私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

文字八存

2009-11-10 14:45:59 | Weblog
 「文字八存」というのは、「吾輩は猫である」の最初の挿絵を担当した画家であり、あの豪渓絵葉書の絵を書いた先生でもあった「中村不折」が著した書物です。
   


                     


 この人は画家であると、同時に、書道の大家でもあったのですが、書道の傍ら、殷代からの4千年間に渡るその資料の収集を通して漢字変遷を調べた研究家としても有名な人でもあったのです。
 この本に特別影響されたわけではないのですが、私も、数点ですが、中国の漢字につての資料を持っています。そんなに高価な珍しい代物ではございません。どこにでも転がっているようなものです。
 
 まず、一点目は、これでも漢字かいなと思われるような石の切れ端です。言い伝えによりますと、どこかの中国北部辺りの寺院か何かの石碑の一部を削り取ったものだそうです。
     漢字だとは思うのですが、それ以外のことは一切分かりません。

 次は、戦国時代の貨幣に描かれた文字です。
 貨幣は、最初は、貝であったものが、次第に、農機具(唐鍬)がとって代わり、更に、それではあまりにも大き過ぎて不便だったので、その形を小さくして貨幣専用として造りだされた「空首布」と呼ばれている貨幣が生まれます(文字八存より)。私の持っているのは戦国時代末期のその貨幣らしいのです。
 次の刀形をしたのが、斎の国などで、主に使われていたのが「刀」と呼ばれた貨幣です。
 
 これら戦国時代の貨幣には、どうしてかは知らないのですがです、漢字が、必ず、書きいれてあります。ここに書きこまれた漢字は、どうも、現在のような貨幣の価値を表したのもではないようですが、何を意味しているかは不明です。
 
 最後に、一番下にある丸い貨幣は、秦の始皇帝が造った、全国共通の銅貨です。中央の四角い穴の両側に「半」と「両」という漢字を書きいれ、それまでにはなかった貨幣の価値、[半両]という価を、始めて、示したのです。
 

 漢字には4千年以上の歴史があります。その歴史の重みを受け継いで現在の漢字があるのです。

 「いってえ、おめえのはなしゃあ後楽園じゃあねんか。どけえ、いきょんなら」
 と、でも、お叱りを受けそうです。
 たったの一文字、「烘」という字から、こんなへんてこりんな、思いもしなかったような方向に、「流店」から流れ出てしまいました。
 
 「水行く河の蜘蛛手なれば」ではないのですが、いろんな流れとなって流れ出るのは、まあしようがございません。流店から流れ出た水が八橋に通じているのですから。


    なお、コメントくださったSuzukaさんへ! 
 八橋の「落ち」としてはとは、これぐらいでいかがでしょうか? 物の思いをほのめかすぐらいにはならないでしょうか。