3月2日「立憲デモクラシーの会」に属する憲法学者たちが、高市総務大臣が「停波」の可能性に言及したことを「憲法違反」と断ずる見解を発表した。
いわく――「放送事業者のよって立つべき憲法自体が攻撃されているとき、放送事業者に対しても、憲法の敵と味方を単純・機械的に対等に扱うよう法的に強制すること、憲法の基本原理への攻撃をも、それを擁護する主張と対等・公平に扱うよう強制すべきだとの主張は、憲法の基本原理自体と齟齬を来す」。
実にもっともである。“公平性”とは、普遍的価値を攻撃するような言説――たとえば人種差別や宗教差別を正当化するような言説も公平に扱われるべきだということを意味してはいないだろう。同様に、立憲主義や民主主義という国家の基盤を破壊するような言説は、公平中立の枠を超えて、批判されてしかるべきである。
また、この学者らの声明に先立って、3月1日には、田原総一朗、岸井成格、鳥越俊太郎といった名だたるキャスターたちが「私たちは怒っている」とする声明を出してもいる。
こちらは、「そもそも公共放送にあずかる放送局の電波は、国民のものであって、所管する官庁のものではない」と、高市氏の認識を痛烈に批判している。これも、まさにそのとおりである。“テレビの公平性”を云々する人たちは電波の希少性をしばしばその根拠として持ち出すが、電波が希少性の高い公共財であることを認めるとしても、その公共財は「公共」、すなわち国民の財産なのであって、総務省という役所の所有物ではない。
高市発言に関しては、さらに上述の動きとは別に、民放労連が公開質問状を送るなどして抗議してもいる。高市氏のずさんな認識は、このように徹底的に批判されているのだ。
これだけの批判を受けてもなお安倍政権のほうが正しいと言い張る人たちには、私もあれこれいうつもりはない。
だが、合理的な思考能力をもっている人には、声を大にして呼びかけたい。いまこの国は、異常な状況にあるということを。
安倍政権・自民党がメディアに対して露骨に抑圧的な態度を示したのは、なにもこの高市発言にはじまったことではない。
たとえば去年、テレ朝とNHKの幹部を自民党に呼び出したということがあったし、海外特派員協会が声明を出したりということもあった。これらの件についてはまたいずれ当ブログでまとめ的な記事を書こうと思っているが、そのなかでも何より思い出しておかなければならないのは、「マスコミを懲らしめる」という発言が飛び出したあの文化芸術懇話会である。あの勉強会では、「経団連に働きかけて広告収入をとめよう」などという話が出て、なかには、すでに地方で実際にそういうことをしたという発言さえ出てきた。ああいう人たちの所属する政党の大臣が停波をちらつかせているということの恐怖をわれわれは感じ取らなければならないのだ。
目をそらそうとしたり、「大したことじゃない」と自分に言い聞かせたりするのはやめよう。この危機を直視し、選挙で投票するというほんのわずかな行動を実行に移しさえすれば、まだ状況は変えられるのだ。野党共闘にむけた動きはかなり具体化してきていて、全国にそれを支援する市民団体が次々に立ち上がり、今夏の参院選で安倍政権の暴走をストップさせられる見込みはじゅうぶんに立ってきている。実際のところ、ほんの一、二ヶ月前にはかなり絶望的な状況でもあったのだが、ここへきて急速に情勢は好転してきた。「どうせ選挙にいったって意味がない」などとあきらめる必要はないのだ。
いまならまだ、「選挙の日に投票所に行く」という何の危険も伴わない方法で状況を変えることができる。だが、安倍政権がこのまま継続していけば、それすら危うくなる可能性はじゅうぶんにある。政府に都合の悪いような報道は規制し、ことによっては、緊急事態条項なるものをていよく利用して選挙だって制限してしまうかもしれない。そうなってしまってからでは、もう手遅れだ。声をあげることも、選挙で意思表示することもできなくなってしまう。
この国はいま、そんなふうになってしまうかどうかの分岐点に立っている。現状が異常事態だということを認識して、有権者が適切な行動をとってくれることを切に望む。
いわく――「放送事業者のよって立つべき憲法自体が攻撃されているとき、放送事業者に対しても、憲法の敵と味方を単純・機械的に対等に扱うよう法的に強制すること、憲法の基本原理への攻撃をも、それを擁護する主張と対等・公平に扱うよう強制すべきだとの主張は、憲法の基本原理自体と齟齬を来す」。
実にもっともである。“公平性”とは、普遍的価値を攻撃するような言説――たとえば人種差別や宗教差別を正当化するような言説も公平に扱われるべきだということを意味してはいないだろう。同様に、立憲主義や民主主義という国家の基盤を破壊するような言説は、公平中立の枠を超えて、批判されてしかるべきである。
また、この学者らの声明に先立って、3月1日には、田原総一朗、岸井成格、鳥越俊太郎といった名だたるキャスターたちが「私たちは怒っている」とする声明を出してもいる。
こちらは、「そもそも公共放送にあずかる放送局の電波は、国民のものであって、所管する官庁のものではない」と、高市氏の認識を痛烈に批判している。これも、まさにそのとおりである。“テレビの公平性”を云々する人たちは電波の希少性をしばしばその根拠として持ち出すが、電波が希少性の高い公共財であることを認めるとしても、その公共財は「公共」、すなわち国民の財産なのであって、総務省という役所の所有物ではない。
高市発言に関しては、さらに上述の動きとは別に、民放労連が公開質問状を送るなどして抗議してもいる。高市氏のずさんな認識は、このように徹底的に批判されているのだ。
これだけの批判を受けてもなお安倍政権のほうが正しいと言い張る人たちには、私もあれこれいうつもりはない。
だが、合理的な思考能力をもっている人には、声を大にして呼びかけたい。いまこの国は、異常な状況にあるということを。
安倍政権・自民党がメディアに対して露骨に抑圧的な態度を示したのは、なにもこの高市発言にはじまったことではない。
たとえば去年、テレ朝とNHKの幹部を自民党に呼び出したということがあったし、海外特派員協会が声明を出したりということもあった。これらの件についてはまたいずれ当ブログでまとめ的な記事を書こうと思っているが、そのなかでも何より思い出しておかなければならないのは、「マスコミを懲らしめる」という発言が飛び出したあの文化芸術懇話会である。あの勉強会では、「経団連に働きかけて広告収入をとめよう」などという話が出て、なかには、すでに地方で実際にそういうことをしたという発言さえ出てきた。ああいう人たちの所属する政党の大臣が停波をちらつかせているということの恐怖をわれわれは感じ取らなければならないのだ。
目をそらそうとしたり、「大したことじゃない」と自分に言い聞かせたりするのはやめよう。この危機を直視し、選挙で投票するというほんのわずかな行動を実行に移しさえすれば、まだ状況は変えられるのだ。野党共闘にむけた動きはかなり具体化してきていて、全国にそれを支援する市民団体が次々に立ち上がり、今夏の参院選で安倍政権の暴走をストップさせられる見込みはじゅうぶんに立ってきている。実際のところ、ほんの一、二ヶ月前にはかなり絶望的な状況でもあったのだが、ここへきて急速に情勢は好転してきた。「どうせ選挙にいったって意味がない」などとあきらめる必要はないのだ。
いまならまだ、「選挙の日に投票所に行く」という何の危険も伴わない方法で状況を変えることができる。だが、安倍政権がこのまま継続していけば、それすら危うくなる可能性はじゅうぶんにある。政府に都合の悪いような報道は規制し、ことによっては、緊急事態条項なるものをていよく利用して選挙だって制限してしまうかもしれない。そうなってしまってからでは、もう手遅れだ。声をあげることも、選挙で意思表示することもできなくなってしまう。
この国はいま、そんなふうになってしまうかどうかの分岐点に立っている。現状が異常事態だということを認識して、有権者が適切な行動をとってくれることを切に望む。