たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

女性と権威 <道鏡の由義寺跡 大阪・八尾で塔の基壇を発掘・・・>を読んで

2017-04-11 | 日記

170411 女性と権威 <道鏡の由義寺跡 大阪・八尾で塔の基壇を発掘・・・>を読んで

 

今朝は夜中に目覚めその後寝付けが悪く、次に目覚めたのが6時を大きく回っていました。すっかり明るくなっていました。早速、外にでて、庭の草を少しとっていると、パラパラと雨が落ちてきて、早々とあきらめました。するとシジュウカラの軽やかな鳴き声が聞こえてきました。ヤマガラと違い、シジュウカラは住宅地にもよく出没してきますね。まだウグイスの鳴き声が練習段階で、危なっかしい状態です。

 

そんな朝からいつの間にか、今日も業務時間が過ぎてようやくブログに取りかかっています。来客対応があったり、慣れない登記申請など関連作業が多く、時間の経つのがあったという間です。一日まとまった仕事をしている状況にないのですが、これも年のせいでしょうか、仕事がさほどはかどっていないのかもしれません。

 

そういえば、昨日、林家の人たちが集まり、ま、皆さん70前後ですが、ナタに似た枝打ち斧の話題になり、そういうのを扱える人が最近いなくなったといった、(その名前が思い出せませんので、ここでは枝打ち斧としておきます)枝打ち斧をきちんと扱える人だと、軽くスナップをきかして枝をすっぱと一発できってしまうそうです。その切れ具合を測るのに自分の肌毛を剃るそうです。それくらい鋭利で、しかも一定の重量があるそうです。

 

ところが、最近は切り口がきれいな枝打ち用のノコがあり、それ出来ると簡単に切れて、切り口もきれいだそうです。で、どのくらいの高さまで登るのか、どのようにして登るのかを聞いてみると、それに関連して、スギ・ヒノキの巨木だと20mくらいはあるので、その近くまで登るとのこと。その際、何本かはしごを用意し、その後はぶり縄で登るそうです。場合によってはぶり縄を5段くらいにすることもあるといいます。といっても皆さん、年なのでいまやっているわけではないようです。

 

で、私が今もぶり縄で10数mくらいまで登ってやっていると言うと、危ないから気をつけないと、と言われてしまいました。年寄りから年寄りの冷や水的なことを言われるとなんともいえないジョークに聞こえます。

 

と雑談はこの程度にして、今日の話題は、女性天皇制が近時ますます議論されるようになってきていますが、見出しの毎日記事を読みながら、時折、この男性優先社会構造の中で、クォーター制とか、男女均等法とか、さまざまな施策・制度が講じられていますが、まだまだ女性がトップに立つことは容易でない状況にあると思います。

 

韓国の朴大統領の場合も、彼女の不幸な生い立ちも影響しているのかもしれませんが、他方で儒教的な男性優先の社会風俗の中で、周囲がほとんど男性ばかりであり、ガラス張りの意思決定を避け、閉鎖的・秘密裏に行ってきたことが、今回の弾劾罷免にまで到ったのかなと思いながら、称徳天皇のことを思い出してしまいました。

 

両者に関連性も類似性もあるとは思いませんが、なにか女性が権力のトップに立つことの不幸を背負ってしまったようにも思えるのは少し狭量な見方でしょうか。

 

称徳天皇の父、聖武天皇は、曾祖母、祖母、叔母(一時父が10年間のみ在任)と長い間続いた女性天皇というリリーフ的な存在から、生まれながらにして確立した天皇の道を歩んできたと思うのです。でも聖武天皇自身、幼いときに父と死に別れ、母も病気で離れて暮らし、悲しい孤独の中で成長し、天皇になってからも、一方で盧舎那仏を建立するなど仏教国家の樹立を図る一方、九州で起こった反乱以降は転々とする奇行ともいうべき行動に出ています。妻の光明皇后ほど評価されないような印象があります。

 

聖武天皇の評価は単純ではないのかもしれません。娘に天皇の地位を譲るに当たって、記憶では天皇の地位に執着するなといったか、民間から天皇になってもよいといったか、天皇制といった万世一系の虚構性?(曾祖父・天武天皇が確立したか?)にこだわるなといったことを言い渡したとか、言われています。割合自由な考えの持ち主であったのかもしれません。

 

娘が孝謙天皇として、一旦政治の世界に入りますが、当時は政争の中にあり、藤原仲麻呂が結局実質的な政権を握り、孝謙天皇はその傀儡のような状態であったかもしれません。そのため間もなく淳仁天皇に譲位しますが、仲麻呂の独裁的な政治も、長続きせず、再び、孝謙天皇が称徳天皇として返り咲いたわけですね。

 

でも信頼できる人が身近にいなかったのでしょう。看病僧侶として付き添っていた道鏡に頼りきり、ついには道鏡が法王、そして天皇にまでなるところまで行ったのですから、和気清麻呂が出てくるまでもなくどこかで頓挫していたかもしれません。

 

ついでにいえば、道鏡を天皇にするようにという託宣は、あの宇佐八幡宮から出ていますが、この八幡宮はなかなかややこしいです。神功皇后伝説、その子、応神天皇と関係する神宮ですが、このあたりの話しは整理して別の機会にしたいと思います。

 

で、称徳天皇以降、女性天皇はでていません。当時といまでは天皇制も異なり、女性の地位も異なっています。象徴としての天皇という点でいえば、エリザベス女王と比較するのもなんですが、女性が天皇になることはすばらしいことではないかと思うのです。

 

日本書紀や続日本紀に書かれた女性天皇像がどれだけ正確なものか私は分かりません。また、男系の男子のみによる天皇制の継承がわが国の国体的なものというのも、私には合理的な根拠があるのか疑問です。

 

あまり天皇制云々について検討したことがないので、ここで仰々しく議論するつもりはありません。ただ、男系の男子天皇にこだわる理由は、多くの国民には理解しにくのではないかと思うのです。

 

それはともかく、兼行法師の、徒然草第38段で披露している、人生観は、維新前までは割合多くの日本人に受け入れられていたのではないかと思うのです。それを最後に援用します。

 

名利に使はれて、しづかなるいとまなく、一生を苦しむるこそ愚かなれ。財(たから)多ければ身を守るに貧(まど)し。害を買い、累(わずらい)を招くなかだちなり。身の後には金(こがね)をして北斗をささふとも、人のためにぞわづらるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉(きんぎょく)のかざりも、心あらん人はうたて愚かなりとぞ見るべき。金(こがね)は山に捨て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。

 

埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらはほしかるべけれ、位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生れ、時にあへば高き位にのぼり、おごりを極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、自ら賤しき位にをり、時にあはずしてやみぬる、又多し。ひとへに高き官(つかさ)・位をのぞむも、次に愚かなり。

 

智慧と心とこそ、世にすぐれたる誉も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは人の聞(きき)をよろこぶなり。ほむる人、そしる人、ともに世にとどまらず、伝へ聞かん人、又々すみやかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉は又毀(そし)りの本(もと)なり。身の後の名、残りてさらに益なし。是を願ふも、次に愚かなり。

 

ただし、しひて智をもとめ、賢を願ふ人のために言はば、知恵出でては偽(いつわり)あり、才能は煩悩(ぼんのう)の増長(ぞうぢょう)せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、真(まこと)の智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は智もなく徳もなく、功もなく名もなし。誰か知り誰か伝へん。これ、徳を隠し愚を守るにはあらず。本より賢愚得失の境におらざればなり。

迷いの心をもちて名利の要(よう)を求むるに、かくのごとし。万事は皆非なり。言ふにたらず願ふにたらず。


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