ロシアのウクライナ侵攻 その認識における「地域研究」の問題性【中田考:集中連載第4回<最終回>】
中田 考
政治・経済2022.09.11
「“安倍総理暗殺と統一教会”で露わになった“日本人の宗教理解の特性”」について、イスラーム法学者中田考氏がBEST TIMESに寄稿した論考【前編】【後編】が話題だ。
一方で、ロシアのウクライナ侵攻は「知(学問)の現場」における由々しき問題を露呈させている、と語る。それはいったいどういうことなのか?
宗教地政学の視点からロシアのウクライナ侵攻について書き下ろした書『中田考の宗教地政学から読み解く世界情勢』の発売(10/7)が待たれるなか、今回最新論考全4回を集中連載で配信する。第4回最終回を公開。
ゼレンスキー大統領
【19.アメリカの人種主義的民主主義】
最後に、トッドがウクライナ戦争を分析する概念装置を概観して以下におきましょう。
ロシアがほぼ無制限の父親の強い権威と兄弟間の平等を併せ持つ農村の外婚制共同体家族構造に由来する「権威」と「平等」に基づく精神システムを持つのに対して、アメリカは核家族に由来する「自由」と「不平等」という正反対のシステムを持っており、冷戦期にはそれが補完的に作用した、とトッドは言います。
アメリカはロシアを成長に向かわせ、ロシアはアメリカを平等に向かわせ、両国の教育の普及による大衆の識字化は双方に市民社会を成立させました。
但し兄弟間の平等が存在しないアメリカは白人と非白人(黒人と先住民)の区別によって、人種主義に由来する「白人同士における平等」という平等の理念を見出しました。
こうしてソ連の「全体主義的民主主義」に対して、「政治哲学の机上の空論」からはかけ離れたアメリカの「人種主義的民主主義」が成立しました。
しかしこのアメリカの「人種主義的民主主義」は二つの理由で崩壊します。
第一に、ソ連の民族解放を謳う共産主義との対抗上黒人を対等に扱うことを迫られ人種主義を公言することはできなくなりました。
第二に、共産主義の影響による労働組合による労働者の地位向上を経営者層が抑え込み、高等教育進学率が25%を超え、能力主義により格差を正当化する新たなエリートが生まれ、上層部でエリートの出現により白人間の平等が霧散し、下層部で黒人に追い上げられることで白人の平等が浸食され、アメリカの人種主義的民主主義から芽生えかけた平等主義の契機が失われました。
【20.リベラル寡頭制vs権威主義的民主制】
これがレーガン元米大統領(在位1981-1989年)が反動的な新自由主義(新保守主義)に舵を切った背景です。それから40年経ち、アメリカの新自由主義的ナショナリズムは国内産業、労働者階級、社会保障制度を破壊し、生活水準を低下させ、ついには平均寿命まで低下させるに至りました。
寿命にまで及ぶ社会格差が拡大し、金権政治が公然と横行するアメリカの政治システムは、科学的にも政治哲学的にももはや「自由民主主義」と呼ぶことは適切ではありません。トッドは、現在のアメリカの政治システムを「リベラル寡頭制」と呼びます。
トッドはそれに人類学的視点を加え、現代世界の真の対立を「自由民主主義陣営vs専制主義陣営」ではなく「リベラル寡頭制陣営vs権威的民主制陣営」だと述べます。
自陣営を自由民主義と呼び法的な善なる国際秩序の拠って立つ原理として正当化し、ロシアを悪魔化する日本で罷り通っている戦争当事者であるアメリカの情報戦の枠組よりは、このトッドの分析枠組の方が有益だと私は考えています。
エマニュエル・トッド
【21.地域研究者の研究対象へと思い入れ】
ここまで思わず遠回りをしてトッドのウクライナ戦争論を紹介しましたが、ここまで論じてやっと本題の地域研究の問題点に戻ることができます。
地域研究は冷戦期のアメリカで発展した学問で、(英米流)地政学(geopolitics)と同じく、英米を主軸として第二次世界大戦の戦後処理を英米を主軸とした戦勝国(United Nations)によって西欧に有利に進めるために領域国民国家システムを再編した国際連合(United Nations)を合法性の所与とし、アメリカの「国益」に奉仕するという明確な価値志向を有する方法論/世界観に立脚する政策科学です。
冒頭(第1回)に述べた通り、地域研究は地域研究の名に反して、実際には各国研究の寄せ集めです。それにはまずフィールドワークを行うためにビザを取る、という第一歩からして研究者は領域国民国家システムの枠組を超えられない、という実際的な理由があります。
そして地域研究の対象となる多くの国では、調査の許可を取るのが難しく、政府に対して批判的な研究を発表すると入国ができなくなります。
東南アジア地域研究者で『想像の共同体』の著者ベネディクト・アンダーソンがスハルト政権を批判して1972年から26年間にわたってインドネシアの入国を禁止されたことは有名な逸話です。
ベネディクト・アンダーソンほどの大学者であればともかく、入国を禁じられフィールドワークができなくなることは地域研究者にとって「致命的」です。
私も在サウジアラビア日本大使館で専門調査員を務めたことからイスラーム地域研究に手を染めることになりましたが、本さえあればフィールドに行けなくても困らないイスラーム古典研究が本業であったため、現行の全てのムスリム諸国をイスラームの規範的政治制度であるカリフ(イマーム)制に反する反イスラーム体制である、と批判することができた、とも言えます。
そういった実務的な理由に加えて、「一般的な傾向として地域研究者は研究対象地域に思い入れを抱きがち」と言われます。
つまり地域研究者は研究対象国の政策に親和的になりがちであり、特に地域研究の主たる対象となる後発ネーション・ステートについてはその公定ナショナリズムに批判的になることは難しくなります。
公定ナショナリズムを有する対象国同士が敵対している場合、当事者国同士の対立の解決が難しいだけでなく、地域研究者同士の状況認識のすり合わせすら困難になります。ロシアのウクライナ侵攻をめぐる状況もそれに当て嵌まります。
【22.地域研究と国際政治学と】
国際政治学(英米流地政学)は直接的な政策科学であり、研究者も戦争を含む国家間のパワーゲーム、ヘゲモニー闘争における情報戦の当事者であり、中立でないことは当然の前提です。
一方、地域研究は学際研究であり直接戦争を扱うことはまれで、情報戦の当事者であるとの意識が研究者自身に薄いだけでなく、外部からもそのようにはみなされません。特に研究対象国が、紛争において欧米陣営に属している場合、自分たちの見方は国際社会の合法性を代表しているかのように表象され、紛争の当事者のポジショントークであるとのその党派性は隠蔽されがちです。
更にロシアのウクライナ侵攻において、日本はアメリカが主導するNATOなどの対ロ経済制裁に加わり、はっきりと戦争の一方の当事者の立場に立っています。
それは第二次世界大戦の敗戦処理において包括的な講和条約を結ばずソ連との和平条約を棚上げして、NATOのような軍事同盟に加入せずアメリカの核の傘に入る日米安全保障条約を基軸とする安全保障体制を構築した日本としては当然の政策決定であり、それ自体は学問的に非難されるものではありません。
しかしそれがロシアのウクライナ侵攻が国際法に反する不法な行動であり、対ロ制裁が国際社会が認めた正義である、との認知の歪みまでを引き起こすとすれば、それは学問的な分析を誤らせる危険を生みます。
【23.ウクライナ地域研究の問題性】
ロシアのウクライナ侵攻における地域研究の問題は、『スプートニク・ジャパン』のような戦争の一方の当事国ロシアの情報戦の道具に対するのと同じ警戒が、他方の当事国ウクライナの情報戦の道具であるウクライナの国営メディア『ウクルインフォルム・ジャパン』の記事に対してなされていないことです。
またウクライナ研究者でウクライナ研究会会長の岡部芳彦の『本当のウクライナ 訪問35回以上、指導者たちと直接会って分かったこと』も内容は面談した政治家たちの業績のみを書き連ね、褒め称えることに終始した、批評性のかけらもない「提灯記事」の寄せ集めでしかありません。
平時であったならば知られざる国ウクライナの魅力を伝え友好促進を目指すガイドブックとしてそれなりの意味がある本ですが、2022年7月3日という発売のタイミングを考え合わせるとウクライナの情報戦のプロパガンダの情報操作の書とみなさざるを得ません。
またEUの中東欧外交を専門とする国際政治学者でウクライナ研究会副会長でもある東野篤子は、2022年7月7日テレビ番組(ワイドスクランブル)で、「ウクライナに対して最も厳しい話をした」とツイートしていますが、「汚職によって支援各国の『出し渋り』を招いてしまわないためにも、ウクライナ現政権には汚職対策を推進して貰いたいものです。
結局はそれが、ウクライナ復興への近道になるはずです」と理由を説明しています。東野はロシアのウクライナ侵攻について「ウクライナに非はない。瑕疵のない側に『降伏したらどうか』とか『NATOへの加盟は諦めろ』などと譲歩を迫るのは、理不尽だ」と明確にウクライナ側に立っています。
東野はウクライナ戦争の渦中においても、ウクライナ支援への悪影響の可能性があるために汚職の現状の言及への煩悶を露にしながらも、最終的に実態を客観的に述べ改革の姿勢を示すことが復興に繋がるとの信念から、敢えて研究対象のウクライナに厳しい評定を行っています。東野の場合、研究対象が被支援国のウクライナと支援する側のEUに跨っていることにより、ウクライナの情報戦から一定の距離を置くことに成功しています。
【24.国際政治学の問題点】
しかし東野の場合、ウクライナとEUを対象とする地域研究者であると同時に国際政治学を専門としており、領域国民国家システムの枠組の中での国連における欧米のヘゲモニーの合法性/正当性を所与として受け入れています。
そのため非欧米の中露も国連安保理の常任理事国として拒否権を有しており、冷戦終了後も国連、そしていわゆる「国際社会」もまたヘゲモニー闘争の場であるとの認識ができません。
つまり、ロシアのウクライナ侵攻は、国連と国際法秩序の合法性/正当性を侵犯し、ロシアが主権国家ウクライナに仕掛けた不法な戦争であり、戦争の当事者は戦争を仕掛けた不法なロシアと被害国であるウクライナであり、被害国であるウクライナへの支援はウクライナ側に立っての参戦ではなく、不法を正す義務であると考えているのです。
しかし現行の国連のシステムでは拒否権を有する安保理常任理事国ロシアの行為を不法と断じることはできず、ロシアの主張するテロリスト「ネオナチ」掃討のための「特別軍事作戦」を「戦争」だと断ずる以上、それはウクライナを戦場とする国連のヘゲモニーを握る欧米とそれに挑戦するロシアの戦争であることを認めなければなりません。
また、ウクライナとそれを軍事・外交・経済的に支援しロシアに経済制裁を課す陣営と、ロシアへの経済制裁を拒否し軍事・外交経済的にロシアを支援する陣営の戦争である、ということでもあります。
ですから、国際政治学者は、ロシアとウクライナの戦争が、ロシアと欧米の代理戦争であることを執拗に拒否し、戦争当事者ではなく、無垢のウクライナを侵略する悪のロシアに対する正義の審判者、執行者のポジショニングを取ろうとすることになります。
その典型が篠田英朗で、欧米がウクライナの後ろ盾になっていることを指摘しロシアとの和平交渉を説く研究者を「陰謀論者」と決めつけSNSでもヒステリックな誹謗中傷を繰り返しています。
ただし同じ国際政治学者であっても、「国際関係の理論研究者」野口和彦はより客観的、中立的で、「世界平和や世界秩序のためにロシアを懲らしめる」といった「水戸黄門」のような勧善懲悪のストーリーを「戦争に関する豊富な国際政治研究の成果をほとんど無視しているか、戦略のロジックに明らかに反する」と批判し、論理的で経験的に裏打ちされた既存の国際政治研究の洞察に基づき「日本も欧米諸国も、国際秩序を守るという名のもとに、安易に世界各地の紛争に介入することは控えるべきです」と述べています。
欧米の自称する自由民主主義の陣営に自覚的に加わることは価値観、信念に関わることなので研究者の自由です。しかし、それが認知の歪みをもたらし、国際秩序の変動を見逃すことにつながるとすればそれは学問的に看過することはできません。
ロシアのウクライナ侵攻が、国際社会とロシア、正義と悪の戦いであり、対ロ経済制裁とウクライナ支援により簡単に勝利できるなら、問題はありません。
しかし現状では徐々に戦争が長期化するとの見通しが強まっています。
しかし、プーチンが本当に西欧のメディアや研究者が言う通りのその行動が予想できない邪悪な独裁者であるならば、戦争が長期化し窮地に陥れば世界を核戦争に巻き込むリスクが高まります。
筆者は日本がこれ以上アメリカに追随しロシアとの対決姿勢を強めるなら、ロシアが核使用の対象として日本を選ぶ可能性は低くないと考えています。
それについては近著『宗教地政学から見たロシアのウクライナ侵攻』において詳述しますが、広島、長崎に続いて日本がまた核攻撃を被ることに対する国民の合意形成がなされるまでは、ウクライナ戦争に対する態度決定は慎重であるべきだと筆者は考えています。
【結語】
以上、筆者はロシアのウクライナ侵攻の研究には、実態は各国研究の寄せ集めに過ぎない地域研究が不十分であることを示しました。
ウクライナ戦争はいまや東欧・ロシアを超え全世界を巻き込みつつあり、その解決は言うに及ばずその意味を把握するためには学際的なアプローチが必要です。
筆者はロシアのウクライナ侵攻の本質は宗教にあると考えており、宗教地政学の視点からの分析を一冊にまとめました。
しかし、日本ではなじみのない宗教地政学的分析を正しく理解するためには、まず現在日本で流布している言説の基礎にある地域研究とそれに基づく国際政治学の方法論的問題を指摘しておかなければならないと感じました。
本稿が読者のロシアのウクライナ侵攻への視野を拡げ、未知の世界の探求へと誘うことになれば、望外の幸せです。
<了>
【注】
[1] 私自身は政治的意思決定の形式面に着目し、現行の欧米の政治システムを「制限選挙寡頭制」と呼んでいるが、その実質的内容は、トッドの「リベラル寡頭制」とほぼ重なっています。
[2] 「地域研究 現場の悩み30門」『地域研究』第12巻(2012年2号)50頁。
[3] 「露と欧州 意思疎通欠く…筑波大准教授 東野篤子氏[視点 ウクライナ危機]」『読売新聞オンライン』2022年3月9日付。
[4] たとえば篠田英朗“ミアシャイマー「攻撃的リアリズム」の読み方――ウクライナ侵攻「代理戦争論」「陰謀論」の根本的誤り(上)”2022年4月22日『「平和構築」最前線を考える(38)』、篠田“ミアシャイマー「攻撃的リアリズム」の読み方”(下)(2022年4月22日)『「平和構築」最前線を考える(39)』参照。
[5] 野口和彦「ロシア・ウクライナ戦争の言説と国際政治研究」(2022年7月31日付)『アゴラ 言論プラットフォーム』参照。ヒトラーがミュンヘン会談におけるイギリスの弱腰の宥和政策から反撃がないと推論してポーランドに侵攻したのではなく、英仏とのバランス・オブ・パワーの計算からポーランドに侵攻したことを明らかにしたダートマス大学のダリル・プレス(Daryl G. Press)の画期的研究『信憑性を計算すること(Calculating Credibility)』(2005年)に基づき、「このロジックをロシア・ウクライナ戦争に適用すれば、アメリカは潜在的な現状打破国の将来の侵略を抑止するためだけの目的で、ロシアのウクライナ侵攻に関与するのは間違いだ」と野口は述べています。
[6] たとえば《ウクライナでの戦争、「何年も続く可能性」 NATO事務総長が警告》『BBCニュース』2022年6月20日付参照。
[7] ロシアのラブロフ外相は核使用を仄めかしており、アメリカもそれに備えた対応を迫られている。たとえばGerald F. Seib《プーチン氏「核の脅し」が生み出す新たな未来》2022年5月10日付『WSJ日本版』参照。
[8] 野口は、「アメリカや日本がヨーロッパでの戦争に政治的・軍事的な資源を傾斜的に投入することは、アジアでのバランス・オブ・パワーを中国やロシア有利に傾けます。このことは、これらの現状挑戦国【中国】にアジアでの機会主義的な勢力拡張を許すスキを与えかねません。―中略― 日本は明確かつ力強くアメリカがアジアに集中するように後押ししなければなりません。アメリカの現在の注意と関心はヨーロッパと今や中東に分散しています。放っておくと、日本は悲惨なことになるでしょう」と述べ、「ロシアの隣国である日本は、大規模な侵略を受ける可能性は小さいとしてもロシアの脅威と決して無縁ではない。またそれ以上に、軍事力による領土奪取の前例が東アジアおよび世界に与える影響によって、安全保障環境が悪化しうる国である。―中略― ロシアによる【ウクライナ】侵略を【軍事支援によって】終わらせることは、日本が欧米と共に負う責務であるとの政策提言は「『自己敗北的予言』すなわち自らが避けようとした災厄を自ら招いてしまう愚行になりかねません」と警告しています。野口「ロシア・ウクライナ戦争の言説と国際政治研究」参照。
文:中田考(イブン・ハルドゥーン大学客員教授)
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