181103 島国日本のこれから <入管法改正案 外国人就労拡大>などを読んで
いま世の中、入管法改正案等による外国人就労の拡大をめぐって紛糾しているようです。恥ずかしながら、ずいぶん以前から新聞で取り上げられていたかと思いますが、あまり気にとめていませんでした。
私の立つ位置が明確に定まっていないことと、既存の入管法制度の実態もよくわかっていないこともあって、関心を呼ばなかったのかもしれません。
ただ、私自身、45年以上前、ドイツを訪れたとき、むろん驚くことばかりでしたが、とりわけ印象に残っているのは、たしかハンブルクだった思いますが、そこでの人種をめぐる強烈な体験です。朝早く通りを歩いていたら、きれいに清掃作業をしている人たちがいました。人相や肌の色から、すべて中近東周辺から来ている人に見えました。いわゆる白人は一人もいませんでした。職業差別というか、一定の職種が移民によって担われていることを意識したのです。別に清掃作業を蔑視するつもりはありません。私は日本における清掃作業ほど高い能力が求められていると思っていますので、より現場職員に分別をはじめ一定の権限を付与すべきと言ったことを30年くらい前にある雑誌に書いたことがあります。
さらに脱線しましたが、このような経験は、その後いろいろな国を訪れるたびに、感じることがありました。逆にブラジルでは白人(ポルトガル系?)の女の子が汚れた服装で、通りがかかった私たちの車に寄ってきて、なにかをねだることがあり、ガイドに無視するようにといわれ、そのまま通り過ぎましたが、これまた肌の色だけで社会の末端での生活を強いられているかは決められないことを感じました。
他方でわが国は、つい最近まで、在日中国人や朝鮮人の人たちが身近にいる人を除き、さほど外国人の存在を意識することがなかったように思います。
私が入管法上の問題に関わった90年代初頭ころ、就労制限が厳しく、たいていが闇で働いていて、そういう人たちと出会うこともなかったと思います。
それが2000年代に入ってからでしょうか、一定の職種で就労する日本人が確保できなくなり、一定の条件で就労の機会を外国人に付与しないと、産業自体が成り立たないこともあって、政府が外国人就労の樋門を少しずつ開けるようになり、その後は飛躍的に増加してきていますね。
それによってさまざまな問題が起こっているようです。
ここで記事の内容というか法案そのものを取り上げる前に、わが国の歴史を少し振り返りたいと思います。
わが国が単一民族の国といったことは何か裏付けがあるのでしょうか。そもそも島国で、どこかからやってきて住み着いたわけですね。そのことだけをとっても単一民族性は成り立ちにくいと思うのです。いやそれは昔のこととして無視するのも結構ですが、そこに本質があるように思うのです。
弥生時代に朝鮮半島から大量の移動があったとか、その後も神功皇后時代や百済消滅後とかに大勢が渡来したとか、言われることがありますが、それも一面ではないかと思っています。島国ですから、どこからでもやってこれます。大海を怖れなければどこからでも到着でき住み着くことができます。それを受け入れる風土があったのではと思うのです。
1000年以上、あるいは1300年以上かけて、単一民族国家を模索してきたかもしれませんが、日本人の気質は本来、誰をも受け入れるものであったのではと勝手に思っています。それは縄文文化や縄文人を勝手に解釈しているかもしれませんが、そういう人たちであったのではと思うのです。それは1万年以上をかけて形成され、培われた考え方ではないかと思っていますので、いくら為政者が人工的に変えようとしても、本質は変わらないと思いたいのかもしれません。
ギリシア・ローマは、高い文化・文明を作り上げましたが、まさに外人(アテナイというポリスに生まれなかったアリストテレスですら、アテナイでは外人とされたと言われています)、奴隷の労働生産性により、少数が市民的自由を謳歌したのではないでしょうか。それに比べ、縄文文化の自由・平等は差別がないか極めて平等性が高かったのではないかと思うのです。
また、韓国人や中国人、あるいは東南アジアの人たちでも、結構、日本人と間違うほど、似通っていると思うことがあります。国家がいつ成立したか、ローマほど明確でなく、わが国の場合、せいぜい天武天皇の政権確立期でいいかもしれないと思っています。その間、国家がないのですから、自由に人々は島国の外を出入りしていたのだと思います。倭寇は中世に初めて生まれたのではなく、元々縄文時代から交易から場合によって海賊に近い行為もあったのではと思うのです。
饒舌な前口上を意味なく書いてきましたが、移民を必要以上に制限することに、私の不明瞭な立つ位置を少しでも明確にしていくと、大いに疑問を感じていることを明らかにしようとしたのかもしれません。
移民解放によるトラブルは、地中海沿岸諸国(多くには難民かもしれませんが)、EU諸国、UKやUSAも、長い移民受け入れ政策の後、最近では国を揺るがす問題となっていることは誰もが苦慮することでしょう。将来の移民対応を考えて、国内外の混乱を避けるため、段階的な移民政策をとることが求められることやむを得ないことと思います。
では今回の入管法改正案は妥当なものか、それは毎日記事で多くの紙面を割いて、議論の概要を取り上げていますので、関心のある方は後で引用する記事タイトルをクリックしていただければと思います。
私は毎日記事<時の在りか移民家族と共に暮らせば=伊藤智永>が少し参考になりました。これは法案の内容を個別に議論しているわけではなく、政府の法案が<事実上の移民解禁につながるかもしれない大転換なのに、福祉の整備などは走り出して考えるらしい。>として、受け入れる私たちの覚悟を問いかけているのです。
トランプ政権を支持する白人たちが問題にする移民に適用される健康保険制度。すでにわが国でも少しずつ問題が発生しているようです。<「外国人が日本の医療保険にただ乗りしている」>こういったただ乗りを見過ごすような制度のあり方は見直しが必要でしょう。
実質的な移民が増えることは間違いないわけですが、それに対応する社会福祉は対応できていません。<新制度では熟練した人材と認められれば、配偶者と子供も日本に住むようになる。在留期間は更新できる。多様な人種と国籍の「中身は日本人」が増える>
認可保育所の中で、すでに兆候が現れているようです。<豊島区の園は40%、江東区の園は25%が外国人。国籍は中国、韓国、米国、フランス、ネパール、ロシア、ミャンマー、ベトナム、インド、チリ、ポルトガル……。>これでは「聖徳太子」がいても対応できませんね。
よくいわれる言語の壁ですが、<保育士はスマホの翻訳アプリなどを駆使し保護者と各国語で会話する。>そうですね、この翻訳アプリは普通の日常会話なら結構つかえるのではと期待します。主要言語以外、どこまで本当に利用できるのか、検証が必要ですが、英語並みであれば、日常的にはなんとかなるように思うのです。
こういった翻訳アプリ、たとえば保育所用とか、医療用、介護用とか、目的別にするとより使いやすくなるとか、小型化・軽量化(たとえば胸ポケットに入るクレジットカードくらい)できるとより汎用性がでてくると思うのです。それだけで移民受け入れの壁が低くなると思うのです。
生活習慣の違いも大きな問題かもしれませんが、それはこういった移動社会、開放型の社会になれば(縄文文化的?)、あまり自分の慣習にこだわらず、おおらかに考えることも大事ではと思うのです。むろん母なる地球環境を大事にすることは共通の土台ですから、たとえばプラスチックゴミの抑制、分別の徹底という、日本人もあまり得意でないことを一緒に協力して進めていく度量が必要でしょう。
私がこんな立ち位置を書いたのは、おそらく現在の日本社会に住む人たちの中に、ごく狭い閉鎖社会を維持しようと、寛容性を弱める一方、自我を強調しすぎる傾向を感じたからかもしれません。さまざまな人と触れ合い、相互に相手を認め合うことにより、自我を弾力的にしてより本来の自由を獲得することに集中できるのではと思ったからかもしれません。
以下、今日の紙面で掲載された記事のみ出しを引用します。関心のある方はクリックすれば内容が見られると思います。
<入管法改正案外国人就労拡大 多文化共生、期待と不安 地域社会で賛否>
一時間が過ぎました。今日も、論旨不明、文脈混乱となりましたが、ここまで読まれた方はお疲れ様でした。また明日。
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