たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

幕府の寺院支配と水利 <江戸初期の高野山による領地支配と幕府の元禄裁許による寺社支配の確立と新たな水利秩序>

2019-03-27 | 大畑才蔵

190327 幕府の寺院支配と水利 <江戸初期の高野山による領地支配と幕府の元禄裁許による寺社支配の確立と新たな水利秩序>

 

以前もこのような感じのテーマで書いたブログを書いた記憶があります。その後もその実態を探る手がかりがない中、悶々としている状況が続いています(まあ勝手な妄想ですが)。今日はとくに書くテーマもなく、多少おさらいと整理の意味で、一里塚みたいに書いてみようかと思います。

 

これまで高野元禄裁許については、何回かこのブログで触れてきました。橋本市発行の『大畑才蔵』中、「第四節 高野山品々頭書」や<村上弘子著『高野山信仰の成立と展開』を解説したブログ記事>などを参考にしてきました。

 

今回は、笠原正夫著『紀州藩の政治と社会』中の「第一節 江戸幕府による寺院支配の完成

~元禄期高野山行人派僉議一件~」を少し参考に加えてみました。

 

上記の「僉議」(せんぎ)は、いまでは使われないことばですね。まあ、現代風に言えば、審議や捜査という以上に、弾劾といった意味合いが強いものかもしれません。行ったのが寺社奉行ですので、審理といった意味合いもあるでしょう。その結果としての判断、裁許といったり、裁断といったり裁定といったりするようですが、現代の判決といった一方的な判断ともいいきれないように思います。その判断(上意)を受けた人が従って初めて有効になる感じでしょうか。

 

高野山の江戸初期から続いた学寮派と行人派との対立は、ことある毎に江戸の寺社奉行に訴えられ、その都度裁許を下しているのですが、一向に両者がそれに従わないのですね(まあこういいいい方は正確ではないですが、実質的にはそういってよいかと思います)。この経緯は、上記のブログが詳しいです。

 

高野山は、江戸時代では唯一の大名格だったのでしょうか。なにせ秀吉が行人派の応其上人に21000石(?)を認めたのですが、秀吉亡き後両者が対立し、家康が学寮派に9500石、行人派に11500石与えて和解させたというのですね。徳川政権は両派を大名格に取扱い、それぞれに江戸住まいを命じています。これって、当時の仏教宗派の中で別格扱いだったのではないでしょうか。

 

他方で、紀州藩といっても、秀吉が征服するまでは、紀ノ川沿いでは西から雑賀一族、根来衆ないし根来寺、粉河寺、そして高野山とそれぞれが大きな領地支配をしていたと思うのです。

 

とくに領地紛争、水利紛争は、中世の荘園史では、この地域が有名で、その中心が高野山であったと思います。その担い手は行人派というある種武力集団の性質をもつ勢力であったと思うのです。

 

たとえば、粉河寺が支配していた粉河荘と東隣の丹生谷村は、名手荘と境を流れる水無川とも言われた名手川の水利をめぐって大変な紛争を世紀をまたいで続けていました。名手荘の背後にはあるころから高野山がついていたと思います。その東側には静川荘がありますが、その静川(現在の穴吹川)の水利をめぐって桛田荘も紛争が絶え間なかったと思います。この桛田荘も高野山の後ろ盾があったと思います。

 

その東側には官省符荘(九度山と対岸)があり、ここは高野山の政所があり、その直轄領値ですが、その東側の相賀荘との紛争があったと記憶です。後者を支配しているのは根来寺です。

 

こういった感じで秀吉が、続いて家康が紀州の地を統一したわけですが、直ちに領地支配を実効的に行えたかといえると疑問です。当初、浅野幸長が藩主となりましたが、1619年広島藩に移ると、家康の子、頼宣が親藩として初めて統治したのですね。

 

この紀州藩、とりわけ紀ノ川沿いはやっかいなところだったのではないでしょうか。高野山が寺社勢力として隠然と、あるいは明瞭に、中世以来の領地支配を推し進め(相対してきた根来寺や粉河寺が没落しているわけですから)、百姓への檀家寺としても強い支配が浸透していたのではないかと思うのです。

 

ここで大畑才蔵が登場するのですが、彼が実施した小田井灌漑用水開発は戦国時代が終わって100年以上経過した後でした。100年余りの間、なぜ紀ノ川沿いの田畑はため池灌漑だけに頼らなければならなかったのでしょうか。紀ノ川沿いは右岸には、おびただし数の河川が紀ノ川に流入しています。また和泉山脈の麓や河岸段丘にももの凄い数のため池があります。それだけでは灌漑用水として足りないことは、百姓が切実に感じていたことでしょう。為政者により多くの水供給を求めたでしょう。でもできませんでした。

 

それはおびただしい数の河川を横断する技術がなかったからでしょうか。いや傾斜の緩い紀ノ川の勾配に対応する傾斜を作りながら流水できる用水路を作るだけの測量技術がなかったからでしょうか。あるいは紀ノ川のような大河川に対応できる井堰を設ける土木技術・材料がなかったからでしょうか。

 

私はいずれも決定的な要因ではなかったのではないかと思っています。戦国期に培われた土木技術は平和時、大河川灌漑を実施できるだけのものになっていたと思うのです。それは江戸初期から各地で実施された大規模な上水路や利根川東遷、大和川付け替えなどが証明しているのではないかと思います。

 

紀州藩にとって紀ノ川沿いの領地支配は、高野山の圧力によってままならなかったのではないかと思うのです。高野山の山内での対立について紀州藩は何もできませんでした。むろん江戸の寺社奉行の管轄だからという名目もあるでしょうが、徳川家霊台があり、行人派をはじめ大量の武器弾薬を保持し戦闘部隊も残存している(刀狩りは行われていない)ことや、百姓に対する中世以来の支配が及んでいたことに、対処に窮していたのではないかと思うのです。

 

前記の「第四節 高野山品々頭書」によれば、才蔵は寛文9年(1669年)、郡奉行(どうやら誤記かあえて虚偽の役職を残したか)の命を受けて、以後20年以上にわたって高野山紛争の内偵を行っています。

 

その調査内容とか報告については、才蔵は記録を残していません。多少記載があるので、これを読み解きたいと思いつつ、そのままになっています。

 

この内偵の結果が元禄5年(1692年)7月の寺社奉行裁許にどう影響したのかはわかりません。ただ、この結果、笠原氏が指摘するように、「幕府の寺院支配が完成」したといえるのではないかと思います。

 

江戸幕府は、寺社奉行以下500名以上の軍隊を高野山の麓、橋本に派遣し、紀州藩のみならず周辺各藩に戦闘態勢に付かせ、いつにても反抗を押さえれるよう、臨戦態勢をとったのですから、凄いことです。それは換言すれば、紀州藩一藩では、親藩といえども、高野山を統治することができなかったことを示しています。

 

その結果、高野山の支配が解け、紀ノ川沿いに事実上、荘園の名残り的な村々が対立し、水利をめぐってお互い対立している状況から、ようやく統合的な水利施策を講じることができるようになったと見ることができるのです。

 

なお、秀吉が認めたのは紀ノ川河南ということですが、実態は中世から戦国期を通じて高野山は河北に支配権を及ぼしていたので、その支配力が続いていたと思うのです。

 

と冗長な根拠のない話を続けましたが、本論に入る前に疲れてしまいました。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 

 


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