たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考その21 <第2回大畑才蔵顕彰フォーラム>を終えて

2018-08-18 | 大畑才蔵

180818 大畑才蔵考その21 <第2回大畑才蔵顕彰フォーラム>を終えて

 

本日、かつらぎ総合文化会館「あじさいホール」で、110名の参加を得て、第2回大畑才蔵顕彰フォーラムが充実した内容で終えました。

 

第1部 基調講演では、前田正明氏(県立博物館 主任学芸員)による「紀の川中流域における井堰や用水路の歴史」では、現かつらぎ町の笠田、当時、桛田荘(あるいは賀勢田荘かせだのしょう)といわれた地域を中心に、中世から近世にかけて水利と農地利用のあり方が資料と絵図などでわかりやすく解説していただきました。

 

紀ノ川沿い、とくにかつらぎ町は降水量が少なく、水源を確保することが非常に厳しい状態であり、多くのため池によって田んぼへの用水を確保し、目の前に流れる大河・紀ノ川は利用できなかったことが示されました。

 

とくに地形的な説明はありませんでしたが、河岸段丘で、紀ノ川水位が低いこと、近世以前では技術的に大容量の河川流を堰き止めるような土木技術が確立していなかったことがあるかもしれません。さらにいえば、秀吉、さらには徳川政権による統一支配が確立するまでは、荘園支配で、紀ノ川に沿って横断的に荘園をまたぐような用水計画など想定外だったのでしょう。

 

他方で、ため池の築造や修復には、秀吉による高野焼き討ちを止め、高野山に21000石を安堵させた応其上人が成し遂げて、その17世紀初頭の新田開発に寄与したとされています。ただ、それ以前からこの桛田荘では北方の小高い山地を越えた先に北東から南西に流れる静川(現穴伏川)に井堰をつくって、山越えで低地に用水を供給し、相当程度の水田化が鎌倉末期ころから室町期ころまでに成立していたようです。

 

とはいえ、前田氏の説明では、穴伏川自体、小河川で水量が限られており、井堰から取水する用水量がわずかな水田でも足りない状態でしたから、簡易な分水装置を用意したり、自国を決めて分配するといった状態でしたから、とても優良な水田ではなかったようです。

 

それでも穴伏川に井堰をつくって、用水を確保することは、桛田荘と隣接する名手荘などと大変な水利の争いとなり、どんどん井堰を作る競争状態になったようです。

 

他方で、桛田荘は、穴伏川の水利権を先占していた立場を主張していたようで、左岸の水利を確保しつつ、名手荘などに一部、右岸からの用水を認める采配をしています。それは当時の水田耕作にとって主要な肥料であった芝草などの採取を名手荘などが入会権をもっていたと思われる山への立入採取を認めることで、和議したようです。

 

いすれにしても賀勢田の荘は、ため池、小河川の水利だけでは、優良な水田としては成立しなかったのでしょう。

 

その意味で、紀州藩として行った小田井用意水は、画期的な大量用水の確保だったと思われます。

 

ところで、前田氏は、小田井が供用される前の段階の、桛田荘東村について、明治期の一筆ごとの地図を踏まえて、地番ごとに照合して、小田井用水路の南方にも相当程度水田があったとし、小田井用水通水後には用水路の北方(標高の高い場所)、従前の田んぼより南方(低い場所・紀ノ川沿い)に田んぼが拡大したと指摘していました。これは素晴らしい言及だと思います。

 

小田井用水路の位置は、背ノ山のトンネル部分を除けば、おおむね当時変わらない流路となっています。小田井用水路より標高の高い位置に水田が増えたのはなぜかについて、前田氏は、従来の小河川用水により水田化していた箇所が小田井用水によりまかなわれた結果、文覚井(もんがくい)からの用水はその標高の高いところに利用されるようになったというのです。

 

この点は、才蔵自身が、たしか詳細な費用効果分析の中で、従来のため池や用水を、小田井通水により、必要がなくなり、別に利用できるところには利用し、そうでないところは田畑化して、小田井用水による田畑の減少をまかなったり、築造費用にあてることを考えていたことに相通じるように思います。

 

前田氏は、今日の講演ではとくに言及しませんでしたが、文覚井といわれる井堰について、その成立が上記のように13世紀後半以降と見立て、文覚が活躍した12世紀末から13世紀初頭ではないことから、文覚による築造には疑問をもっていると思われます。上記の水戦争の中で、文覚が神護寺を差配し、その名称を使えば、古い時代に権威ある人間が築造したと言うことで、対立者に納得させようとしたのではないかと愚見としては思っています。

 

余分な話が長くなりました第2部 対談では、

会顧問で元橋本市郷土資料館館長の瀬崎浩孝氏、前田正明氏、紙芝居で地元の歴史紹介をされてきた中本敏子氏により、「大畑才蔵ってどんな人?」が瀬崎氏の熱意あふれる解説もあり、結構、迫力がありました。

 

そこで中本さんが質問した大畑という姓を名乗ることができた、あるいはそのよう姓のいわれはという点は答えがなかったかと思います。

 

私も調べたわけではないので、根拠がありませんが、彼が根拠とした学文路(かむろ)は平地がほとんどなく、小高い山を段々畑として利用されていますが、おそらく当時からそうではなかったかと思います。ですから、大きな畑をもっていたということはないはずです。たしか才蔵日記にも彼の所持農地が暗示されていたと思いますが、わずかだったと思いますし、仕事の報償としてもらった田畑もさほど多くなく、それも洪水で流されたはずです。

 

ではなぜ大畑か、基本、畑が多い地域で、農地拡大に貢献していたから、藩から大畑という名前を授かったのではないかと勝手な想像をめぐらしています。

 

他方で、名主の役割を現在の区長なりと同列に扱うのは誤解の元になりかねないと思います。前田氏が指摘したように、当時の年貢は村請で、村の中で誰かが割り当てを納められないとき、5人組、最後は名主の責任になるわけですから、大変です。また、村は司法・行政・立法すべてを地域の中で担っていたので、その名主を含む役員は大変な仕事だったと思います。

 

才蔵はたしか10代後半から杖突という名主の補佐役をしていましたが、これは藩行政の地域事務を一手に引き受け、その農政に関する事務をやっていたはずです。そのため才蔵の農書の中で、税制についてのあり方を詳細に論じることができるのだと思うのです。

 

他方で、龍之渡井や伏越などについて、その農業土木技術が高く評価されていますが、才蔵の自筆の書には、その技術的な解説はありません。たとえば、より高度な技術を求められる通潤橋などについてはその技術書が詳細な絵図で示されています。ま、19世紀初頭ですから、100年以上後ですから、一緒にはできませんが。

 

川を渡す用水樋の発想送は、かなり古い時代からあったと思いますが、橋脚を川の中に用いない方法は、龍之渡井が初めてなのか、土台が岩盤であることに技術的困難性があるのか、私にはまだよく分かりません。

 

いつの間にか一時間が過ぎました。今日はこれにておしまい。また明日。


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