アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

ハロハロフィリピン

2009-07-14 | フィリピンの旅(-2009年)




フィリピンは、光と闇の幅が大きい。

貧困層と富裕層、田舎と都会、苦しみと楽しみ、怒りと喜び・・・。

だけど私は、そんな場所で生きる人々の笑顔を、やはり途方もなく愛おしく思う。



フィリピンのカテゴリに新しい記事あげてます。
こちらも是非お読みください。。。

バリの窓

2009-07-13 | フィリピンの旅(-2009年)




リゾート地として有名なバリですが、人々は自分たちの伝統文化や信仰、生活スタイルをちゃんと守り、誇りをもって暮らしています。
本と、リスペクト・・・。

そんな島の温かさを感じてください。


「インドネシア」カテゴリに、新しい記事を2つ上げています。
(日付けは私が日記を書き留めた当時のものです。)

原因不明のアレルギー・・・

2008-08-09 | フィリピンの旅(-2009年)


見て~っ!こんなになってもうた。。。

これ、原因不明のアレルギーです。

ローティチャナイという、ナンの薄いやつにカレーを付けて食べるものをガッツリ頂いた後、突然ブツブツと現れました。

全身・・・。
こんな赤い斑点が、顔から首から手から腹から背中から太ももまで、ぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつぶつ・・・・・・・

ごめんなさいね、気持ち悪い写真載せて。

まぁ、でも熱もかゆみも痛みもないので大丈夫です。
今頃はしかか!?とも思ったのですが、お医者さんに見せたところどうやら違うらしい。ただのアレルギーのようです。

ちなみに薬代は、2種類のカプセルとドライパウダーを合わせて250円と激安。

ただ、顔のブツブツを隠すためにタオルを覆っていて、アルカイダと間違われないか心配なだけ。


・・・・・いや~、それにしても我ながら気持ち悪いなぁ。
これを読んだ人、今日は不運だと思って許してね。

「声をきく」ワークショップ

2008-06-21 | フィリピンの旅(-2009年)
訪れたのは、ジェネラル・サントス市内にある小さな教会。
ここに、市内各地に住む高校生18人が集まった。

彼らは皆、日本人パートナーによる学費支援で高校に通っている。
つまり支援がなければ公立の学校にさえ通えない子ども達だ。


ICANが開いた1泊2日のワークショップは、今回この地で初めて試みられた。

目的は、彼らの経験や思い、考えなんかを言葉にし、お互いに聞き合うこと。
様々な背景をもつ子ども達の胸の内を知ることは、彼らのためにも、また彼らを支援する側の人達にとっても大きな価値がある。そうスタッフ一同は胸を膨らませていた。



そして21日夕方。
ワヤワヤと集まって来た、一見街で見かける若者となんら変わらない極フツウの高校生たちは、まずお互いに自己紹介をし、自分の長所や短所を書き出して自己分析をし、その後グループに分かれて話し合いを始めた。
自分たちとは違う宗教・イスラム教の村ではどんな日常風景が広がっているのか、について。

ファシリテーターを務めるアテテスが言った。

「単にモスクが建ってるだけじゃないわよね?そこで生活するには何が必要か、どんな人達がどんな生活をしているかを考えて、それぞれグループごとに絵に描いてみて。」


そうやって、自分自身のことや他人のこと、その違いや共通点を考え話し合う時間がゆっくりと流れた。





翌日午後、コトは突然起きた。

全員が輪になってアテテスの話を聞き始めたとき、一人の女の子が急に涙を流しはじめた。
言葉が分からない私は、その涙の理由も何が問題になっているのかも全く分からないまま、ただコトの成り行きをだまって見守るしかなく、誰かが女の子を中傷したのかしら、と思ってみたり、誰かが起こした喧嘩の原因について話し合っているのかしら、と想像してみたり・・・。

けれどいくら待っても事態はちっとも変わらず、変わらないどころか次々と他の子ども達まで泣き出す始末。アテテスも深刻な顔をしてそれぞれの子の話を聞いている。

そんな状態が、1時間、2時間・・・と続いた。

何ひとつ訳が分からないまま、私はその場の緊張した雰囲気や、彼/彼女たちの表情をじっと見つめていた。
そして何故かこんなことを思っていた。


“きっと、私が今まで当たり前にやってきたことは本当はものすごく恵まれたことで、その中で今の自分がつくられたという事実は、本当は奇跡に近いほど有難いことなんだろうな。”



ワークショップ終了後、夕飯を食べながらアテテスが言った。

「それにしてもビックリしたわよ。全員が泣き出すなんて。」

「なんで泣いてたの?」

「私が質問したのよ、“自分を最も脅かしてるものは何か?” “何が一番怖いか?”ってね。そしたら次々と泣き出しちゃったの。」

例えばある男の子は家族を失うのが怖いと言った。
小さい頃に母親が家出をし、2人の兄弟は病気で亡くなり、唯一残った兄も数年前に結婚して家を出た。今は闘病中の父親の世話をしながら学校帰りにタクシーを洗って一日300円ほどの稼ぎで生活している。
これ以上、ひとりぼっちになりたくない、と。

また別の子は、兄が買ってきたお酒でホームパーティをしたときに父親と2人の兄貴が喧嘩をし、止めに入った母親を思い切りぶったという話。その光景がトラウマとなって彼を脅かしている。

また別の女の子は、自分がどんなにがんばって働き、どんなにがんばって勉強しても関心を示してくれない父親の話。更に親戚からレイプされたことを打ち明けた時でさえ、父親は守ってくれなかったという。



フィリピンに限らずきっと日本でも、たくさんの子ども達が同じように辛い思いを胸にしまい込んで生きている。

ただただ願うのは、そうした深い傷を少しでも“声”に出し、共有できる機会が彼らに与えられることだ。
例えば自分の感情を涙に込めて流せたり、 例えば複数の人が自分の話に耳を傾けていて、また自分も他の人の話を聞いて比較できたり、 例えば信頼できるリーダーに行動や考え方を導かれたり・・・。
そうした私が当たり前にできてきたことが、彼らには決して当たり前に用意されていないのだ。






パヤタスのゴミ山に佇む診療所で、28日、ふたつ目のワークショップが開かれた。
やってきたのは、マニラ郊外の児童施設で暮らす元ストリートチルドレンの子ども達。

ファシリテーターのマイエンが聞いた。

「子どもの権利って何だと思う?」


「教育を受ける権利」
「家族に愛される権利」
「名前をもつ権利」



何年も路上で暮らしていた彼らから出てくる言葉は、どれもずっしりと重たい。


「ずっと汚いもの扱いされてきた。路上にいた頃は、まるで人間じゃないみたいだったよ。」

「今は仲間がいる。施設に入って、やっと思いやりとか愛を感じられるようになった。僕は幸せ者だよ。」

「離ればなれになった家族のことをたまに思い出すんだ。将来はちゃんと一緒にいられる家族をつくりたい。」



子どもを育てるのは、“環境” 。
回りの人や家族、出会い、境遇、そういったものが人をつくる。
そしてそれらがまた人を変え、未来をつくっていくのだ。



18歳のロレット君が言った。

「施設に連れて行かれた時、はじめはすぐに逃げ出そうと思ってたんだ。でもしばらくして考えるようになった。どうしてこの人たちは、自分にこんなにも優しくしてくれるのか。それで神様のこととか、祈り方を教えてもらうようになったんだ。」

「今はこう思うよ。貧しい人も神様がつくったものなんだ。僕らがどんな生き方をするのかを、神様はちゃんと見ている。それに、貧しく生まれたから、どん底から這い上がることも経験できたんだ。全部、僕に与えられた試練だよ。」




彼がどんなに辛い思いをしてきたのかを想えば想うほど頭が上がらない。頭が上がらないどころか、ささいなことにも不満ばかり並べてきた自分の至らなさを、私は心から恥ずかしく思った。



この世に生まれたことに感謝すること。

どんなに辛くても前を向いて歩くこと。

私たちが彼らに教わるべきことは、あまりに大きい。



まずは “声” に出すことだ。それを促し、聞き合い、思いを共有することから変化は生まれる。
彼らにも、私たちにも。

そうした機会とそこから生まれる小さな変化が、今後少しずつ増えることを願っている。



マグロの街を訪ねる。

2008-06-20 | フィリピンの旅(-2009年)
フィリピンの南部、ミンダナオ島にジェネラル・サントスという街がある。

マグロの水揚げで有名な街。
市民のほとんどがマグロに関わる仕事をしているという。

刺身嫌いの私にはあまり関心のない「マグロ」ではあるが、近頃マグロの乱獲が世界的なニュースになっていることを思うと、日本人としてはそう知らない顔もしていられない。


マグロが揚がる漁港は、通常一般人は立ち入り禁止になっている。
私の場合は幸いICANの手配のおかげで敷地内に入ることができ、「ビデオは禁止」という条件つきで撮影も許された。しかし何にせよ、こういった基本的にあまり治安が良くない場所で一眼レフを持ち出そうというのだから、内心私の肝っ玉は、興奮半分、ビクビクと音を立てて震えていた。





漁港には、どでかいマグロがデン!デン!!デデン!!!と勢いよく並べられていた。
大きいもので約80キロ。その銀色に艶めくボティからは、まだ大海原を波を切って泳ぎ回っていた数時間前の荒々しい生気が、心持ちひんやりした風とともに伝わってくる。

もし私がマグロだったら、今はどんな心境なんだろう。
潔く生き、潔く殺され、「観念・・・」ただただそんな心境だろうか。
青白い大きな目玉を眺めながら思う。


恐る恐るカメラを取り出し、マグロとその周辺にいる人達にレンズを向けた。

「カメラマンかい?どれでも好きなものを撮りなよ。」

気さくなおじさんが笑顔で目の前のマグロを指差した。


「ヘイ、僕を撮ってよ!こっちこっち!」

20歳すぎ位の若い兄ちゃんが手招きをする。
マグロを担いでべったりと濡れたTシャツに、仕事の割には華奢そうな身体のラインが透けて見える。
こんがり焼けた肌に白い歯がまぶしく映り、そのくったくない笑顔に私はホッと息を吹き返した。







ところで、こうした場所で働いている人達は、街の中でも比較的貧しい家の人達だ。
一日の給料はわずか150ペソほど(約360円)。
数年前までは児童労働も行われていたらしい。


ミンダナオ島はDOLLが経営する広大なバナナ園があることでも有名だが、労働者の多くは収穫期にだけ雇われ、農薬や収穫方法が決して安全ではない環境で働かされているのだと聞く。
収入は一時的でありながら充分でないため、貧しい生活が改善されることはない。


私たちが好んで食べる外国産のマグロやバナナの背景に、彼らの顔がある。
それはドでかいマグロを汗水流して担ぎ、 極わずかな給料に耐え、皆ではないにしろ突然現れた外国人に笑顔で答えてくれる、オープンマインドな男たちだ。

今後マグロやツナを前に「いただきます」をするときには、彼らへの感謝も同時に込めよう。
彼らの生活が少しでも豊かになることを願いながら。



命が生まれる瞬間

2008-06-13 | フィリピンの旅(-2009年)
夜10時すぎ、小さな産声が響いた。
元気な男の子だった。

産まれたのは5畳ほどしかない本当に小さな一軒の家で、助産経験の豊富な2人のボランティアと、旦那、そして妊婦の母親が付き添っていた。
22歳の若い妊婦は、横になったり立ち上がったりを何度も繰り返した後、ただ無造作に敷かれた新聞紙とビニールの上に大きな腰を降ろして“その時”を待っていた。


予定時間から2時間。


赤ん坊が顔を出すまでのその時間は、果てしなく長いように私には感じられた。

途中、しびれを切らした妊婦が旦那のつくったご飯を口にする。
私たちも一緒に、妊婦の隣で食事をとった。
妊婦がウロウロと歩き始め、そのままトイレに入って用を足す。
「私なんて誤って便器の中に産んじゃったのよ!」
母親が笑いながら話し、回りがどっと沸く。

果たして本当にここで赤ん坊なんて産まれるんだろうか?
私はふいに夢でも見ているような妙な気分にかられた。

そもそも「今夜8時に産まれる」というのは、ボランティアのアテアミが言い出したことだ。
経験が豊富とはいえ、たまには間違うこともあるに違いない。
その証拠に、妊婦はうなり声ひとつあげずにウロウロと歩き回っているじゃないか。


もしくは・・・、と私は思った。


私の緊張や、いきなり外国人が立ち会うことになった不運を、妊婦と腹の中の赤ん坊が敏感に察しているのかもしれない。だとしたら、ここは早めに去るべきなのか・・・。


妊婦の顔は真剣そのもので、たまに苦しそうに眉をひそめながら、大きく膨れた腹を上から下へとさすり続けていた。


旦那が状況を見兼ねて、突然妊婦の元に飛び込んできた。
枕元に座り込み、一緒にゆっくりと腹をさする。
一応のベッドルームらしきその空間はすぐ隣のキッチンと薄っぺらい壁で仕切られていて、私の位置からは中がよく見えない。ただ妊婦の足元とビニールが敷かれた赤ん坊のための小さなスペースが、薄暗い中にぼんやりと見えるだけだ。


“それにしても、なんて羨ましい妊婦だろう・・・。”


私はその足元を見つめながら思った。

旦那に腹をさすられながら、寄りかかりながら、一緒に子どもを外の世界に送り出す出産・・。
それは私が想像していた孤独な出産シーンとは違って、すごく安心できる、ほのぼのとした人生の一大イベントだった。まるで結婚式か何かのような、2人で通過する“登竜門”のような。


“これだったら、子どもを産むのも楽しみに変わるかも。”



「もうすぐよ!」

アテアミが興奮を押さえながら私に合図を送った。

“出口” は大きく開かれ、中で何かが押し出されようとしている様子が伝わってきた。

けれどたまにかすかな声をあげるのは旦那の方で、妊婦は全く痛々しい声をあげない。
そのことが逆に私を混乱させ、目の前で繰り広げられていることに私は未だ実感がもてずにいた。


「出るよ、出る!」

私の帰りを心配して迎えにきてくれたNGOのスタッフが、オロオロしている私に声をかけた。

「早く!!カメラ!!!」


カメラを抱え、急いで妊婦のもとに駆け寄る。この瞬間を収められなければ待った甲斐がない。立ち会いを許してくれた家族にも向ける顔がなくなる。


「え?あれ?うそ、ちょっと待って・・・!!」


けれど、私は突如として焦った。頭が見えはじめてから全身が出るまで、なんと1分とかからない。
赤ん坊はスルリと“出口”を通り抜け、あっという間に外界に現れてしまったのだ。


「ビデオ!ビデオ・・・!!」


バタつく私を横目に、アテアミはまだ白っぽい赤ん坊の足を掴んで逆さにし、お尻をペチペチと2回叩いた。



「ギャ・・・、オギャア~~!!!!!」



赤ん坊が、甲高い泣き声をあげた。

大きく息をし、“生まれた”ことを証明する感動的な泣き声だった。





“子どもを産む” ということは、何も特別なことじゃない。

だけどきっと、母親は子を世に送り出すまでの数十分または数時間のうちに何かを想い、もしくは願い、言葉にならない真空のキモチをその子に託して最後の力を振り絞る。
その大切な時間を家族と共有できるか否か、もしくはどう共有するかは、結構大事な選択肢だと思えて仕方がない。

自宅での出産が、もっと一般的な選択肢になってもいいんじゃないかと、思う。





私が産むときには、どうしよっかなぁ。
少なくとも、孤独な出産だけはしたくない。

ゴミ山の貧しい家で偶然立ち会ったこの世で最もシンプルな出産シーンは、今までビビっていた “出産”への私の気持ちを、意外にもやわらかく前向きにしてくれたのだった。



ゴミと暮らす生活

2008-06-10 | フィリピンの旅(-2009年)
フィリピン・マニラの北東部に巨大なゴミ山がある。

パヤタスというその地域に暮らす人は約20万人。
うち1万人がゴミ山近辺に家を持ち、うち3000人ほどがゴミ山の恩恵を受けて生きている。

拾い集めたリサイクル品から得られる現金は一日約50~80ペソ(120~190円)。

運が良ければ150ペソほど稼げるが、米1キロが30ペソということを考えると、家族を養うにはあまりに少なすぎる収入だ。よって一日一食が常という家庭も少なくない。


かつてこの国を最も象徴していた“スモーキーマウンテン”が閉鎖された70年代から、パヤタスにゴミは集まり始めた。
同時に人も集まるようになったが、多くは政府による市街地からの立ち退きによって強制的に移住させられた人たちだという。

けれど、その後のずさんなゴミ捨て場の管理により、2000年ついに大参事が起きる。
積み上げられたゴミが一気に崩れ落ち、200人以上が生き埋めになって死んだ。

以降、市政府はこのゴミ山をようやく管理するようになり、国も各地域にゴミ処理場を建設するよう義務づけたようだが、まぁ、状況が好転するまでにはウンザリするほどの時間がかかることは言うまでもない。





ところで私がパヤタスを訪れたのは、日本のNGO「ICAN」の受け入れがあってのことだ。

彼らは15年ほど前からこの地域の医療や教育を支援していて、今では年間4000人が利用する診療所を地域の人たちと一緒に運営している。
患者の半数以上は呼吸器系の疾患らしく、主な原因はゴミから発生する有毒ガスだという。


それもそのはず。
パヤタスを走るジプニーに乗ると、窓からは想像を絶する悪臭が流れ込む。
ジプニーには窓がないのでそれを避ける手段はタオルで顔を覆うくらいしかないのだが、悪臭の程度を例えるならば、生ゴミのリサイクルボックスに頭を突っ込んで10分間耐えろ!と言われるくらいの苦痛なわけだ。
10秒じゃない、10分間。

ちなみに診療所がある地域ではそれほどの悪臭はなく、天気や風向きによって一時的にモワッと漂ってくるくらい。
一時的に鼻をへし折りたくなる衝動をぐっとこらえさえすれば、まぁ何てことはない。(つまりそれでも相当キツいということだけれど。)



   +++++++++++++++++++++++++++++++


それにしても、そこで働いているスタッフやボランティアには頭が下がる。

スタッフのほとんどは現地のフィリピン人で、ボランティアのほとんどは地域のお母さんたち。

「人々の“ために”ではなく、人々と“一緒に” 働く」というICANのポリシーのもと、日本人スタッフは日本事務所を含めて数人しかいない。大切なことは、たとえ支援が途絶えてもずっと続けていけるような “システム” と “人材” を育てること、それもICANの信念だ。


スタッフで看護士のマデットが言った。

「最初は本当に大変だったのよ。お母さん達の理解を得るのが。ゴミ山に行けば多少なりともお金が稼げるけど、ここでのボランティアはお金にならないし会議も多くて時間もとられる。でも何とか少しずつ診療所の大切さを理解してもらって、今では10人以上がヘルスボランティアとして働いてくれてるの。彼女たちがまた他のお母さんたちを教育して、子育ての責任や病気の知識を広げていくことが大切なのよ。」


ゴミ山の悪臭に耐え、貧困に耐えて生きてきた母親たちが、少しでも自分たちの状況を変えようと力を合わせている。
その姿は本当にたくましくハツラツとしていて、辛いこともたくさんあるだろうに、皆そろってとてもいい笑顔を見せてくれる。

私がもしここに生まれ育っていたら、同じように強く生きられるだろうか・・・。
そんな疑問がふと頭をよぎる。



「私たちはみんな貧乏なのよ。でも、私の子どもも診療所のおかげで助かったからね。」

ボランティアのお母さんが言った。

きっと世の中には、変えたいと願って変わらないものなんてひとつもない。
ただ、人の意識を変え、仲間を増やし、時間をかけて続けることが難しいだけだ。



ゴミ山と闘うお母さんたちを尊敬し、そのきっかけが日本人であることを誇りに思う。

応援するしかできない私は、精一杯声を張り上げて応援をしよう。
それがどんなに日本の生活とはかけ離れていても、彼女たちの問題は世界の政治や経済を巡り巡って、どこかで私自身とつながっているはずだから。







発展できない国の行方ーPhilippines

2008-06-07 | フィリピンの旅(-2009年)
2度目のフィリピンは、やはり混乱に満ちている。
あちこちにゴミが散らかった道路、真っ黒なススを吐き出すジプニー、渋滞、青く濁ったゴミだらけの川、新聞や水を売り歩く子ども達・・・。

そういえば去年も、この光景に慣れるまで3週間ほどかかったっけ。
そして3週間を経て私は、確かにこの国を好きだと思えるようになった。

ということは、結局私は1年間を経て振り出しに戻り、再び “異国に来た抵抗感” を味わっているだけなのかもしれない。どの国に行ったって始めに味わう、ちょっとした “におい“ の違いを。


それにしたって・・・。

・・・いや、やっぱりそれは違う。
きっと私は前回、逆に3週間を経て感覚がマヒしてしまっていたに違いない。
この国のいいところを見ようと努力もしたし、ここで得た友達に感銘も受けた。
結果的に私はこの国を好きだと思い込み、いろんなことを考え、思いを馳せ、帰国した後もずっとここに戻って来たいような “気” がしていただけなんだ。


だとすれば、今回感じている “抵抗感” は本物なんだろうか。

私は明らかに、この国に対して「嫌気」が差している。

  ・・・そう言い切っていいだろうか。



「嫌気」の原因はいくつか思い当たる。

まず何より街に溢れ返るゴミ。そしてそこから漂う生ゴミ臭い悪臭。
そして同じく溢れ返るおびただしい人の数。
どこから湧き出るのか疑いたくなるほどの人間が、東京のロボットチックなそれとは違って、実に生々しく、暑苦しく覆い被さってくる。

“私ゃこの国とその国民を軽蔑するよ・・・。”

なんとなく、そんな言葉が沸き上がった。

街がこれほど汚いのは、政府とそれを支持している国民の根本的な価値観が影響しているに違いない。たとえゴミが落ちていようと、フィリピン人は基本的に自分のこと以外は気にしないんだ、きっと・・・。

そして更にそうやって街行く人を眺めていると、誰もがそうした類いのモラルに欠ける人種に思えて余計に腹が立ってくるのだった。





だけど・・・と、まだ真新しいガイドブックを開く。

『フィリピンがアメリカから独立したのは1946年。
その後独裁政権が続いて、ようやく民主的な政権が誕生したのが1986年。』

つまり、今の国家が成立してからまだ20年余りしか経っていない “赤ちゃん” 国じゃないか。

     ・・・・・そりゃ仕方ないか、な。



ふとタクシー運転手が話していたことを思い出した。

「フィリピンの政府はひどいよ。見てごらんよ、道路脇に立っている電灯。何百か何千か建てたあとに、予算がないからって電球は入ってないんだ。こんなバカバカしい金の使い方があるか?」

友人が話していたことも思い出した。

「何より深刻な問題は政治の汚職だよ。テレビや新聞のジャーナリストだって、政府に都合の悪いことを指摘しようもんなら殺されるんだ。実際そういった事件が数年前に起きているからね。だから誰も政府に歯向かえないんだよ。」

そして最近知り合った大学の先生は、こんなことを話していた。

「フィリピン人は本当はあまり英語を話したがらないのよ。特に活動家と呼ばれる人たちはね、アメリカへの強い反発があるの。親米家と反米家にきっぱり分かれてるのよ。」




スペインに長く植民地化された後アメリカに占領された、複雑な歴史を持つフィリピン。
ようやく民主国家が成立して20年、今もまだ右往左往しながら、けれど激しい世界経済の波に立ち向かわなければいけない。
その焦りのせいなのか、フィリピン政府はここ数年、国民に外国での出稼ぎを奨励し外貨収入を勧めている。


「医者でさえ、国内で働くより海外で出稼ぎをした方が収入がいいんです。」

マニラで働く日本人のユキさんが言った。

「海外では医者の免許は使えないから、看護士の資格を取り直して出稼ぎに出る。そして実際には、現地の看護士よりずっと低レベルの雑用をさせられることになるんです。それでも国内で医者をするより稼ぎがいいなんて、皮肉以外の何でもないですよね。」


貴重な人材がみるみる国外に流れ出る中、 一体誰がこの国の秩序を正すことができるんだろう?


・・・本当に “軽蔑” すべきは、一体何なんだろう?



日本に最も近い東南アジアの国・フィリピンの未来が、日本に全く関係ないなんてことは決してない。
この国が少しでも早く大人になるためにはどうすべきなのか―。

放っておきたいけど放ってはおけない、難しい問題なんだと思う。



バリダンス☆デビュー

2008-05-31 | フィリピンの旅(-2009年)
本場にて、1週間バリダンスを習ってました。
そんで、この結果。



前々から憧れていたのよね~。
ダンスの先生いわく、飲み込みが早くて外国人生徒の中でピカイチですって♪

本とかどうかは知りませんが、なぜ飲み込みが早いかというと、下半身の筋肉使いは日本舞踊に等しく、腰と肩の筋肉使いはサルサに等しいからなので~す!!!

ここにきて今までの努力が報われたわ。。。

ということで、また一段とアジアンビューティーに近づいてしまったワタクシなのでした☆
(失笑しないように -;)



その国のイイところ?エスニック雑貨の正体はー

2008-05-27 | フィリピンの旅(-2009年)
どんな国や地域にも、極めてGOODな何かがある。

バリは、「ものづくり」のメッカだと言い切っていい。
絵画、オブジェ、 布、 アクセサリー、楽器、石膏、木工・・・。
あくまでアナログなそれらの手作業は、ひとつずつ表情を変えながら、しかし何百何千というコピーを黙々とつくり続ける地道な仕事だ。


クラフトの工房は街の至る所に見られ、全くこんなにつくって買い手はあるんだろうか?と疑うほどの数だ。
聞くところによると、バリには世界中からバイヤーがやってきて大量に注文をしていくから問題ない、とのこと。

それもそのはず。
バリでつくっているのはバリ独特の工芸品だけではなく、例えばオーストラリア・アボリジニーの伝統楽器、真っ黒な木肌にカラフルな模様が描かれたアフリカのお面、トルコ辺りの中東を思わせるネコの置き物・・・などなどが大量生産されているのだ。


「現地には材料がないんだよ。世界の需要を満たすだけのね。だからバリで僕らがつくってるんだ。」(工房のスタッフ談)


なるほど、日本でもよく見かけるエスニック雑貨はここからまとめて輸入されたものなんだな。





それにしても奇妙な現象だ。

その土地その土地の風土や伝統を表す雑貨などがバリ島というたった一ヶ所でつくられ、世界中にもたらされている現実・・・。
確かに人間がつくったものだから、技術的にオリジナルの土地でしか生産できないわけはない。
買い手だって雑貨として気に入れば、別にその背景を知らなくたって情緒を味わうことができる。


だけど・・・。


なんだか騙された気分だ。
例えば私が去年、日本のとある雑貨やで買った赤い太鼓。
アフリカの風を感じて心ウキウキさせて買ったのに、蓋を開けたらバリの湿った熱風だった、だなんて。。。

お金の流れを考えても、その土地とそれを生み出した大地に利益がもたらされることを想って私は買い物をする。なのに私の買い物で利益を得たのはバリの職人。

・・・別にいいんだけどさ。


しかしこれがフェアトレードとの根本的な違いなんだ、と私は知る。
たとえエスニック雑貨店のバイヤーがバリの職人と公正な取り引きでモノを買ったとしても、当然それはフェアトレード商品にはならないわけだ。
フェアトレード商品とは、自分の出したお金がどういう人達の生活を助け、またどの地域の経済を活性化させるのかがちゃんと分かる商品のことで、単に貿易の方法だけの問題じゃない。


・・・けれどだとしたら、エスニック雑貨店でも「これらの商品はバリ島の職人との公正な取り引きにより輸入されています」くらいの但し書きがあれば、納得して金が出せるということなのか・・・?





何にしても、クラフトなどの手作り商品は、特に海外商品の場合、つくり手の顔が見えるようで実はとっても見えにくいんだな、と思った。少なくとも今後は、エスニック雑貨の背後にバリ島の風は感じられるけれど。

BALI・神に舞う島

2008-05-25 | フィリピンの旅(-2009年)
本場にて、念願のバリ舞踊を習い始めた。
あの腕の動き、体のライン、指の震え、眼球の使いこなし・・・。
日本で初めてそれらを見た時から、いつか私もやってみたいと秘かに憧れていた踊りである。


場所はインドネシア・バリ島のUBUDという街。
空港から車で1時間ほど内陸にある。

UBUDは既に観光地として名が知れた有名な街で、ヨーロピアンから日本人まで実に多くの観光客が集まっている。
土産物屋が軒を連ね、ヒンドゥー教の寺院があちこちに点在し、ギャラリーや美術館が彩りを添える、まさに文化の中心地。
日本でいえば、京都みたいなところだ。


そして文化といえば、舞踊。
ここを発祥に発展してきた。


元々バリ舞踊は、豪華な衣装に厚い化粧をし、宗教の儀式で神に捧げる神聖な舞いだ。
大きく見開く目や硬く閉じた口は日本の歌舞伎にも似た迫力があり、また面を使った動物的な舞いは、どことなく能の世界に通じている。





私が習得したかったのは、中でも腕と頭の動き。
カクカクとしたその奇妙な動きが、私の感性を刺激していた。


「これが、Egol Kanan。右っていう意味よ。」

ハッピーという名の女の先生が、私のダンスを指導した。

「そしてこれが Egol Kiri。左という意味ね。」

腕を肩の位置で横に広げ、腰を右または左に突き出して膝を曲げる。
この痛々しげな格好が、バリ舞踊の基本形なのだと先生は説明した。


それにしても、腕が痛い。
普段はほとんど使うことのないタプタプの二の腕が、レッスン開始から20分後には既に悲痛な叫びを上げる。
・・・つまりだからバリ舞踊のダンサーは、みんな腕が細くてキレイなんだ。

ちなみに全体の姿勢や足腰の使い方は日本舞踊に通じるところが多く、大いに褒められた次第。





女性の皆さん、バリに来たら、バリ舞踊を習うことを強くお勧めします。
1時間のレッスンで、汗ビッショリかつ筋肉プルプルという何とも素晴らしいダイエット・・・というのはオプションで、バリ文化を体感する良い機会ですから。

ちなみにレッスンは1時間の個人指導で約750円という破格の値段。
UBUDの中心街にいくつか教室があるので、街をブラブラ歩きながら探してみて♪

カリマンタン行った~!!!

2008-04-18 | フィリピンの旅(-2009年)




ところで国内の移動につかう飛行機ですが、今までで一番小さいのに乗りましたよ。


5人乗りのセスナ!



怖ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ・・・・・



パイロットはアメリカ人の若いお兄ちゃんで、一度軌道にのればパイロットは意外と暇らしく、上空では始終ヘルメットを外して隣の乗客と話してました;


ちなみに上空から見える田んぼみたいな広大な土地は、輸出用のエビの養殖です。
もちろんビッグマーケットは日本。
この辺一帯を覆っていたマングローブを切り開いて、カリマンタン島の沿岸にず~っと続いているんだそう。・・・パッチワークみたいな水面がとってもキレイな反面、複雑な気分になりました。
取り急ぎ失礼。



ちょこっとINDONESIA☆

2008-04-07 | フィリピンの旅(-2009年)
予期せぬ旅・・・とは、つまりこういうこと。

“なんだか危なさそうだから今回はやめておこう。。。”
そう思って旅のルートから外した国が 「インドネシア」 だった。


マレーシアのサラワク州からサバ州に北上し、更に飛行機を乗り継いで西海岸から東海岸へ移動する。そこには Tawau(タワウ)という港町があって、インドネシア行きの船に乗り継ぐことができる。
向かうは、カリマンタン。インドネシアでも田舎中の田舎に値する。


コトの始まりは、Barioで出会った John Trawe という男性だった。

『ボルネオ―カリマンタン島に点在する少数民族の村々に、エコツーリズムを導入・推進する』というのが彼のプロジェクトで、そうした僻地に観光客を呼び込むことで、少数民族が抱えている経済的な問題や人口減少の問題など、様々な困難を改善するのが目的だという。
スローガンは『Peoples of the Heart of Borneo』。
ボルネオの心臓に当たる人たち―。

このプロジェクトのちょうど調査時期に私は運良く居合わせることができた、という訳だ。


と、そんなわけで村巡回の旅は始まった。

TAWAU に到着してまず驚いたこと。

・・・行き交う人々の「顔」だ。

いや、皆がそうなわけではない。けれど、たまに見かける人の顔ぶれが 、つまり“原始的” なのである。
横にでっかい鼻、色黒な肌、深く刻まれたしわ・・・・・。生物か歴史の教科書に出てきそうなその顔立ちに、私は失礼ながら目を丸くして(しかも恐らくちょっとにやけ顔で)まじまじと見入っていた。

ところ変わればこんなにも人相が変わるものか・・・。
TAWAUはまだマレーシア内だが、商売に来るインドネシア人も相当に多く、特に港の近くはまさに “混沌” とした活気があふれていた。





ところで、日本人がインドネシアを訪れるには、観光ビザを取得しなければならない。
日本から直接渡航するなら旅行代理店に頼むか大使館に申請すればよいのだが、外国からインドネシア入りする場合には、滞在国にあるインドネシア大使館(または領事館など)でビザを申請する必要がある。インターネットでは「インドネシアのビザは空港で取得可能」との情報が載っているが、どこから何で国境を越えるかによって状況は変わってしまう。

私の場合、TAWAU港でチケットを買う際にビザの提示を求められ、インドネシア人らしい若い男に、タクシーで5分ほどのところにあるビザ発行所に連れて行かれた。(彼は英語はほとんど通じず、Johnが交渉してくれたおかげで信頼できるに至ったが、私一人だったら果たしてどうなっていたことだか・・・。)
発行所の人の話では、他の地域からカリマンタンに入る際には、コタキナバル(サバ州の州都)またはクチン(サラワク州の州都)でビザ申請をしないといけないらしい。





そしていよいよ、国境超えの高速船に。

出国手続きを済ませ混雑する人ごみを抜けると、小型船がひしめき合う船着き場が目の前に広がる。色の黒い、やせた感じの男たちが、いかにも重そうなかばんや段ボールを2つも3つも肩にかついで、次々と船に乗り込んでは別の荷物を運び出している。

ここでは「荷物運び」がひとつの職業みたいなもので、客を乗せたタクシーやバスや船の到着を待ち構えていた男たちが扉が開くと同時にどっと押し寄せてきて、何だかよく分からないうちに何人ものそうした男に取り囲まれてしまう。しかも彼らは、一体どこからそのエネルギーが湧き出るのか不思議なほど威勢がよく、細い足腰に似合わず馬力たっぷりに軽々と荷物を持ち上げるのだった。

私みたいな外国人にとって、それは確かに “怖い” 感じがする。
何をしゃべっているのか分からないし、金目のものを狙われているような気がするし、第一「荷物を持ってやるから金を払え」というのは全くの有り難迷惑だ。

けれど、そういう状況に身を置いて、彼らの表情を観察し、自分が裕福そうな外国人であることを認識し、また彼らの “有り難迷惑な” 商売のやり方に慣れてくると、まぁ、それはそれでご苦労さんだな、と思えてくる。

このエネルギーが別の仕事に活かされれば、国の発展も容易に成し得れそうなものなのに・・・。
そんなことも、ふと考えたりする。


私はぼうしを深々とかぶり、背筋をピンと張りながら足早にJohnの後を追った。
が、後ろを振り返ればなんと、Dr.Rogerがデジカメで写真を撮っているじゃないか!
・・・・・え!いいの!?

ということで、“危ないかもしれない” と様子を伺っていた私だが、細心の注意を払うことを念頭に、カメラを持って船の周りをぶらつくことにした。



出会ったのは、人で溢れ返る港の風景と穏やかな海、そして船の裏側でのんびりと出港を待つ船員たちだった。

「日本人か? 何? 独身なのか? ちょうどコイツらも募集中なんだよ、ガハハ。」

年配の船員がやってきて、私の周りにいた若い船員たちをからかう。
専門学校を出たばかりだという20代前半の若い船員たちは、英語は通じないものの、皆ほがらかな笑顔で私を迎え入れてくれていた。

「日本は、あれだな、ス・・マ・・」
「・・・相撲?」
「そう、スモー!こうやるんだよ、ガハハハハ。」

相撲取りの真似をする陽気なおじさんの姿にどっと笑い声があがる。

「インドネシアもいいところだよ。カリマンタンの他にも、ジャワもスマトラも全部インドネシアだ。バリには日本人もいっぱいるしね。」





こうして、硬くなっていた私の心はホッと息を吹き返す。
どんなに危険そうな地域にも私たちと同じようにそれぞれの生活を営んでいる人々がいて、どんなに怖そうな人でも話をしてみなければ分からない温かさやユーモアを内に秘めている。

それを再認識するために「旅」をするのだ、といっても過言じゃない。
人に出会い、温かさに触れ、いつの間にかガチガチに固まっていた自分の固定観念や偏見が崩れ落ちる瞬間こそ、「旅」の醍醐味を味わえるのだ。
・・・そのためには、ちょっとした勇気が必要だけれど。






TAWAU港を出た高速船は、カリマンタンのTARAKAN(タラカン)という島に到着した。
寄ってたかる荷物持ち志願者の群れをくぐり抜けて、入国審査を無事済ませ、ホテルにチェックインし、近くの通りをぶらぶらと歩いた。

立ち寄った食堂でナシゴレンを頼む。
インドネシアといえばナシゴレン、くらいしか私には分からない。

「TAWAUから直接着たのね?だったらいいわ。NUNUKAN(ヌヌカン)を経由するととっても危険だから、かばんを常に抱きかかえてお金は靴の中に入れておかなきゃいけないのよ。気をつけてね。」

軒先にある調理場から、中国系らしい若い夫婦が片言の英語を一所懸命たぐりよせながら教えてくれた。
近くでは2人の娘が遊んでいる。

私はなんだかホッとした気持ちになって、注文したナシゴレンを一気にペロリと平らげた。





良き出会いと紙一重にある旅の危険―。

それでも、ピンと背筋を張りつつ「出会い」を求め続けることだと思う。
もしくはその判断力と柔軟性を鍛えるのが、「旅」なのかもしれない。


・・・いつか、もっとちゃんとインドネシアを旅しよう。
テロやら鳥インフルエンザやら良くないニュースが多い国ではあるけれど、代わりに私の心にへばりついた「偏見」という名のでっかい鱗を、爽快なまでにすっきり剥ぎ落としてくれそうな気がするから。




それにしてもナシゴレン、美味しかったなー。