桜の花が開きだしました・・というニュースが流れる頃、父は亡くなりました。
平成15年の3月22日。
長男が高校2年・次男が中学3年・三男が中学1年の春休み。
父は、腰が痛いとずっと言っていました。
定年後は、町内会の会計を務めていました。
その事務処理を楽しんでいるかのようで私もとても、嬉しかったです。
町内会の旅行で温泉につかっても腰の痛みがとれない・・と言い出したのが、平成14年。
健康には気を配っていた父でした。
近くの外科で診てもらうと、すぐに赤十字病院を紹介してもらい、そこでも、
『前立腺癌の疑いがあります。自治医大病院を紹介します。』と。
それからは、父はたばこを辞め、生きる希望を強く持ちました。
自治医大病院へは、検査のため、治るためと自分にも父にも言い聞かせて通院しました。
様々な検査をした結果を聞きに行くと、
『前立腺癌とはいえない。』というので、私は、ほっとするとともに、父はこれから腰の痛みのなくなる治療をするものだと信じました。
その後も、大腸検査・胃カメラ検査・心臓・腎臓・脳・・・・・全身の検査が始まりました。
さの途中で、私は、なんの前触れもなく
『お父さんの余命は半年です。』
と宣告されました。
父は、尿検査に行っているときに。
そんなことがあるのだろうか・・・・・・と。
このことは、私だけの胸に留めることをすぐに決めました。
医師にもそのことをお願いしました。
母は、父にゆだねて生きているタイプの女性でしたし、妹も、弱い身体の自分と幼い息子・娘の子育て中でした。
父がこんな突然に居なくなることを伝えた時の母と妹がどうなるか・・そちらも心配でしたから。
父は治るために入院している。自分に言い聞かせ、笑顔を作っての毎日でした。
その頃から母の腎臓も機能を失いかけていました。
年が明け、父の癌は、どこから始まったのか分らないほど、前身に転移していたようです。
それも、胃ではなく、腸でもなく、脳でもなく、前立腺でもなく膀胱でもない。
内臓の周りが全て癌に侵されているということでした。
脳圧があがった時点で命尽きる・・と説明を受け、住む街の病院へ転院しました。
もうすぐ、家のそばの桜並木に咲く桜を待ちこがれているころ・・・
皆が、なんとなく病室に集まっていました。
私も子供たちも皆。
医師の死亡時刻を告げたとき、私は、「気をつけて行ってね・・・」 と言葉をかけました。
あれから12年。今年、13回忌です。
母も亡くなり、集まる家もなく・・・
父の兄弟・母の兄弟に、墓参り・法事をしないことをお知らせしました。
この写真を葉書にして。
もうすでに、丈夫な身体と平和を愛する志を持って私たちのそばにいるかもしれません。
もしくは、田端義男の歌でも口ずさみながら、千の風に乗って大空を渡っているのかもしれません。
ともかく、私の家と妹家が仲良く生活していくことが、追善供養になると思います。
22日は、皆が心一つになって、父を偲んでいただけるように、とこのような写真を用意しました。