たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考 その4 農家経営と安楽への道

2017-01-14 | 大畑才蔵

170114 大畑才蔵考 その4 農家経営と安楽への道

 

今日は土曜日ながら夕方まで内容証明(電子内容証明なので365日いつでも出せるのは便利なれど土日も夜でも仕事ができる?!)を書いたり、いろいろ仕事をしていて、ブログを書く余裕がない状態です。それで安直に、昨日の続き、才蔵について、「地方の聞書」をほぼ引用しつつ、少しコメントしてみようかと思っています。

 

さて「地方の聞書」は、大畑才蔵が子孫のために処世訓的な書き出しで、22の見出しをつけて、農家経営の基礎的な事柄からため池築堤技術や検見など年貢納入といった村役人的な業務まで広範囲に扱っています。多くの人に読んでもらうために出版とか、農書として利用されるとか、考えていたわけではないと思われます。あくまで後継ぎになるなる子孫たちに、農業というもの、処世のあり方というものまで、事細かに書き残したのだと思います。とりあえず見出しをあげてみましょう。

 

1 土地の善し悪しと施肥、管理

2 田畑の名称(これなどもほんとに基礎知識を伝えようとの親心を感じさせます)

3 百姓農具(これも同様です)

4 種下ろし(正月から毎月撒く作物とその作り方のエッセンスを表す)

5 百姓の渡世積かせぎ(収支計算とその心得 ここに才蔵節が)

6 反当たり収量の計算方法と作柄の見方(才蔵特有の算術力が示されています)

7 村中の収量の計算方法(上記同様)

8 米一石の生産費(ここに科学的な費用対効果分析の基礎があります)

9 田畑の石高の決め方に対する私の考え(自律した百姓像が示されています)

10 年貢率の決め方に対する私の考え(これは幕府でも採用されたのでは?)

11 下役人による事前の作柄調査(行政官僚への合理的な納税調査を求める)

12 領主からの年貢の確定書と村々での割当

13 農家の多忙な季節

14 村の費用の使い方に対する私の意見

15 土木工事の分担の要領(積方見合帳と同趣旨だがさらに詳細に言及)

16 よいため池の築堤の仕方

17 ため池の造成に必要な土量、人足などの見積

18 田の水持ちのよしあしとため池の大きさ(用水の需給バランスを的確に把握)

19 田への潅漑水量の計算(積方見合帳でも同趣旨が指摘されている)

20 検見とそれによる年貢割当方の不公平(公正さに対する厳格な姿勢が現れている)

21 検見と小検見のあるなしによる年貢高の違い

22 小検見人と庄屋の心得るべき事項

 

以上の見出しの中で、「4 種下ろし」の中で、多種多様な作物の播種や作り方を簡潔に書いていますが、ここから才蔵がいかに土地を適宜効率的・合理的に使うことを心がけていたかを示しています。稲作を中心におきながら、自発的に創意工夫して、農業生産力を上げて、収入の安定と生活の平穏を確保しようとしているかが読み取れます。

 

個別にその内容を取り上げると、なんともユーモアも感じる部分がありますが、ここでは省略します。こういった農作物の栽培方法については、江戸時代には農書がたくさん出版され、より詳細な記述もあり、その比較検討は別の機会にしたいと思います。

 

「5 百姓の渡世積かせぎ」は、まさに才蔵らしさがでている箇所の一つと思います。最初に、「平場での普通の農家の収支を計算してみよう。」ということで、基本材料を提供しています。まず、「家族、奉公人合わせて10人、うち6人は一人前の男子(これは15歳以上?)、うち2人は女房と下女、2人は子どもとする。」と基本の家族構成を設定しています。そして「田畑合わせて2町45反を作ると仮定します。この農家の経費として、土地代金5貫(反当たり銀200匁)、諸道具代金は銀1貫、合計銀6貫の資産とありますが、いずれも減価償却資産として把握されていたのでしょうか。そうすると、償却期間とか年償却率とか気になりますが、その後の収支を費目毎とりあげ、最終計算をしていますが、この当初の経緯費がどうなったのか、よくわかりませんでした。

 

で、前置きの後、田畑25反(田2町、畑5反)で10人で収穫する米を中心とする作物の収量、年貢率7割など計算していき、百姓の取り分を銀1538匁としています。その収入を得るのに、どのような経費が支出されたかを詳細に取り上げています。黍や大麦などの三食に食べる量と金額を割り出すのはいいとして、お茶、塩、味噌などの支出にわたり細かいのです。

 

中には面白い?のがあり、「下肥を入れてかつぐ肥桶の損料」まできちんと入れています。各種農具も入れていますが、上記の道具代と違い一年で消耗するようなものなのでしょうか。こうして、一日平均の費用を出し、年間の費用合計が銀1貫5165分となるとしています。

 

そして収入から費用を差し引いて百姓の手元に残るのが銀20匁余となっています。この次が才蔵らしい、心得です。「この試算は、作柄がよく、しかも年貢が安い場合の計算である。3年に一度は不作にもなるし、そのほか思いがけない事態も発生する。だから農業に精を出し、一粒でも多くとれるように努め、食べ物も右の計算より減らすように倹約しなくては、やりくりがむずかしい。」と子孫に向かって語っています。

 

ご承知の通り、才蔵が生きた時代は、日本の歴史上でも巨大自然災害で、長期間の被災が全国レベルで起こっています。一つは、宝永大地震です。宝永4104日(17071028日)、東海道沖から南海道沖を震源域として発生した巨大地震。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされています。もう一つ、その直後同年1216日に起こった富士山の宝永大噴火です。火山灰は関東一円に降り注ぎ(富士山周辺で40cm、江戸でも数㎝の厚さと言われる)、農作物に多大な影響をもたらしました。

 

気候変動の影響もあったのでしょう、旱魃、虫害などで、作物がとれず、あちこちで飢餓状態となり、死人が続出したと言われています。平安末期にあった末法状態に近い現象があったのではと思うのです。吉宗が将軍になって、米生産の増大を全国に勧奨しつつ、青木昆陽を登用して、火山灰の土壌にも適合するサツマイモを普及させたのも、このような時代背景があったのだと思います。

 

話を元に戻すと、この収支計算という合理的な思考を重ね、結論した後の才蔵こそ、彼の本音というか、当時の庄屋なり、百姓の自律を目指す、ある意味では農家的ブルジョアジーともいうべき、生きがい論を展開しています。少し長くなりますが、引用します。

 

「職業はいずれも同じとはいうものの、とりわけ百姓の仕事は主人みずから奉公人のような気持で、夜の明ける前から日が落ちるまでむだなく根気よく働くことが第一である。」というのです。

 

そして次のような普通の人間らしい語りもあります。「奉公人を使うときでも自分一人で働くときでも、この田を南の端まで耕したらたばこを一服しよう、この田を全部耕してしまったら食事にしようといいながらやると、働いているうちにも心がはずんできて仕事の能率も上がり、いきおい打ちおろす鍬にも力が入り大変よい。大勢の人を使うときでも一人で仕事をするときでも、そのような心づかいが必要である。」

 

私も農作業の真似事をしましたが、機械を使わないと、大変な労働です。夏場などとても昼間というか、私の場合午後8時を過ぎると外で働く元気が萎えるほどです。そうですから、当時の百姓が終日力仕事で働くとき、いろいろな心構えをしていたのかなと思う次第です。

 

次の内容は、やはり心がけのある百姓は違うと思うとともに、現在でもやっている人は、之に近い人もわずかながらいるのではないかと思ったりします。

 

「四季ともに夜明け前に起き、朝食の前に冬、春は田畑へ肥料を運んだり、夏、秋はあぜ草や山の下草を刈りに行ったりする。人よりも早めに帰って馬屋にたまった小使を肥溜めに入れる。朝食を食べて野良に出かけるときは手ぶらで行かず肥料を持って行く、昼食、夕食に野良から帰るときには草なり薪なりを多少とも持ち帰るなど、行き帰りとも手ぶらで往復するようなことはすべきでない。夕方でも手があけば家のまわりを掃く。野良に出る季節には夜九ベ仕事もいろいろあるが、農閑期には牛の鼻輪、わらぐっ、わらじ、説しなかなどを作り、少しの暇も無駄にしないように精出して働くこと。」

 

いや、参りました。これこそまさに一所懸命に働くということなんでしょう。ただ、才蔵は、いやいや働いていたのではありません。人に言われて働いていたのではありません。よく言われる封建時代だから、領主・代官の命令で働くかされていたわけでもありません。

 

才蔵は、このように精出すことは、自らのためと言い切ります。それは資本主義が孕む飽くなき欲求でも、マネーを求めて貪欲に働くこととも本質的に異なります。

 

「このように精出して働けば自然に手元にゆとりができて、年貢の納入や肥料代に困ることはない。何を食べるにしても、美食ばかりしてはならない。粗末なものを食べていると倹約になるし、誰にも迷惑がかからない。そうすれば、たくらみごとをして法にそむいたり、口論して人と争ったりする必要がないので、誰もこわいものはない。まことに安楽というのは仕事に精を出す百姓の暮らしのことだ。」

 

人の「安楽」というものを見事に達観しているのです。維新時に訪問した異邦人がこれほど幸福な人々、むろん百姓がほとんどだった時代ですから、彼らが中心的存在で、それを異口同音に驚きをもって語らさせるだけの、実態があったのではないかと思うのです。

 

そして才蔵は、最後に天道という、今で言えば自然に感謝するのです。

 

「草木や五穀が生育し、実るのも、生き物や人聞が生きていけるのも、すべて春夏秋冬が移り変わり、昼夜が寸分の狂いなくすすむという、天道の気によるものである。人聞は頭のてっぺんから足の先にいたるまで雨露の恵み、天道の気のおかげを受けていない者はないのである。」と。

 

今日は「地方の聞書」のほんの一部を拾い読み、引用しただけですが、いずれまた当時の百姓についての諸家の見解を踏まえながら、少し中身のある議論をしてみたいと思います。

 

なお、ちょっと異なりますが、高野30年というテーマで、西行と才蔵について、時代が500年違いますが、一方は覚鑁主導の真義真言宗と激烈な闘いの中で壇上伽藍の一角を占める蓮華乗院(現在の大会堂)を勧請し建立するなど大きな支援を行ったこと、他方は対立混乱する中で、約1000か寺の追放を決定させる高野弾圧に内偵として係わったという、いずれも高野山の歴史の中で重大な事変ともいうべき状況で、高野山の主たる構成員でない立場で働いたという興味深い要素をいつか触れればと思っています。


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