たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

施設入所者に対する責任 <介護中に窒息 准看護師に有罪判決>などを読みながら

2019-03-26 | 医療・介護・後見

190326 施設入所者に対する責任 <介護中に窒息 准看護師に有罪判決>などを読みながら

 

TVで放映されているような病院における医師の長時間労働はまさに自ら生死の狭間にいるような過酷な労働実態ですね。では看護師や准看護師はどうかですね。

 

以前、ある看護師の依頼で仕事をしたことがあります。夜勤してその後日勤するとかというのは月に相当回数あり、それが普通だそうですね。TV放映された医師ほど緊張感がないかもしれないですが、患者の生死に関わる仕事をしている点では似ている状況にあって、明らかに過重労働状態ですね。

 

それが特養施設や介護老人保健施設だとどうかというと、似たような状態ではないでしょうか。しかもこちらは認知症であっても結構ベッドを抜け出して自由に移動する人やときに奇声を上げたり大変です。昨日の毎日記事では訪問介護の場合のセクハラなどの被害が半数くらいあるそうですが、施設でもかなりの比率であることは元施設職員から聞いたことがあります。

 

そんな過酷な職場環境にあって、今朝の毎日記事<長野・安曇野の特養入所者死亡介護中に窒息 准看護師に有罪判決 地裁松本支部>は、気になる内容です。

 

<長野県安曇野市の特別養護老人ホーム「あずみの里」で2013年、入所者の女性(当時85歳)を死亡させたとして、業務上過失致死罪に問われた准看護師、山口けさえ被告(58)=長野県松本市=に対し、長野地裁松本支部(野沢晃一裁判長)は25日、求刑通り罰金20万円の有罪判決を言い渡した。>

 

一体どんな事実関係であったのでしょう。

<被告は13年12月、施設の食堂で女性におやつとしてドーナツを誤って配り、食べた女性を窒息させて低酸素脳症で約1カ月後に死亡させた。>

 

ドーナツを誤って配って食べさせたことが過失?とは一体どういうことでしょう。

 

女性が窒息したのは、ドーナツが詰まったからといのが検察の主張で、弁護側は被告に中止義務がないことに加えて、<ドーナツも約1センチ四方>で、窒息の危険性がなかったと主張しています。

 

判決では、<詰まらせる1週間前におやつをゼリー状のものに変更していたとし、被告は「記録などで確認すべきだった」とした。>とされています。おやつをゼリー状にするか、個体物にするか、個体物でも細切れにするかは、たいていの施設職員は注意して、選択決定していると思います。判決の認定からうかがえるのは、この施設では施設利用者の状態に応じて個別にその選択をしているかのようです。そしてわずか一週間前に、ドーナツからゼリー状にこの女性について変更したようですね。その変更は通常、介護記録など書面に書かれているでしょうから、被告が確認しなかったと認定したのでしょうか。

 

その前提として、<女性が食べ物をそのままのみ込む癖があり>という点と、<心肺停止後にドーナツを吐き出すと呼吸が戻った経緯>という点を並べて認定しているようですが、前者は事件以前の女性の癖でしょうね。他方で、<心肺停止後にドーナツ吐き出す>云々は、今回の事件で生じたことではないかと思うのです。とすると、本件でドーナツが吐き出されたことから窒息状態があったことは推定できたとしても、それ以前では女性が飲み込む癖があっても詰まらせたことがあったかどうかははっきりしないように思います。

 

そうだとすると、弁護側が主張するドーナツを焼く1㎝四方に細切れにしている対応で、果たして窒息する危険性があったかは、そのことを予見できたかとなると、判示認定となるか疑問があります。むろん小片に切ったとしても、いっぺんに飲み込めば詰まる可能性もあり、細切れするだけでは十分ではないかもしれません。ただ、そういった詰め込んで食べる癖があり、そのことを知り得たとすると、注視義務があったかもしれません。

 

ただ、判決では、<被告が別の要介護者の世話をしており、「女性の異変に気付く注視を求めるのは困難」として退けた。>判決は、ドーナツからゼリー状のものに変更したサービス変更は重大なもので、それに注意して確認する義務を認め、それを怠りドーナツを配布したこと自体に責任を認めています。

 

私はこの認定を見て、少し違和感を抱きました。

 

最近、私が担当している施設利用者の方で、体調の少し悪化を受けて、看護師、ケアマネ、介護職の会議に参加しました。この会議では、食べ物も含め服用などのあり方について協議し、食べ物については従前通りとなったのですが、処方薬について見直しが検討されて、その結果について医師に判断を仰ぎ、承認を得て、見直すことになりました。

 

一人ひとり、丁寧に議論して施設内で一定の共有意識をもってサービス提供していることが分かります。むろん看護師も、介護職員も十分な人数とは言えない状態ですから、利用者の大満足は得られないかもしれませんが、相当の配慮をしていることは看取できます。

 

では、この事件の特養施設では、准看護師はそういった変更について、ノータッチだったのでしょうか。通常、准看護師も看護師と同等の仕事をされていると伺います。おやつの変更、とくにドーナツからゼリー状に変更と言った情報は本来、共有されているはずではないかと思うのですが、この点腑に落ちません。

 

他方で、個別的な対応が容易でない、施設が少なくないように思います。私が担当している別の特養施設では、生活保護受給者の方が入所されていますが、たしかそこの食堂では全員がゼリー状のおやつではなかったかと思います。

 

本来は、健康維持のため、できるだけ固形物というか、咀嚼できるようなものを食する方が、長く健康を維持するにはいいように思うのですが、現実にはスタッフ不足もあり、個別対応せずに、ゼリー状のものを出す傾向は多くの施設で見られるように感じます。

 

本件の施設では、個別対応の努力をされてきたのでしょうか。現場はそういうリスクをかかえながらも一定の配慮をしてきたようにも見えます。

 

結城康博・淑徳大教授(社会福祉学)の話>では、<介護はリスクと背中合わせの仕事なので、現場は萎縮するだろう。多くの介護施設では今、できるだけ利用者の自由度を高め、介護の幅を広げようとしている。(判決で)リスク回避を最優先にする介護に傾斜する可能性がある。>と批判的です。私も同感です。

 

ところで、私自身、看護師と准看護師の実態を知りませんで、ちょっとウェブサイトで調べると<看護師と准看護師の違い>では、前者は若い年代で、病院勤務が多く、後者は診療所勤務が多いようですね。介護施設となるとどうかはここではわかりません。看護師は医師の指示に基づき業務を行いますが、准看護師は医師だけでなく、看護師の指示に基づくとなっています。ただ、実態は同じ業務内容かも知れません。

 

その業務内容については<バイタルサイン(意識・体温・血圧・呼吸・脈拍)が正常か測定を行い、異常があった場合医師に報告>に加えて、<採血や点滴など医療行為・・・また、患者の病室の環境を適切に保つために、環境整備を行い、食事や入浴・排泄の援助>となっています。これは病院でのことで、介護施設では、食事や入浴・排泄の援助は介護職員の業務となっているのではないかと思います。

 

そこで、ドーナツを配ることが准看護師の業務かというと、これは本来、主たるものとは

違うのではないかと思うのですが、介護施設ではスタッフが減少気味で、看護師、准看護師も、忙し食事時はヘルプしているのでしょうか。食事の援助というのは、あくまで介護職員の主たる業務で、判決認定のような注意義務が妥当か気になります。

 

またまとまりのない話となりました。今日はこれにておしまい。また明日。


成年後見の行方 <成年後見人報酬 定額制見直し>などを読みながら

2019-03-25 | 医療・介護・後見

190325 成年後見の行方 <成年後見人報酬 定額制見直し>などを読みながら

 

土曜日夜、久しぶりに飲んだこともあり、日曜日から体調が今ひとつ、今日も芳しくありません。これはほんとにブログ休業を宣告されているのかもしれません。そんなわけで今日も書くのを少しためらったのですが、まだ余力が残っていたみたいで、とりあえずタイピングを始めます。

 

今朝の毎日記事<成年後見人報酬 定額制見直し、業務量で算定 最高裁が通知>によると、後見人報酬を定額制から業務量に応じて算定する方式に見直す、その判断は個々の裁判官の判断に委ねるというもののようです。

 

背景には成年後見制度の利用が今ひとつ進んでいないことを報酬面で見直しを図ったと言うことでしょうか。

 

記事によると<現在は後見を受ける人の資産に応じた定額報酬が一般的>というのですが、私自身の経験では定額というのがあまりぴんときていません。

 

具体的な内容については、<最高裁によると、報酬に全国統一基準はなく、個々の裁判官が後見制度利用者の資産額などを考慮して額を決めている。大半の家裁は報酬額の目安を公表していないが、東京、横浜、大阪の各家裁は基本報酬を一律月2万円と公表。管理資産額が増えると最高で月5万~6万円にまで増額される>ということですね。

 

私自身、以前、横浜家裁の案件で、管理していた財産がかなり高額であったこともあったのでしょうか、上記の定額の最高額を超える金額であった記憶です。遺産相続が絡んでいたこともあり、その点が考慮されたのかもしれません。その意味で定額制を基準にしつつも、別の要素も考慮していたように思います。専門医と治療をめぐって協議したなんてことはあまり考慮されていなかったようにも思います。

 

<「仕事をしていなくても報酬が高い」などの批判>は真摯に受け止めないといけませんね。その意味で最高裁の対応は一応妥当ではないかと思います。

 

その最高裁の通知については、<業務量を問わず一律の額にしたり、資産額を基準にしたりする計算方法は採用しないと明示。財産調査と目録の作成▽生活状況の把握▽介護や医療サービスの利用申請や契約▽家裁への報告書の提出――など個別の事務ごとに「標準額」を定める。>

 

他方で、個別事情については<「預金口座が多い」「本人や親族との意向調整が難しい」など事務の手間や事案の複雑さといった個別事情に応じて加算する一方、報告書の提出が遅れた場合などは減算する。>というのですが、これでは果たして個々の裁判官が適切な裁量を行えるか、気になります。

 

加算すると言っても、預金口座の多寡はそれほど重要な要素かどうかと思うのです。意向調整といったことは成年後見制度の真髄ともいえる事柄ですので、ここは丁寧に検討してもらいたいものの、実際のところは容易ではないでしょうね。

 

それは、単に時間量といった形で評価することは参考にはなるものの(一般にタイムチャージ制をとっていないのでそういった管理自体後見人にはきついでしょう)、必ずしも適切ではないと思います。業務の質の違いこそ重要と思うのですが、その判断は実際に現場を見ていない裁判官には容易でないかもしれません。むろん詳細に報告すればある程度理解できるでしょうけど、大量の事件を取り扱っている裁判官にその報告をつぶさにチェックして判断してもらいたいというのは酷ではないかなと思うのです。

 

<財産管理に加え、日常生活に関わる身上監護などにも高い評価を求め、日常生活の安定を目指す。>という点は、望ましい方向だと思います。首都圏の場合、相当高額な財産管理を伴うことがあり、支払能力もあるため、自然と後見人報酬が高くなるかもしれませんが、地方ではそういったことはあまりないのではと思います。いやそれ以上、成年後見制度を一般に普及するためには、さほど多くない資産や収入の方でも利用でき、しかも日常生活がよくなるような後見人の活動が求められるのではないかと思います。

 

当地では生活保護受給者の後見人を最初に担当しましたが、報酬自体、一般の方のような月額を受け取ると、受給者の資産が目減りする結果となりますね。私の場合行政が負担できる範囲で報酬を決めてもらいましたので、受給者にも行政にも余計な負担をかけなくすみました。こういったことも利用者側の事情に合わせて報酬も考えてもらえればと思うのです。

 

後見人の報酬自体、合理的で透明性のあるものであってほしいと思うのですが、裁判官一人の責任に委ねるのでは、負担が大きすぎないか、気になります。

 

そういった報酬制度の問題もありますが、より深刻なのは次の記事です。116日付け経済プレミアの<ガチガチすぎる「成年後見制度」が家族に嫌われる理由>という渡辺精一記者の記事です。

 

その問題は大きいですね。

<家裁が選んだ「見知らぬ人」が親の資産を管理することに違和感を持つ人は多い。>

これは当然かもしれません。私は以前、担当していたのは、知的障がいや、認知症の程度が重い方が多かったので、本人はもちろん、ご家族とも(家族間の対立はあったりしましたが)割合うまく意思疎通ができていました。

 

しかし、当地に来て、この赤の他人が自分の資産を管理することに違和感、拒絶感をお持ちになる方やご家族が結構、いるように思うのです。

 

 <また、成年後見制度は利用が始まると、本人が回復して判断能力を取り戻すか、亡くなるまで中止できない。生前贈与などの相続対策はほぼ封じられる。>

そうですね、なかなか理解してもらうことが容易でなく、後見人や裁判所に不満を感じる人もいるように思います。

 

統計数字でも後見制度は好ましいものとの理解にはほど遠いように思えます。

<認知症の家族がおり、その財産管理を支援したことがある2000人を対象に、みずほ情報総合研究所が16年に行った調査では、成年後見制度を利用しているのは6%で、「制度は知っているが利用するつもりはない」が55%。いわば「ガチガチで融通の利かない」制度とみなされており、積極的に活用しようというムードが生まれにくい。>

 

16116日付けの社説<成年後見制度 誰のための利用促進か>は、必ずしも実態を反映しているとはいえない部分もありますが、私も含め関係者は、真摯に受け止める必要があると思います。

 

<判断能力にハンディのある重度障害者の意思をどうくみ取るかという「意思決定支援」が最近は支援者の間で研究されている。>そうですね、ユマニチュードのようなスタイルは意思決定支援においても真剣に検討されてよいと思うのです。

 

社説は最後に、<本人の意思を十分にくみ取った支援こそ成年後見制度に最も必要だ。財産管理が中心の現行制度を根底から見直し、本人が利用したくなる成年後見にしなければならない。>と訴えています。至極当然だと思います。

 

私自身、まだまだご本人の気持ちを理解するだけの能力を持ち得ていませんが、財産管理はもちろんのこと、それ以上にその気持ちを推し量る、他方でその不可侵の領域を尊重しつつ、行う、案配を探る日々です。

 

今日はこれにておしまい。また明日。(またがいつまで続くか?)


おむつどうする? <紙おむつ下水処理に懸念の声><廃プラのリサイクル>を読んで

2019-03-23 | 廃棄物の考え方

190323 おむつどうする? <紙おむつ下水処理に懸念の声><廃プラのリサイクル>を読んで

 

紙おむつは便利ですね。赤ん坊もお年寄りも、その世話をする家族、関係者にとってありがたい文明の利器でしょうか。紙おむつができたのはいつころでしょう。

 

だいたい「紙」おむつといっていますが、材質はほとんどが紙ではなくプラスチックですね。ともかくウィキペディアによると<便などが付着したら新品に交換し、再使用を前提としない市販のおむつである。素材として必ずしも紙のみが使われているわけではないこともあり、紙おむつという呼称は適しているとは言い難いが、習慣上そう呼ぶ人は少なくない。かつての使用素材は紙や綿であったが、1980年代以降は高吸水性ポリマーや不織布を使用するなどの工夫により、布おむつを凌ぐ性能を有するようになっている>と80年代以降とのこと。

 

それまでの布オムツは赤ん坊だとまだましですが、大人の場合大変だったでしょうね。そういった不便さから解放された多くの人にとって紙おむつはなくてはならないものとなっているでしょう。むろん私もその一人でしょうね。

 

でもいま海洋汚染で問題となっているマイクロプラスチック(MP)の観点からは、これまでの紙おむつ利用状況を礼賛できない状況にあることは以前から懸念されてきました。

 

毎日の今朝の記事<プラスチック危機紙おむつ下水処理に懸念の声>では、この問題の対応策として国交省が検討している処理方法とその新たな懸念を取り上げています。

 

まずその使用量が驚くべき数字ですね。

<国交省が2月に公表した推計によると、おむつの使用人口は現在の661万人から2040年は779万人に増加、使用量は年間142億枚になる。>このほとんどが紙おむつでしょう。

 

現在紙おむつは一般廃棄物として自治体で収集、多くは焼却処理で減量化して最終処分場に埋立しているのでしょうね。

記事では、その<介護関連施設などへのアンケート調査では「収集場所への運搬」が大きな負担となっていた。>といったところでも利用者側の問題となっているとのこと。普通の家庭でも、燃えるゴミがかさばり、収集回数が頻回必要とされる要因の主たる原因は紙おむつではないかと思うのです。

 

焼却処理の段階でも大きな問題を抱えています。

<水分を多量に含む使用済みおむつは燃えにくく、焼却炉を傷めることや温室効果ガスを発生させることも問題となる。>

 

この運搬と焼却が問題として(その前提が妥当かどう議論したのでしょうね)、国交省が検討しているのが次の画期的な?対策案です。昔から提示されてきたディスポーザー方式の現代版かなという印象です。

<国交省は22年度までのガイドライン作成を目標に、下水を利用したおむつの処分方法を検討している。家庭や施設に下水とつながる専用装置を設置したうえ、装置内で(1)おむつから汚物を分離。汚物だけ下水に流しおむつはゴミとして回収(2)おむつを破砕し固形物のみ回収。排水は下水に流す(3)おむつを破砕しそのまま下水に流す--の3案だ。>

 

最近の高層マンションの人気(もう終わった?)の背景には、あらゆるエンターテインメント施設が完備し、マンション団地で生活が完結し、部屋の中はハイテク家電などで便利さで満たされている、それが需要者から求められているという状況があるようです。このような需要にそったものとして、国交省案は妥当な対応かもしれません。

 

この点、当然ながら批判的な見解が紹介されています。

<東京農工大の高田秀重教授(環境汚染化学)は「・・・おむつは紙だけでなく、プラスチックを原料とする不織布やテープ、高分子吸水材で構成される。それらが破砕されれば、MPとして流出する恐れがあるためだ。>

 

紙おむつはまさにMPの塊というか、少なくとも発生源でしょう。それを破砕するなんてことは、あのディスポーザー方式以上に問題意識のなさを感じます。下水道に流せば、後は処理施設でちゃんと処理して、河川や海に排出してくれると国交省は公共下水道の建前を言い張るかもしれませんが、MPは下水処理でどう処理するというのでしょう。

 

また東京都区内のように、<汚水と雨水を同じ管で流す「合流式下水道」>では雨が降ると、適切に対応できない処理施設も通さないわけですから、余計問題です。

 

他方で、メーカーではMP問題に着目して、研究が始まっているようです。

<ユニ・チャームは16年から、鹿児島県志布志市と共同で使用済みおむつから再生パルプを取り出す実証実験を始めた。回収したおむつをオゾン水溶液で洗浄、殺菌。パルプと高分子吸水材を取り出して再利用し、不織布などは固形燃料などに再生する。処理後のパルプは、新品と同等の衛生品質を確保している。>

 

再生トイレットペーパーのように、再生紙おむつが普及するといいのですが、高度なプラスチック材料を使っているので、前者と比べて難易度がぐっと高まるでしょうね。

 

紙おむつの使用を削減、というのは実際やっている人には困難を強いる話で、便利なプラスチックを含まない別の材料で紙おむつを作ってもらうことに期待したいところでしょうか。

<動植物を原料とするバイオマス素材や生分解性素材といった代替プラスチックの積極的活用も同時に求められている。【塩田彩、野村房代】>というのは私も理解しつつ、難題だと感じています。ただ、よほどの合理的な適切な処理データが提示されない限り、国交省案には賛成できません。

 

ところで、今朝の毎日記事には<論点廃プラのリサイクル>が取り上げられ、廃プラ処理、再利用について、熱・エネルギー回収を促進する立場と、温暖化対策上、燃焼自体を抑制し、さらに再利用のリサイクルが実効性に乏しいことからプラスチック包装の利用抑制、代替物の利用を提案する立場とが、それぞれ論陣を張っています。

 

私自身、プラスチック包装の商品を日常的に使っている手前、後者の立場に手を上げると、「我が身を抓って人の痛さを知れ」といった非難を受けそうです。現実的には前者の立場が穏当かもしれません。しかし、あえてやはり後者の動きをより進める社会になって欲しいと望みたいです。

 

今日はこれにておしまい。また明日、といいたいところですが、明日は出張でブログはお休みです。月曜日から再開。

 

ところで、このブログのプラットフォーマー?でしょうか、331日におしまいということで、ブログを継続する場合別のところに移転するよう、以前からメールが届いています。

4月以降継続するか決めかねています。マンネリとなっているので、ちょうどいい機会だからしばらくブログを休止してはどうかと思ったりしています。fbも3年くらい休暇?をとっていますので、そちらにご挨拶するかもしれません。

 


孤高の偉人 <イチロー現役引退・・・孤高の姿>と<孤高の天才数学者>を読みながら+補筆

2019-03-22 | 人間力

190322 孤高の偉人 <イチロー現役引退・・・孤高の姿>と<孤高の天才数学者>を読みながら+補筆

 

最近は夜明けがずいぶんと早くなりました。他方で、私の方は熟睡できていないのか、その明るさに気づかないでいることもあります。でも今朝は甲高い野鳥の囀りで目覚めました。あまり耳慣れない声だなと思いながらも、その姿を見ることもなく出かけようと外に出ました。すると頭上からあの囀りが響いてきました。電柱に留まってしきりに鳴いていますが、私の目ではスズメかそれより小さいくらいしかわかりません。

 

囀りの調子から、ガラ系(といっても私には携帯の種類は分かりませんで、いわゆるシジュウカラなどの種類を勝手に呼んでいます)かなと思っています。シジュウカラでもなくヤマガラのそれとも違う音色です。断定はできませんが、ヒガラかなと一応思っています。

 

ところで今朝の毎日記事は地方選挙とイチローでほぼ尽きている感じでしょうか。前者にはあまり関心がないので、イチローを取り上げたいと思います。

 

毎日では<米大リーグマリナーズ・イチロー現役引退 日米28年、孤高の姿 各界から称賛の声>などのほか、80分間の記者会見では<イチロー引退会見「このユニホームで、このゲームを迎えられ幸せ」一問一答(その1)>を皮切りに全部掲載しているようです。

 

私もイチローファンの一人ですので、日ハムや巨人とのオープン戦、さらにはアスレチックとの2試合もついつい見てしまいました。まだ45歳というのに、少し老けた(失礼)容貌になり、以前に増して細身に見えてしまい、他方で、他の大リーガーのどの選手も若々しくがっちりした体格で、これは大変と思ってしまいました。

 

それでも以前のようにあの華麗なバットさばきを披露してくれると望みを託しながらいていました。でも現実は真剣勝負であることを改めて示すものでした。長いブランクの後でもあり、45歳という年齢もあるでしょう、イチローの動き、その天才的なバッティングスタイルは見ることもなく、最後の姿となりました。

 

また、イチローの野手としてのプレーは、レーザビームなどいまなお健在だったともいえるかもしれません。ただ、フライが上がったときの野手同士の連携、たとえばセカンドの守備範囲であってもイチローが勢い余って近づきすぎたという感じをもってしまいました。あるいはライトフェンスの高い位置に当たって、クッションボールをとりそこねた場面は少し気になりました。むろん、彼は採れるかもしれないと思いフェンス際まで深追いした?、あるいはランナーがいないのでクッションボールを採らなくてもよいとの判断だったかもしれませんが。

 

そんなこんなで、途中でイチローの姿を気の毒と思うような自分の気持ちもあり、あの偉大な数字、プレーだけを残して、最後の三振や凡打の山をつくる姿を見ないで済んだ方がよかったという思いが少しありました。

 

が、イチローのすごさはまさに最後まで野球選手として全力を尽くすとうところに真髄があるのではないかと感じました。記者会見で80分間も一問一答を行ったのは、まさに悔いのない野球人生(現役に限り)を全うしたことに自ら満足しているからでしょう。

 

こういった人生を送る努力、生き方こそ、評価されてよいと思うのです。全盛期だけを見せて姿を消すのも一つの生き方ですが、いいときもあれば悪いときもある、それが人生、偉大な業績をあげても孤高で戦ってきたからこそ、自信をもって最後まで全力を尽くす姿を見せてくれたのだと思うのです。

 

話変わって、昨日の毎日記事では「岡潔シンポジウム 紀の国の偉人-世界が認めた孤高の天才数学者-」の特集記事が掲載されていましたが、ウェブ記事にはなかったので、主催者のウェブ情報<明治大学・和歌山県連携講座 岡潔シンポジウム>で講座の趣旨や講師の方々が紹介されています。

 

その講座の趣旨では

<岡潔(1901-1978)は、日本が生んだ偉大な数学者です。>とありますが、数学のむずかしい理論のため素人にはちょっと敷居が高いですね。

もう少し引用すると岡潔氏は、<パリへ留学。そこで生涯の研究分野を「多変数解析函数論」と心に決め帰国。以来研究に没頭し、約20年もの歳月をかけて未開の領野を開拓する重要な数学理論を一人で構築しました。>ということで、日本学士院賞、文化勲章を受賞しています。

 

で、私にはここまではさっぱりわかりませんが、<晩年は、自然と共に生きてきた日本人の中にある「情緒」の重要性を訴え、日本の未来に警鐘を鳴らす箴言(しんげん)を数多く残しました。>の部分についてはいくつかの書籍を少し読み、ほんのさわりに近づいたかなという程度です。

 

<本シンポジウムでは、和歌山県紀見村(現橋本市)で情緒を育み、数学研究において前人未踏の業績を残した偉大な世界的数学者「岡潔」の功績を顕彰します。>ということで、和歌山県知事が講師の一人で、橋本市長が挨拶をしています。

 

橋本市は、岡氏を郷土の偉人として、その偉業を顕彰し、記念館の設置を計画しているとのこと。さらに「算数・数学のまち橋本」の実現を目指しているようです。

 

イチローの偉業と比べる話ではありませんが、岡博士の偉業「多変数解析函数論」は高度すぎて一般にはなじみにくいですが、私からすると、著名な専門家がその業績を高く評価するくらいですから、私も右に同じでよいかくらいに思っています。

 

ただ、小林秀雄との対談『人間の建設』では、冒頭、小林が大文字焼き(がよく見える場所として)とりあげたところ、岡は「私はああいう人為的なものには、あまり興味がありません。小林さん、山はやっぱり焼かないほうがいいですよ。」という断言があり、見事な達観と恐れ入ります。まあ別には私がこの意見に賛同するわけではありませんが、見切り方が竹を割ったようで、切れ味の鋭さを感じさせてくれます。その後もその連続ですが。

 

今日は(いや、「も」、でしょうね)わけのわからない話となりました。この辺でおしまい。また明日。

補筆

 

このテーマを選んだときなにか思い出したものがあったのですが、書いているうちに忘れてしまいました。今朝思い出したので少し補筆します。

 

イチローの生き方を垣間見ながら、岡・小林対談で通じるものを感じたのです。

岡博士は「人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質を持っています。好きにならぬのがむしろ不思議です。・・」と。これに対する小林の対話がおもしろい。野球の選手の例がイチローを彷彿させます。「だんだんむずかしい球が打てる。やさしい球を打ったってつまらないですよ。ピッチャーもむずかしい球をほうるのですからね。」と。つまりといって「やさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります。」と人の本質に迫ります。これって、まさにイチローではないでしょうか。イチローは日々同じことをルーティーンで行っているそうですね。好きだからといってよいでしょうし、難しいことに挑戦することに面白さを感じているからではないでしょうか。そういった日々の鍛錬を苦にもしない(他人が思うほど?)のではないでしょうか。

 

それは古武士、いやいや日本の農家が持っていた矜恃ではないでしょうか。岡氏は郷土の偉 

というわけですが、300年以上前当地学文路(かむろ)で農家に生まれ、日本の農業土木技術者として多大な治水利水事業を行った大畑才蔵の一生もそのようなものであったように思えるのです。橋本市長が算数、数学のまちとして標榜していますが、算術を大河川灌漑事業の中でいかしたり、年貢徴収の合理的な算定方法を提案する中でいかしたり、そのすぐれた才はいかなく発揮されています。そして彼は名利を求めず、働くことはハタがラクになることと思って、合理的な暮らしのあり方、農業のあり方、行政のあり方を常に考え続けるとともに、生涯、一百姓として全うしたように思うのです。私の思うこの偉人を丁寧に追っかけてみたいと思うのです。


 


判決を求める勇気 <知的障害児・・・遺族「命の価値」問う>などを読んで

2019-03-21 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

190321 判決を求める勇気 <知的障害児・・・遺族「命の価値」問う>などを読んで

 

法曹実務に長年従事していると、その制度に疑問を抱かない、抱いたとしても実際に裁判による解決までのリスクや壁を感じて二の足を踏む思いを、たいていの人がしてきたのではないでしょうか。

 

昨夕の毎日記事<知的障害児「逸失利益」認定は 22日判決 遺族「命の価値」問う>と今朝の毎日記事<旧優生保護法を問う強制不妊、1年で初結審 審理継続の国退け 仙台地裁、5月判決>は、私のような凡庸な人間には勇気のある行為と感じるのです。いずれも大きな見えない壁が立ちはだかる中で、正義を求めてあえて判決を求めた決断と思うのです。

 

まず、前段の事件については、<知的障害のある少年が入所施設から行方不明になって死亡したのは施設側に責任があるとして、両親が約11400万円の賠償を求めた訴訟の判決が22日、東京地裁(田中秀幸裁判長)で言い渡される。争点は、将来得られたはずの収入を算出する「逸失利益」が認められるか否か。「ゼロ」とする施設側に対し、両親は「働ける能力があった」と主張している。>とされています。

 

死亡した場合の損害賠償請求の算定上、その人が将来得られた利益、逸失利益をどう捉えるかが大きな争点となっています。この逸失利益については、交通事故の裁判例が多いですが、労働能力に応じた実収入を基本としつつ、次第に被害者の立場にたった柔軟な事例が続いているかと思います。家事従事者や無職者、生活保護受給者などは、賃金センサスの平均賃金程度は一般的ではないかと思います。しかも賃金センサス年収額表は70歳までの表示ですが、それで打ち止めというわけではなく、80代の高齢者も一定の収入を認めてきました。

 

ただ、これらの裁判例は、あくまで死亡前は一定の労働能力が潜在的に認められることが前提であったようにも思えます。そのためそれぞれの裁判例はその能力の可能性がある事実の探求を腐心していたようにも見えます。他方で、知的障害のある人で、将来的に労働して収入を得ることが困難な場合、はたして同様に逸失利益を認めることができるかとなると、これまでの制度運用からすると、容易でないことがわかります。

 

死亡された方は最重度の障害判定を受けていたようです。私が以前、成年後見を担当した方は、症状的には下記よりも重い方でしたので、一応は概略ながら少しわかります。

<和真さんは言葉がうまく話せなかったが、服を丁寧に畳むなどきちょうめんな性格だったという。両親側は「漢字が書けた」「手先が器用」などとする学校の記録を挙げ、「年齢に応じて成長しており、さらに能力を伸ばすことはできた」と主張。都の基準で「最重度」とされた障害程度の判定に疑問を抱く医師の証言も得た。>

 

就労継続支援A型や同B型事業で就労されている方の場合、収入は微々たるものですね。こういう事業所で就労できる人の場合でも、同様の問題が起こりえます。

 

裁判所は実態把握のため労働現場を訪れたのですね。

<訴訟では、障害者を雇用する会社に裁判官が自ら出向き、仕事内容や職場での配慮などを聞き取るという異例の対応をとった。これを踏まえ、両親側は「障害者の特性に合わせた職場環境の整備が広がっており、(和真さんも)就労する可能性が高かった」と訴えた。>

 

命の価値は同じという、ご両親のことばは重いです。裁判所がどう答えるか、期待したいと思います。

 

なお、一年前の322日付け毎日記事<障害児平均賃金で逸失利益 大阪地裁、算定1940万円>では、同日に、大阪地裁では事情を十分斟酌した和解解決をしています。

<山田裁判長は、家族から愛情を注がれた逞大ちゃんには療育環境が整っており、意思疎通の面などで順調な発達状況がうかがえた点を考慮。「将来的には一般的な就労ができた確率が高い」との判断を示し、平均賃金を逸失利益の算定根拠に取り入れた。>平均賃金の8割ですから、なかなかの判断だと思います。

 

西の大阪地裁の和解に対して、東京地裁が同日の日となったのは、たまたまの天の配剤なのか、意識して選んだのか、判決文でわかるかもしれません。

 

次の強制不妊の根拠となった旧優生保護法違憲訴訟について、記事では< 旧優生保護法(1948~96年)下で不妊手術を強制され、憲法13条が保障する「性と生殖に関する自己決定権(リプロダクティブライツ)」を侵害された>と違憲か否かという重大な問題とともに、損害賠償額の多寡が大きな争点となっているようです。

 

というか、国会対応と司法判断という三権分立の意義が問われているのかもしれません。

< 被害者救済をめぐっては、昨年3月以降、国会の超党派議員連盟や政府与党が救済法案の策定を進めてきた。法案は4月にも可決・成立が予想されており、国が裁判で責任を否定する中、司法判断より救済法の施行が先になる前例のない展開となりそうだ。【遠藤大志】>

 

なお、国が主張する除斥期間は、本件で採用することは考えにくいと思うのです。それはこれだけの不正義に対して司法の役割を果たしていないことになると思うのです。

<原告が2人とも強制手術から40年以上経過していることから、国は原告に請求権はないとしたが、原告側は「当時の社会状況下では個別に被害を訴え出ることは困難だった」と反論。歴代厚相の責任も追及した原告に対し、国は除斥期間を理由に厚相らの責任を否定した。>

 

国が、また医学界、医療機関が、そして社会が、これだけ非人間的差別を行ったことについて、時間の経過で忘却されることでも免責されることでもないと思うのです。私たちは、国がある学会という権威が、社会が正しいと、法律までつくって進めようとしても、そのことにより少数者の権利が不当に侵害されるおそれがあるとき、合憲性を丁寧に検証する必要があることをこの事件は警鐘していると思うのです。

 

だいたい多くの国賠訴訟では国や自治体側は審理を急ぎ充実した主張を展開しないまま早期結審を求める傾向にあるように思うのですが、本件では逆に審理継続を強く主張していたのを、裁判所が打ち切り結審したのですから、原告側には期待できる内容の判決になりそうですね。原告敗訴という判断は除斥期間といった形式理由でしか考えにくいので、そのような判断をするとは到底思えないと司法に期待する私としては考えたいのです。

 

さて争点の判断としては違憲性ですが、十分期待できるものの、違憲判断が必然かどうかは事件の中身をまだ理解していないので、場合によっては違憲判断を回避するかもしれないと思っています。ただ、違憲かどうかの判断はしてもらいたいと思うのです。

 

次は損害金ですが、国会が採用した一時金320万円はちょっと低すぎると思うのです。ただ、適正な額となると難しいですね。どのような判断が示されるか期待したいです。

 

毎日の今朝の記事<クローズアップ2019 旧優生保護法「一時金」 「早期救済」心癒えず 320万円根拠に批判>は、国会対応に批判的です。ただ、訴訟は特定の人の救済にとどまり、控訴もあるので、問題解決の長期化のリスクがありますね。

 

この記事で指摘されている一時金制度の問題を、判決後に新たに見直すことが求められるでしょう。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。