
1934(昭和09) 章子46歳
千家大法要の椿事から一年が過ぎたが、寺内外の章子を見る目は冷たい
章子は、ひと夏を蓼科にある柳原白蓮の別荘で過ごす
その時、「この辺りに庵を立てたらどうかしら?」と白蓮は章子に言う
章子は、聚光院に戻った時の居心地の悪さ、居たたまれなさを想う
ここに観音堂を建て、自分の終の棲家にする、ぜひ計画を実現させたい
京に戻ったあと、章子は戒仙と相談する
戒仙とその頃、病気を繰り返す章子の世話を重荷に感じ始めていた
章子の独り立ちも必要、と考えたか戒仙は観音堂の計画を承諾する
また、詩集を出すこともすすめてくれた
この年は春月の五周忌、忙しくなった章子は久しぶりに生気を取り戻した
五周忌の法要は大阪の寺で営まれた
章子はもちろん、友達や知り合いも遠くから訪れてくれた
その年に発行された詩集「追分の心に」には章子の和歌が14首載っている
前半8首は聚光院で折にふれ作り、後半6首は五周忌の夜に詠んだのだろう
「追分の心」より「春月の五周忌を迎へて」(PDF再掲)
善は急げ! それとも禅は急げか?
この年7月、戒仙と章子は連れだって蓼科に出かける
少し長くなるが、章子が友達に出した手紙を寂聴本から要約引用しよう
<二人は「滝の湯」という温泉別荘の一間を借りて観音堂建立に取組んだ
「滝の湯」から工事現場までは小さい丘を二つ超えてゆく
章子は、昼食に帰る戒仙の食事の支度や洗濯が主な仕事だった
7月29日 戒仙は早朝から草刈りなどで率先して働き、道作りなども指図。
7月31日 柱が立つ。
8月03日 戒仙帰洛し、疲れが出たのか病床に伏す
8月09日 屋根、荒壁、床が張られたので章子は早速移り住む
8月18日 観音の日、章子は入仏供養する
その香料などで壁土などを買い、電気、畳、障子も入れる
六畳一間と二畳の台所だけの小屋だが、章子は張合いを感じた>
寂聴は、昭和58年1月、観音堂跡を探して蓼科に出かけている
その時の話をもとにG-mapで場所を探しているのだが容易ではない
というわけで、この件はもう少しお待ちを。
それから詩集「追分の心」で気になっていることがある。
題名の元になった「追分の心」という詩がある 詩「追分の心(PDF)」
わたしの調べた限りこの詩に言及している人はいない 寂聴も然り
それはともかく、北海の渚で追分を唄う「きみ」は誰?
「われ」のいる孤島はどこ? 「筑紫なる」だから香々地の海の島?
今回、調べてみたが謎のままに終わっている
ただ、正調「江差追分」を聴くのは初体験
前唄・本唄・後歌・・・章子の侘しさ切なさがより伝わって来るきがする
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]