真夜中の2分前

時事評論ブログ
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One Love/People Get Ready

2015-10-09 21:03:26 | 音楽と社会
 最近、当ブログでは「集団的自衛権行使事例を検証する」というシリーズをやっているが、ずっとそればかりをやっているのもあれなので、時おり時事ネタも扱っていきたい。というわけで、今回は(少し前の話になるが)安倍首相のジャマイカ訪問について書く。

 先日ジャマイカを訪問した安倍総理は、ボブ・マーリィ博物館を訪れたという。
 伝えられるところによれば、ボブ・マーリィの代表曲One Love/People Get Ready にあわせて、ジャマイカのシンプソンミラー首相が歌を口ずさみ、我らが安倍総理も曲の調子にあわせながらそれを聴いていたという。
 これは、私にはまったくのブラックジョークとしか思えない。
 件のOne Love/People Get Ready の歌詞は、まさに安倍総理に対するあてつけのような内容なのである。
 その歌詞の一部を抜き出すと、次のような感じだ。


  自分自身を守るためだけに 
  すべての人類を傷つけるような罪人に
  居場所はない

  裁きのときを生き延びる望みが
  薄くなってく連中に 憐れみを

  そのときがくれば やつらに逃れる術はない


 一読しておわかりのとおり、これはまさに、国民の生活を無視して「戦争のできる国」作りに邁進する安倍総理のような人物を指弾する歌なのである。
 もしかして、ジャマイカの首相はそれをわかっていてやった? だとしたら、ファインプレーである。

 ちなみにこの歌は、カーティス・メイフィールド(インプレッションズ)の代表曲である People Get Ready とボブ・マーリィ自身の曲 All in One とをミックスさせて作った曲だが、もとになった People Get Ready は、次のような歌詞である。
 
  みんな準備をするんだ 汽車がくるよ
  荷物はいらない ただ乗り込めばいい
  信じる心さえあれば、ディーゼルのハミングが聞こえるさ
  乗車券はいらない 祈りさえすればいい


 公民権運動時代に発表されたこの曲は、運動に参加する人たちに呼びかける内容とされる。この歌もまた、いま安倍政権に対して抗議行動をしている人たちにこそふさわしいといえるだろう。


 さて、話をボブ・マーリィに戻すと、彼は、社会的なメッセージを歌にしたレゲエミュージシャンというだけでなく、みずから活動し、実際にジャマイカの政治状況を変えた人物でもある。それもあって、今にいたるまで多くの人々にリスペクトされているのだ。
 ウィル・スミス主演の映画『アイ・アム・ア・レジェンド』では、暗殺者に銃撃されてそれでもステージに立ったボブ・マーリィのこんな言葉が紹介されていた。

 「世の中を悪くしようとするやつらは、一日も休まない。寝ていられるか」
 「闇を光で照らすんだ」

 これこそまさに、安倍政権に抵抗している人たちの側の言葉ではないか。
 やっぱり、ジャマイカの首相はそのへんをわかっていたのだろうか。かえすがえすもファインプレーである。
 ボブ・マーリィの話が出たついでなので、最後に彼のもう一つの代表曲である Redemption Song の歌詞を紹介してこの記事を結ぼう。


  精神的な奴隷状態から、自分自身を解き放つんだ
  おれたちの心を自由にできるのは おれたち自身だけ
  原子力なんかおそれるな 
  やつらだって時間をとめることはできない
  いったいいつまで
  預言者たちが命を落とすのを
  おれたちは黙って見過ごし続けるのだろう
  それはもう決められたことだというやつもいる
  おれたちは、その物語を完成させなければならないと

  歌わせてくれないか
  この自由の歌を
  だって 俺にあるのは
  救いの歌だけ 

レバノンの杉――集団的自衛権行使事例を検証する:中東の3事例(レバノン、ヨルダン、イエメン)

2015-10-07 20:21:12 | 集団的自衛権行使事例を検証する

   
  敵は慎重に選ぶことだ 君の存在は彼ら次第なのだから
  彼らを面白く仕立てることだ ある意味では、彼らが君を養ってくれるのだから
  彼らは はじめはそこにいない 
  だが 君の物語が終わったら 君の友人たちよりも長くとどまり続けるだろう

                                 ――U2 ‘Cedars of Lebanon' より


 集団的自衛権行使の事例を検証するシリーズの第二弾として、今回は中東のケースをとりあげる。
 時代は、1950年代。
 この頃、「エジプト革命」で王政を打倒して誕生したナーセル大統領の率いるエジプトを中心に、アラブ民族主義運動が高まりをみせていた。1958年には、エジプトとシリアで「アラブ連合」が結成され、それに触発されるようにして、イラクでもクーデターが発生し、王政が打倒される。
 この動きに対して、イギリスとアメリカは即座に反応し、「集団的自衛権の行使」として、それぞれヨルダンとレバノンに軍を進駐させた。

 なぜ英米は中東に軍を派遣したのか。
 それは、中東で広がる動きが、彼らの権益を損なう可能性があったためだ。
 イギリスの場合は特にそうで、中東地域には旧イギリス植民地が多く、そこで民族自決の動きが広まっていくことは、みずからの権益が大きく損なわれることを意味していた。エジプトなどはその典型で、ナーセルがスエズ運河の国有を宣言したことはイギリスに大きな衝撃を与え、第2次中東戦争(スエズ動乱)にイギリスがフランスとともに介入する要因となった。そういう土地柄なので、イラクでクーデターが起きると、イギリスは、その動きが周辺地域に波及しないよう、イラクの隣国であり、かつて植民地であったヨルダンに軍を派遣したのである。

 アメリカの場合は、中東に植民地を持っていたというわけではないが、中東で主導権を握りたいと考えていた。そこで、1957年にレバノンに軍事・経済援助を行っていた(このことが、キリスト教系住民とイスラム系住民との対立を生じさせ、内戦を引き起こすことになった)。

 すなわち、アメリカにとってレバノン、イギリスにとってヨルダンは、中東にある出張所のような存在だったわけである。
 アラブ連合の成立、そしてイラクでのクーデターなどによって、米英が中東に持っている既得権益、あるいはこれから確立しようとしている権益が脅かされる危険があり、それを守るために集団的自衛権を行使したという構図が浮かび上がってくる。アラブ民族主義のうねりが中東地域に広がり、アラブ諸国が結束して欧米の半植民地状態から逃れることを、英米は快く思わなかった。そこで、それを防ぐために自分たちの“出先機関”となっている国に軍を送り込み、アラブ民族主義の動きが周辺地域に波及するのを阻止しようとしたのだ。

 また、それから少し後の話になるが、’64年にイギリスは当時の南アラビア連邦(現在のイエメン南部)に軍を派遣している。
 これも集団的自衛権の行使例の一つとされるが、この南イエメンもまた旧イギリス植民地だったことを指摘しておかなければならない(北イエメンはオスマン帝国に支配されていて、南とは別に独立し、1990年に統一されるまで別の歴史をたどった)。この南アラビア連邦には、紅海、スエズ運河につながる要衝であるアデンがあり、イギリスにとってここを確保しておくことは重要な意味を持っていた。そこで、「独立」国家とは名ばかりの、事実上の植民地として、この国を“保護”下においておきたかった。そのために、軍事介入したのである。
 しかし、この植民地主義丸出しの行動は国際社会から強い批判を浴び、また、このころのイギリスにはすでに大英帝国時代の面影はなく、目的を果たすことなく撤退を強いられる。そして、’67年に南アラビア連邦は民族解放戦線に打倒され、「イエメン人民共和国」となった。結果としては、イギリスの介入は徒労に終ったことになる。

 このように、1950年代から60年代にいたるまでに中東地域で行使された集団的自衛権は、アラブ諸国が、独立してもなお続く半植民地状態から脱しようとするなかで、旧宗主国であるイギリスが自国の権益を守る、あるいは、アメリカが中東での主導権を確立するために目論んだ軍事的干渉だったことがわかる。
 これは、集団的自衛権のもつ一つの大きな側面だ。
 前回は、《東西冷戦を背景にした陣取り合戦》という構図を指摘したが、それとは別に、《旧植民地の利権を守るための旧宗主国の介入》というのが、もう一つのパターンとして存在したのである。1960年代ぐらいまでは、欧米の大国はまだあちこちに植民地を持っていて、それらが独立してからも一定の影響力をもっていた。そういう時代に作られた代物であるから、「集団的自衛権」には植民地主義的性格も色濃くそなわっているのだ。
 先の「安倍談話」において、安倍総理は「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」と、日本が植民地状態にあった諸国に希望を与えことを強調したが、ならば総理は、集団的自衛権が欧米列強の植民地主義的権益を守るために行使されてきたという歴史的経緯をどう考えるのだろうか。

 ところで、こう書いてくると、植民地主義というのはもう昔の話じゃないか、という人がいるかもしれない。いまさらそんな何十年も前のことを問題にしても仕方ないじゃないか、と。
 だが、そういいきってしまうこともできないと私は考える。
 というのも、上述した米英の介入などによってもたらされた中東の混迷は、悲しいことに、現在にいたるまで尾を引いているのだ。
 本稿で名前が出てきた中東4カ国のうち、ヨルダンをのぞく三カ国は、現在きわめて不安定な状態になっている。
 レバノンは、アメリカの援助を受け入れた1950年代から今にいたるまで、果てることのない混迷が続いていて、時にはほとんど無政府状態一歩手前にまでいたったこともある。また、この国がかつてはパレスティナゲリラの拠点となっており、現在ではシーア派系武装組織ヒズボラの拠点となっていて、イスラエルによる侵攻をたびたび受けてきたことは周知のとおりである。
 イエメンは、当ブログで一度紹介したが、テロ組織AQAPの拠点として米軍による無人機攻撃が長いあいだ行われていたが、今年になってクーデターが発生し、AQAPとはまた別の武装組織“フーシ派”が実権を掌握した。それ以降内戦状態に陥っており、今年の3月から現在までの間に民間人2300人以上が死亡しているという。
 イラクについては、いうまでもあるまい。イラクは英米の集団的自衛権行使によって直接攻撃されたわけではないが、この軍隊派遣は直接にはイラク情勢を念頭においたもので(アメリカは、イラクでのクーデター発生の翌日にレバノンに海兵隊を送り込んでいる)、そういう意味ではこのケースの“当事者”ではある。もう少しいうと、この国もまた旧イギリス植民地であり、広い意味ではイギリス植民地主義の犠牲なのである。

 今回あげたなかで、特に、レバノンとイエメンは、集団的自衛権がいかに無益かという典型的な例である。
 イギリスやアメリカが集団的自衛権を行使して介入したこの両国が、数十年の時を経てなお、おそろしく治安の悪い状況が続き、テロリストの温床となっているのは偶然ではない。中南米のホンジュラスやコロンビアを見てもわかるとおり、大国の出先機関のような状態になっていたからこそ、民主的な統治が行われないために治安が悪化し、事実上の支配者である大国に対する強い反感がテロ組織やゲリラ集団を生み出すのである。
 だからこそレバノンは現在のような状態になっているし、イエメンもまた然りだ。
 アメリカが支援したレバノンは、その後PLOの拠点となり、いまでは過激派組織ヒズボラの拠点となっている。
 イギリスが支援した南イエメンは、その3年後に体制が崩壊し、さらに40年ほど後にはシャルリ・エブド事件にも関与していたテロ組織の拠点となり、アメリカがそこに空爆をくわえているうちに別のテロ組織がクーデターで実権を掌握した……

 米英が集団的自衛権を行使して支援した2つの国が、いまこの有様なのである。
 イギリスは、植民地的利権を守るという目的を果たせなかったし、アメリカは中東で主導権を握ることはできなかった。その目的の是非はさておくとしても、いずれの目的も失敗に終わっているというのは歴史上の明確な事実だ。米英の介入は、当初の目的を果たせず、その後には混乱状態の国家だけが残されたのである。
 このような歴史をみていれば、集団的自衛権なるものが平和も安全ももたらさないということがよくわかる。集団的自衛権がもたらしたのは、短期的な破壊と荒廃、長期的な混乱だけだ。「集団的自衛権によって安全が守られる」などと主張する人たちは、まず、この現実を直視すべきだろう。


 さて、最後に、冒頭の引用について説明しておこう。
 このパッセージは、世界的ロックバンドU2の Cedars of Lebanon という曲の歌詞の一部である。
 タイトルのCedars of Lebanon というのは、直訳すれば「レバノンの杉」。レバノンは大昔から杉の産地として有名で、レバノン国旗にも描かれているこの木は、聖書でも何度か言及されている。それらの記述によれば、レバノン杉はかつて神殿建築などでもよく使われていたようで、U2の歌でも「神の家」といような意味合いを含ませているのではないかと想像する。この歌は、レバノンで戦場を取材している記者の立場で書かれているとされるが、そのジャーナリストの目を通して、「神の家」であるべき場所(狭い意味でいえば、聖書の舞台であるパレスティナの周辺地域。広い意味でいえば、全世界)が戦場となっている現実が淡々と歌われている。
 件のフレーズは、記者の視点からの言葉としても皮肉がきいている(特に「彼らを面白く仕立てることだ ある意味では、彼らが君を養ってくれるのだから」というところ)が、この記事で書いてきたような安全保障の観点からみても、興味深く読めるだろう。
 「敵は慎重に選ぶことだ 君の存在は彼ら次第なのだから」という言葉には、深い含蓄がある。「彼らははじめはそこにはいない」。武力を行使することこそが、はじめは存在していなかった敵を新たに作り出す。そして、「君の物語が終わったら 君の友人たちよりも長くとどまる続けるだろう」。大国は、「正義」や「自由」といった“物語”を喧伝してみずからの勝手な都合で軍事介入する。しかし彼らが、撤退していったあとも、それによって生み出された憎悪はそう簡単には消えない。友好的な体制が消滅してしまった後でさえ、テロリストの暴力というかたちで、数十年にわたって人々を苦しめ続けることになるのだ。

プラハの春――集団的自衛権行使事例を検証する(東欧の2事例:ハンガリー、チェコスロヴァキア)

2015-10-06 00:37:06 | 集団的自衛権行使事例を検証する
 集団的自衛権の過去の行使事例を検証しようというシリーズの第一弾として、今回は、冷戦時代の東欧の二カ国、ハンガリーと旧チェコスロヴァキアの例をとりあげる。


 まずは、ハンガリーについて。
 話は、1956年にさかのぼる。この年、フルシチョフのいわゆる「スターリン批判」によって、東欧諸国にスターリン主義を排しようという動きが広がっていく。
 ポーランドでは、ゴウムカ政権が復活。そして、その隣国の動きに触発されて、ハンガリーでも自由化をもとめる運動が拡大し、デモ隊と治安部隊との衝突にいたる。「ハンガリー動乱」である。この動乱のなかで、前年解任されていた改革派のナジ・イムレが首相に復帰する。
 これに対して、当時のソビエト連邦が介入。二度にわたる武力行使で、自由化運動の参加者たちを弾圧し、ナジ政権を崩壊させた。
 このときにソ連が口実としたのが、“集団的自衛権”だった。
 これがおそらく史上初の集団的自衛権行使例と思われるが、これが“侵略”としか呼びようのないものであることはあきらかだろう。
 冷戦時代には、米ソが世界の各国を自分の陣営に取り込もうと陣取り合戦のようなことをやっていた。そんななかで、東欧諸国が東側陣営から離れていくことを、ソ連はおそれた。そのために、ハンガリーに侵攻したのである。そして、そのための口実として“集団的自衛権”を使った。この軍事介入によって、3,000人が死亡し、20万人が西側に亡命したといわれる。結局自由化運動は実力行使によって打ち砕かれ、ナジは処刑され、ソ連の息のかかったカーダールが政権についた。

 そして、このハンガリー動乱と同じ構図は、同じく旧ソ連による1968年のチェコスロヴァキア侵攻でもみられた。
 68年に旧チェコスロヴァキアで起きた民主化運動――いわゆる“プラハの春”に対して、ソ連はやはり、弾圧で応じた。このときはワルシャワ条約機構(NATOに対抗して共産圏が結成したもの)の5カ国が軍事介入し、共産党の改革派を排除した。
 これもまた、「集団的自衛権の行使」を口実として行われたわけだが、はたして、チェコスロヴァキア一国で共産党の改革派が政権をとったからといって、それがソ連をはじめとする東欧諸国にとって、本当に“危機”といえるのか? これは、相当な拡大解釈といわねばならないだろう。実際、のちのペレストロイカの時代になって、ソ連側もこの介入は過ちだったとしてチェコスロバキア側に謝罪している。そして、このような軍事介入によって維持しようとしていた共産圏が結局半世紀ともたずに崩壊し、ハンガリーでもチェコスロヴァキアでも社会主義体制は消滅し、ソビエト連邦も解体してしまったわけだから、結果から見てもこれらの介入は無意味だったということになる。まったく、馬鹿げた話ではないか。

 この東欧の2事例は、集団的自衛権なるものが、大国が自分の属国とみなす国に対して軍事介入するための口実でしかないことを如実に示すものである。この二つのケースをみて、「ソ連の自衛のためだ」と擁護できる人がどれだけいるだろうか? あきらかにこれは、“ディフェンス”ではなくて“オフェンス”なのだ。
 一般論としていうと、1990年ごろまでは、冷戦という時代を背景にして、資本主義圏の盟主であるアメリカと共産圏の盟主であるソ連が、互いに自陣営内の国で起きた政変を鎮圧するために「集団的自衛権行使」を口実として軍事的に干渉する――というのが一つのパターンとしてあった。その代表がアメリカにとってのベトナム、ソ連にとってのアフガンだが、ハンガリーとチェコの事例は、その東欧における例である。

集団的自衛権行使事例を検証する

2015-10-04 19:24:40 | 集団的自衛権行使事例を検証する
 安保法案採決から、半月が経った。
 反安保運動はシーズン2に突入し、この悪法廃止にむけて世間ではさまざまな活動が続けられているが、その一環として、当ブログでも新しいシリーズを開始したい。
 タイトルは、「集団的自衛権行使事例を検証する」である。
 その目的は、ストレートに、集団的自衛権容認論を徹底的に叩き潰すこと。
 世間には、「集団的自衛権は日本の防衛のために必要」だという意見もいまだ少なくないようだが、これはまったくとんでもない話だ。集団的自衛権が日本の防衛に資するなどというのは、まったくの幻想にすぎない。そのことをはっきりさせるために、これから数回にわたって、集団的自衛権の実際の行使例を検証してみようというシリーズである。
 そもそも、法律というのは、条文にどう書かれているかというだけでは本質はわからない。実際にそれがどのように運用されているかということも見なければならない。法律の運用は、判例の蓄積によって決まってくる部分が相当にあるが、それと同じように、集団的自衛権も、それがどのような理論であるか、条文にどう書かれているか、ということだけでなく、実際にどのように行使されてきたか、その結果がどうだったかを見なければ、その本当の姿はわからない。それをあきらかにするために、過去の行使事例を検証する必要があると私は考える。

 今回は、手始めとして総論的なことを書く。
 
 まず、集団的自衛権がこれまで行使された例は、いくつぐらいあるのか。
 この問いに対して、政府は14の事例を挙げたが、これについてはなかなか一概にいえない部分もあるようだ。“集団的自衛権の行使”として国連に報告された例がそれぐらいということなのだが、国連に報告されなくとも、武力行使した側が「これは集団的自衛権だ」と言い張っていたりする例もある。そういったものも含めれば、数はもう少し多くなるだろう。しかし、このブログでは、国連に報告されたケースを中心に扱っていくことにする。

 そして、それらの行使事例の開始時点はいつか。
 これは、はっきりしている。「集団的自衛権」という概念は、1945年に誕生した。もちろん同盟関係を結んで対立する勢力をけん制することによって抑止力を高めようという発想自体はそれ以前から存在したが、“集団的自衛権”というものが登場するのは国連憲章においてである。そこが起点となる。

 ついでに、集団的自衛権というものがいかにして生まれたかについて。
 先述のとおり、「集団的自衛権」という概念は1945年にできたわけだが、それは、事前の同盟関係・条約などを必要としない点で、従来のバランス・オブ・パワーの概念とはずいぶんと色合いの違うものだった(※1)。この新たな権利によって、事前に「A国が攻撃されたらB国がA国を守るために武力を行使する」などという約束をしていなくても、A国が攻撃されたらB国は武力行使ができるとされたのだ。なぜ、そのような権利が必要だったのか? その答えは簡単で、「大国がいつでもどこでも自分に都合の悪い敵を攻撃できるようにするため」である。
 先日の参議院での審議のなかで「集団的自衛権とは自然権か」と問われて安倍総理がそれに答えられなかったという話があった。“自然権”という概念自体を理解していなかったようだ(基本的人権を軽視する安倍総理ならば、むべなるかなというところである)が、仮に知っていたとしても、やはりまともには答えられなかっただろう。集団的自衛権が自然権でないということを認めれば、彼の頭の中の世界観が崩れてしまうからだ。
 法学上の「ピュシス」と「ノモス」という対立概念(※2)から考えると、集団的自衛権というのは、その成り立ちからしてあきらかに「ノモス」の側にある。それは、戦後国際社会の枠組みを作った大国の思惑によって恣意的に作られ、国連憲章に盛り込まれたからだ。先の参院本会議の最後の討論で維新の小野次郎議員が喝破したように、集団的自衛権とは、大国が小国に侵略するための口実にすぎず、純粋に自国の防衛のために行使された例は過去にただの一例もないのである。大国の恣意性という意味では、特に1990年ぐらいまではその傾向が顕著で、そのことは実際の行使事例を見ていけば、あきらかになるだろう。
 そもそも、仮に軍事力による抑止という発想を認めるとしても、「A国を攻撃したらどこかの国が集団的自衛権を行使して参戦してくるかもしれない」などという漠然としたリスクが、攻撃を思いとどまらせる“抑止力”になりうるものだろうか? その一点だけを考えても、集団的自衛権というものが自国の防衛のためではなくて他国への介入・侵略のためのものであることは明白なのだ。

 さて、一つ一つの具体的事例については次回以降書くとして、ここでは全体を俯瞰しての印象を書いておく。
 まず、集団的自衛権を行使した側には、ほとんどの場合、安保理常任理事国のうちの一カ国が含まれている。多くは、米、英、ロシア(旧ソ連時代をふくむ)のいずれかであり、フランスの例もある(ただし、中国だけはない)。
 それに対して、集団的自衛権によって攻撃あるいは介入を受けた側には、安保理常任理事国は一つも含まれていない。それどころか、ハンガリー、チェコ、ベトナム、アフガニスタン、イラク、イエメン、チャド、アンゴラ、ニカラグア……というふうに、およそ大国とはいいがたい国ばかりである。このように見るだけでも、集団的自衛権というものが、大国が小国に軍事干渉――もっとはっきりいえば“侵略”――するための口実であることがわかるだろう。
 そして、そのうえで指摘しておかなければならないのは、ほとんどの例は“失敗”に終っているということだ。
 米英などの大国が集団的自衛権の行使によって守ろうとした体制は、その半数ほどは、現在までの間に、体制が崩壊するか、あるいは事実上崩壊している。南ベトナム、南イエメン、アフガニスタンなどはその典型的な例である。これらの国は、それぞれ米、英、ソが自国に友好的な体制を守ろうとして集団的自衛権を行使したが、いずれも、介入から十年の間にその体制が倒れてしまっている。集団的自衛権が行使された年からカウントして、南イエメンは3年後、アフガニスタンは7年後、南ベトナムは10年後に、その体制が打倒された。しかもアフガンの場合は政権交代といういくらか穏健な形だったが、南イエメンでは親英的な政府が軍事的に打倒され、南ベトナムにいたっては、ベトナム戦争に敗れて国家自体が消滅している。つまり、これらの例では、集団的自衛権の行使は結果として“無駄骨”に終わっているわけである。
 また、体制の崩壊というところまでいたっていない場合でも、長期にわたる混迷が続き、周辺地域の不安定要素となっていたりする。レバノンやアンゴラ、チャド、ホンジュラス、最近の例でいえばアフガンやコンゴなどがその例だろう。アンゴラやチャドは、現在ではいくらか状況が改善しているかもしれないが、それは、他国の介入によって引き起こされた十年、二十年という単位の内戦・混乱の傷を打ち消すものではまったくありえない。他国が集団的自衛権で介入してきたりしなければ、これらの国の内戦はこれほど激化も長期化もしなかっただろう。

 以上が、集団的自衛権行使例に関する総論である。
 次回からは、個別のケースをとりあげ、その一つ一つを検証していく。



※1…私はこのブログの過去の記事において、あまりそういう違いを重視せずに、集団的自衛権もかつての「勢力均衡による抑止」の延長としてとらえ、そういう書き方をしてきた。だが、今回あらためていろいろと調べる中で、両者には決定的な違いがあると考えるにいたった(専門家の方からすれば、今ごろ気づいたのかという話かもしれないが)。すなわち、本文中にも書いているとおり、集団的自衛権は「抑止」や「防衛」という“ディフェンス”の原理ではなく、「介入」、「侵略」といった“オフェンス”の原理であり、「勢力均衡による抑止」とはほとんどまったく別物だ。この点からしても、集団的自衛権行使に関する安倍政権の説明はまったく的外れである。

※2…細かい議論を無視しておおざっぱにいうと、「ピュシス」というのは議論の余地なく普遍的に成り立つ正義で、「ノモス」は時の権力者などが自分に都合のいいように恣意的につくった法というほどの意味に理解していいだろう。

安倍総理の難民発言について

2015-10-03 02:11:49 | 政治・経済
国連総会に出席していた安倍総理の記者会見での発言が、物議をかもしている。
シリア難民を受け入れるつもりがあるかと問われて「人口問題として考えると、その前にやることがある」というあれである。
この発言についてはすでにあちこちでツッコミが入っていてそこに付け足すようなこともないのだが、当ブログでも、やはり一言文句をいっておかなければ気がすまない。
 なんの落ち度もないのに戦禍で故郷を追われた人たちや、命がけで海を渡って、その結果命を失った子供が海岸に打ち上げられているということが、安倍総理、あなたにとっては人口問題なのですか? 数字の問題でしかないのですか? あなたの目には、路上で抗議の声をあげる人たちも、戦禍に追われる難民たちも、無機質な数字としてしかうつらないのですか?
こんなにも無知で、こんなにも愚かで、こんなにも他者への共感に欠けた人物が総理大臣であるということを、日本国民は心に留めておかなければならない。そして、そんな総理を生み出してしまったのが、ほかならぬ私たち自身だということも。私たちは、この国と世界のために、その責任をとらなければならない。