あすか塾

「あすか俳句会」の楽しい俳句鑑賞・批評の合評・学習会
講師 武良竜彦

八月あすかの会秀句 2024年 令和6年

2024-08-26 11:24:02 | あすかの会 2024年・令和6年

          八月あすかの会秀句 兼題「異 残暑」   二〇二四年八月二三日 

 

 野木桃花主宰の句

銀漢や異郷さすらふ友がをり    

オカリナの調べ流して浜の秋    

異郷へと旅立つ友よ秋あつし    

夫も老いにき紛れ込む花野かな

 

 野木主宰特選

家といふ箱むし〱(繰り返し記号)と稲光         都 子

  武良竜彦特選

己が身の影につまづく残暑光       英 子   最高得点句

 

 秀句 選の多かった順

 

バーボンの氷ことりと星月夜         尚     準高得点句

 

異形めく向日葵の首白昼夢         みどり

異論などある筈もなく西瓜食ぶ       孝 子

梨食めば梨の音してひとりなる       さき子

 

糸とんぼ草を離れてより透けり       英 子

仏壇の残暑の扉開けてあり         さき子

狗尾草道草を食う風もあり         さき子

幼子の髪透きとほる花野かな        玲 子

閼伽桶の水を捧ぐ個長崎忌         悦 子

透析の血濁は清へと大夕焼         かづひろ

 

残暑なほ汲めば汲むほど井戸の水      市 子

語り合ふふるさと異に青りんご       市 子

異を唱へ親族和ます生身魂         都 子

鳳仙花知覧に残る手紙かな         典 子

秋思ふと弾かねば琴の立ち通し       英 子

梵鐘の音の余韻に法師蝉          悦 子

異次元の好きな宰相秋の風          尚

 

異人館井戸水に売る青りんご        かづひろ

八月や六日九日十五日            尚

溝萩のひときは群れて知己の墓       みどり

詩ごころ抱(いだ)きて残暑の厨事      市 子

メダリストの鳴らす鐘の音爽やかに     典 子

釜の蓋ひねもす開けて蟻地獄        礼 子

異母兄を慕ふ弟星月夜           ひとみ

終戦日目覚めぬままの無言館        悦 子

サンダルを履きて足指解き放つ       都 子

風待ちの暖簾に残る暑さかな        玲 子

ゆるゆるとバス上り来る残暑かな      玲 子

異郷にて医師を全う秋さびし        英 子

再びの駅は無人や桐一葉          孝 子  

 

異文化の衣装彩やかパリ五輪        典 子

露座仏の眩しさうなり晩夏光        典 子

身預けし動く歩道を出で残暑        ひとみ

揚羽蝶過る耳もと風起きて         ひとみ

赤を噴く「沖縄の図」や終戦日       ひとみ

異存なく村をあげての曼珠沙華       礼 子

盆灯籠五百羅漢に嘆き顔          礼 子

体温を越える一日や残暑かな        都 子

訪う人を休ませ晩夏の切株よ        悦 子

製図室椅子をベッドに昼寝かな       かづひろ

ドライアイスを懐に鳶の残暑かな      かづひろ

何某の墓の積石吾亦紅           孝 子

階の手摺に置かるる残暑かな        孝 子

畦異にむらさき凛と秋薊          市 子

異国語の飛び交う空港残暑         さき子

病葉にまたも目がゆく厨窓         みどり

新興地カレーの匂ふ残暑かな        みどり

オフィス街残暑貼りつく石畳         尚

垂幕に「祝陸上部」夏終る         玲 子

高校三年生の素振百本晩夏光        悦 子

 

参考ゲスト参加 武良竜彦

ピアフ流すセーヌに五輪の残暑かな

 

かなかなの焦がす天地が浄土なり

朝顔や色とりどりの訣あり 

生捕りにせむと人来る虫の秋  

 

講話  あすか塾 64

 

「先行句」問題について     

                     

 俳句の先行句の存在にまつわる問題は、俳句という短詩型文芸の、その短さゆえに抱える類想、類型句の問題でもあります。

 この問題は様々な観点による受け止め方が存在し、ある一つの基準で解決するような問題ではないと思います。 

筑紫磐井氏が現代俳句協会の機関俳誌「現代俳句」の七・八月号の対談で、類想類句こそ、俳句文化の分厚さだ、というようなことを述べていました。歳時記自身がその見本帳ではないかということで、類句集である歳時記を参考にして、多くの人たちは、俳句を学び詠んできたわけです。言語表現文化という括りでみると、そういう見方にもなるでしょう。

 公的な場への類句の発表を許してもいい、放置していいとは、だれも思わないでしょう。また作者が気づいていない行為なら許せて、意図的なら許すべからざる行為だ、というのが一般的な意見でしょうが、ことはそんなに単純なことではないと思います。

 類想、類句の発表を許さないという考えは、「作者のオリジナル」でという考えに基づきますが、その観点は近現代文学のもので、近代以前にはなかった「個」を重視する、人間中心主義的、西洋文学的な視座です。

 日本の近代以前は、類想、類句を詠むのも、句座の賑わいの一つとして許していた文化があったのでしょう。

 そんな大らかな文化が「時代遅れ」と見做されるようになってから、類句批判意識が顕著になって来たのでしょう。

 これは伝統俳句との超克の問題とも絡みます。

伝統俳句的な世界を超えて、独自、新しい俳句をという人には、類句を作る作者の姿勢の問題に感じられるでしょう。

 そんなことは一切関係なく、俳句作りを楽しんでいるだけの人は、そこまで批判されなければならない問題なの、という気持でしょうし、そのことに厳密な句会から足が遠のくでしょう。

また、意図的にそれをやる作者、確信犯的な作者は、言語遊戯派に多く、先行句を和歌の「本歌取り」的に踏まえて詠むことで、新奇さを生み出す試みをする俳人もいます。

そんな態度自身に拒否感を抱く人もいるでしょう。

 因みによく話題になる類想句の例を次に揚げます。

句の下の「先・後」が発表された順番です。

  鐘つけば銀杏ちるなり建長寺   漱石   先

  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺   子規   後

  凩の果はありけり海の音     言水   先

  海へ出て木枯帰るところなし   誓子   後

  桐一葉日当りながら落ちにけり  虚子   先

  桐の葉のうら返りして落にけり  鬼城   後

  獺祭忌明治は遠くなりにけり   芥子   先

  降る雪や明治は遠くなりにけり  草田男  後

 

 どれも類想句として、過去にも議論になった有名な句例です。

 どちらの方がいいとか、好きとか、咄嗟にいろんな感想が浮かぶでしょう。いろんな見方、批判、評価があり、どの意見が正しいというものではない、ということが、この例でも分かります。

 この類想、類句の存在は、AI俳句の高度化の問題とも絡みます。AIが学習しているのは過去の句という、歳時記的データと、俳句で使用されている語彙、その組み合わせ方を含んだ膨大なデータの蓄積によって自動生成されるものですから、生身の身体的存在である俳人が、その表現において、どこまでオリジナリティのある創作ができるか、という深刻な問題に発展してゆく問題でもあります。

 類想句に陥らず、AI俳句に劣らぬ表現をするには、電子システムであり、身体を持たないAIにはない、自分の今生きてあること、自分という命の重みの中から立ち上げた表現だけではないか、といえるかもしれません。つまり俳句を詠むときに、頭の中だけで考えた、実態とはかけ離れた記号としての言葉のハンドリングに頼らないという姿勢、それが大事ということになるのではないでしょうか。

それには先ず、「いい俳句」より「自分だけの世界がある俳句」を詠む姿勢が大事になってくるのではないかと思います。

 現実問題として、句会などで、先行句の存在のことが問題になったのなら、御誌のように、ひろく意見を求めて議論するのは、とてもいい文化だと思います。批判ではなく、共に考え、学ぶという姿勢ですね。

 

                     俳誌「こんちえると」からの要請による寄稿

 

 

 

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