私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

また、メールが入りました。

2007-11-14 14:40:47 | Weblog
 一昨日、友から聞いた話として、「曾子の三省」を書いたのですが、メール仲間の『おこごと』氏から、またまた、お叱りのメールをいただきました。
 というのは、
 「三省という題にもかかわらず、書いている内容が一つではないか。これは『羊頭を懸げて狗肉を売る』と同じだ。この他、もう二つある。『朋友と交わりて信ならざるか』と『習わざるを伝うるか』だ。」

 「毎度、私の無知が大層ご迷惑をお掛けしました」と、返信しておきました。
 そう言われると、漢文の先生はそんなことも言っていたような気もしています。
 まさに、「習わざるを伝うるか」そのももでした。
 
  三平ではないのですが「どうもすいません」

曽子の三省

2007-11-12 16:37:24 | Weblog
 久しぶりに例の漢文の先生を訪ねました。先生のお庭にある楓の木が真っ赤に秋を告げています。
 さて、例の通り世間話が進みます。環境のこと、石油のこと、教育のことなど次から次へと話題には困りません、彼の博学に、ただ聞き入るばかりです。

 話も最後はどうしても今の政治状態に落ち着くのが通例です。福田さんと小沢さんの会談のことについても触れられます。

 以下が彼との会話です。

 「論語の中に、曽子の三省というのがあるのを君知っているかね」
 「へえ・・。どんな言葉ですか。待ってました。ご講義願います」
 「まあ、最初はその曾子だが、言ってみれば、彼は、まあ、孔子の一の弟子みたいな人だな」
 「孔子の弟子は沢山いたのですが、曾子と言う人は聞いた事ないね」
 「それは君が知らんだけじゃ。大層偉い弟子で、その人の言った言葉も『論語』の中に載っているのじゃ」
 「そうですか」
 「巧言令色。鮮(すく)なくして仁、というのは知っているだろう」
 「まあそんな言葉があったことぐらいは知っているよ」
 「そうだろう。その言葉の次にあるのが、この曾子の言葉だ。『我れ日に三度我が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか』と言っているのだ。」
 「へえ、随分と難しい言葉ですね。日に三度ですか。・・・・その忠とは何ですか」
 「忠とは、口と心の真ん中を一本に貫いた形の文字で『まごころ』とでも言ったらいいと思うのだが」
 「口も心もゆがんではなく一直線に貫かれていて、ねじれていないと言う事ですか」
 「そうだその通りだ。人の為に色々考えて相談にも応じて謀を巡らせたが、真心を持って自分勝手な行動はしなかったか。ほんとうに誠を尽くして、何か欠けるところはなかったかと反省する心を言うのだ」
 「ちょっと待ってくださいな。それって、あの小沢さんのこと」
 「まあそれは兎も角として、こんな言葉もあるのだ。為政者として身に付けていなければならない徳なのだ。その点少々彼にも欠けていたと思うよ。うははは・・・」
 彼の高笑いで、私も腰を上げました。

美袋

2007-11-10 21:15:30 | Weblog
 今週のトラックバック練習長帳で、難しいい漢字の読み方についての設問がありました。
 昨日、『髣髴』『不怜毛』をあげました。
 これは「ホノニ」(ほのかに)「サビシモ」(寂しい)と読むのだそうです。

 さて、「美袋」という字はどう読むのでしょうか。日本の地名の中最も難しい読み方の一つにあげられているのがこの文字です。
 なんと読みますか。
 「みふくろ」「びたい」など読めるのですが、本当は「ミナギ」と読むのが正解です。

 どうしてこんな読み方になったのか、諸説プンプンですが、広島大学名誉教授石田寛博士の説によりますと。この辺りは高梁川の水際(ミギワ)であったから、「みぎわ」であったのが、何時しか「ミナギ」という名になったとされています。

 でも、私が地域の古老からお聞きした話では、ちょっと石田先生の説とは違っております。

 その古老の話は
 「むかしむかし、大黒さまがこの吉備の国にお出ましになられたことがあります。
 それは、吉備の国の大王が、無理難題を出雲の国に言ってきたそうです。困った出雲の大王はその解決に、大国主命にお願いしたということです。快く引き受けた大国さまが吉備の大王の下においでなさったということです。はるばる高梁川を下って吉備の都まで来たのです。
 その途中で、この「ミナギ」の地でご宿泊されたということです。お休みなさったところが、今、大黒山と呼ばれている山なのだそうです。そして、御持ちになっていた大きな袋が、今のミナギを地を覆っていたということです。だからこの地を後になって、大きな美しい袋を置いていたところと言うので、美袋となったというのです。最初は美しい嚢、即ち「ビノウ』(美嚢)から「ミノウ」それが「ミナギ」に変わったというのです。字もいつしか「嚢」から「袋}へと変わったんだ」
 「こんなたええもねえ、わしの言う事なんど、でえも信じてくれんのじゃがな」
 と、寂しくお笑いになった、しわくちゃ交じりのその人の笑顔が、今でも心に染み付いて忘れる事が出来ません。

 今では、寂しい事ですが、こんな話は、その人がお亡くなりになった後は、美袋に住む人も誰も知らないと思います。
 私が学生の頃、石田先生に「地名の由来を古老に尋ねて来い」という宿題を頂いて、夏休みだったと思いますが、多くその土地土地の古老から伺ったお話の中の一つです。

 尚、最後になりましたが、私はこの美袋の産です。だから余計に愛着を美袋に寄せています。
 故里っていいもんですね。

吉備の美女

2007-11-09 18:45:07 | Weblog

 吉備の国の美女〈8〉(9月21日)で、吉備の津の采女が入水自殺した悲劇をお伝えしましたが、その悲劇を記した柿本人麻呂の歌の中に、次のような文字が見えます。

 髣髴」「不怜毛 

 万葉仮名らしいのですが、どう読みますか?


女の人の名前を読み込んだ和歌 その2

2007-11-09 10:34:37 | Weblog
 「逢坂山のさねがずら」の「さね」が思いを寄せる女性の名前であったと書きましたが、この『松の落葉』では、女性の名前を歌の中に読み込んだ例としてもう一首取り上げておられますので、それもご紹介します。
 それは「そで」という人に送ったとされる歌なのだそうです。
 
  人知れぬ 我物思いの 涙をば
         袖につけてぞ 見すべかりける
(後撰集より)

 人知れず恋焦がれている「おそでさん」あまりそっけない素振をしないで色よい返事をしてくださいな、とでも解釈したらいいのではと思いますが。
 
 単なる遊び歌だ、とは思われませんが、このように歌にまで詠まれた女の人の心はどうだったのでしょうね。その後この女性たちの行く末は、全く伝えられていません。

 

あう坂山のさねかずら

2007-11-08 10:38:01 | Weblog
 三条右大臣の歌で知られている百人一首、
    
    名にしおはば 逢坂山の さねかずら
              人に知られで くるよしもがな
 
 我;高尚先生は、この歌の中にある「さね」と言う言葉について書いています。もう一般には誰でも知っているのではと思いますが、私には初めてのことだったので驚いて読んでいます。
 というのは、このさねがずらの「さね」というのが女の人の名であるというのです。要するに、「さね」という女の人に送った歌なのだそうです。さねさんの名を「逢坂山のさねがずら」として詠むなんて、三条右大臣も随分と洒落っ気のあるお人ですね。改めて感心しました。

 恋しい恋しい、逢いたい逢いたい「さねさん」「さねさん」。誰にも知られないように逢えないでしょうか、というような意味なのだそうです。

 さねさん当てに作った歌だったとは本当に驚きました。本を読むということはすばらしい体験ですね。今更のように感じております。

 9月の始め頃より、もういい加減に、高尚先生の項を終わりたいと思っているのですが、なかなかこの本が放してくれません。今少しお付き合いお願いします。 

再び、獅子狛犬について

2007-11-07 15:25:51 | Weblog
 今朝の山陽新聞の文化欄に、県立博物館で特別展『吉備津神社』が開かれていると報じられています。
 その記事の中に、
 「吉備国一宮としての格式を持つだけあって、歴史資料としても美術品としても一級品がそろう。
 中でも13世紀の木造彫刻『獅子狛犬(こまいぬ)』(国重文)は、ひときわ目を引く。
 写実的で力強い肉付きや躍動感あふれるスタイルといった鎌倉時代の彫刻の特徴がよく表れ、同時代を代表する『東大寺南大門金剛力士像』にも通じる魅力がある』
 と。

 ここに伝えられているような本当にすばらしい獅子狛犬が、手に取るように目の前に展示されていています。あまりにの愛らしさに、そっと手を差し伸べて愛撫したくなるような誘惑にかられます。
 一度、歩を、是非、博物館までお運びください。

 この獅子狛犬については、6月27日にも、この欄でご紹介したのですが、更に詳しく高尚先生の説明を挙げてみます。
 
 『和漢三才図会という本によると、神功皇后の御世に、高麗の王から、我末々奴のごとく犬のごとく、君を守る臣として誓いの印しとして、狗形を作って送ってきたものとあるが、高麗人がそんな事を言ったという記録は、どこにもない。まったくのひがごとである。
 又、谷川士清という人の和訓栞に、獅子と狛犬はふたつ別々で、左側が獅子で、口が開いており、右側のが胡摩犬で口は閉じられている、と説明しているが、昔はそんな区別はなく、獅子と狛犬がそれぞれにいたのではなく、ふたつで獅子狛犬なのだ。
 狛犬とは、平安の世にこの像が宮廷の中に導入された折、獅子と言う言葉を知らなかった女房たちが高麗からたてまつられた犬に似ていたので、こま犬とだと思って誤って呼んでいた。
 もともと、女は「こまいぬ」、男は「しし」と呼んでいたのです。それが、いつしか一緒になって「ししこまいぬ」と呼ばれるようになったのだ』
 と。

 私事(ひとりごと);
 私が、この前、博物館の学芸員さんのご説明をお聞きしていると、
 「左側が獅子で、右側が狛犬だ」
と、まことしやかに、ご説明なされていました。
 さて、どちらが正しいのでしょうか?あなたのご意見は

 
 

神遊巫舞

2007-11-06 19:31:18 | Weblog
 吉備津神社にも、その昔には、神楽を専門とする社家が20戸もあり、「神楽座」が組織されていましたが、惜しい事に、明治以降この組織は経済的な理由から廃れてしまい長い伝統が絶えてしまったということです。だが、戦後一時期に一度復興しており、その当時の写真も残ってはいますが、今では全く残念ながら見ることができません。
 この「神遊」について、高尚先生は、次のように書かれています。

 『かみあそびを中世の頃からは「かぐら」と、舞手を「かんなぎ」(祝女)と呼び、巫と言う字を使っていた。この神楽舞には、ひと手に小さな榊の枝、あるいは竹のはをもち、ひと手には鈴を持って踊った。これは天岩戸の前で踊った天鈿女命の真似をしたものである。中世以来何処の巫(かんなぎ)の舞も大体同じ形であった』
 と。

 私事(ひとりごと);
 神の御前では、音楽を演奏するのは忌み嫌って為されなかったようですが、かんなぎは何処の神社でも見られていたと言う事です。昔のしきたりをそのままずっと続いていくと言うのもなかなか大変な事であるようです。
 でも、かんなぎ、巫女の舞が見られないと言うのも少々寂しい感じもしますが、これも時勢でしょうか。
 現代と言う時は何でしょうね。こんな事考えるのも、これって私の昨日今日の時差ボケのために生まれ出た思いかもしれませんね。

2007-11-05 20:44:03 | Weblog
 現在、岡山県立博物館で吉備津神社の宝物の特別展が催されています。多くの宝物の中にあって、一際目を引くものに大太刀『法光』があります。3m80cmもの大太刀です。解説書によると「実戦刀だ」と言うのですが、こんな大きな刀をどうやって使ったのかちょっと考えさせられます。

 この刀について「松の落葉」で高尚先生は書いています。

 『もののふはさらにもいわず。卑しい民百姓でも、山道や夜など道行く時は、ひそかに小さな剣を持つようにしている。実の守りとなって災いを逃れる事が出来る。今昔物語などから例をあげて剣が身を守りになり、今の世の中でもきつね、たぬきなど人にあだすることがあり、又、猛獣やぬす人などが危害を加える事がしばしばあるので剣はなくてはならないものだ』

 私事(ひとりごと);
 たった200年ほど前の話です。当時の知識人の代表的人物であった先生にして、このようなきつね、たぬきが常識として語られていたのです。
 時代が進むと言う事は、科学が進歩すると言う事は人々の考えに相当の差異を生じさせる要因になると言う事がよく分ります。
 現代、もしこんな事を本気で書物にでも書こうものならどうでしょう。子供にまで馬鹿にされること必定です。
 そんな意味で、当時の権力者たちが、身を守る物としての剣を進んで神社に寄進し、一族の平穏・安寧を祈願したと言う事は、なんだかよく分る気がします。
 それにしても、こんな大太刀がよくも造れたものだと感心しました。

松屋文集 その2

2007-11-04 18:58:22 | Weblog
 10日間の中欧を旅して帰ると、なんだか知らないのですが、日本の古典だやたらと恋しくなり、高尚先生の『松屋文集』を紐解いてみました。

 「秋の暮れ方は、空の景色むら雲迷い、おりおりに雨打しもみぢのかつがつ散り行くなど、ものさびしきにとじむる日となりては、わかれの近づくほどそぞろ悲しく風の音虫の音につけてもしのびがたき事なむおおかりける。さるはうき秋に名だたしういいわたりしかど、今はとなりてはいづち行くらむとなごりおしう眺め、心だすに野も山も夕霧の立満ちたれば、いとどおぼつかなくて心細うて胸さへふたがるやうになむ」

 声に出して読んでみると、日本人の心が、周りの自然に溶け込みながら、微妙に繊細な感受性を育てていったかと言うことが分るような気分にさせられます。西洋の人たちには到底理解できないものではないかとも思いました。

    おおかたの 秋来るからに わが身こそ
             悲しきものと 思ひ知りぬれ
                      (古今集 読人しらず)

吉備津神社が大好き。いや、日本が大好き。

2007-11-03 18:23:27 | Weblog
 10日ほど、友人に誘われて、中部ヨーロッパの旅としゃれ込んでみました。ベルリン、ドレスデン、ウイーン、プラハ、ブタベスト等の街の散策です、何処を見ても、100mを越すような荘厳な宮殿と寺院などの石造り建物とカラフルな寄棟風の家並と広い広い畑とが続いています。その大きさや広さに圧倒されどうしでした。
 それらは、それなりの文化的な価値があることは確かですが、私の目には、特別に優れているものではない、そこに根付いた其処の地域に育った文化独特のものとして映りました。私達の周りにあるごく普通の日本にある文化と大した差はないのではないかと言う感がしました。
 その土地の人が永い間かけて創り上げてきた高い文化に変わりはありません。石の重みと木の軽さの差でしかないように思われました。
 ヨーロッパの人を圧迫してしまいそうな文化と東洋の人を抱擁し包み込んでしまうような文化との違いが感じられました。
 帰国して、一番に吉備津神社におまいりしました。やはり同じ寺院であっても、日本のお宮さんお寺さんを見ると、安心してすがりつけるような安心した思いが胸を付いてきます。
 日本人であってよかったと、そんな思いに駆られています。吉備津神社って、本当にいいもんだなとつくづく感じました。