昨日の続きで、永山卯三郎の言う「吉備国の名義」について書きます。
吉備という文字は一様ではない。日本紀には「吉備」、日本紀纂疏には「寸簸(きび)」、古事記には「岐備」「黄薇」と記しておる。
また、大成旧事本紀に
『神武天皇の東征の時、高島宮(私は、吉備の中山にあったと推察しています。高は尊ではないかと)に寓された時、その庭に一夜にして八蕨が生えた。高さは1丈2尺、太さは2尺5寸で、その色は濃黄で、其処の神人は「黄光命」と呼んでいた。
この草が生えると、天下を治めるためには大変な祥となり、天の与えたまう瑞草であると言い伝えがあると。そんなめでたい草が一夜にして生え出たので、この国の名前に「黄薇」という名を付けたという。最初は「キワラビ」だったのですが、中を約して「キビ」となった』
と、書かれている。
この言い伝えもあまり信用できないが、粟の国、木の国と同じように、黍がよく出来た黍の国から吉備の名前に変っていたというのが一番確かな事のようですと書いてありました。
「黄薇啓国」とは、木堂が、ちょっと洒落っ気を出して「麗わし美まし国・吉備」をこのように詠んだようです。
今度からは、この吉備津神社を案内する時、まず、最初に、この石柱から堂々説明したいものだと思っています
吉備という文字は一様ではない。日本紀には「吉備」、日本紀纂疏には「寸簸(きび)」、古事記には「岐備」「黄薇」と記しておる。
また、大成旧事本紀に
『神武天皇の東征の時、高島宮(私は、吉備の中山にあったと推察しています。高は尊ではないかと)に寓された時、その庭に一夜にして八蕨が生えた。高さは1丈2尺、太さは2尺5寸で、その色は濃黄で、其処の神人は「黄光命」と呼んでいた。
この草が生えると、天下を治めるためには大変な祥となり、天の与えたまう瑞草であると言い伝えがあると。そんなめでたい草が一夜にして生え出たので、この国の名前に「黄薇」という名を付けたという。最初は「キワラビ」だったのですが、中を約して「キビ」となった』
と、書かれている。
この言い伝えもあまり信用できないが、粟の国、木の国と同じように、黍がよく出来た黍の国から吉備の名前に変っていたというのが一番確かな事のようですと書いてありました。
「黄薇啓国」とは、木堂が、ちょっと洒落っ気を出して「麗わし美まし国・吉備」をこのように詠んだようです。
今度からは、この吉備津神社を案内する時、まず、最初に、この石柱から堂々説明したいものだと思っています