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トンボ(の綱渡り) 撮影日:2013/09/06 場所:近くの親水公園
1942(昭和17)年 章子55歳
檀徒たちは聚光院から京都山科醍醐の養老院に向かう
大徳寺管長の紹介状の力か、章子は「同和園」にすぐ入居することができた
G-mapを検索してみると介護施設「同和園」があった
大正10年に開設した京都府下で一番歴史のある老人ホーム・・・
運営する社会福祉法人のWebサイトに、沿革のページもあった
そこに醍醐移転が昭和9年とあるから、ここに間違いない!
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1943(昭和18)年 章子56歳
同和園に入園した章子は、同室の老婆を見舞いに来た柏野久恵と知り合う
老婆の亡くなった後も、章子の世話をしてくれる優しい女性だった
疎開が必要な時に備え、大分の江口家まで義兄と相談しにも行ってくれた
1945(昭和20)年 章子58歳
この年、同和園は軍事施設に転用され、養老院としては閉鎖される
居場所を失くした章子が帰るところは、大分香々地の江口家しかなかった
久恵は章子を背負い、自分の弟に荷物を持たせ、列車で大分へと向かう
すでに江口家は没落、義兄は高齢になり妻も亡くしていた
久恵が章子の世話をしてくれるなら、という条件で二人は江口家に身を寄せた
1946(昭和21)年 章子59歳
章子は痴呆が進展、時に徘徊もするため鍵のかかる部屋で寝起きした
危険を避けるため、冬に向かう時期にも 火の気がない部屋だった
年の暮れ、久恵は所用で京都の実家に帰る
彼女が戻った時、誰にも看取られることなく息をひきとった章子がいた
昭和21年、12月29日のことだった
章子の死を知った中村戒仙は本堂へ行ってお経をあげた
彼は高齢になるほど章子のことを多く口に出したという
「人ひとりの命も救えず、ワシはしょうがない坊主じゃ・・・」
昭和47年、そうつぶやきながら戒仙は92歳で亡くなった
”たよりない朝だ
うしろから来て、ぎゅうと抱きしめて貰いたいやうな朝だ
だれかに、ぎゆうと抱きしめて ゐてほしいやうな朝だ
蟇(がま)を殺して そっと男の顔を描く
千日千枚血の指でそっと 男の”
詩文集【女人山居】より「鳩笛」
人を愛し、人に尽くし、人に好かれながら、自分の信じる道をも歩む
そんな章子に共感と憐憫の情を抱きながら、このシリーズを終わる
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それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]