たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

城壁都市を考える <「巨大遺産の謎 都・長安~劉邦から西太后へ~」>を見て

2019-03-16 | 古代を考える

190316 城壁都市を考える <「巨大遺産の謎 都・長安~劉邦から西太后へ~」>を見て

 

今夕の毎日記事<トランプ米大統領非常事態無効に拒否権 議会と対立先鋭化>によれば、トランプ大統領は、公約の国境の壁(まあ予算圧縮して壁とはいえない代物になったようですが)をどうしてもつくろうと必至ですね。表情も余裕がなくなった印象で、顔の色が分からないように日焼けしたように化粧している感じにみえます。

 

米国は一応、民主主義国家のリーダー的存在ですので、隣国との間に物理的な壁をつくると言ったことは、非常事態が具体的で差し迫った危機状態の事実があればともかく、上下院の反対している中、拒否権を発動するのはどうかと思います。それにしてもトランプ氏がこだわる壁はすでに張り子の虎のようなものになっているわけですし、その目的もとても民主主義国の中で支持されるものとは思えませんが。

 

これが万里の長城のような頑健で長大な本格的なものであればまさに巨大壁といってよいでしょう。始皇帝はそれまでも部分的にあったものから本格的な長城の建設に踏み出したわけでしょうか。これが一代限りでなく、武力で剥奪する王朝の転変という激動があっても長城づくりが連綿と続いたというのですから、中国王朝の2000年の歴史は現代の民主主義と対立軸になりうる背景をもっているのかもしれませんね。北方騎馬民族に対する脅威に防御策としてのみ位置づけられないようですね。

 

NHKはシリーズで中国王朝の巨大遺産の謎を追究する番組を放映しています。録画していた<中国王朝 英雄たちの伝説「巨大遺産の謎 都・長安~劉邦から西太后へ~」>を昨夜見ました。

 

最近のNHK番組では硬軟両方を追い求めているようで(以前から?)、浅田次郎氏の解説はなかなか説得力があり、興味深いのですが、女性の方はいかがなものなのでしょう。こういった手法は、私の好きな田中陽希さんの百名山一筆書きシリーズでも3回目の300名山になって、取り入れていますが、録画していても見るのを少し躊躇しています。厄介な老人になったのかもしれませんね。

 

さて今回は、タイトルのように都・長安をテーマにしています。現在の西安の城壁都市が当初のものかと思っていたら、劉邦がつくったのは地下に埋まっていたのですね。

 

劉邦は元は小さな組織の親分程度だったようですが、血筋も知力・財力・武力と三拍子そろった項羽を最後には打ち負かすのですから、たいしたものです。その劉邦、始皇帝のつくった咸陽の都に最初に攻め入ったとき、無秩序状態だったのを規律をただして治安維持をはかったようです。まあ結局は、そのときはリーダーの項羽に頭が上がらず遠くに左遷され、都には戻れないと思ったかもしれません。

 

NHKの解説では、劉邦は全国統一を成し遂げたとき、東方に都をつくろうとしたようですが、一人の助言で、咸陽の近くに都をつくったのですね。始皇帝の咸陽の4倍の大きさとか。それは劉邦がまあもともと血筋も権力もなかったことから、その権威を示すため大きくしたと言うことのようです。ある意味では太閤秀吉と似ていますか。

 

その後前漢、後漢の都として維持された後、三国志や南北朝の戦乱を経て、再び隋、唐が統一した後の都として長安がさらに大きくなったようです。その立役者としては玄宗の役割が大きかったのでしょか。彼が皇帝になったのは712年で、その少し前まで則天武后が皇帝として巨大な権力を握っていたのですね。まるでわが国の持統天皇、その後中継ぎがあって聖武天皇になった時期とかぶるような印象です。

 

安禄山によって玄宗は長安を追われるわけですが、安禄山というのは突厥出身だったのですね。北方の騎馬民族でしょうか。唐の移民受け入れ政策で、長城の中に、おそらく定住生活を受け入れた突厥の一部を住まわせたのですね。それが現在の北京を含む黄河の左岸一体と広い範囲だったようです。反旗を翻せば、簡単に長安を攻めることができたのでしょう。その原因は玄宗が若くて美しい楊貴妃に魅了され、その一族に肩入れして本来の政治を怠ったからでしょうか。

 

そういえば聖武天皇の時代も藤原広嗣の乱が九州で勃発していますが、これは簡単に抑えたようです(この時初めて九州を統一したという見解もあったような?)比較する方がおかしいですか。

 

ところで、なぜ城壁都市を取り上げたかと言いますと、やはり中国とわが国は都市作りというか、都づくりにおいても意識が大きく異なるなと思うのです。私は北京の紫禁城を訪れたことがありますが、長安には行ったことがありません。それでも城壁都市の威力というか、威圧感は、わが国では経験したことがありません。

 

古墳時代につくられた巨大な前方後円墳も、面積的な規模としてはちっぽけなものかもしれません。都としては巨大なものはありませんね。最近、箸墓付近で発掘された巨大建築物も規模的には始皇帝や劉邦の城壁や宮殿と比較の対象ともならないですね。

 

7世紀の飛鳥時代の都はもちろん、本格的に唐文明をならったという、藤原京や平城京、さらに平安京も、朱雀門などの門や壁廊下があっても、面積規模はもちろん、巨大城壁とは雲泥の差ですね。その後の武家政権も、自然の地形を利用したものの、城壁都市をつくるこを一度も試みていません。

 

それほど強力な敵がいなかったからでしょうか。持続的に権力を倒すだけの敵愾心を持った勢力が生まれなかったからでしょうか。

 

土木技術がなかったこともあるかもしれませんが、日本の地形的特徴、自然の地形そのものが要害になり得たのかもしれません。他方で、騎馬民族といった広大な領土を背景に自由に動き回る異民族の存在がなく、脅威とならなかったからかもしれません。

 

いやいや地域勢力に自主的な支配を委ねる統治方法がわが国では、地形による制約もあって、自然に成立したのではないでしょうか。そして統一的な巨大権力が生まれなかったから、巨大な権威を示す城壁都市を造る必要がなかったとはいえないのかしら・・・

 

城壁都市の構造から、勝手な想像をたくましくしてみました。さらに支配方式と所有権構造の関係まで推理が働くかなとおもったのですが、このあたりで働きが悪くなったので、今日はおしまい。また明日。

 

 


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