太った中年

日本男児たるもの

フィリピンパブ 歴史part1

2008-04-26 | weblog

フィリピンパブ   歴史

1970年代に日本人によるフィリピンへの買春ツアーが国内外でメディアに取り上げられ問題になった。その後、日本人の旅行者は激減する。

80年代以降、興行ビザ(タレントビザとも呼ばれる)でのフィリピン女性が徐々に仕事を求めて来日するようになる。単純労働を認めない日本へ、貧困な家庭出身のフィリピン人でも歌やダンスができればできる仕事として、多くのフィリピン人が競って日本行きを目指すようになる。

一方、本来芸能人や歌手だけが認められるはずの興行ビザの曖昧な規定の下で、ほとんどの労働の実態はキャバレーやスナックでの接客行為(ホステス)であった。

最盛期の2000年前後には、年間8万人のフィリピン女性が興行ビザで来日し労働していた。北海道から沖縄、八丈島に至るまで日本全国ほとんどにフィリピンパブが存在していたが、大阪だけは(暴力団の資金源になることを恐れた警察による手入れにより)他の都市圏に比べ極端に少なかった。

(以上、フィリピンパブ   歴史 をウィキペディアより一部引用)

八丈島のキョン!に至るまで

前エントリーに引き続き、いったいどんなヤツがウィキの記事を書いているのかますます気になる。フィリピンパブへ頻繁に通うオヤジを、フィリピンパブ中毒患者=略して「ピン中」と言うが、ウィキ記事は「ピン中オヤジ」によるものと推測する、図星だろ。

ピン中オヤジは当然フィリピンパブ(そこで働くフィリピン人女性)への個人的な思い入れが極端に強いから、著しく客観性に乏しくなる。しかし、ウィキはインターネットの百科事典を標榜しているため、その記述はより客観性を求められる。従ってフィリピンパブの項目は必ずどこかトチ狂った記事を書くことになり、その微妙なさじ加減が面白い。

>最盛期の2000年前後には、年間8万人のフィリピン女性が興行ビザで来日し労働していた。

上記のことを踏まえてもこの記述は少し頂けない。外務省白書によれば2000年前後は7万~7万5千人のフィリピン人女性が右肩上がりに来日して、2004年に8万人強となり最盛期を向えた。7年前、友人がフィリピンパブをオープンした際、マーケット・リサーチをしたからこの数字はよく覚えている。「最盛期の2000年前後」とはウィキ記事を書いたヤツの勝手な憶測で、その時期にハマってピン中オヤジになったんだろうな。

図星だろ、ピン中オヤジよ、恥ずかしいことではない、正直に言え。

ある経済雑誌によれば、フィリピンパブ(を含めた外人パブ)は産業種別に分類すると飲食/外食産業ではなくて何故か娯楽/余暇産業になる。2002年の統計で娯楽/余暇のマーケットは、第一位が会員権売買を含む中古ゴルフ(約1兆2千億円)、第二位が外人パブ(約6千億円)だった。外人パブではフィリピンパブが一人勝ちだから、少なく見積もっても単独で年間5千億円以上の巨大なマーケットを形成していたことになる。

また、2002年は東証平均株価が7千円台にまで落ち込んだ不況のドン底だった。中古ゴルフはバブル崩壊後、不況に歩調を合わせてマーケットが縮小していった。しかし、フィリピンパブだけがそこで働くフィリピン人女性の来日数の増加と共に確実にマーケットを拡大していった。

スゴイねぇコレは。週末にゴルフをしてフィリピンパブで一杯やることが当時、日本のオヤジたちのスタンダードなライフスタイルだった。

なぜフィリピンパブだけが巨大なマーケットを形成したのか、当然疑問に思える。フィリピンパブの歴史とはまったく関係ないウィキの冒頭文(フィリピンへの買春ツアー)は巨大なマーケットを形成した原因に関連づけたいのだろうか。この記事を書いたピン中オヤジは頭に血が上り、冷静さを失い、目が血走り、つい先走って書いてしまったことは想像に易い。

ウィキのピン中オヤジよ、いったいアンタにナニがあったのか。

フィリピンパブはそのような魔性を秘めていたのだった。(part2へ続く)