少し前の話しになるが、国連で核兵器禁止条約の交渉開始にむけた決議が採択された。
しかし、米ロ英仏の核保有国などがこれに反対し、日本も反対にまわったことが批判されている。核保有国である中国さえ棄権だったなかで、唯一の被爆国である日本が核廃絶にむけた動きに反対する――というこの恥ずべき事態を、当ブログでも強く批判しておきたい。
さて、そうすると、保守派は「これが現実路線だ」というだろう。「日本の安全保障のためには“核の傘”が必要だ」というおなじみの理屈を持ち出して。
そこで今回は、そもそも核抑止力なるものが本当に存在するのか、という根本的な問いを投げかけておきたい。
それはすなわち、「核兵器をもっていれば攻撃されない」といえるのか、という問題である。
アメリカを中心とする核保有国は核抑止力というものを信じて疑っていないようだが、私はどうも「核をもっていれば攻撃されない」などということはないのではないかという気がしてならないのだ。
■核をもっていれば攻撃されない?
たとえば、アメリカは核兵器をもっているが、攻撃されたことはないのだろうか。
答えはノーだろう。
ベトナム戦争の発端とされるトンキン湾事件では、哨戒作戦に従事していたアメリカの艦船に対して北ベトナムが攻撃してきた。アメリカの挑発行動という側面がたぶんにあるにせよ、核抑止力というものがもし本当に存在するのなら北ベトナムは米艦船への攻撃を思いとどまるはずだし、ベトナム戦争もあそこまで拡大することはなかったはずではないのか。
さらに、2001年の同時多発テロはどうなのか。
あれがタリバン政権下のアフガニスタンによる攻撃だとするなら、やはりここでも核抑止力は働かなかったことになる。
さらにアメリカ以外の国のことでいえば、イスラエルは核兵器をもっているが、武装勢力から攻撃を受けている。インドとパキスタンは核兵器をもっているが、それでもときどき武力衝突を起こしている。中国と旧ソ連は、核保有国同士であるが軍事衝突したことがある……このような例をみていれば、「核抑止力」という発想が私にはきわめて疑わしく思えてくるのである。
最初にあげたベトナム戦争の例は、特に重要だと思うのでもう少し詳しく書いておく。
「日本が“核の傘”に守られている」というのは、「日本自体は核保有国ではないが、アメリカという核保有国が後ろ盾についているから核抑止力が機能している」という意味だろう。
しかし、その理屈はベトナム戦争という史実を考えれば成り立たない。
その理屈が正しいのなら、「南ベトナム自体は核保有国ではないが、アメリカという後ろ盾がついているから核抑止力が機能している」、それゆえに、安全が保障される……ということになるはずである。ところが実際には、南ベトナムは北ベトナムとの激しい戦争のすえに敗戦し、事実上北に吸収されて消滅した。
■核が抑止力にならない理由
では、核という強大な力が抑止にならないとしたら、それはなぜか。
一つの理由として考えられるのは、核兵器は基本的に「使えない兵器」であるということだ。
広島・長崎の経験から、核兵器を使用すれば悲惨な事態が生じることは知られている。そこまでの経緯がどうであれ、核を使用した時点で「非人道的な大量破壊兵器を使用した」として歴史に悪名を刻むことになるのは間違いない。だから、実際に核兵器を使うことにはみな二の足を踏む。
その状況が続くと、「核兵器は実際には使えない」という認識が一般的なものになる。朝鮮戦争のような激しい戦争であっても、核兵器は使われなかった。あれだけの戦争でも、核は使えない。ということは、「たとえ核保有国を攻撃しても核で報復してくることはまずありえない」という見通しが立つことになる。ゆえに、核は抑止力として機能しなくなる。
それ以前に、もっと根本的な問題として、そもそも核にかぎらず「抑止力」というもの自体の存在が疑わしいということもある。
当ブログでは、軍事的な力が抑止力として働くという考え方自体に疑念を呈してきた。それは、核に関してもあてはまるのではないだろうか。
世間には、「第二次大戦後は、核兵器が抑止力となっていたために大戦争が起きなかった」というような言説があるようだが、私にはそうは思えない。先述したように、核保有国が攻撃されたり戦争に関与している例はあるのだ。以前書いたことの繰り返しになるが、第二次大戦後の世界で大きな戦争が起きなくなったのは政治的・経済的な理由が大きいと私は考えている。
■核開発は安全保障上のリスクを高める
さらに、核保有は抑止力どころか攻撃を受けるリスクを高める理由にさえなりうる。
すでに核を保有している国はともかく、非核保有国が核兵器を持とうとすれば、それ自体が攻撃されるリスクを呼び込むことにもなるのだ。
たとえば北朝鮮が核開発をするとなれば、周辺国はそれを脅威ととらえる。そこで、「核を開発する前に先制攻撃してしまおう」という発想が出てくることになる。実際、北朝鮮の核開発に対して、アメリカは先制攻撃も一つのオプションとして検討していた。
これは結局断念したが、そのような先制攻撃が実際に行われた例はある。
1981年にイスラエルがイラクに対して行ったいわゆる、“オシラク・オプション”がそれだ。
このとき、イスラエルはイラクのバグダッド近郊にあるオシラク原子炉を攻撃した。イスラエル空軍のF16がイラク領空に侵入し、原子炉に不意打ちの爆撃をくわえたのだ。これは核兵器を保有しようとしたことが実際に攻撃される事態につながった例である。核開発を進めるイランに対してもイスラエルは同じことをやろうと計画しているという話があった。イランは自国の安全保障のためといって核開発を進めていたわけだが、むしろそれにって攻撃を受けるリスクを高めていたのである。
このように、核開発はそれ自体が攻撃されるリスクを高めることになる。保守派のなかには北朝鮮の核開発に対して日本も核開発するべきだという声があるようだが、核開発によるリスクを考えれば、それはまったくの愚行である。
■“核の傘”より“非核の傘”を
このように、核抑止力という考え方は、よくよく考えてみれば非常に疑わしい。
核保有国が後ろ盾についているから安全が保障されるなどということはないし、ではみずから核を保有しようとすればそれ自体が攻撃を受けるリスクを高めることになりかねない。現実に起きた事例を考えれば、実際に核を保有したとしてもそれで攻撃されないという保障はない。
ある地域の国々が合意して非核地帯を作る“非核の傘”という考え方があるが、“核の傘”よりも、この“非核の傘”のほうが、より現実的で確実な安全保障であるように私には思える。唯一の被爆国として、日本はその動きをこそ主導していくべきではないか。
しかし、米ロ英仏の核保有国などがこれに反対し、日本も反対にまわったことが批判されている。核保有国である中国さえ棄権だったなかで、唯一の被爆国である日本が核廃絶にむけた動きに反対する――というこの恥ずべき事態を、当ブログでも強く批判しておきたい。
さて、そうすると、保守派は「これが現実路線だ」というだろう。「日本の安全保障のためには“核の傘”が必要だ」というおなじみの理屈を持ち出して。
そこで今回は、そもそも核抑止力なるものが本当に存在するのか、という根本的な問いを投げかけておきたい。
それはすなわち、「核兵器をもっていれば攻撃されない」といえるのか、という問題である。
アメリカを中心とする核保有国は核抑止力というものを信じて疑っていないようだが、私はどうも「核をもっていれば攻撃されない」などということはないのではないかという気がしてならないのだ。
■核をもっていれば攻撃されない?
たとえば、アメリカは核兵器をもっているが、攻撃されたことはないのだろうか。
答えはノーだろう。
ベトナム戦争の発端とされるトンキン湾事件では、哨戒作戦に従事していたアメリカの艦船に対して北ベトナムが攻撃してきた。アメリカの挑発行動という側面がたぶんにあるにせよ、核抑止力というものがもし本当に存在するのなら北ベトナムは米艦船への攻撃を思いとどまるはずだし、ベトナム戦争もあそこまで拡大することはなかったはずではないのか。
さらに、2001年の同時多発テロはどうなのか。
あれがタリバン政権下のアフガニスタンによる攻撃だとするなら、やはりここでも核抑止力は働かなかったことになる。
さらにアメリカ以外の国のことでいえば、イスラエルは核兵器をもっているが、武装勢力から攻撃を受けている。インドとパキスタンは核兵器をもっているが、それでもときどき武力衝突を起こしている。中国と旧ソ連は、核保有国同士であるが軍事衝突したことがある……このような例をみていれば、「核抑止力」という発想が私にはきわめて疑わしく思えてくるのである。
最初にあげたベトナム戦争の例は、特に重要だと思うのでもう少し詳しく書いておく。
「日本が“核の傘”に守られている」というのは、「日本自体は核保有国ではないが、アメリカという核保有国が後ろ盾についているから核抑止力が機能している」という意味だろう。
しかし、その理屈はベトナム戦争という史実を考えれば成り立たない。
その理屈が正しいのなら、「南ベトナム自体は核保有国ではないが、アメリカという後ろ盾がついているから核抑止力が機能している」、それゆえに、安全が保障される……ということになるはずである。ところが実際には、南ベトナムは北ベトナムとの激しい戦争のすえに敗戦し、事実上北に吸収されて消滅した。
■核が抑止力にならない理由
では、核という強大な力が抑止にならないとしたら、それはなぜか。
一つの理由として考えられるのは、核兵器は基本的に「使えない兵器」であるということだ。
広島・長崎の経験から、核兵器を使用すれば悲惨な事態が生じることは知られている。そこまでの経緯がどうであれ、核を使用した時点で「非人道的な大量破壊兵器を使用した」として歴史に悪名を刻むことになるのは間違いない。だから、実際に核兵器を使うことにはみな二の足を踏む。
その状況が続くと、「核兵器は実際には使えない」という認識が一般的なものになる。朝鮮戦争のような激しい戦争であっても、核兵器は使われなかった。あれだけの戦争でも、核は使えない。ということは、「たとえ核保有国を攻撃しても核で報復してくることはまずありえない」という見通しが立つことになる。ゆえに、核は抑止力として機能しなくなる。
それ以前に、もっと根本的な問題として、そもそも核にかぎらず「抑止力」というもの自体の存在が疑わしいということもある。
当ブログでは、軍事的な力が抑止力として働くという考え方自体に疑念を呈してきた。それは、核に関してもあてはまるのではないだろうか。
世間には、「第二次大戦後は、核兵器が抑止力となっていたために大戦争が起きなかった」というような言説があるようだが、私にはそうは思えない。先述したように、核保有国が攻撃されたり戦争に関与している例はあるのだ。以前書いたことの繰り返しになるが、第二次大戦後の世界で大きな戦争が起きなくなったのは政治的・経済的な理由が大きいと私は考えている。
■核開発は安全保障上のリスクを高める
さらに、核保有は抑止力どころか攻撃を受けるリスクを高める理由にさえなりうる。
すでに核を保有している国はともかく、非核保有国が核兵器を持とうとすれば、それ自体が攻撃されるリスクを呼び込むことにもなるのだ。
たとえば北朝鮮が核開発をするとなれば、周辺国はそれを脅威ととらえる。そこで、「核を開発する前に先制攻撃してしまおう」という発想が出てくることになる。実際、北朝鮮の核開発に対して、アメリカは先制攻撃も一つのオプションとして検討していた。
これは結局断念したが、そのような先制攻撃が実際に行われた例はある。
1981年にイスラエルがイラクに対して行ったいわゆる、“オシラク・オプション”がそれだ。
このとき、イスラエルはイラクのバグダッド近郊にあるオシラク原子炉を攻撃した。イスラエル空軍のF16がイラク領空に侵入し、原子炉に不意打ちの爆撃をくわえたのだ。これは核兵器を保有しようとしたことが実際に攻撃される事態につながった例である。核開発を進めるイランに対してもイスラエルは同じことをやろうと計画しているという話があった。イランは自国の安全保障のためといって核開発を進めていたわけだが、むしろそれにって攻撃を受けるリスクを高めていたのである。
このように、核開発はそれ自体が攻撃されるリスクを高めることになる。保守派のなかには北朝鮮の核開発に対して日本も核開発するべきだという声があるようだが、核開発によるリスクを考えれば、それはまったくの愚行である。
■“核の傘”より“非核の傘”を
このように、核抑止力という考え方は、よくよく考えてみれば非常に疑わしい。
核保有国が後ろ盾についているから安全が保障されるなどということはないし、ではみずから核を保有しようとすればそれ自体が攻撃を受けるリスクを高めることになりかねない。現実に起きた事例を考えれば、実際に核を保有したとしてもそれで攻撃されないという保障はない。
ある地域の国々が合意して非核地帯を作る“非核の傘”という考え方があるが、“核の傘”よりも、この“非核の傘”のほうが、より現実的で確実な安全保障であるように私には思える。唯一の被爆国として、日本はその動きをこそ主導していくべきではないか。
勘違いされていますが、核武装は敵からの核攻撃を抑止するためのものであり、もとより通常戦力での戦争を抑止することを目的としたものではありません