180326 国家が行った差別の怖さ <奪われた私・旧優生保護法を問う>を読んで
毎日新聞は、旧優生保護法に基づく強制不妊手術の実態を繰り返し大きく取り上げてきました。恥ずかしながら私自身これらの記事で初めて、96年に優生保護法が母体保護法に改正されるまで、国家による法の下の平等に反する取り扱いが公然と行われてきたことを知りました。
知らないことを知ることは物事の一歩でしょうけど、知ることによって人はなにか変わるか、が試されるような気がして、この話題になかなか取り組めませんでした。
最近23日から25日の連載記事で毎日が整理した内容で取り上げましたので、私自身が知るための第一歩として、これらの概要をさらにピックアップしてみようかと思います。
<奪われた私・旧優生保護法を問う>とのタイトルで、次の連載が中川聡子と上東麻子の両記者によって取材活字化されています。
優生保護法という名前は知っていても、人生で関わる人は限られるでしょうし、何のために法律が作られ、どのような運用だったかを知っている人は非常にわずかな人だけでないかと思います。しかし、そこには差別に対する根源的な思想を感じますし、あの相模原障害者施設での大量殺傷事件の被告人の考えに通じるものさえ、感じてしまいます。
ではその優生保護法について、記事では<「不良な子孫の出生を防止する」ため1948年に制定され、遺伝性疾患や知的障害、ハンセン病の患者らへの不妊手術、人工妊娠中絶を認めた。強制不妊手術の適用は遺伝性疾患(4条)と非遺伝性精神疾患(12条)があり、88%にあたる1万4566人が4条を適用された。批判をうけて96年に「母体保護法」に改定された。同様の法律があったドイツやスウェーデンでは国が被害補償制度を設けている。>と概説しています。
この不良な子孫の出生を防止するという立法目的自体が、47年5月3日に施行された現憲法の下で生まれたことに異様な思いを禁じ得ません。まだGHQ統治下にあり、食糧不足で自分たちが生きることで精一杯の時代背景もあったかもしれません。昭和23年当時ハンセン病や知的障害などに対する差別が当然視されていたのでしょうね。
上記記事では、強制不妊手術の適用の一つ、遺伝性疾患(4条)として1万4566人がその適用を受けたということですが、その記録がほとんど残っておらず、実態解明が容易でないようです。
上の記事では<旧優生保護法下の強制不妊手術を巡り、国に損害賠償を求める裁判が28日、始まる。>この事件を手がかりに記事が展開しています。
<今回の裁判を起こす宮城県の60代女性と、その義姉>は別の強制不妊手術を受けた女性が<「私の体を返してほしい」と、国に謝罪と補償を求め>る運動をしていることに触発されたとのこと。こういう差別被害は、誰かが立ち上がって初めて気づくことが少なくないですね。
<義姉は結婚した夫の妹が手術を受けたことを夫の母から聞かされていた。飯塚さんの活動を知り「妹が受けた手術はこれだったのか」と合点がいった。弁護士に連絡を取り、手術記録の情報公開請求を経て、提訴に至った。>
強制不妊手術という、人にとって基本的な機能を奪い取る重大な身体侵襲であるにもかかわらず、どうも手続き記録が審査側・実施する医療側、そして患者というべき家族側に交付されたり残されていないようです。そこに何かこの制度の怪しさを認めることができます。
それでも情報公開制度は一定の機能を果たしています。<この情報公開請求で出てきた記録で、妹が15歳で手術を受けたことを知る。しかも申請理由は「遺伝性精神薄弱」。>
では遺伝性の判断はどのようにしてなされたのかですが、私も事件で昭和20年代の聾唖症という判断根拠(生まれつきか、事故によるものか)を調べたことがありますが、残念ながら得られませんでした。その後平成に入って等級が2級から1級に上がる診断をした医師の意見書が見つかりましたが、その根拠が曖昧でした。本来、本人の事情を知っている両親が亡くなっており、疾病の原因を把握する合理的な資料がありませんでした。
ところで、情報公開請求では<審査経緯の記録は開示されなかった。>というのですが、仮に存在しているのであれば、開示を拒否する合理的根拠がないと思うのです。異議ないし訴訟で争わなかったのでしょうかね。この審査記録は、森友事件以上に、簡単に廃棄されるべきものではないと思います。
他方で<同様の障害を持つ親類縁者もいない。妹の療育手帳交付に関する情報公開で「出生時に口蓋(こうがい)裂で生まれ1歳時の手術で麻酔が効きすぎて障害が残った」という経緯が判明。「遺伝性」の判断がいかにずさんなものだったかを知り、がくぜんとした。>というのは、当然の思いでしょう。ただ、療育手帳記載の内容が医療記録に基づいているのかどうか(本来はそうあるべきですが、伝聞であることもあるように思います)は検討の余地があると思います。
いずれにしても、侵襲を行った審査側、国賠訴訟では、被告国が遺伝性を明らかにすべきでしょう。森友事件のように、記録を廃棄したといった答弁は許されないと思うのです。
別の審査資料が見つかり、そのずさんさな審査手続きが明らかになっています。
<神奈川県立公文書館の同県優生保護審査会資料からは、手術の対象者をどのように評価して選別していたのか、その一端がうかがえる。>
その一例では<「小学校には一年おくれて就学。中学校は二ケ月通って中止してしまひ、自宅でぶらぶらし、昭和三四年七月、■■に入園」。現在の病歴は「母や同居人に対し乱暴な口をきき周囲をわきまえない。年下の子とは遊ぶが、自分から外に出て遊ぶような事は出来ない」とある(原文ママ)。診断は「精神薄弱(痴愚)」だ。>いったいどのように遺伝性を判断したかまったく示されていないですね。遺伝性だから許される話ではないですが。
別の例では遺伝性について<家系図によると母が同病の疑いがあり、遺伝性疾患として手術「適」とされた。早世した姉は「経済的な面もあって入院させられなかった」という。>と安直な判断がなされています。
これらの審査について総括的に次のようにまとめています。
<障害や病気を抱えたこれらの人々は、本来は支援を受けるべき対象のはずだ。しかし法律の下、「優生上の見地から不良」とされたために、基本的な教育や支援すら受けられず、排除されていったことがうかがえる。当時、養護学校は少なく、障害児の多くは就学免除・猶予とされた。また、現在の医学ではすべての精神疾患は何らかの遺伝素因がかかわっているものの、単純に遺伝するものではないとされるが、多くの精神疾患を抱えた人が「遺伝」と判定されていた。>
審査側というか国の考え方を示す資料として次はあまりにひどいです。
<社団法人母子保健推進会議(当時)が72年に発行した冊子「母子保健」。その巻頭特集が「日本民族改造論」だ・・・「何より大切なのは民族の質を改造する、人間を良くすること」と問題提起する。国立機関の医師や有力大学の研究者が「障害児の生まれる危険の大きい結婚を減らすのが第一。結婚しても子を産まないようにすればいい」「極端に質の悪いものを減らせば全体のレベルが上がる」と指摘。>
<中 「不良な子孫」に異議>では女性の<「産むか産まないか」を自己決定できる社会>を求めるという、この問題の本質を取り上げています。
それは<国賠訴訟を機に、被害補償のあり方を検討する議員連盟発足、厚生労働省の実態調査と、事態が急展開している。>ことへの懸念です。
旧優生保護法の時代、堕胎罪との2つの法制度の下、後者が<「女性は子どもを産むべきである」という社会規範がある上で、>前者が<「ただし産まなくてもよいケースを国が決める」ということだ。その目的の一つとして「不良な子孫の出生防止」を掲げた。戦中の「産めよ殖やせよ」から敗戦後の人口抑制に至る人口政策を、象徴する法律だった。>というのです。
個人(とくに女性)の本質的な権利に対する国家の統制ですね。
それが72年の旧優生保護法改正問題でクローズアップされてたのですね。
<時は72年にさかのぼる。優生保護法は大きな岐路を迎えていた。中絶が許可される項目から「経済的理由」を削除する▽新たに「胎児に障害がある恐れがある場合」(胎児条項)を追加する--という改正案が国会に上程された。>
この改正案を批判したのは<この動きは「私たちの存在否定だ」という障害者の反発を招いた。先頭に立ったのは、故横田弘さんら脳性まひの当事者団体「青い芝」神奈川県連合会だ。>
それは本質的な取りかけです。
<生き方の「幸」「不幸」は、およそ他人の言及すべき性質のものではない筈です。まして「不良な子孫」と言う名で胎内から抹殺し、しかもそれに「障害者の幸せ」なる大義名文を付ける健全者のエゴイズムは断じて許せないのです。(原文ママ、会報より)>
この記事では、その戦いの歴史がコンパクトにまとめられています(省略します)。
最後の<下 自分の人生を生きたい>では、家族の反対で子供を産むことができなかった障害者の男女の話と、障害を持ちながら勇気をもって子供を産み育てる決断をして、なんとか頑張っている男女を紹介しています。
前者の例1では<男性は18歳でいじめなどをきっかけに統合失調症になった。精神科に入退院を繰り返したが、45歳で、同病の女性と同居生活を始めた。・・・ 数年後、女性が妊娠したがすぐ流産。兄夫婦が強く求め、女性も不妊手術を受けたという。・・・兄からは「優生保護法がある」「手術しないなら一生退院させない」と詰め寄られた。強引に転院させられ、手術を受けた。「自分の人生も、生まれたかもしれない子どもも殺された」と感じた。「障害者は家族に結婚も出産も邪魔されるのか」と納得できない。>
前者の例2では<10代から統合失調症を発症。20代で勤めた職場で障害者の男性と知り合い、交際している。「子どもがほしい」と話し合い妊娠したが、母は激怒した。「許さへん」。妊娠を希望し服薬を調整していたため、症状も悪化していた。心身ともに追い詰められ、母と男性と3人で話し合い、震えながら手術同意書にサインした。手術の後、2人で子の名前を決めた。「月命日」には心の中で悼む。 >
後者の例として、社会的支援を受けながら子を産む育てている夫婦がいます。
<神奈川県茅ケ崎市のNPO法人UCHIのグループホームで暮らす小林守さん(31)と聡恵さん(22)には今月、長男陽飛ちゃんが誕生した。2人は軽度の知的障害がある。
牧野賢一理事長は、2人が児童養護施設と障害児入所施設を出て以降、粘り強く支援。人間関係が苦手な守さんは職場でけんかをしたり、お互い異性関係で問題を起こしたりした。職員が適性を見極めて活躍の場を紹介したり、子どもを持つことを話し合ったりして、2人の交際から結婚、出産までを支えた。>
しかし、現行の障害者福祉の各制度は障害者が子供を産み育てることに、決して優しいとか、気配りをしているとはいえません。
<牧野さんは約15年前から5組の子育て支援に関わった。最初のカップルの女性が妊娠した時、福祉事務所のケースワーカーの第一声は「産ませないよね」。グループホームに夫婦が住むことを行政も渋った。障害福祉サービス事業所のUCHIは子の支援はできず、保健所や保育所と連携する必要もある。「支援者にも彼らが結婚し育児をするという意識がなかった。人として当然のニーズに向き合い続けたい」と話す。
障害者の自己決定権はいまなお軽視されているように思えます。保護される対象で、主体的になることを阻んでいるかのようです。
< 「障害者は保護する対象で、自己決定する存在だと思われていないのだろうか」。DPI女性障害者ネットワークの藤原久美子代表(54)は問いかける。1型糖尿病の合併症で30代で視覚障害者に。「育てられないでしょう、障害児のリスクも高い。あなたが心配なのよ」。40歳で妊娠したとき、母や医師から中絶を勧められた。だが、妊娠を喜ぶ夫に背中を押され、出産した。>
育児の支援は十分でないです。
<育児の場面では、制度の不備を日々感じる。障害者本人の支援制度があっても、障害者が子育てのさまざまな場面で使えるサービスが乏しい。「障害者が子育てする存在として想定されていない」。現在、国は障害者基本計画(第4次)を策定中だ。サービスや制度の前提となるのが基本計画だ。藤原さんらは障害者の「性と生殖の自己決定権」を書き込むよう求めている。>
大いに勉強になりました。これで私の何が変わるかはわかりませんが、現実を知ることが第一歩と思っています。
本日はこれにておしまい。また明日。
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