遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

詩人あの人この人~江口章子・その20「流浪の旅16~足跡を辿る・蓼科から岐阜へ

2023年09月05日 | 読書


昨日は、蓼科の観音堂をG-mapで探そうとしてダメだった
以後、寂聴本から離れてテンポを早めたい
1935年(昭和10)~1936年(昭和11)は、どの資料も空白が多い
聚光院の奥の部屋で章子は療養に専念していたのかもしれない

1937(昭和12)年 章子50歳
観音堂やその増築で章子は京と蓼科を往復する忙しい日が続く
戒仙は、修行中の若い尼僧や禅僧を蓼科に行かせて手伝わせる
とりわけ若い鉄心(辻潤の弟子でもある)が章子(妙章尼)に尽くした
章子も増築の資金集めで、村の家々を巡礼姿で行乞して回った

 
資金集めをする章子の巡礼姿      巡礼に着た章子の着物

更なる参禅修行を望んだ章子は、岐阜の名刹虎渓山での修行を許される
寺のWebサイトはこちら~写真がいい!)
その虎渓山へ向かう初日、電車の中で章子は脳溢血で倒れる
病院での治療後、章子は戒仙が住職を兼務する岐阜御嵩の吉祥寺で療養
半身不随、精神も不安定になった章子を、戒仙は重荷に感じ始めた
(寺独自のWebサイトは無い模様~代わりにこんなサイトが?)

1938(昭和13)年 章子51歳
この年の秋、戒仙と章子は離婚する(章子が戒仙に相談なく離婚届け?)
芳春院入りから17年が経ち、結婚後も8年が過ぎていた
聚光院では既に他の女性が戒仙の世話をしていて、その女性と戒仙は再婚する

1939(昭和15)年 章子53歳
章子は吉祥寺住まい その吉祥寺や蓼科観音堂は鉄心が住職になっていた
鉄心は、章子の希望で故郷香々地や持病の肺治療で別府の病院へ連れて行く
吉祥寺に戻った後、鉄心は四国の寺に赴任する 戒仙からの仕送りは続いた
一人では何もできない章子を檀家の人たちが世話をした

1940(昭和17)年 章子55歳
章子が再び脳溢血で倒れ、世話が無理になった檀徒が章子を連れて聚光院へ
戒仙が離婚した章子を寺で引き取るわけには行かない
彼は、章子を養老院に入れようと、大徳寺管長に紹介状を書いてもらった

養老院や晩年の章子については明日に回す
20回を超えた江口章子の人生の足跡辿りも明日が最終回の予定
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]