190106 歩く道(その5) <隅田党が支配した隅田荘の現在を歩きながら>
正月休みも終わり、明日から仕事です。ブログを続けるか少し悩みつつ、再びタイピングを始めました。このブログの一つの目的は自分というものがそもそも存在しうるものかを検証するというか、無というものをぼんやりでも感じるところであったように思います。そういった感触は書けば書くほど、ぼんやりながら受け止めてきたように思います。
羽仁五郎著『都市の論理』を昔、おそらく40年以上前に愛読していたように思うのですが、内容はすっかり忘れてしまいました。そのおかげで?記事を題材に適当なコメントができたのかもしれません。日々の報道記事を見て、自分なりの感覚を見いだせないかと思いながら、取り上げてきたかもしれません。それは気持ちだけで、内容がまったく伴わないものでした。そこには自分というものの意見を見いだすこともできないものでした。その結果は見事に自分というものの存在を示すことができなかったことを示してきたように思います。
おそらくは海辺の渚に押しては引くかのような浜の真砂の一つのようなものであったかもしれません。それは少し美しすぎるかもしれませんね。真砂もいつかは見えなくなるほどミクロ以下の存在になるのでしょう。私もそんな一時的に存在しているようなものでしょう。そんな私が存在の証を示そうとするつもりはありません。できれば存在するひととき、世の中に少しでも悪い影響を及ぼさず、逆に少しでもよい影響を与えることができればと願っています。そんなことをつらつらと考えながら、またこのブログを再開することにしました。
それは「歩く道」というのが今回で5回目ですが、私なりに気に入っています。歩くのが楽しくなったのです。もう少し土地勘というかその地域の歴史地理文化生態系などに知見があれば、とても面白いだろうと思いつつ、ただ歩くだけで、毎回いろんな発見があります。それを自分で楽しんでいます。まあ認識力というか洞察力というか、そういったものが欠けているので、適当な歩き方ですけど、これをもう少し続けてみたいと思っています。
今回は昨日、寒風の中、2時間ほど歩きました。橋本市隅田町河瀬から大和街道を東に歩き、隅田八幡宮南門跡で北方に向かい参道を通って、八幡宮で参拝し、今度は西方に戻ったのです。
大和街道は紀伊国和歌山城下から大和国までの街道(結構いい加減な表記です)で、道幅がおそらくですが1間くらいしかない、狭い道路です。紀州55万石の大名行列と言っても、通りに人が跪くこともなかったのでしょうから、この程度でもよかったのでしょうか。
隅田町あたりでは往時の面影を残すほどの建物は見かけないように思います。まだ紀ノ川対岸の清水町あたりの高野街道の方が風格のなる家並みが残っているように思います。西行庵もありますし、往時はたくさんあった竹竿づくりの工房も残っています。
そんな大和街道から少し下ったところに小さな分譲地が見えたので降りていくことにしました。すると河岸段丘の最下部、というか紀ノ川河岸の上端に、少し階段状にミニ分譲地が広がっていました。その先端まで歩いて行くと、家並みが少し途切れて、紀ノ川の悠々とした流れが東西に横たわっていました。冬らしい透徹した青々とした色合いです。水の流れは幅30mからせいぜい50m程度でしょうか、それが蛇行しながら、川中の岩に遮られつつ、しっかりと流れています。
今回も紀ノ川用水路に遭遇したので、その横道を東方に歩いて行くことにしました。この管理用道路と思われる幅2mくらいの道は、みごとに刈り払われていて、これはとても歩きやすい、くっつき虫にやられないと思い、すたすたと歩を進めました。用水路の方は水がまったく流れてなく、藻が少し繁茂したり、よくあるタバコのポイ捨てが目立ちました。犬の散歩や一人散策で出かけるのはいいのですが、そろそろやめてもらいたいものです。ただ、犬猫の糞らしいものは一度もみかけなかったので、それはうれしいことです。
きれいな道と思ってどんどん進んでいたら、案の定、落とし穴がありました。雨でぬかるんだところに出くわしました。その先は竹藪になっていたので、これは引っ返そうと一旦思ったのですが、よく見ると竹藪はわずかでその先が明るくなっていました。それで縁を歩けばなんとかなると高をくくってぬかるみを進みました。やはり甘い考えで、普通のウォーキングシューズではずぶずぶと入っていき、このままだと靴下も濡れてしまうことになりそうになりました。
といっても昔取った杵柄(きねづか)、なんとかなるものです。そう30年も前は熱帯のジャングル通いをしていましたので、この程度のことはなんでもないのですね。ちょうど枯れた竹が倒れかかっていて、これを次々と横に倒して、その上を歩くことにしたら、うまくいきました。
ところが、今度は用水路の横に倉庫のような建物が立っていて、誰か座ってこっちの方を見ています。その前に来たら、ロープが張られてあって立入禁止の立て札、こんなところ私有地かと不思議に思いつつ、佇んでいると、その方がその先は入ったらいかんと一言。それで私の方から用水路は水が流れていませんねと聞いたのです。実は小田井用水路は流していましたので、こちらもどうかなと思ったのです。すると6月から流すとのことでした。
最近は冬期灌漑というか、景観用水とかいろいろな目的で年間を通して流すことも最近は増えてきていますが、ここではそういう利用はやっていないようです。それにしてもこの用水路の通りはなかなか風情があっていいのですがね。ただ、紀ノ川への眺望は竹藪に阻まれてまったくダメですね。このあたりも検討するといい感じになるのですが。
で、その後隅田八幡宮を訪れたのですが、私がこのブログで何度か取り上げた隅田八幡神社人物画像鏡(正式名称は?)のレプリカが飾られています。この銘文の解釈論はいつか、取り上げたいと思うのですが、橋本市史では簡潔にたしか3説を併記していましたか。
隅田八幡宮のご神体は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后ほかです。まあたいていの八幡宮はこの3神を外さないでしょうね。でも神功皇后から画像鏡を下賜されたという伝承の文を見つけることができませんでした。
この神社は、中世のこの地を治めた隅田党のメンバーを氏子にしていたようです。隅田党(すだとう)は藤原氏と関係があったようです、この地の管理を任され、隅田荘として紀ノ川北岸と南岸を支配し、戦国期近くまで活躍していたようです。その名前が町の名前として残っているのでしょう。
とはいえ、人物画像鏡が神功皇后から下賜された伝承からいえば、より重要な神社と思われますが、神社の外観は素朴で、階段から登っていくと、社務所の下をくぐり、本殿が鎮座する雰囲気のあるたたずまいです。階段には一段毎に3本の切り竹筒にロウソクが置かれていて、夜になると情緒のある明かりをともしてくれるのもなかなかこっている感じです。
少し付け足すと、林順次氏は『隅田八幡画像鏡』や『日本古代史集中講義』などで、人物画像鏡の銘文を大胆に読み解き、継体天皇に百済の武寧王が贈ったもので、それは応神天皇の時代というのです。応神の弟が継体で、その子が武寧王というのです。むろん日本書紀の内容とは相容れない内容ですね。まあ不比等の偽作と断定すれば、さほど気になることではないですが、他方で、その裏付けができるかまだよくわかっていません。
この八幡宮から参道を南に向かっていて少し気になるものがありました。いや、大和街道を西から東に向かって歩いているときも気になりました。つまり南側から見ても、北側から見ても、まるで前方後円墳のような佇まいの大きな塚のような小山があるのです。
それも長さが400mくらいありそうなのです。西側が丸くなっています。東側が少し方形です。ただ本来は円形と方形との合体でその境界付近にくびれがあるのですが、逆にひょろ長くなっているので、そうはいえないですね。とはいえ、古墳の中にはさまざまな利用に供されて、半分が削られたり、頂上部が削られたりしますから、形状が異なるものも少なくないので、簡単にあきらめるのも何かと思うのです。まあ古墳ガールほどの遊び心はありませんが、関心が高じてなんでも古墳に見えるのもご愛敬かと思っています。
それにしても驚いたのは、私が関係したことのある、あるいはしている事件現場と割合近い距離にあり、また訪ねてみたいと思うのです。一つはある刑事事件現場で、なんどか立ち寄って調べたのに、何年も経つと見方が一変するような思いです。またある建築紛争事件も割と近い位置ですね。いま取り扱おうかと思っているケースも偶然、立ち寄ることができました。歩いていると、何かと発見が多いものです。発見とは何か、いつか語る機会があればと思います。
今日はこのへんでおしまい。また明日。