170528 選択の権利と責任 <時代の風 「分煙」が不可な本当の理由=藻谷浩介>を読んで
今朝は珍しく光が差すまで目覚めないどころか、かなり暖かくなってもどうも体の動きが悪いのです。昨夜久しぶりに缶ビール2缶飲んだせいかと思ってみたりしますが、人間のからはわからないものです。
外を見ると、高野の山々はくっきりと浮かび上がっていて、その稜線の刻みがよくわかります。稜線が途中で切れて、別の稜線が重なっているとか。でも結局、今のところ、それぞれの山容がいまだによくわかりません。見えているようで、はっきりしません。人間の視力、認識力、そういったものは、多くは見えるものも人の能力や意識によって見えないものであるというのが、日々山を見えていて、自分の能力のなさと工夫の足りなさ、山に対する意識なり配慮のなさを感じるのです。
で、もう今日も5時になりますが、ようやく本日のお題をいま決めたところです。どうも体が重くて、仕事をする元気もなく、午後からは囲碁対戦も淡路さんと王さんの久しぶりのベテラン対戦を興味深く見ていたものの、寝入ってしまいました。いまもぼっとしたままです。
今日の見出し記事として選んだ<時代の風「分煙」が不可な本当の理由=藻谷浩介・日本総合研究所主席研究員>は、藻谷さんのわかりやすい整理が気に入ったこともあり、ボッとした頭でもなんとかフォローできるかなと思ったわけです。
だいたい頭の方も、内容より、藻谷山が歩いているところはどこかな、なんて気になり、歩道は下水汚泥で作ったレンガ道のような印象ですし、正面右背後の高層ビルと、歩道の奥にはかなりのスペースがあるようにも見えますし、街路樹はさほど立派ではないけど樹冠が剪定されず残されていて樹木への配慮がありそうな印象。となると、日比谷公園の北東隅(昔、交通裁判所?があったところ)で現在は噴水プールのある広場ではないか)なんてそういった勝手な空想は少し働くのです。数十年前によく歩いたところなので、懐古趣味的に連想してみました。
こういう風に、人の認識は自分の体験によって事実を書こうというか、客観的に見えない認識力というか機能というか、選択的認識をしていると思うのです。
で、藻谷山が最初に指摘した共謀罪の有効性・必要性については、私も趣旨は同じですが異なる視点で、先のブログで書きました。
もう一つの<厚生労働省が提案した飲食店内の全面禁煙>についても多少触れた記憶があるのですが、なんども禁煙問題は書いてきたので、この提案について書いたかははっきりしません。
藻谷さんの明快な論理は後で触れるとして、やはり時代の流れを、そして時代の風を感じてしまいます。私自身、父がヘビースモーカーでしたので、家の中が紫煙でいっぱいというのは自然なことでした。たしか通学していたとき電車の中でも喫煙は普通だったように思います。
東京で大学生活を送るようになったときも、自動車の排ガスにはいっぺんで参りました。まだ明治通りには路面電車が走っている頃で、その排ガスのひどさは地方育ちの私には耐えがたいものでした。すぐに胸の痛みが耐えられないほど苦しんだことがあります。
これに比べて、コンパなどでは皆たばこ粋がってすうのが当たり前でしたが、これは全然、平気でした。ただ、私はあまり好きになれず、せいぜい一本も吸えばいやになる、みんなの前のかっこつけくらいの感じでしたか。映画の高倉健にあこがれて、スポーツ刈りをしていましたが、たばこはまねできませんでした。
そういえば長髪もはやりましたね。南こうせつさんも神田川を歌っていた頃、フォーク歌手らしく長髪でした。で、私も長髪をある時期から始めましたが、それはフォークなどといった軟弱(失礼)というか、流行には関心がなく、当時の学生の多くがかぶれた、マルクス・エンゲルスに「心酔」するような雰囲気で、大英図書館とは大違いの、大学図書館にこもって長髪にしていたような記憶があります。
これらはそれぞれの選択の自由でしょうね。権利かもしれません。がその行為が他の人、生物、生態系に悪影響を及ぼすとしたら、そしてそのことを認識できたら、それは選択の自由とおおいばりできるでしょうか。
多くの日本人の美徳の一つは、いつ頃から生まれたのか、太古の時代からかはわかりませんが、人に迷惑をかけないように生きることを意識して、生活という日々の中で、数々の選択的行動をしてきたのではないかと思うのです。
人に迷惑というのは、昔であれば共通の秩序の中で、たとえば江戸時代であれば、小さなムラという共同体の中で、独自の行政・警察権をもって、構成員それぞれがその秩序の意義を共通の土台にできる状況があったのではないかと思うのです。
しかし、現代は残念ながら、そのような地理的な意味での共通の地域性を持った共同体も、その秩序も成立することが困難な状況です。自治会、区会、町内会などといった存在も、その意味では、行政が決めたルールを下位機関として提供するにとどまる面が強くなってきていると思います。
少し余談が長くなりましたが、では、たばこを吸うのは権利ではないかと点、藻谷さんも指摘されているとおり、わが国はもちろんどの国でもそれは認めています。大麻や麻薬、覚醒剤とは違います。しかし、たばこには多種多様な有害物質が含まれていて、吸うことにより喫煙者自身だけでなく、周りの人も受動喫煙によって、発がん性物質など有害物資を吸引することはすでに科学的な知見となっています。
自分の選択の結果を知りたくないと思う人もいるでしょう。しかし、選ぶということ、その選ぶ権利があるということは、選んだ結果どのような影響があるかについて責任も甘受する必要があります。嫌なことは知りたくない、ということで済ませる話ではないと思うのです。
今回の厚労省の案のうち、飲食店全面禁止(例外を認めるものの)について審議中、がん患者は働くなとヤジを飛ばした議員の発言や人間性が問題となっています。しかし、それは彼一人の問題とは思いません。彼の背後に膨大な数の人が彼と同じことを考えている、そこまでいわなくても、たばこが嫌いな人は喫煙できる店に行かなきゃいいんだといったぐらいの気持ちは持ち合わせている人も少なくないと思います。
喫煙者の人には、自分の吸っている周りには、なんの変化もない、子供も、赤ん坊でさえ、元気に育っているというかもしれません。
発がん性物質を含むたばこに含まれる有害化学物質は、その影響が蓄積され、それぞれの閾値を超えたとき、突然、体に変異を起こすということがこれまでの医学的知見の一つではないかと思います。
私自身、長くほとんど影響がありませんでした。先輩のヘビースモーカーと一緒に長時間のフライトをしていても特別気になりませんでした。ところがある時期から、目の前でたばこを吸っていなくても、その人が息を吐いただけで気分がおかしくなる状態になりました。あるときは、依頼人が書き留めたノートを用意してくれたのですが、それを見ただけで、めまいをして読み続けられなくなりました。とても反応が敏感になりました。いまはいつも注意しています。
いま喫煙者自身、あるいは周辺の方が元気でいても、ある時期、突然体調悪化し、治療を必要とされるかもしれません。長年の喫煙生活であるときから肺がんなどになり、生死をさまよう苦痛を味わいながら、旅だった人を何人も見てきました。それは喫煙者だけではないことを理解する必要があると思います。
最後の締めに、藻谷さんの言葉を引用したいと思います。<いま日本が問われているのは、世界共通のこういう理屈と経験的事実を、理屈通り、事実に即して受け入れる理解力、基本的な人権感覚があるかどうかだ。世界に恥じない結果になることを願うのみである。>
なお、厚労省の案は、諸外国の状況とわが国の立ち位置を含めその必要性・法案の構成などわかりやすく資料化されており、藻谷さんが指摘する主張を裏付けるものです。実際、このことに関して裏付ける史料は膨大すぎるので、厚労省くらいの整理がちょうどいいかもしれません。
受動喫煙防止対策の強化について(基本的な考え方の案)
受動喫煙防止対策強化の必要性
受動喫煙防止対策の強化について(たたき台)
受動喫煙防止対策の強化について (基本的な考え方の案) 【参考資料】
これでちょうど1時間弱です。ほどよいところで終わりにします。
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