文政年間の宮内の能狂言と言えば、やはり藤井高尚の名を上げなければなりません。此の高雅なる雅を愛する雅人といえば、先に挙げた真野竹堂と藤井高尚を於いて外はありません。この一人の粋な人の周りには“友を呼ぶ”という例に洩れず、多くの当時の日本の同好の士が集まり来るのです。このように、一方では、遊廓としての下等な遊興に興ずる人の群れも雲霞の如く群れ来たりし色町にも、片や、このような上級な雅の世界に立ち入って、巷の喧騒を嘲笑うかの如き己の教養に酔いしれた人々もいたのです。これが、又、当時の社会では名を馳せ、「宮内」という名を、三弦喧しき遊廓という言葉と共に、いやがうえにも高めさせる原因になっていたようです。
その例として、藤井高尚の真野竹堂宛の書簡が残っています。