今日は、70年目の長崎原爆忌である。
恒例の平和宣言において、田上富久・長崎市長は、“核の傘”に頼るのではなく“非核の傘”を構築することの重要性を訴え、さらに、国会で進められている安保法制についても懸念を示した。
当然といえば当然と思えることだが、この平和宣言で安保法制に言及するかどうかということについては、どうやらそうスムーズにことが運んだわけでもないらしい。先日TBSの『NEWS23』が報じていたところによると、市民からなる起草委員会のメンバーが三人入れ替えられたという。その三人は、安保法制に批判的なメンバーだったというのだ。
田上市長は「他意はない」というが、そういわれてもやはり「こんなところにまで安倍政権の圧力は及んでいるのか」とこちらとしては受け取ってしまうのである。安倍政権や総理に近い自民党議員らのこれまでの言動からすれば、そう疑われても仕方がないだろう。そう勘繰られるような姿勢を、彼らは日ごろからとってきたのだ。
本当に圧力があったかどうかは確かめる術もないが、仮に圧力がかけられていたとしても、それは結局のところ無効に終った。長崎の平和宣言では、安保法案の審議に「慎重で真摯な審議を行うこと」を求める文言が入っていた。つまり、いまの国会での議論は慎重でも真摯でもないということを指弾したわけである。冒頭でも書いた通り、この論評は当然のことといえよう。朝日新聞電子版が伝えるところによれば、当初の市の案は安保法制に言及していなかったが、起草委員会からの意見で盛り込まれたということである。
さてここで、8月6日の記事と同様、今回もまた核問題に触れておきたい。
核兵器の運搬がありうるかという問題に関しては、安倍総理から「総理大臣としていっているのだからありえない」「120%ありえない」などという発言も飛び出し、ふたたび世間の怒りと失笑を買った。「総理大臣である自分のいうことはすべて正しい」というあまりのゴーマンぶりとレベルの低さには、あきれてものもいえないというのが正直なところだ。だいたい、この人の答弁内容は、6月の衆院特別委では南シナ海での機雷掃海なども「想定していない」としていたが、その一か月後になって「3要件にあてはまれば対応していく」と答弁するなど、この国会審議中でさえいうことがコロコロ変わっているのだから、その発言を信じろというほうが無理である。
安保云々の議論から一足飛びに、自民党のネオコン議員は核武装を悲願としている。そういう連中は以前からいて、彼らはときどき思い出したように核武装論を口にしてきた。それらは、いわゆる“観測気球”という側面もあると思われる。そういう発言をしてみて、世の中がどういう反応をするかを見ているのだ。あまり反発が起きないようだったら、堂々と核武装論を展開しようというわけである。
そのような構図があるならば、私たちは自民党のいかれた核武装論者がトンデモ発言を繰り返すたびに、抗議の声をあげなければならない。今回の場合、核に対する姿勢について国民から強い非難の声があがり、安倍総理も、広島では言及しなかった「非核三原則」について長崎では言及せざるをえなかった。以前書いた通り自民党内には核武装論者がごろごろいるわけだが、そんな彼らも「非核三原則を堅持せよ」という国民の声で、譲歩したのである。
このことが示しているのは、批判の声を上げ続けることは無意味ではないということだ。
安保法案推進派は、「デモなんかしたって意味がない」などとよくいうが、それは彼らが単にそう思いたい、そういうことにしたい、というだけのことである。彼らは、はっきりと間違っている。世間から強い非難の声があがったからこそ、新国立競技場のプランは撤回されたし、安倍総理は非核三原則に言及しなければならなくなった。国民の声は政治を動かしうるし、現に動かしている。だからこそ、安倍政権のやり方に疑問を感じるという人は、どんなやり方でもいいからそれを表明することが大事だ。
今日の平和宣言で田上市長は次のように述べている。
「私たち一人ひとりの力こそが、戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力です。市民社会の力は、政府を動かし、世界を動かす力なのです。」
一人ひとりの力が世界を動かす――陳腐な言葉のように聞こえるかもしれないが、その言葉がかつてないほの重みと現実味をもって感じられる8月9日である。
恒例の平和宣言において、田上富久・長崎市長は、“核の傘”に頼るのではなく“非核の傘”を構築することの重要性を訴え、さらに、国会で進められている安保法制についても懸念を示した。
当然といえば当然と思えることだが、この平和宣言で安保法制に言及するかどうかということについては、どうやらそうスムーズにことが運んだわけでもないらしい。先日TBSの『NEWS23』が報じていたところによると、市民からなる起草委員会のメンバーが三人入れ替えられたという。その三人は、安保法制に批判的なメンバーだったというのだ。
田上市長は「他意はない」というが、そういわれてもやはり「こんなところにまで安倍政権の圧力は及んでいるのか」とこちらとしては受け取ってしまうのである。安倍政権や総理に近い自民党議員らのこれまでの言動からすれば、そう疑われても仕方がないだろう。そう勘繰られるような姿勢を、彼らは日ごろからとってきたのだ。
本当に圧力があったかどうかは確かめる術もないが、仮に圧力がかけられていたとしても、それは結局のところ無効に終った。長崎の平和宣言では、安保法案の審議に「慎重で真摯な審議を行うこと」を求める文言が入っていた。つまり、いまの国会での議論は慎重でも真摯でもないということを指弾したわけである。冒頭でも書いた通り、この論評は当然のことといえよう。朝日新聞電子版が伝えるところによれば、当初の市の案は安保法制に言及していなかったが、起草委員会からの意見で盛り込まれたということである。
さてここで、8月6日の記事と同様、今回もまた核問題に触れておきたい。
核兵器の運搬がありうるかという問題に関しては、安倍総理から「総理大臣としていっているのだからありえない」「120%ありえない」などという発言も飛び出し、ふたたび世間の怒りと失笑を買った。「総理大臣である自分のいうことはすべて正しい」というあまりのゴーマンぶりとレベルの低さには、あきれてものもいえないというのが正直なところだ。だいたい、この人の答弁内容は、6月の衆院特別委では南シナ海での機雷掃海なども「想定していない」としていたが、その一か月後になって「3要件にあてはまれば対応していく」と答弁するなど、この国会審議中でさえいうことがコロコロ変わっているのだから、その発言を信じろというほうが無理である。
安保云々の議論から一足飛びに、自民党のネオコン議員は核武装を悲願としている。そういう連中は以前からいて、彼らはときどき思い出したように核武装論を口にしてきた。それらは、いわゆる“観測気球”という側面もあると思われる。そういう発言をしてみて、世の中がどういう反応をするかを見ているのだ。あまり反発が起きないようだったら、堂々と核武装論を展開しようというわけである。
そのような構図があるならば、私たちは自民党のいかれた核武装論者がトンデモ発言を繰り返すたびに、抗議の声をあげなければならない。今回の場合、核に対する姿勢について国民から強い非難の声があがり、安倍総理も、広島では言及しなかった「非核三原則」について長崎では言及せざるをえなかった。以前書いた通り自民党内には核武装論者がごろごろいるわけだが、そんな彼らも「非核三原則を堅持せよ」という国民の声で、譲歩したのである。
このことが示しているのは、批判の声を上げ続けることは無意味ではないということだ。
安保法案推進派は、「デモなんかしたって意味がない」などとよくいうが、それは彼らが単にそう思いたい、そういうことにしたい、というだけのことである。彼らは、はっきりと間違っている。世間から強い非難の声があがったからこそ、新国立競技場のプランは撤回されたし、安倍総理は非核三原則に言及しなければならなくなった。国民の声は政治を動かしうるし、現に動かしている。だからこそ、安倍政権のやり方に疑問を感じるという人は、どんなやり方でもいいからそれを表明することが大事だ。
今日の平和宣言で田上市長は次のように述べている。
「私たち一人ひとりの力こそが、戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力です。市民社会の力は、政府を動かし、世界を動かす力なのです。」
一人ひとりの力が世界を動かす――陳腐な言葉のように聞こえるかもしれないが、その言葉がかつてないほの重みと現実味をもって感じられる8月9日である。