真夜中の2分前

時事評論ブログ
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自民党の月命日

2015-10-19 21:05:39 | 安保法廃止を求める抗議行動
 自民党の告別式から一ヶ月が経った。
 自民党の政治家たちは、自分たちがもう死んでしまったことにも気づかずに、相変わらず国民の声を無視し続けている。辺野古の工事は、埋め立て承認を取り消されても法廷で争っている間に作ってしまうといい、かつては断固反対といっていたTPPにも大筋合意。下着盗んだっていいじゃない、自民党議員だもの--とでもいいたげな様子である。

 いっぽう、安保法案反対運動を行っていた各種団体は、次のステージにむけて再スタートを切り始めている。
 福岡では、参院での強行採決から一ヶ月となるこの節目の日に、天神や小倉での学生団体によるスタンディングアピールが行われている。また、今日の昼ごろには「9条の会」などが大橋でスタンディングアピールを行っているとのこと。
 天神では、採決以前から行われていた「戦争に反対する女たち」による火曜日、「戦争法を廃止する会」による木曜日のスタンディングも依然として継続中であり、18日には「廃止する会」によるデモも行われたようだ。また10月の21日には「戦争への道を許さない福岡県フォーラム」による集会があり、25日には、FYM、「ママの会」など複数の団体が集結しての集会もある――など、行動予定は目白押しとなっている(もちろん、ここに書いた以外の行動もある)。

 そして、当然ながら、こうした動きは福岡だけのものではない。
 お隣の佐賀県では、10月の11日に若者の新たな団体が結成された。安保法の成立で反対運動が終息するどころか、むしろ新しい団体が生まれているのである。これで、私の知る限り、九州では大分をのぞくすべての県に若者の政治団体が作られたことになる(私が知らないだけで、もしかしたら大分にもあるのかもしれない。そうだったら、ごめんなさい)。

 一方、既存の若者団体も、もちろん活動を止めてはいない。
 長崎のN-DOVEは、12日に、国会閉会後初となる集会を開いている。宮崎のSULもまた、16日に、やはり国会閉会後初となるミーティングを行い、仕切りなおしで動き始めたようだ。そして、同じ16日に、熊本では「若者憲法カフェ」という取り組みが行われた。これは、熊本で活動する団体WDWのメンバーが企画した勉強会で、弁護士を講師に招いて、憲法について学習するというものである。WDWは、ほかの団体とも合同で今月末に「ハロウィーンデモ」を予定しているという。
 地元の九州の動きをさらってみるだけでも、これだけ各地でさまざまな行動が行われている。全国規模で考えれば、さらに多くの動きがあることだろう。18日に渋谷で行われた街宣、さらに19日の国会前行動はとりわけ大きなものだが、地方も決して負けてはいないのだ。
 たしかに、参加人数だけをみれば、全体的にみるとデモの規模は縮小しているかもしれない。だが、これは必ずしも反対行動自体の沈静化を意味しているものではないだろう。むしろ、「若者憲法カフェ」といった取り組みからも見てとれるように、これまでの「路上の意思表示」から、理論闘争に移行していっているということではないか。
 ともかくも、この一連の流れは、あきらかにかつての安保闘争とはちがう。通ってしまえばそれで終わりという“逃げ得”を許さない――そういう強い意志が感じられる。これを粘り強く続けていけば、自公政権を来夏の参院選で過半数割れに追い込むことは決して不可能ではない。安倍政権の暴走を止めるために、この動きを確実に継続していこう。

国民連合政府構想を支持する!

2015-10-18 18:28:43 | 政治・経済
 共産党の提唱する国民連合政府構想にむけた動きが続いている。
 もちろん、その道は平坦ではない。ひとまず社民党・生活の党は前向きな姿勢を示したものの、煮え切らない態度の民主や、内紛に揺れる維新など先の見通せない要素も多い。だが、言いだしっぺの共産党は、相当に本気である。
 連合政府成立の暁には、日米安保破棄の主張を一時的に凍結するといっているし、参院の一人区で候補擁立を見送り、さらには閣外協力でもかまわないと、これ以上ないぐらいに譲歩している。

 これに対して、菅官房長官は「選挙目当て」と批判しているのだが、私にはまったくその批判が理解できない。
 いったい、国民の声にこたえるために行動することがなぜ批判されなければならないのか。
 国民のなかに、安保法制に反対し、廃止してほしいと望んでいる人が相当数いる。ならば、それにこたえるために、一時的に自党の主張を取り下げるというのは、代議制民主主義に則った行動ではないのか。それとも、国民が何をいおうと一切耳を貸さず、自党の主張をごり押しするのが民主主義だとでもいうのだろうか?
 まるで、国民の声を無視する自分たちの側こそが正義だとでもいわんばかりの菅長官の態度は、まさ“に不自由非民主党”の名にふさわしい。このように「自由」も「民主」もはき違えた愚かな政治家たちによる政府が一刻も早く打倒されることを切に願うばかりである。

 さて、国民連合政府実現にむけてのカギは、もちろん民主党だ。
 民主党内部には、共産党と協力することに強い抵抗感を持つ議員も少なくないということだが、彼らもいい加減、自分たちがどれだけ国民から愛想を尽かされているかということに目を覚ますべきだろう。民主中心で今後の選挙で勝利し政権交代を果たすなどというのは幻想である。本気で自公政権を打倒したければ、オール野党での共闘以外に道はない。事態は、きわめて危機的なのである。民主党議員たちは、異常な事態が起きているということにもっと危機感を持ってことに対処すべきだ。

安倍政権、悪行の軌跡:辺野古新基地建設

2015-10-16 21:05:12 | 安倍政権、悪行の軌跡
 当ブログでは、安倍政権の過去のさまざまな横暴の記憶を風化させないようにということで、ときどきそれらをまとめ的に特集している。
 その一環として、今回は、沖縄の辺野古新基地建設問題をとりあげたい。
 普天間基地移設をめぐる問題は政府と沖縄側の激しい対立が続いているが、先日、沖縄の翁長知事は、とうとう埋め立て承認取り消しに踏み切った。政府の側もこれに対して不服を申し立て、沖縄側は法廷で争うとみられている。いよいよ基地問題は法廷闘争にまでもつれこむ勢いである。

 この辺野古新基地をめぐって、沖縄ではいまも熾烈な反対運動が起きている。
 運動は、座り込みや、カヌーで海上に漕ぎ出しての阻止行動など多岐にわたるが、それに対して、先月、沖縄の基地移設反対運動のテントが襲撃されるという事件もあった。20人ほどの集団が、「米軍がいなくなったら中国が攻めてくるぞ」などといいながら襲撃してきたという。この件は、事態をよくあらわしていると思う。本当に危険なのは、外にいる敵ではなく、こちら側にいる好戦的な人間だ。
 前回の記事で書いたが、かつての南ベトナムは、駐留している米軍が勝手に戦争を起こし、その戦争に敗れて国が消滅してしまった。
 歴史を見てみれば、中国が攻めてくるとかいうことよりも、むしろ、心配するべきなのはそういうことなのだ。「中国が攻めてくるぞ」などといいながら自分の国の同胞を襲撃するような者たちがいることこそが問題なのである。

 この基地問題に関しては、米側は本音では県外でもかまわないと考えているのに、むしろ日本側が辺野古に固執しているという疑念も根強くささやかれているわけだが、その真偽がどうであれ、政府の側が沖縄県民の声を聞くつもりがないことはあきらかである。それは、政府関係者の発言を聞いていればよくわかる。
 菅官房長官などは、沖縄が何をしようがあくまでも工事を進めるという姿勢を表明しているが、彼らのこのような姿勢は、いまにはじまったことではない。
 たとえば、2013年に、小池百合子元防衛相が「自分たちが戦っているのは、沖縄のメディアだ」という発言をしている。「戦っているのは沖縄のメディア」――これが彼らの認識である。
 沖縄が強く反対しているのは、左翼メディアが沖縄県民を洗脳しているから……そのように言い募ることで、自分たちを正当化しているのだ。こういう姿勢が、あの「文化芸術懇話会」での「マスコミを懲らしめる」発言にもつながっている。

 本土に住んでいる人間も、この基地問題をもっと切実な問題として考えるべきである。
 政府がいま沖縄に対してやってるようなことを許せば、自分の住んでいる町も、いつ同じような目にあうかわからない。このようなことがまかりとおれば、いつか、国が勝手にあたなの町に迷惑施設を建設して、「反対意見はいっさい聞きません」と言い出すかもわからないのだ。そうさせないためには、この辺野古新基地のようなことが既成事実化されるのを許してはならない。

地獄の黙示録--集団的自衛権行使事例を検証する(ベトナム)

2015-10-14 21:37:53 | 集団的自衛権行使事例を検証する
 集団的自衛権の行使例を検証するシリーズの第三弾として、今回は、いよいよベトナム戦争をとりあげる。
 ベトナム戦争は、そのはじまりから終結にいたるまでの経緯の理不尽さ、規模の大きさ、犠牲の多さ、結果の不毛さといった点で、集団的自衛権史上でも屈指の失敗例といえる。

 一応、ベトナム戦争開戦直前までの歴史を大雑把に書くと、次のようになる。
 ――19世紀からフランスの植民地であったベトナムは、第二次大戦中の日本による一時的な占領期間を経て、戦後フランスとの独立戦争に勝利し、フランス勢力を撤退させることに成功する。だが、それですんなり独立とはいかなかった。当時の東西冷戦の時代背景のなかで、米中ソなどの思惑がからみあい、北緯17度線を境界として南北に分断され、ちょうど北朝鮮と韓国のようなかたちになった。朝鮮半島と同様、北は社会主義陣営、南は資本主義陣営に属した。
 そして、その南側の「ベトナム共和国」を支援したのが、アメリカである。 
 共産主義がインドシナ半島に浸透するのを防ぐために、アメリカは生粋の反共主義者であるゴ・ディン・ジェムを政権につけた。しかし、この男はとんでもない独裁者で、それで都合が悪くなると、クーデターを支援してカーン政権を誕生させるなど、アメリカは露骨に南ベトナムの内政に干渉した。この政変以後、南ベトナムは1年半ほどの間に8回もクーデターが繰り返されるという混乱状態に陥る。このような状況の中でおきたのが、ベトナム戦争である。


 まず、経緯の理不尽さについて。

 戦争そのものの発端は、1964年のいわゆるトンキン湾事件である。
 この事件は、1964年、8月2日、北ベトナムの沿岸をパトロールしていた米海軍の駆逐艦マドックスが、トンキン湾の公海上で北ベトナムの哨戒艇に攻撃されたというものだ。その後8月4日にも攻撃があったとして、ジョンソン大統領は報復攻撃を宣言。翌65年には、北ベトナム側を爆撃する「北爆」にも踏み切り、ベトナム戦争は一気に拡大していく。

 さて、戦争の発端となったトンキン湾事件だが、8月4日の攻撃については、後にねつ造であることがあきらかにされている。
 また、8月2日の交戦についても、「ただパトロールをしていただけのアメリカの駆逐艦が突然奇襲を受けた」というような性質のものではない。
 当時アメリカの支援によって、南ベトナムが北に対して介入する「34A作戦」と呼ばれる作戦が展開されており、マドックスはこれを支援する「デソート」哨戒作戦に従事していた。つまり、北ベトナムにしてみれば、マドックスは自国に対する攻撃を支援している駆逐艦であり、当然攻撃対象となるわけである。つまり、この2件の攻撃は、前者は、米軍の挑発的な行動に対して北ベトナムが反撃してきたものであり、後者はねつ造ということになる。この事件で、米議会では、戦争拡大の全権を大統領に白紙委任する「トンキン湾決議」が採択されることになるわけだが、当時のリンドン・ジョンソン大統領は、議会で嘘をつき、全権委任のようなことをさせたのである。しかも、「慎重に行動する」という約束も守られず、ベトナムへの介入は際限なく拡大していく。
 そして、北爆に関しても、直接には65年の2月に南ベトナムの米軍基地が南ベトナム解放民族戦線(親北ベトナムのゲリラ組織)の攻撃を受けたことを理由としているのだが、実際には前年にすでにホワイトハウスの戦略会議で65年早期の北爆実施大綱が承認されており、報復というのは口実にすぎないといわれている。
 残されている資料からあきらかになっているのは、アメリカは1964年のかなり早い段階から北ベトナムへの進攻という方針を決めていたということだ。しかし、自分の側から攻撃をするのははばかられる。そこで「攻撃を受けた」と言いがかりをつけて、議会をだまして大統領に対する白紙委任をとりつけ、軍事介入の道をひた走った。

 このように、アメリカが嘘や捏造で戦争に突き進んでいったというのがベトナム戦争である。
 これは集団的自衛権の行使事例の一つであるわけだが、こうした経緯をみていれば、「集団的自衛権によって平和と安全が守られる」などとはいえないことがよくわかる。むしろ、米軍と密接な関係にあるおかげで、南ベトナムは集団的自衛権の行使によって戦争に巻き込まれたのである。

 このようなアメリカの身勝手さは、ベトナム戦争のさまざまな段階で見られる。
 たとえば、トンキン湾事件から4年後の1968年。この年、北ベトナムと解放戦線は、南のサイゴン政府に対して大攻勢をかける。いわゆる「テト攻勢」である。これによって、一時はサイゴンのアメリカ大使館までが占拠されるという事態に陥り、このあたりからベトナム戦争は潮目が変わってくる。サイゴンでの戦闘がテレビ中継され、アメリカでは戦争反対の声が拡大していき、さらに、この年に起きた“ソンミ村の虐殺”も、それに拍車をかける。
 この状況に、アメリカは「ベトナム化」という方針を打ち出した。
 ベトナム化とは、「ベトナムのことはベトナムにまかせる」という意味で、つまりアメリカは前面には出て行かず、南北ベトナム間で決着をつけさせようということである。
 自分で戦争を引き起こしておいて今さらなにをいっているんだ、という話なのだが、これがアメリカという国の思考回路なのだ。あれこれ手出し口出ししておいて、都合が悪いとなるとさっと手を引いて、あとは自分たちでやってくれ、という。こうした歴史を教訓とすれば、アメリカとの同盟によって日本が守られるなどという保障はどこにもないのである。

 そして、アメリカの身勝手はこれにとどまらず、ベトナム戦争の最終盤においても発揮される。
 1970年代になると、アメリカはさらに一歩引いたところまで後退し、1973年にパリ和平協定に調印し、ベトナムから軍を撤退させる(※)。ただし、この和平協定は形ばかりのもので、実際にはアメリカはその後も南ベトナムを支援し続けるつもりでいて、そのために大量の軍需物資を提供していた。その結果、戦争終結までの二年間は、南の軍事力は北をはるかに圧倒していた。
 しかし、にもかかわらず、南ベトナムは敗北する。
 原因はいろいろあるだろうが、その一つに、アメリカ側が支援を大幅に削減したことがある。
 1970年代前半には、いわゆるオイルショックとニクソンショックという二つの大きな国際的事件があり、そのいずれもが、ベトナムに対する援助の削減という方向に働いた。また、時を同じくして、ウォーターゲート事件で1974年にニクソン大統領が辞任に追い込まれる。南ベトナム支援に積極的だったニクソンの辞任は、アメリカのベトナム政策に少なからぬ影響を与え、1974年には、南ベトナムへの支援は大幅に削減されていく。「これ以上南ベトナムを援助しても無駄になるだけ」という判断もあって、議会もペンタゴンも、事実上サイゴンを“見捨てる”決定を下していった。アメリカの支援なしには持続不可能な状況に陥っていた南ベトナムは、これによって急速に崩壊にむかっていく。
 
 この顛末は南ベトナムの側からすれば開いた口がふさがらないだろう。自分の都合で勝手に戦争をはじめておいて、南ベトナムをそこに巻き込み、勝てそうにもないとみると、援助を打ち切ってしまうのだから。
 これは、以前どこかの政治家が挙げていたたとえ話になぞらえていえば、友人のアソウくんが他校のグループに勝手に喧嘩を売って自分も一緒に喧嘩する羽目になり、その喧嘩が不利になると、言いだしっぺのアソウくんだけが勝手に逃げ出してしまった……というようなものである。取り残されたアベくんは、他校グループに袋叩きにされるしかない。
 そしてそれが、南ベトナムを実際に見舞った運命だった。
 アメリカの後ろ盾をほとんど失った南ベトナムは、物理的戦力のうえではいまだ圧倒的に有利であるにもかかわらず、敗戦に敗戦を重ね、1975年に無条件降伏。10年余にわたった戦争は終結し、北によってベトナムは統一された。
 結果としては、アメリカは、自分の起こした戦争で存亡の危機に立たされた南ベトナムを見捨てて支援を打ち切り、見殺しにしてしまった。繰り返すが、自分で戦争を起こしておいて、である。


 二点目に、ベトナム戦争の規模の大きさについて。
 この戦争は、南北ベトナムだけでなく、カンボジアやラオスといった周辺諸国にも飛び火した。サイゴン軍と米軍が相手にしていたのはゲリラで、ゲリラたちは国境などおかまいなしにインドシナの密林のなかを縦横無尽に移動する。そのため、周辺諸国にも影響を及ぼさずにはいなかったのである。また、ラオスのパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)はベトナム戦争開始以前からアメリカにとって脅威となっていたし、カンボジアは表向き中立だったものの、実際には北ベトナムや解放戦線を支援し、物資や基地を提供していた(そのためアメリカは、1970年に親米派のロン・ノル将軍にクーデターを起こさせ、カンボジアに親米政権をつくった)。
 そして、そういう状況があったから、密林をなくすために、あの悪名高き“枯葉剤”が使用された。“オレンジの代理人”とも呼ばれたこの薬剤に含まれるダイオキシンが新生児の異常を引き起こす(アメリカ側は因果関係を認めていないが)など、戦争が終ったあとにも長期にわたって傷跡を残すことになる。
 また、ベトナム戦争には、ほかにも複数の国が関与している。北ベトナムは共産主義陣営の中国やソ連が支援していたし、南側はアメリカが支援し、オーストラリアやニュージーランド、韓国など、複数の国が資本主義陣営として参戦した。これらもまた集団的自衛権の行使事例とされるが、集団的自衛権を行使したことによって、これだけ大規模な戦争になってしまったわけだ。ベトナム戦争は、集団的自衛権がむしろ紛争を拡大させ、泥沼化させるという実例でもある。


 犠牲の多さについて。
 ベトナム戦争の死者がどれぐらいなのかというのははっきりしないが、百数十万人とも、二百万人を超えるともいわれている。ほかの事例との比較は難しいが、第二次大戦後の紛争のなかでもかなりの犠牲者数であることは間違いない。


 結果の不毛さについては、いうまでもあるまい。
 多大な戦費を費やし、多くの犠牲を払いながら、結局アメリカは南ベトナムを守ることはできなかった。「自国に都合のいい独裁体制を維持する」という目的自体どうかと思うが、百歩譲ってそれを正当なもの、あるいは冷戦下でやむをえないものと認めるとしても、その目的も果たせていないのである。結局ベトナムは「社会主義共和国」として統一され、「共産主義の浸透を防ぐ」ことはできなかった。
 しかも、ベトナム戦争の不毛さは、単に目的を果たせなかったというだけではない。そのうえ、膨大な戦費を費やしたことで自国の衰退をも招いている。まったく馬鹿げた所業というほかないではないか。


 これが、集団的自衛権によって引き起こされた歴史的事実である。
 「集団的自衛権によって平和が守られる」という主張が幻想だと私が主張するのも、おわかりいただけるだろう。
 そして、アメリカという国がそんなに頼りになるものではないということもこれでわかる。米軍の存在は、戦争に対する抑止にならなかったし、実際に戦争が起きたときにそれに勝つ助けにもならなかった。それどころか、アメリカは、むしろ戦争を引き起こす引き金を引き、そうしておいて、戦争に勝てそうにないとなると“同盟国”を見捨ててしまったのである。
 「米軍が駐留していることによって日本の安全が守られる」と主張する人たちは、この事実を直視すべきである。米軍が駐留しているということは、ある意味ではそれ自体が戦争を引き起こすリスクを抱えることであり、また実際に戦争になったときにアメリカが日本を守ってくれる保証などないのだ。日米安保条約に基づく行動も、究極的には議会の承認が必要であり、議会が“ノー”といえば米軍は手を引かざるをえなくなる。そして、たとえ軍事的事情がどうあれ、政治的、経済的に困難な状況があれば、議会は“ノー”という。それが、ベトナムの教訓である。
 ベトナム戦争は、複数の国に多大の犠牲を出したうえに、集団的自衛権の行使によって守られるはずの南ベトナムは消滅してしまい、行使した側のアメリカも、多くの兵士の命が失われただけでなく、経済的・政治的・心理的に大きなダメージを受けた。あえて誰が得をしたかといえば、集団的自衛権行使によって攻撃を受けた北ベトナムなのである。ばかげているとしかいいようがない。
 前回までに挙げた東欧や中東での集団的自衛権行使事例も失敗に終ったものばかりだったが、ベトナム戦争はそれらをはるかに凌駕する、あまりにも無惨な失敗である。そして、先にいってしまえば、これ以後の事例もたいていこんなものだ。集団的自衛権は、事態をなんら解決に導くものではなく、泥沼化させ、悪化させるだけでしかない。前時代的な植民地主義と覇権主義の残滓であり、平和も安全ももたらさない、百害あって一利なしの代物なのである。



※…ちなみに、この和平交渉の担当者として、アメリカ側のキッシンジャーと北ベトナム側のレ・ドク・トは、1973年のノーベル平和賞に選ばれているが、このうちレ・ドク・トのほうは賞を辞退している。戦争をはじめたのはアメリカであり、そのアメリカ側の関係者とともに平和賞を受賞することはできない、という理由からである。

Get Up Stand Up

2015-10-11 21:52:05 | 音楽と社会
 前回ボブ・マーリィのことを書いた。
 うっかり失念していてそこに書きそびれたこともあったので、ついでに、今回はもう少しこのレゲエ・レジェンドについて書こうと思う。

 まず――突然だが、関西にSADLという団体がある。
 関西で設立された政治運動団体としてSEALDsKANSAIと並んでよく知られる存在だが、このSADLという団体名の最初の「SA」というのは、ボブ・マーリィの Small Axe という曲からとられているという。
 このタイトルは、直訳すると「小さな斧」。


  お前が大木だとするなら、俺たちは小さな斧
  お前を打ち倒す準備はできている


 と、ボブ・マーリィは歌う。
 小さな斧でも、それがたくさん集まれば、巨大な木を切り倒すことができる。そんなふうに、一人ひとりの力は小さくとも、それが結集すれば社会を変革する大きな力となる――そういう意味がこの歌にはこめられている。そして、そのスピリットに基づいてSADLは行動しているのだ。

 そして、ここでもう一曲。
 ボブ・マーリィと社会運動について考えるなら、絶対にはずせない曲が Get up Stand up だ。この歌で彼は、きわめてストレートに“目を覚ませ、立ち上がれ”と呼びかける。


  目を覚ませ 立ち上がれ
  お前の権利に目覚めるんだ
  目を覚ませ 立ち上がれ
  権利のために立ち上がれ
  目を覚ませ 立ち上がれ
  あきらめずに闘い続けるんだ


 もう一つ、シャープな曲として、Ambush in the Night などという曲もある。
 このタイトルは、直訳すれば「闇夜で待ち伏せ」といったところか。
 この歌の歌詞は、はじめはこう歌われる。

  やつらはいう 
  俺たちの知っていることは やつらの教え込んだこと
  俺たちは無知で
  いつでも自分たちの政治戦略を植えつけられると


 このように政府の国民に対するプロパガンダ戦略を痛烈に批判するのだが、それが、2ヴァース目では次のようになる。

  俺たちの知っていることは やつらの教え込んだことじゃない
  俺たちはばかじゃない
  やつらも 権力で俺たちに干渉することはできない

 
 まさに、プロパガンダ戦略をこれでもかと繰り出してくる安倍政権に対するときの心がまえを説いているような歌ではないか。「安保法制は平和のため」とか「日本の経済のために原発再稼働が必要」などというまことしやかな嘘を信じ込まされるほど、日本人は愚かであってはならない。


 さて、ここまではラディカルな曲ばかりを紹介してきたが、もちろんボブ・マーリィとて、いつもこうして政治闘争を呼びかけるような歌ばかりを歌っているわけではない。
 ふつうのラブソングだって歌うし、ときにはきわめて楽観的なところも見せる。たとえば、No Woman No Cry では、こんなふうに歌う。


  これまで歩んできた道で
  多くの仲間を得て 多くの仲間を失くした
  この輝かしい未来のなかでも
  過去を忘れることはできやしない
  だから 涙をふいて

  女よ 泣くな
  女よ 泣くな
  かわいい子 涙を流さないで
  女よ 泣くな

  おぼえているよ
  トレンチタウンの広場に座って ジョージーが火を焚いた
  焚き木は夜通し燃え続け 僕らはコーンミールの粥を作った
  これからもそれを分かち合っていこう

  僕を運んでくれるのは 僕の足だけ
  だから 僕は進み続けりゃならないんだ
  力尽き果てたときにも

  きっと何もかもうまくいくさ
  きっと何もかもうまくいくさ……


 この歌の作者としてV.Ford という人物の名がクレジットされているが、それについては、次のような逸話がある。
 ――このフォードという人物はボブ・マーリィの友人で、貧民街で炊き出しのような事業をしていた(歌の中に出てくる、「コーンミールの粥」というのはそのことを歌っていると思われる)。No Woman No cry を実際に作ったのはもちろんボブ・マーリィ本人だが、彼は、レコードの収益の一部がフォードにまわって救済事業の援助になるようにと考え、友人の名前をクレジットした……
 この話が本当かどうかはわからないが、権力者に都合のいい来世救済ではなくて、あくまでもいま生きている民衆の生きていく権利を重視したボブ・マーリィらしい話とはいえるだろう。

 いまの日本は、ボブ・マーリィの政治的なメッセージが必要とされる状況になっている。
 重要なのは、自分はただの「小さな斧」にすぎない、とあきらめてしまわないことだ。現状を追認するのではなく、炊き出しのような、自分にできる小さなことからはじめる。そうすれば、やがて「小さな斧」が束になって、巨大な木をも打ち倒すことができる。あきらめてしまえば、そこですべてが終わり、いっさいが闇に飲み込まれる。 「目を覚ませ 立ち上がれ」というボブ・マーリィのメッセージに、今こそ耳を傾けよう。