170711 元禄高野騒乱と裁許 FM橋本の放送を聞いてふと考える
今朝は周りの雪景色にほれぼれしつつ、雪上で伐採作業をする元気もなく、のんびり新聞を読み、事務所に出かけました。途中、NHKかCDを聞いているのですが、もう一つチャンネルがありFMはしもとが偶然、耳に入りました。普段は飛ばしてしまいますが、高野弾圧と言った言葉が漏れてきて、ふと耳をそばだてて、聞くことにしました。
すると、私がずっと関心をもっている大畑才蔵のことも少し取り上げられたりしたので、事務所に入っても、何年ぶりかでラジオにスイッチを入れて、聞き続けました。ラジオが事務所の中にあるのも忘れていて、使えるかな、なんて思いながら、最後まで聞きました。ほんのさわりだけですが、大畑才蔵が書いた古文書、「高野山品々頭書」(仮題)をネタにして、これを朗読して、少し解説していました。途中から聞き出したので、解説者のお名前も知りませんが、才蔵ファンの一人として、楽しい一時でした。
それでこの高野山内紛争とその幕府が下した大規模処分の概要について、なかなか資料がない中、才蔵の上記古文書などを踏まえながら、書いてみようかと思います。
これは一つは、江戸時代の裁判および執行手続きの、過渡的段階での画期的な事案であること、幕府側からその前後関係について背景などを踏まえる必要があるのではないかと思うこと、他方で、高野山側から長年にわたる相克の歴史の一環であり、最近発生した事案ともなんらかの脈略をも感じていること、その記録の一部を残した才蔵のその後の百姓としての生き方や農業土木者としての活躍とも関係する可能性があること、などを愚考しながら、少し言及しようかと思っています。
その前に一言、今朝の毎日記事に掲載された現代の裁判のあり方に係わるニュース<知的障者 「シャバが怖い」 窃盗累犯、福祉の谷間>は、昨日のブログでも触れた一面の問題です。刑事弁護の役割の一つとして、えん罪をなくすための弁護が重要であることは当然です。また有罪であるとしても、その犯罪の中身や量刑を適切に判断され、処断されることのために、しっかり活動することも同様だと思います。他方で、処断された後の処遇や服役して社会復帰した後の更生については、少なくない弁護士が心を痛め悩んでいるものの、より積極的な活動ができているかというと、私を含め、それほど多くないと思っています。
そんな中、記事で取り上げられた奈良の弁護士は、知的障害者の弁護活動の一環として、彼の過去の履歴から支援してくれる可能性のある施設に連絡して、法廷に出てもらい、事後の対応を約束してもらっています。裁判は、ある罪を犯した人に対して妥当な量刑を下すことですむ時代ではないでしょう。法曹三者だけでなく、周辺の支援体制の構築やネットワークづくりと言った社会的なインフラ整備をも考えて、その人にあった個別適切な処遇のあり方を模索していく時代ではないかと思います。それは機械的に量刑基準に当てはめて行うことでも、あるいは全部ないし一部執行猶予といった措置だけでなく、知的障害の程度や高齢者の特性、成人でもその年齢や背景などを考慮して、更生に向けた処遇のあり方を新たに制度設計する必要を感じています。
もう一つ、昨日取り上げたアメリカ連邦控訴審は、電話による口頭弁論(日本流に言えば審尋でしょうか)を経て、入国停止の大統領令対する即時停止仮処分について、宗教的差別などを理由に、全土的に適用される決定を下しました。刑事司法の先達として、ある種見本的な姿を見せてくれたようにも思います。むろん、本当の議論は本案訴訟でよりしっかりとした議論が行われるのだと思いますが、ただ、私のわずかな情報で見る限り、大統領側がこの大統領令が意図する危険性の立証は容易でなく、逆に、この命令により大規模で不可逆的な人権差別が合理的根拠もなくなされる危険の立証は容易でしょうから、行事差し違えといった判断は、今後も可能性が低いように思います。
さて、本題に戻ります。この高野山紛争は、高野山に平安期から存在する、学侶(密教に関する学問の研究・祈祷を行った集団)、行人(ぎょうにん、寺院の管理・法会といった実務を行った集団、武装した僧兵も含む)、聖(全国を行脚して高野山に対する信仰・勧進を行った集団)がいて、主に学侶と行人の間で対立を繰り返していました。
私の狭い知見では、12世紀の覚鑁上人が、空海入滅後に腐敗衰退した高野山を、新たな浄土思想を加味して復興させたものの、旧勢力による暴力により追い出され、両者の間で激しい対立が生じたのが最初かなと思っています。その後宝徳2年(1450年)に学侶・行人間で1,000人もの死傷者を出す衝突を起こしたのが第2段。そして今日紹介するのが第3段目です。
これには伏線というか、背景があるように思うのです。戦国時代、高野山は17万石、覚鑁をついだ根来寺が70万石、その間の根来寺も10万石くらい?、さらに雑賀衆も何万石というか、交易や戦争請負人として巨万の富を得ていたでしょう。それが信長・秀吉により壊滅され、高野山も、壊滅寸前のところで、武士出身の応其上人が秀吉と和議して、結局、2万1000石を安堵されました。しかし、17万石あったとされ、各地から浪人など多数が跋扈していたと思われる高野山ですから、簡単に、企業解体のようにうまく整理解雇?できたか、まして自然の要塞ですから、相当数が残っていてもおかしくありません。
それでも応其上人が目を光らして、秀吉が力を持っているときは平穏だったと思われますが、秀吉没後の関ヶ原の戦いで、応其上人が西軍に味方する活動をしたことから、高野山を出た後は、応其上人が行人のトップに後を託したものの、学侶、行人との対立は先鋭化したと思われます。
この紛争の最初の処断は、寛文6年(1666年)に、行人をまとめる興山寺(応其上人開基)座主の曇堂を奥州白川藩預かりにし、行人の下山を命じています。それに高野山領を監督する立場だったのでしょうか、伊都郡奉行ほか1名を改易(免職)、1名を閉門としています。
それでも紛争は収まらなかったのでしょう。ついに3年後には、かむろ村才蔵と伏原村才右衛門に密偵を命じて、それから、江戸時代を代表するような(これは私の勝手な見立て)大裁判執行事件となる元禄5年(1692年)までの23年間は少なくとも調査を行っていたものと思われます。
才蔵と才右衛門の調査内容は、記録がないのでわかりませんが、彼ら2人が抜擢された理由として指摘されている、才蔵が高野山への道筋の入り口に住んでいることや、才右衛門の村には大工が多いと言う点は、手がかりの一つとはなっても、むしろその裏があると思われます。
世の中は江戸時代の初期の不安定な状態から、大坂城陥落、さらに寛永14年、15年(1638年)の島原の乱で、ようやく落ち着きつつある時代でしたが、今なお宗教戦争、宗教の権益をバックに強い武力勢力が勃発するおそれが、世情不安を駆り立てる危険はありました。
その意味で、江戸幕府も、御三家の紀伊藩も、高野山紛争を穏便に収める必要性はあったと思われます。
で、当時の法律・裁判制度がどうであったかは、今のところはっきり分かりません。難波氏の「江戸時代の刑事裁判」を参考にして私見を述べます。近代刑法の大原則、罪刑法定主義としては、ある程度確立したのは吉宗が命じてつくらせた、享保5年(1720年)の「享保度法律類寄」、その後本格的なものとして完成したのが寬保2年(1742年)の「公事方御定書」です。後者は有名ですが、長い間確立した法制度がない中で、処断が行われていたのです。
さて、高野山紛争での処断は、基本的には遠島とか、追放が中心ではないかと思われます。預かりの場合武士であれば切腹かもしれませんが、僧侶なり行人ですので、それはなかったのでしょう。
で、この御定書ではどうなっているかを確認したかったのですが、はっきりしません。
主殺し、親殺しなどは、引き回しの上、磔となっていますが、他方で、単に人を殺したときは死罪としつつ、遠島になるような場合は人以外に車でひいた場合しか触れていないようなのです。
では、高野山紛争で、行人たちに下された、下山(追放)ないし遠島と思われる処断は、いかなる根拠かは、いまのところ分かりません。
そしてこの法律に当たる公事方御定書も、裁判である裁許も秘密とされていましたので、内容がわからないのも当然かもしれません。アメリカの大統領令の意思決定過程が曖昧模糊としているわけですが、それは現在の立法過程や行政過程として問題であっても、江戸時代であれば、トランプ氏も問題にされることはなかったでしょう。
と長々と前置きになりましたが、その江戸時代屈指の大裁判執行とは何かですが、おおよそ以下のような経過をたどっています。
元禄5年7月21日から8月16日まで、寺社奉行の本田紀伊守以下約500人が現橋本市東家に滞在し、審理および執行を行ったのです。なお、本田は、正しくは本多正永が正しく、元禄元年に寺社奉行に抜擢されています。この人そのものも興味深い方です。というのは本多氏は、元は7000石の旗本で、寺社奉行となって1万石に加増され、その後、次々と加増され、元禄16年(1703年)には沼田藩4万石の城主となって出世しています。つまり、九度山に蟄居し大坂城で活躍した真田幸村の兄信之が上田城とともに領主となった沼田城は、真田家内紛で、この本多氏が勝ち取るという不思議な?縁です。
ともかく本多裁判長ならぬ寺社奉行が、500人もの役人を連れて江戸から裁判をする、しかも26日もかけるというわけですから、並々ならぬ大裁判です。そして高野山からは7月21日から24日にかけて行人を呼び出し、伊都郡奉行所にて25日から審理を開始しています。審理中、行人たちは拘置所などないので、近くの民家に仮の囲い場所を用意して拘束していたようです。
7月30日に評定を行い、その際、紀州藩士などが数千人が警備のために来ています。
この日に行ったのかは判然としませんが、行人寺にある武具、金、米、衣類を開封(これは差押え?)して、門戸は大工が釘で打ち付けて開かないようにしています。
明暦元年の高野山寺は、寺数が1853軒です。このうち行人坊が1517坊で、学侶坊が194坊、聖方が118坊、客僧坊が35坊ですから、行人坊が断然多く、力が強かったと思われます。上記の次第で、元禄4年に行人坊の1237坊が閉門(前年に裁許があり、翌年に執行となったのかと推測していますがわかりません)となっています。
それにしても、現在は117寺ですので、いかに多かったか、当時の図面を見ると小規模な区画で密集しています。
で、僧侶数は3768人で、行人が2665人、学侶が548人、聖が317人などですので、数の上でも他を凌駕していますね。
このような高野山実態を踏まえ、この審理の結果一部は裁許で、高野山の山腹、天野に45人を追放したり、30人が学侶にて出家・転向させたりしています。
で、興味深いのは、8月7日には本多寺社奉行ら3名の上使が高野山に登り、翌日には帰ってきていますが、寺の取りつぶしなどの執行がきちんと行われているかを検分したのでしょうか。
8月7日から8日にかけて囚人?となった行人を乗せる板囲いした大船と警備船を用意して、伊豆大島、薩摩、壱岐、肥後天草などへの遠島処分となった合計627人を乗せて、橋本から若山、さらに堺、大坂に出て、そこからそれぞれの島流し先に送られています。
詳細は正確に記述できたか、遠近両用のめがねを見ながらも、文献の文字を読みづらくなり、少々、間違いはあると思います。
いずれにしても江戸の最高裁長官的な寺社奉行が500人の職員を連れ、しかも地元も数千人を警備に当たらせて、裁許、断行したわけですから、これだけ大きな裁判執行は江戸時代でも希有ではないかと思うのです。
で、尾張藩畳奉行朝日文左衛門の日記「鸚鵡籠中記」に、面白い記述があります。
才蔵の8月11日の記述で、627人の行人が、遠島処断が下された後、けさ衣を脱がされ、奉行所下の紀ノ川の河原で、焼き捨てられたとされていますが、これがこの日記で事実確認されただけでなく、新たな騒動が起こったことが記述されています。
この日記には、袈裟衣を焼いた、その煙りを戦火と勘違いした周辺の藩士が慌て駆けつける騒ぎになり、紀州藩がこれら諸藩の藩士たちに半日かけて説明するといった、今から思えばユーモラスな光景も記録されています。
これだけの裁判執行ですから、周辺でも大変な騒ぎがあって、緊張していたことがわかりますが、ユーモラスでもあり、富士川の鳥の羽ばたきに驚いた平家武者のように平和を感じさせます。
この高野山紛争、現代版は、以前、fbに長文で書いた記憶がありますが、まだ続いているので、いつか触れてみたいと思います。空海さんに合掌。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます