
寂聴は、昭和58年1月、観音堂跡を探して蓼科に出かけた、と昨日書いた
寂聴本で改めて読んでみた 以下、引用文を要約記述する
寂聴本で改めて読んでみた 以下、引用文を要約記述する
<蓼科の高原は豊富な温泉が湧き早くから保養地、避暑地として開けたが、
章子たちがいた昭和の初め頃は別荘もまだらだった。
車でビーナスラインを上ってゆくと、滝の湯入口のバス停があり、
ほどなく大きなホテル(今の名は蓼科グランドホテル滝の湯) があった
そこで「みゆきの女将さん」という人のことを尋ねると、
もっと奥のホテル親湯(しんゆ)の亡くなった奥さんのことだと言う
そこがもともと「美遊伎(みゆき)」という名だった
ビーナスラインを外れ一本道を下ると
お城のようなホテル親湯(今の名は蓼科 親湯温泉)が川向うに見えた
ホテルの社長が気安い方で何でも話してくれた
「戒仙和尚はよく泊まっていたが、堂々として見るからに立派だった
妙章という尼さんもいたが、小柄で貧相なお婆さんだった・・・」>
そのあと寂聴は社長から観音堂の場所を訊いて、そこを訪れている
当時は、観音堂、その後建て増した別棟、戒仙が使った別荘も残っていた
寂聴が訊いた話では、白蓮の別荘などもそのまま残っていたらしい
G-mapを寂聴本の中の言葉で種々検索したが上記2ホテルがヒットしただけ
なお親湯温泉のWebサイトに温泉の歴史ページがある
古い写真や動画があって興味深い
さらに、その中に「ゆかりのある文人たち」のページがある
上から辿ると、太宰治 柳原白蓮 瀬戸内寂聴・・・
<白蓮 蓼科に別荘を所有、 「大正三美人」と称された 美貌の歌人
「すべてをかけた恋」の見出しで宮崎龍介との恋愛が簡潔に記されている
互いに交した700通余の恋文を、すべて保管 してあったそうだ
”わが命惜しまるるほどの幸いを 初めて知らむ相許すとき” 白蓮の和歌>


<寂聴 幅広い活動をする 天台宗の尼僧・小説家
『ここ過ぎて』瀬戸内晴美著の取材で訪れたことが記載されている
”晴美は、人がよく恋に奔放な妻・章子に、ことさらに共感を寄せました。 「恋のない世になにがあるでせう」といった章子は、白秋に会ったその日に身を投げ出し、清貧時代の白秋を支えた情熱の詩人です。 ~略~
『ここ過ぎて』には、蓼科へ逃れた章子が白蓮の別荘で静養し、ひとり立ちしようとした姿が描かれています。
残念ながら観音堂のことには言及が無い



因みに、蓼科ゆかりの文人たちの中に、北原白秋の名は無い
彼を有名にしたのは章子の献身があってこそ、なのに 冷たい人間だ白秋は
さて、ビーナスラインは縦横に走っているが、
私が多少知っているのは美ヶ原や諏訪湖近辺で、蓼科方面には昏い
もう少し分かり易いマップは無いものか?
と探したら以下が見つかったので紹介する(いずれも拡大可能)



ちのマップ(同名Webサイトから転載~蓼科・八ヶ岳)
今日はここまで
明日またお会いしましょう
[Rosey]