たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

自由と桜と死 <宮下隆二著『新訳 西行物語』>を時折目を通しながら

2018-03-26 | 人の生と死、生き方

180326 自由と桜と死 <宮下隆二著『新訳 西行物語』>を時折目を通しながら

 

今朝、わが家の目の前にある杉木立に、さっと停まり、軽く一段滑るように降りたかと思うと、すっと木立の奥に飛んでいきました。私のバードウォッチングの貧弱な視力ではキビタキくらいの大きさかなと思うくらいで、同定するにはほど遠い状況です。

 

ふとさらに下の斜面を眺めると、桜の木々が三分咲きでしょうか、わずかに咲いています。幹自体まだ細身で、植えてからまだ20年も経っていない感じでしょうか。花見をする機会も遠のいてしまいました。それほど桜木に心が惹かれることもないのですが、カナダから帰国して以来、鎌倉、横須賀、当地(2度)と4回転居しましたが、いつも家から見えるところに桜木がありました。

 

鎌倉時代は、とても立派な桜の木がありましたが、あるとき分譲地開発が始まり、近隣で残すよう交渉したものの、皆さん大学教授など穏やかな方ばかりで、反対運動まで広がらず、最後は業者側の伐採を止めることができませんでした。

 

横須賀時代は、谷間を挟んだ丘陵地帯が桜木を含む広葉樹で、秋は紅葉、春は桜と見事な景観でした。そこも丘陵地全体を開発する計画が進められ、もう少しのところで全面伐採という危ういところでしたが、反対運動が広がり、残りました。

 

当地に移った最初の家では、神社に通じる桜並木が美しくとてもきれいでしたが、花見に訪れる人も少なく、わが家の窓から眺める楽しみを満喫していました。

 

現在地は、それらに比べると、か細い桜木ですが、それなりに若々しさを感じさせ、古木とは異なる情緒があって、これもおつなものです。

 

西行の話を取り上げようと思ったのは、今朝のNHKおはよう日本で、<進む超単身化 人生の締めくくり方に変化>というニュースを見ながら、ふと感じることがあったからです。

 

途中からちょっと覗いたので、正確な情報を理解したわけではありませんが、<超単身化>ということがかなりの人に早い段階での自分の死とその処理を考えるきっかけになっているのかなと思います。

 

私が見たのは、50代くらいの女性でしたか、単身かどうかわかりませんでしたが、自分の死後について家族の負担にならないよう、いろいろ自分で決めておこうとしているような内容だったように思いますが、具体的な死後の処理についてはその前に報道されていたのか、よくわかりませんでした。すぐに画面は僧侶が代表となって僧侶派遣サービスを行っていて、法要など、少人数での参加者を前提としたサービスを提供しているようです。金額もネット上で俗名か戒名の種類によって、明朗会計でやっているようです。

 

これも一つの死に対する人の生き方でしょうか。少なくとも、すでに葬儀のあり方、火葬・埋葬・散骨などの多様なあり方は、長い間話題になってきていますので、死後残された遺族が考える時代から当人が早い段階で考える時代に近づきつつあると思います。

 

その中で、自分の自己決定した意思を託すべき、家族がいない場合(実際にいても託すことに躊躇することもあるでしょう)、その意思は実現可能でなく、夢物語になり得ますね。その点、この番組で紹介されたのかわかりませんが、生前に委託契約など一定の事項を死後に行う契約を取り結ぶ業態もでてきたようです。その有効性に問題がないわけではないですが、家族がいない場合には(家族が関与しない場合も)、公正証書にしておけば、かなり実現性のあることになりそうです。

 

行政としても、亡くなった後、家族がいなければ、仮にいたとしても連絡がとれないような家族だと、そういった受託者がいて、その預かり金などで葬儀、火葬などが行われれば、行政費用を投じなくてもよいでしょうし、あえて異議を述べることもないように思えます。

 

これからの時代、高齢者が増え、しかも単身の高齢者が増えるでしょう。昔あった村社会での共同行為としての死の作法は、共同体としてのムラが消え去ったと言ってよい現代では、そのような機能を期待するわけにはいかないでしょう。

 

ようやく自分の死の始末を自分で考える時代になりつつあるのかなと思うのです。

 

それで西行さんの登場と考えたのです。

 

宮下隆二氏は、西行物語の新訳で、「頑張らないで自由に生きる」西行像を描こうとしているようです。たしかに西行は自由に生きた面があるかもしれませんが、ほんとうにそうだったかは、宮下新訳でも、私には十分に納得できる解釈とはいえないように思うのです。

 

その詳細は私の勝手な解釈ですので、今回はオミットしておきます。

 

ところで西行は、あちこちに西行庵という彼が一時の住まいとした場所が紹介されています。高野山に上る途中の天野の里にもあります。新訳では、娘が尼になり、そこに住み、母も後から再会して一緒に住んだというのです。高野山壇上伽藍にも西行庵がありますが、はたして西行が金剛峯寺の本拠の一角に住むとは思えません。吉野山の西行庵のように他の僧侶がいない隠れたところに住んだのではと思うのです。

 

善通寺にある西行庵も訪ねたことがありますが、やはり善通寺をはじめ由緒のあるお寺から結構離れた位置でした。西行はそういう場所を好んだのではないかと思うのです。で、母娘が天野の里に住んだというのは彼の生き方からすると奇妙に感じています。

 

他方で、紀ノ川の北岸、橋本市清水にも西行庵がひっそりとあります。紀ノ川の袂ですね。昔は渡し船も少なかったのでしょうか、仮に西行がそこに住んでいたとすると、川を渡って、少し上っていけば(西行の健脚なら半日もせず)、天野の里にたどり着けたのではないかと思うのです。母娘が近くにいるとすれば、出家した身ということで、あえて再会を避けるために、川のそばにとどまり住んでいたとの解釈もできなくはないのですが、私には無理な解釈にも思えるのです。

 

新訳によれば、それだけ慕っていた母娘となりますが、西行の最後に対面したとかの話は聞いたことがありません。西行は、あくまで一人の生と死を選んで、生涯を貫いたのではないかと思うのです。

 

むろん高野山の寺社復興や、東大寺大仏復興などに注力した西行の生き方はどのように考えたらいいのかはわかりませんが、家族の絆を切る姿勢は徹底していたのではないかと思っています。

 

そして河内国の弘川寺で

「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」

 

と詠んだ願いを追い求めて、1190331日(旧暦216日)満開の桜の下でなくなったのではないかと思っていたところ、新訳では、京都東山の雙林寺で亡くなったというのです。いずれの寺も訪問したことがないので、なんともいえませんが、前者は真言宗であるのに対し、後者が天台宗という宗派の違いは西行に限って気にする必要がないでしょうね。

 

ところで、西行といえば桜の詩ですね。

 

「あくがるる 心はさても やま桜 ちりなむのちや 身にかへるべき」

「花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の とがにはありける」

「今よりは 花見ん人に 伝へおかん 世を遁れつつ 山に住まへと」

「春風の 花を散らすと 見る夢は さめても胸の さわぐなりけり」

「風さそふ 花のゆくへは 知らねども 惜しむ心は 身にとまりけり」

「花見れば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ 苦しかりける」

 

ま、この辺にしておきますが、私自身、和歌の意味が理解できているわけではないので、ただ雰囲気を感じることはできそうな気がしています。

 

その西行は、この桜、花を通して、常に生死に直面して生きていたように思うのです。それは自由に生きたかもしれませんが、日々死と対面していたからこその自由ではなかったか、このような和歌から私の勝手な解釈ですが。

 

そしてたいてい「花」あるいは「桜」と歌っている中で、一番最初の和歌では「やま桜」と詠んでいるのを取り上げましたが、それは当たり前だから、ふだんは種類まで指摘しなかったのかもしれません。

 

現在私たちが見て喜ぶソメイヨシノはわずか150年ほどの歴史の浅い、脆弱な人工栽培、まいえば、ハイブリッド育ちですね。むろん西行が生涯愛した桜とは異質なものですね。

 

その詳細は毎日朝刊記事<そこが聞きたい桜の季節と日本人 地域が育て、めでてこそ 3代にわたる「桜守」 佐野藤右衛門氏>をごらん下さい。桜守(さくらもり)という伝統的に職人もいまでは少ないのでしょうね。

 

ソメイヨシノはいまでは日本中、有名な桜の名所はどこもかしこもですね。日本の伝統美、西行らの和歌で日本人の心を慰めてくれた桜は、孤高の生き方をしているように思うこの頃です。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


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