間もずっと同じ調子で喋り続けたのだ。

 

そのうちの一人は、工場の社長の愛人業も兼務していることを私は知っていた。

その子は半社員のような立場で、以前別のラインで一緒になった時は、能面のような顔で私を含む派遣社員の指導に当たっていた。昔から彼女を知るブラジル人の友人によると、彼女はいつもそんな調子で気取っているという。

さすが愛人。この工場の裏番長みたいな存在なんだ、きっと。

 

その彼女が派遣社員のフィリピン人と、年相応な(恐らくどちらも20代半ばと思われる)はしゃぎ方をしているのに私は少し驚いた。そして、最初はそんな様子を微笑ましく思っていた。

 

フィリピンにいるフィリピン人の親友と、以前こんな会話をしたことがある。

友人「日本人経営の会社って、みんな黙々と仕事するのよね」

私「そりゃそうよ、仕事だもの」

友人「フィリピン人はすぐ喋る」

私「そうよね。なんで?」

友人「私たちからすれば、何も喋らないでひたすらパソコンに向かってしかめっ面してる日本人の方が奇妙なのよ」

私「そうなの?」

友人「仕事だって、楽しい方がいいじゃない」

私「そりゃそうだけど、集中できないじゃん」

友人「私たちには能力があるのよ。一度に二つのことをやる」

私「あぁ…つまり日本人は脳が単純ってことね(笑)」

 

それ以来、私は「仕事や勉強する時はお喋りをしない」という常識を捨てた。

 

…はずだった。

 

なのに今日、そうして寛容になったと思っていた私のココロに再び亀裂が入り、途中からイライラが止まらなくなってしまったのだ。

うるさい…なんだこのフィリピン人は…喋るなよ…ここは夜のスナックじゃねぇんだヨ…うるさい…あぁうるさい…いちいち笑うな…何言ってっか意味も分かんねぇし…くそー!!!!

 

ということで、イライラの頂点に立った私の脳みそはすっかり我を忘れていた。

 

私は自覚した。

やばい。このままではフィリピン人そのものを嫌いになってしまう。いや、すでに嫌いになりかけている。

フィリピン本国には両指では足りないくらいたくさんの友人がいるというのに。

これまで何度も何度も足を運び、取材もして、日本の次によく理解している国だったはずなのに。

その結果として特にフィリピン人の国民性が大好きだ!と確かに胸を張って言っていたのに。

タガログ語のチャーミングな響きも大好きだったというのに。

 

つまり私は蔑んでいた。

彼女たちを。そして「フィリピン人」全体を。

 

私としたことがそんなのあり得ない…と思えば思うほど、その感情はへどろのように私の胸にこびりついて離れなかった。

 

「これだからフィリピン人は嫌なんだ…」

 

もう全く自分ではコントロール不能な、醜魂のかたまりが存在していた。

もう、友人の顔を一所懸命思い出そうとしても、楽しかったフィリピンの情景を頭に描こうとしても、2人の耳障りな笑い声が全てをかき消して無駄に終わった。

 

そのうち別のフィリピン人男子が作業上の小さなミスをし、私の反対側にいたブラジル人の女性も部品を落としてあたふたし始めた。

もうダメだ…と私は思い、2人に向かって一言いった。

 

「ちょっと、うるさい(怒)」

 

彼女たちは、なんだこの女…という眼差しで私の顔を見、少し大人しくなって作業を続けた。

一方の私は、なんて言葉足らずな怒り方…と早速自己反省の嵐で、本当はこう言いたかったのに、とか、次にまた同じシチュエーションになったらこう言ってやるゾ、とか頭をぐるぐるさせた後、ふと、そうだ…ブラジル人の友人Dだったら何て注意していただろう…と考えた。

いつも陽気なDは、人を笑わせたりリラックスさせるプロだから。

 

そして思い至ったこと。

…私は、きっともうすぐ生理に違いない。

(だからイライラするのは仕方なかったんだ)

 

そうやってうずくまるように震えていた自尊心をなだめ、内在する差別心との根本的な闘いには蓋をすることにした。

そのことについては、また日を改めて書くことにします。

 

とりあえず今日のフィリピン人女子2人が、次に会った時はケロリとしていたらいいなぁ。

 


ロシアのこれから。

2015-01-04 | ロシアの旅

ようやくエッセイを書き始めた。

まずはロシアから。

 

それで、旅中の日記を読み返していて、そうか、と改めて思うこと多々あり。

そのうちのひとつ、ハバロフスクのゲストハウスで知り合った教会新聞の記者さんに聞いた内容が面白いなぁと(今ごろですが)思って、コピペすることにしました。

2013年10月のヒアリングです。

 

 

●ボランティアについて

洪水(2013年7月~アムール川で発生)の時は、政府が地方政府に物資支援を行った。飛行機などで、必要な食糧や子供用のミルクを無料配布。
マンパワーでは、3人のプロの人道支援家?(元赤十字の人など)が中心になって地元や周辺からのボランティアをコーディネイトした。もともと地域の人同士で助け合う文化があったため、問題なく皆が協力して作業できた。

市民活動の必要性が認識されてきたのは、7~8年前から。
特にモスクワで火災事故?があった時、政府をアテにしないで自分達でなんとかしないといけないという意識が広がった。

●市民活動について

国が崩壊して、まだ20年ちょっと。新しい世代が新しい感覚をもって育ってきているが、一方で国づくりはまだ始まったばかり。情報鎖国状態がいきなり解放されて、今はオープンになっている。でも外国から見たら分かりにくいイメージがまだあるかもね。これからは価値観の違いで争いが起きるかもしれない。

市民サイドから政府にボトムアップで政策を要求したり、社会を変えていく動きが始まっている。

僕らにとっては、強いリーダーがいて、国が安定していればOK。

ロシアは途上国。早く先進国に追いつきたいと思っている。経済レベルの面で追いつきたい。(だけど先進国も問題だらけだと聞いたらガッカリだな)

たとえば、以前は障害者や問題のある人達は郊外に人知れず暮らしていた。政府はそういう人達を支援するメリットが少ないため置き去りにしてきた。それを、市民(教会?)がキャンペーンを起こし、仕事の行き帰りに皆が車椅子を使用して街の不便さを実感し、政府に訴え、障害者が街に出てこられるよう支援を求めた。
今後は、そうした認識を一般に広げるための教育活動もしていかなきゃいけない。

●他民族との共生について

ソビエト時代に、農民(労働者)は皆同じという考え方が浸透した。開拓時代は別として、共存の歴史は100年以上ある。たくさん民族がいるから、共存しないとやっていけない。中国人に対しては、モスクワにはほとんどいないから分からない。この辺(ハバロフスク)ではいろいろ感情があるのかもしれないけれど。

モスクワでは、イスラム過激派や戦争をしている相手に対して嫌悪感が強い。ロシア南部でテロが毎月のようにあった。戦争も2回した。今は少し安定しているけれど。

アメリカに対しては、年寄りは多分、よい感情をもっていない。冷戦の時は敵国だったからね。

 
 
ということで、最後の写真はハバロフスクの市場で買ったロシアンサボテン君。
 
今も我が家ですくすく育っているなり。
 
 
ロシアの若い世代の意識はきっとどんどん変わっている。
社会主義体制での民主化というのは、もしかしたらアリなんじゃないかと彼の話を聞いて思ったのを思い出す。
 
ロシアは確かに「分かりにくい」イメージだけど、私個人的はかなり、もしかしたら1位2位を争うほど住みたい国にランクインしている。
 
それくらい、ラブリーな雰囲気なのです。
 
 
また行きたいなぁ~。
 
言葉は難しいけど。(それはどこの国でも一緒…)
 
国の強さを競うのではなく、ロシアならではの、ロシアにしかない幸せの形を追求してほしいなぁとつくづく思います。
 
 

脳をBREAKするということ

2015-01-03 | 2015年たわごと

お寺からの帰り、知立団地に住んでいる日系ブラジル人の友達Mに電話をした。

知立駅は本宿から名古屋のちょうど真ん中辺りにある。

彼女とは去年の正月にサーフィンに連れていってもらったっきり、「遊ぼう、遊ぼう」と言いながら1度もまともに遊べなかった。そして彼女こそが、私にブラジル系派遣会社を紹介してくれたソウルメイトの一人だった。

 

電話越しに彼女は、「今サーフィンの帰りで、岡崎に着くまであと1時間くらいかかると思う」と言う。

だったら、鼻水もひっきりなしに出て風邪気味だから帰ろうかな、と思ったのだけれど、運転していた旦那のDが電話を代わり、私に明るく言うのだった。

「大丈夫!近くにコンビニがあったら、レシートに書いてある電話番号でナビできるから。40分くらいで着くと思う!」

私は思わず「オーケー」と言って、コンビニを探した。

 

まもなく彼女たちは到着し、真新しいにワゴンに乗せられて一緒に知立団地に向かった。

そこは日系ブラジル人労働者が多く住んでいる愛知県内でも屈指の公団住宅で、私にとっては二度目の訪問だった。

 

彼らは、真冬のサーフィン帰りだなんてことは微塵も感じられないほど普段通り。

サーファーって、そういうもんなんやろか。

少々くつろいだ後、彼女はブラジル料理をつくり、彼は黒ビールを飲んで、私は仕事の話や今年の予定など我ながらつまらない話をベラベラしゃべって、食べ、笑い、猫と遊んで、そのまま泊まっていくことになった。

そして翌朝5時過ぎに起き、大阪のユニバーサルスタジオに行くという彼らと一緒に家を出、私は帰って原稿を書きましょ、と思っていた。

 

けれど、朝起きたら雪。

念のためネットで調べてみると、名古屋から近畿に抜ける高速ジャンクションで大幅な通行止めになっている。

どう考えても無理、ということになって、再びウダウダし始めた。

Mがブラジルでは定番だという冷凍フランスパンを取り出してサンドイッチをつくり、朝日を浴びて輝く粉雪を撮影し、一緒に大阪に行くはずだった別の友達が横になり、その寝顔を絵に描いて笑い合い、朝食を食べ、再び猫と遊び…。

いつもの私だったら、その時点でなんとか家に帰ろうとしていた。

既に、この休み中に書こうと思っていた原稿は手つかずのまま、部屋の掃除はしたけれど未だ机の上はブラックホールのまま、来月の取材の予定は何も決められていないし、図書館で借りた10冊の本もひとつも読まないまま返還日を過ぎている。やらなきゃいけないことばかりがどんどん山積みになって、頭の中がパンクしそうになっていた。

 

だけど、雪だから車が動かせない。

タイヤがノーマルだから。

それにこんな朝早くから彼らに「駅まで送ってって」とは頼みづらいし、なんとなく、私もアクセクしちゃいけないような気がしていた。

 

それでウダウダが延長戦に入った頃、インターネットを見ていたDがふと言った。

「北朝鮮の映画、見る? アメリカのやつ」

「え!アメリカで中止になったやつ?見れるの?」

「ポルトガル語の字幕だけど。英語だからわかるよね」

「多分わかんないけど、見る!」

 

『The Interview』というその映画は、金正恩暗殺のストーリーが北朝鮮の激震に触れ、テロ予告にまで発展して全米の映画館で次々と上映中止となった、あのお騒がせ映画。

それが無料映画視聴サイトで見れるっていうんだもの、すご…。

 

で、案の定、英語もポルトガル語の字幕もチンプンカンプンではあったけれど、大事なところは彼らが日本語で解説してくれたり、私が確認したりして、ストーリーの流れはだいたい理解できた。

その感想。

「こりゃ北朝鮮、怒るわなぁ~」

「でも面白いね…」

「アメリカらしいよね」

 

それは実に全くのアメリカ流コメディで、一言でいえば「バカ」だった。

そもそも金正恩がアメリカのテレビ番組を「好きだから」という理由で呼び寄せるかい!とか、いろいろ突っ込みどころは満載なのだけど、そんなことは本質ではないのでどうでもいいんですよ、ということがにじみ出ている。

恐らく本質は、CIA的な姑息な毒薬暗殺は容易に失敗し、またそうした策略は個人の心情の変化によって阻止(または失敗)されるということ。そして大義や使命感よりも強いのは「裏切られた」という感情であるということ。さらに、誰を倒す最も有効な方法は、単に抹殺することではなく、恥部をさらけ出して人々に知らしめることだという(これが最もアメリカらしい)信念のようなもの。

ぃや−。

私的には、率直に面白かったです。

政治的には「絶対ナシ」だと思うけど、そのリスクを犯してまでやっちゃう、しかも堂々と世界にアピールしてしまうところもまたアメリカらしいというか。

その手法が好きか嫌いかと問われればどちらとも言えないけれど、少なくとも至る所でププっと笑ってしまうのはバカを徹底しているからだけではなく、北朝鮮の指導者を風刺はしても人々を蔑んではいないという安心感ゆえだと思う。

そこはちゃんと人権尊重、なんだよね。

 

 

で、その後にDが出してきたのは、2人の中国人男子のYouTube面白映像だった。

こちら。

http://www.youtube.com/watch?v=x1LZVmn3p3o

 

 

もう、なんていうか、バカの極みなんですよw。

これ2005年にアップされて、結構有名らしい。

 

最初は中国人が英語の歌を口パクしてるというだけで(たぶん映画を見た後だから余計に)シュールな気がして笑けたんだけど、見ているうちになんだか誇らしい気分になってきた。

なんというか、アジアにもちゃんとバカがいる!っていう誇らしさ。

 

それは日本の落語や漫才も然りで、むしろそちらの方が(口パク中国人男子より)ずっと質の高い笑いには違いないけれど、ここでは日本か中国かという話ではないのです。

世界中どこにでも「ちゃんとバカは健在している」という事実。

それはなぜか、今の私をフッと楽な気持ちにさせてくれた。

 

全うなことを全うに思考するのも大切かもしれないけど、結局(もしくはそもそも)人間は何でもありの存在なんだということを忘れちゃいけないなぁと思って。

その幅の広さを、事実として受け止める器を持ち合わせてなきゃなぁと思ってね。

 

根っこがクソ真面目な私には、定期的にそのことを思い出させてくれる友人が必須だということも、正月早々思い知らされたのでした。

 


厄年と厄払い

2015-01-02 | 日本の旅

去年知り合った曹洞宗のお坊さんに「そぶみ観音がいいよ」と言われ、岡崎に向かった。

名鉄線・本宿駅から歩いて15分ほどの山間にある、渭信寺(いしんじ)。

加賀の前田利家の守り本尊だった御神体を、金沢大乗寺の住職が隠居する時に岡崎に持ってきたのが始まりだという。


そもそも厄払いというのは神社でやってもらうものだと思っていたけれど、お寺でもいいだって。

…へぇ、そうなんですか、と私は軽く答え、「じゃ、行ってきます」ということで初厄払いに出かけたというわけ。

 

 

元旦の昼間は人でごった返すというそのお寺には、若いカップルの姿もちらほら見られた。しかも夕方、しかも寒風とともに粉雪舞い散るこんな日に、正月祈願でお寺に来る習慣がある人々がたくさんいるなんて。

日本の年末年始を説明する時は「大晦日にはお寺で鐘つき、元旦は神社でお参り。寺と神社は似て非なるのよ」なんて知ったかぶって言っていたけれど、根本的に考えを改めなくてはいけないらしい。

 

本堂には正月飾りやお守り類が並べられていて、人々はその前をそろりそろりと歩きながら物色しているようだった。

私は内心ビクビクしていたせいか、そちらにはほとんど目もやらないで係の人を探して聞いた。

「あの、東京のKさんに紹介されて来たんですが、厄払い、していただけるんですか?」

若奥様らしいその女性は「あぁ、はい、いいですよ」と快く答えて私をカウンターに案内し、「とりあえずこれを書いてください」と祈祷届けのような紙を差し出した。

私はそれに名前や住所や年齢を書き、その後、テーブルの上にあった厄年表を覗き込んだ。

「あれ、私、もしかして厄年じゃない…ですか?」

女性は私の年齢を確認してから、「そう…ですねぇ」と少し戸惑った風に言葉を返し、「でも、厄除けというのはいつやられてもいいんですよ」とにっこり笑った。

 

おかしいなぁー。どこやらの神社で30代は2回くるって大きく書いてあったと思ったのに。

 

それで帰りの電車でググってみたら、やっぱり「女性の厄年は人生で4度ある」らしく、3度目の本厄が数え年で37歳(今年でいえば1979年生まれ)の人、と書いてある。

あれー、神社と寺では違うのか?

 

そこで他のサイトも見てみると、こんなことが書かれてあった。
(http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n128583)

「なぜ年齢かといえば、科学的な根拠はありません

厄年を何歳とするかは神社仏閣などによって異なり、一概に厄年は何歳とは断言できません

すべての神社仏閣で共通して厄年とされる年齢というものはありません

 

しかも元日に歳をとるとするか、立春(旧暦の正月)に歳をとるとするかも、神社仏閣によって違うのだという。だから「信じている神社仏閣があるならそこでいわれている厄年がその人の厄年であり、その信じている神社仏閣へ厄払いに行くのが本来の姿でしょう」ということで、結局は自分次第、みたいなオチなのだ。

がーん。

 

まぁしかし…。曹洞宗のお寺でご祈祷していただいたのは初めての経験で、それはとても興味深いものだった。

お経がぎっしり書かれてあるジャバラ構造の教本を、バラバラバラバラバラ…とまるでアコーディオンを奏でるように左右に揺らし、その後、まるでインド人がチャイを入れるかのように、1mほどの高低でザーーーーーーーーーーーッと上から下にジャバラを流すのだ。

ま~ぁそれはそれは見事な手さばきで、思わず見とれてしまうくらい。そしてトントントントンという乾いた音の太鼓が響き、途中で祈祷者の住所と名前と性別が読み上げられて(それもまた独特のイントネーションなので、自分の番になると恥ずかしさの余り吹き出しそうになりましたが…)、最後に一人ずつ前に出て頭に何やらを押当ててもらう、という流れだった。

加えて私だけ「厄除け」のために再度前に呼ばれ、オレンジと黄金色の袈裟に三角形の帽子をかぶった老僧に、厳粛なお祓いをしていただいた。

 

いやぁ。。。これだけしていただけば厄も吹っ飛んだでしょう。

と意気揚々となり、お礼を申し上げて帰路につこうとした時。ご住職がふと心配そうに声をかけてくださった。

「何か、疲れてますか?」

私「…そうですね、疲れてるかもしれません」

「いえ、なんとなく"気”が疲れてるような気がして。エネルギーが弱っているというか…」

私「そうですかぁ」

「何か楽しいことをして、リラックスされた方がいいですよ。すみません、ちょっと余計なことを申し上げましたが…」

私「そうですね。どうもありがとうございます」

 

ということで、すっかり暗くなった田舎道を、やっぱりそうかぁ~と思いながらトボトボ歩いて駅に向かった。

 

(つづく)


多様性についての思考・頭グルグル

2015-01-01 | 2015年たわごと

まずはサハリンのおばあちゃんについて書こうと思い、過去の旅日記を探していたら、2013年秋のちょうどその頃に書いたらしい私的日記を発見した。

1年ちょっと前の私は、懸命に自己分析を試み、何を志すのかを模索していた。

そして浮かんでは消えたアイデアのうちのひとつが、そこに記されていた。

 

------------(記録を兼ねて以下抜粋します)------------

 

そもそも自己分析というのは何歳くらいで一通りできるものなのか。人それぞれとはいえ、10代から分析できている人は極稀なはず。20代では?若手でやり手のビジネスマンはできてる部類なのかもね。回りにいる年下の友達を思い浮かべてみると、たとえば東大院卒のKだって、やはり20代らしい右往左往感をにじませている。じゃあ30代は?一般的に、世間的な信用が自ずと得られる年代だと言われる。わたしみたいなアウトローでも、それなりに、数々の失敗を含む一応の社会経験は積めていることだし。外見は変わってなくても、声のトーンや目元や表情の作り方なんかは20代の時とは変わってきているんだろうと…信じたい。

それで、ようやく自己分析できてきたかな、と改めて思うことは、自分という人間は、ジャーナル(報道)的な表現に偏ることを潜在意識的に拒否しているんだろうということ。恐らくわたしは「ニュース」に興味がないし、ニュース的な方法で表現するのは好きではない。つまらないと思っている。

ではアート的なのか?というとそちらにも偏り切れず、文学も苦手だし、映画もハマれないし、鑑賞するのは良くても作り手として本当の価値はほとんど分かっていない。

だから結局、自分はその間のグレーゾーンなんだと割り切るしか道はなく、また、そのグレーゾーンを開拓していくべきなんだと自分に言い聞かせるしかない。仕方なく、という面と、それこそ我が道、という面が今はまだ微妙に表裏一体な感じ。

 

だけど、具体的にやりたいことを考えると、放浪時に妄想したことがまた蘇ってくる。

先住民族のアートをブランド化すること。

土産物ではなく、高級工芸というのでもなく、ひとつは、現在のデザイナーやイラストレイターの世界に、もっと先住民族の人がいてもいいんじゃないかということ。彼らが彼らのアイデンティティを現代的な仕事の中で活かし、DNAに染み付いた民族的センスを発揮していければ、文化も進化するし民族の誇りも大切にできる。仕事をつくるというのは土産物を増やすことではなく、今の社会でフツーに求められているものや人やポジションに入り込んでいくことなんじゃないか。

そういうことを促進することはできないだろうか、と思うのです。

 

これだけグローバル化が進み、世界が均一になる方向でモノゴトが進むと、50年後や100年後には今よりもっと文化の多様性が薄れてくる。弱者は強者に勝てないし、マイノリティはマジョリティにかき消される時代。先住民族だって、弱い民族は消えていき、アピール力の強い民族だけが残っていく。

だけどそれを動物園的に、珍しいもの見たさを売りにしたような観光でアピールするのは痛々しい。そうであってはいけないと思う。

どうしたらいいのか。文化の多様性は、どうやったらうまく残せるのか。「グローバル化時代の先住民族」…そういったことをテーマに、何かできないか?と思う。

アジアの旅エッセイをまとめたら、そっちをガッツリやろうか。

またカネがかかるけど、仕方ないな。スナックでも探して働くか。

 

だけどそれらに対する好奇心は、結婚や子づくりを求める本能よりも強いんじゃないかと思う。特に今は、そっちなしに自分の人生は満足いかないような気がしてしまう。

 

いずれにせよ、大きなテーマだから時間がかかる。だったら焦らず旅を続けながら、ぼちぼちやろう。ツアーもつくりながら、ぼちぼちやろう。

社会は自動的につくられていくものではなく、自分達の手で、常に変えていくものなんだと知ってしまったんだもの。

ロスジェネの30代は、失ったものが大きい代わり、何かを変えていけるポテンシャルは逆に高いはずなんだ。それ以前の世代とそれ以降の世代の接着剤として。日本と世界の接着剤としても。

わたしたちが活躍しなければ、発信しなければ、見落とされてしまう価値観や世界観があるんじゃないか。

…なーんてね。夜な夜なパソコンを打っていると熱くなってしまってダメだね。そろそろ寝よう。

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モヤモヤした時に記すこの手の日記は、落葉のようにパソコンの中に舞い落ちて、時間の経過と共に土壌と化していく。その土をたまにいじってみると、思いのほかフカフカになっていたり、カチコチになっていたりして面白い。

そうか。「多様性」ということを自分は希求しているんだな、ということも改めて認識できたりする。

 

日本でも、海外でも、全く意味なく虐げられたり、居場所を失って彷徨っている人たちがたくさんいる。

それは貧乏だから辛いのではなく、親がいなかったり学校に行けないから辛いのでもない。

自分の存在意義を見出せなくなってしまう、その状況が何にも増して苦しいんだと、今の私は思い至っている。

 

だから「多様性」なの。

どんなに小さな声も、どんなに偏った意見も、排除しちゃいけない。違うと思ったら、話し合いをしなきゃいけない。たとえ合意できなくても、その人の存在や、その人がそこに至った経緯は認めなきゃいけないと思う。たとえ歴史修正主義者であっても。もしくは多様性を認めないヘイトスピーチをするような人たちであっても。

喧嘩の先に暴力があり、暴力の先に戦争があるとしたら、その根っこの根っこには、自分に中に眠る“相手を認めようとしない心”の存在があると思うから。

虐げている人も、虐げられている人も、心が平穏でないという点では一致しているように思うから。

 

あぁまた頭がグルグルになってきた。

今日は元旦だっていうのに。

 

ちょいと、厄払いに行ってきます。

小雪舞う中、きれいスッキリ、今年もまっさらな心でスタートしなきゃ。

 


2014年ふりかえり

2015-01-01 | 2015年たわごと


(台湾・タロコ族のKuhongさんと。※ 残念ながら人生のパートナーではありません)

 

あけましておめでとうございます。

時が過ぎるのは本当に早くて、ゾッとするくらいです。

来年も盛りだくさんなのですが、この調子で時が経ったらまたアッという間に終わってしまいそうで怖い…。

と思って、自分を落ち着かせるためにとりあえず去年を振り返りました。

 

ということで、アッという間に終わったと思ったけれど、それなりにいろいろがんばったんだなぁ。

特に去年は、福島の取材とソーシャルツアーをがんばったみたい。(なんだか遠い記憶になってしまって他人事と化しているけど)

原稿はあまり書けず、その代わり、「スタート」した取材が3つも生まれた。

教誨師と、アジアのばあちゃんと、外国人労働関連。

教誨師の取材(生と死について)はロングランで数年かけてやるつもり、ですが、アジアのばあちゃん取材は来年仕上げないといけない。…ほんとにできるやろか。

 

外国人労働の現場については、多文化共生と強くリンクするのでこちらも是非やりたいところ。

でもその表現方法として、「リポ」というのはあまり面白くないような気がしている。身近なところに外国人がさほどいない人にとっては、結局他人事になってしまうから。

それで、インターネット放送とか写真展とか、もっと立体的な発信方法を考えたっていうわけです。

そちらも来年、どうなるか…。

 

ちなみに先週、インターネット番組のテスト収録用ミーティングをやりまして、それはかなりイイ感じで進みました。また改めて経過報告アップしまーす。

 

さて、夜が明けたら元旦だ。

明日からアジアのばあちゃんエッセイ、執筆始めます。

 

2015年は勝負年。

どうぞ引き続きお見守りくださいますよう、宜しくお願いいたします。

そして世界中の人たちが、争いなく、尊厳をもって生きられる世の中に一歩でも近づきますように。