まちみちふうけい

間もなく10年目も通過点

No.1262 お地蔵様で町巡り・・・宇治市編

2020-01-23 09:51:25 | まち
よろしくお願いします。
















京都に向かう時にいつも利用する城陽市の旧街道、この辺りはお地蔵様が多く、前にちょっととぼけたお顔のお地蔵様を紹介したこともありました、上の写真4枚目、5枚目にあるのがそうでしたかね。このお地蔵様のお堂がある辺りで城陽市から宇治市へと入ります、と言うことで今回のお地蔵様巡りは宇治市編です。旧街道を先へと進んで行くとJR新田駅の近くの交差点へとたどり着く、ここを真っ直ぐに行くと京都市の中心部へと直行、大津へと向かう時はここを右に曲がります、いわば自分(一人称)にとっては一大分岐点となる所です。さて、右へと曲がると緩やかな上り坂でJR奈良線の踏切を渡る、上りは続き少しずつ急になってくる、先へと急ぎたい時にはせっせと相棒君を前へと進めるのですが今回はお地蔵様巡り、上り坂の途中でも目を皿のようにして進んでいくつかのお地蔵様を見つけました。狭い道に車が行き交う所にあって排気ガスが充満していて、お地蔵様もここはお堂に囲われて身の安全を守っているかのよう、笑顔のお地蔵様もいれば、あれあれ?一番下の写真のお地蔵様は何か眉をひそめて怒っているかのよう、やっぱり車の行き来が迷惑なんでしょうか・・・。










大津へと向かう時にはいつも宇治市の中心部を通り過ぎる、宇治川に架かる橋を渡ると京阪宇治駅前、ここからは府道は狭くて危ないので旧街道の方を進んで行くことにする。写真1枚目にあるお地蔵様に見届けられて細い道へと入り、府道7号線と京阪宇治線に沿う道を北へ向けて進んで行く。この道は六地蔵まで通じていて、途中には黄檗、木幡と駅がある賑やかな所を通り過ぎていく、府道が狭くて込み具合も激しいのでこちらの方に入ってくる車もある、一部には車が擦れ違うのも難しいほど狭い部分もあるが、車も早く行きたいのだろうから仕方がない。この区間でもいくつかのお地蔵様のお堂を見かけることができる、ちょっと表情を覗うことっが難しいものもあるが、この辺りのお地蔵様も恒例のようにお顔を化粧されている、ホント、罰が当たらないんでしょうかねえ~。





















一方のこちらはさっきの新田の交差点を真っ直ぐに進み国道24号線へと合流、そのまま北へと進むとJR小倉駅付近へとたどり着く。小倉町西山交差点から旧街道へと進んで行った所にもいくつかのお地蔵様、写真を見ても分かるようにここでもお顔の化粧は相変わらずです。さて、すったもんだがありましたが大河『麒麟がくる』が始まりました↓↓↓



第1回見ましたが前回の『いだてん』の不調や例の件があったせいか力の入り具合が半端ないって感じでした。時代は室町時代の後期、日本中を巻き込んだお隣戦争が10年以上も続いた後の京の風景は結構リアルさを感じました、戦国大河となるとだいたい三英傑が活躍した時代がメインになるが、今回は史実がはっきりしない明智光秀の若き頃にスポットを当てるとのことで、時代的には室町時代後期、あまりこれまで見ることがなかった時代背景を見ることができそうな気がします。室町時代と言うと金閣銀閣に代表されるような華やかな文化に対して、政治の方はいろいろな争いがあってフラフラ不安定な状態の頃、その結果応仁の乱が起こって時代が乱れてしまったイメージ、それが各地の戦国武将の台頭を生み出すことにもなりました。突然大河ドラマの話始めて唐突やな~と思われたかも、小倉から宇治の中心地に向かう途中の住宅地の中のちょっとわかりにくい場所にある公園に槙島城跡の碑が立っている、足利義昭が籠城した城として今回の大河でもスポットが当たることになると思います。多分紀行でも紹介されることになるかと思いますが、この槙島城跡、ホント結構分かりにくい所にあります、元は巨椋池に浮かぶ島だったことから槙島と言う地名になったと言うことです。足利義昭はこれまでもいろいろな個性的な俳優さんが演じてきました、玉置浩二が印象に残ってるなあ~、『江』では和泉元彌がやってましたね。今年は滝藤賢一が演じると言うことですが、ああ~、結構いいかも知れない。そんなわけで最後はちょっと横道に逸れてしまいました、もう毎度のことですが・・・今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。           まちみち




No.1261 再訪、古市古墳群(2)

2020-01-22 09:41:42 | 文化財
よろしくお願いします。
















古市古墳群を再訪して巡っています、前回巡った時は観光センターでもらったパンフレットを参考にしたのですが、そこに載っている古墳は名前をよく知られたものばかりで小さな陪塚までは掲載されてませんでした。今回はグーグルマップを頼りに、検索して印がついている古墳を巡りました、さて、再発見となったのでしょうか、行ってみることとしましょう。
まずは写真1枚目、2枚目の住宅地の公園内にあるポコッとした丘のような盾塚古墳、ここは前回も巡りました、古墳には階段もあって人々の憩いの場になっているようですが、それでもここは人の墓場だと言うことは認識されているのでしょうか。近鉄南大阪線と西名阪に挟まれた部分には多くの古墳があり、観光用に古墳の説明が書かれた看板も立っているので分かりやすい、ただこの辺りは前回も巡っているのでそろそろ前回見つけきれなかった古墳も・・・と思っていたらこんな所に、西名阪の真下に柵が為された中に小さな古墳がありました。写真下4枚目、3枚目にある赤面山古墳、頂上がもう高速の高架に当たりそう、写真ではその古墳の向こう側に一部だけチラッと写っている大きな古墳の陪塚に当たると言うことで、世界遺産ではないが国の史跡に指定されています。














西名阪から南へと進むと応神天皇陵を囲む場所へとたどり着く、さすがに大きな古墳となると全貌を写真に収めることはできない。古墳の東側へと回ると住宅地の中にテニスコートがあり、その側に柵が為されている天皇陵の陪塚い号=東馬塚古墳がある、更に住宅地を進んで行くとこれも柵の中に小さな丸い丘の陪塚ろ号=粟塚古墳へとたどり着く。どちらも住宅地の中に溶け込むようにあるので、もし柵がなかったら古墳だと分からないかも知れないところだが両方の古墳とも世界遺産、応神天皇陵の威光に傘を着ている感じがしてならない。粟塚古墳の側を通っているのが東高野街道、この旧街道を南へと進んで行って古市の町並を通り抜けると近鉄南大阪線の踏切があり、その向こう側の石垣の上に城不動坂古墳がある。更にカーブになった上り坂を進んで行くと進行方向右手側に見えてくるのが安閑天皇陵、柵の横に相棒君を止めて古墳の横にある住宅が並ぶ道を入って行くと城不動坂古墳へとたどり着くが、正面からは見ると墳丘には柵が刺さっていて古墳らしさはなく雑然としている、ここはさっきの踏切から見上げる方が良さそうな所です。

















国道170号線を近鉄古市駅方面へと戻り、遊歩道を進んで行くと白鳥陵、この古墳を沿うようにある道を進んで行くと柵が為された小さな古墳、小白髪山古墳がある。側には国道170号線(外環)が通っていて、この古墳の向かい側にはこの古墳を陪塚としている白髪山古墳=清寧天皇がある。と言うことでそちらへと行きたいのだがここは大きな幹線なので横切ることはできない、しかも信号は先の方にあって結構距離がある、仕方ない、ここはルールに従って行くことにしよう、古墳巡りする人もここは必ずルールを守るように。
外環を北へと進んで軽里北交差点へ、そこから少しだけ古市駅方面に進んだ歩道の上に軽里4号古墳の看板が立っている、古墳はと言うと・・・どこにも見当たらない。周辺は住宅地で開発される際に破壊消滅してしまったとのこと、まだ文化財や遺産としての価値を見出されない頃にこの辺りポツポツと点在していた古墳は無惨にも破壊されてしまったのだろう、もったいない・・・、今となっては仕方ないことだがそれが世界遺産の裏の真実と言うことだ。軽里北交差点からは竹内街道へと入ってまずは仁賢天皇陵、ここは前にも訪れています。ここから住宅地の中を縫うように走ってたどり着いたのが写真下2枚にある柵に囲まれた何か冴えない風景、ここが野々上古墳、場所的には仁賢天皇陵の陪塚に当たるのだろう。さすがに陪塚にこだわって巡ってみると、前回は探しきれなかった古墳をたくさん見つけることができました、でもそれはほんの一部、先にも書いたようにこの辺りは消滅してしまった古墳の方が多いとのこと、残念なことですがそれが時代の流れかも知れません。さて、次回も引き続き古市古墳群巡り、新たな発見があるのでしょうか・・・、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。              まちみち




No.1260 藤原京廃寺巡り(3)

2020-01-21 09:56:33 | 
よろしくお願いします。








今回は藤原京廃寺巡り、前回がもう2ヶ月前のお送りとなっていたので忘れてしまったのかと思われたかも知れませんが、ちゃんとやってこのシリーズを終わらせます、と言うことで今回巡る寺院が上の写真1枚目の〇印を記した所です、早速行ってみることとしましょう。













まずは写真1枚目にあるジオラマにある久米寺、都のジオラマでは左下の黄色の〇で記している所、ここは廃寺ではなく今も寺院が実在しています。場所は畝傍山をバックに控えた近鉄橿原神宮前駅の近く、藤原京には以前に訪れたことのある同じ名前の付いた奥山久米寺跡があったが、そちらの方とは直接関係はないとのことです。開基伝承とされる久米仙人は仙術で空を飛んでいる時に地上にいる娘のふくらはぎに見とれて空から落ちたというエロ仙人だったが、その後仙力を取り戻し天皇遷都の際の働きによって褒美を与えられ、その褒美でこの寺院を開基したと言うことですが、まあよくできすぎたと言う感じの話です。
都のジオラマでは緑色の〇で記しているのが写真下から4枚目、5枚目にある大窪寺、近鉄畝傍御陵前駅の東側の古い町並の中に溶け込むようにお堂が建っていて、その前にはここが廃寺だったと言うことを記した看板が立っている。ここには万葉歌碑巡りで訪れています、

「春さらば 挿頭にせむと 我が思ひし 桜の花は 散りにけるかも」(作者不詳・巻16-3786)

何か儚い感じの歌ですが、その歌碑の横には「娘子塚」の伝説の看板が立っている。二人の男に求婚された女性がその争いに思い悩んで命を絶ってしまったと言う話、男たちは悲しんでその歌を詠んだとのことで、さっきのエロ仙人とはまるで真逆の悲劇です。
ジオラマの写真で紫色の〇で記したのは八木寺、その模型では下ツ道と横大路が交わる所にあるので、とりあえずその場所を収めたのが写真下3枚にある所となります。そこは旧街道の風景が広がる八木の札の辻に当たる場所、位置的にはその写真にある古い建物の横大路を挟んだ南側に当たるようです。ただ、この付近には八木寺を通称とする寺院が近くにあるみたいなので、それが藤原京と関係した所なのかはまた確認しに行ってみようと思っています。











畝傍山エリアからは離れた、都の東側にある寺院を2つ、まずはこのゾーンの一番上の写真にある寺院のジオラマが山田寺、上にある地図では山田道のカーブになった所に紫色の〇を記しています。山田道は現在では桜井市と橿原市、更に吉野まで通じている道で車の通りも多い、寺院跡はその道から少し外れた所にある、森の中に小さなお堂はあるものの写真を見た通り、寺院跡は原っぱになっていてその広さから結構大きな寺院だったと言うことはうかがえる。山田道へと戻り橿原方面へと進んで行くとそこはもう明日香村に入っていて、そこは藤原京の一番南に当たる、写真下3枚にあるのはジオラマでは右下の青丸で囲んだ飛鳥寺、ここは明日香村巡りではもう定番と言うことで、今回は藤原京のエリアからも外れているので特に説明もいらないでしょう。












藤原京廃寺巡り、最後を締めくくるのはもうここでは何度もお送りしたことがある元薬師寺跡、都のジオラマでは藤原宮の左下すぐの所に赤いまるで囲っています。畝傍山をバックにホテイアオイが咲き誇る風景も、ここを見てくれている方にはちょっと見飽きたものではないかと思います。平城京の薬師寺の前身にあたる寺院は天武天皇が皇后の病気平癒を願って薬師如来を本尊として建立したと言うこと、平城京に薬師寺ができたことによってここは『元薬師寺』となってしまいました、そう言えばこのゾーンの一番上の写真にある寺院のジオラマ、東西の三重塔も金堂もそのまま奈良に移された感じです。結果的にはこの寺院創建中に天武天皇は亡くなり皇后・・・持統天皇がこの事業を引き継ぐことになります、持統天皇と言うと藤原京造営に尽力したパワフルな女性と言うイメージがある人、天武天皇の意向を尊重して時代を作り上げた人とはどんな人だったのでしょう・・・。そんなわけで藤原京廃寺巡りはこれにて終了となりますが、この後も都の跡をいろいろと巡ってみて藤原京とはどんな所だったのか、持統天皇とその時代はどんなだったのだろう、その辺りを紐解いていってみようと思っています、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。          まちみち



No.1259 お地蔵様で町巡り・・・大和郡山市中心部編

2020-01-20 07:13:06 | まち
よろしくお願いします。
















お地蔵様で町並巡り、今回は大和郡山市内、もう何度も取り上げている所なので「ネタに困ったら大和郡山かよ~」と思われそうですが、視点を変えるとまた再発見できるものもあります、そんな風景を探して進んで行ってみましょう。
まずは中ツ道と下ツ道に挟まれた所、国道24号線が通る辺りにはいくつかの集落がある、今回訪れたのはそのうちの2つの集落、車が通るのも難しいほどの狭さの道に民家がひしめき合うように建ち並んでいる。奥の方へと進んで行くとその町並の守り神であるかのように神社や寺院がある、や、寺院に神はおかしいか・・・。大和郡山の町並と言うと名の知れた環濠集落がいくつか思い出されるが、この辺りの町並も環濠集落の名残がうかがえそうな感じ、無暗に観光に走っていないことだしここでも町名は明かさない方がいいでしょう、さて、郡山の中心部へと向かって行ってみましょう。










JR郡山駅から東に行った所、県道144号線の佐保川に架かる郡界橋の側に扉が赤い地蔵堂が建っている、由緒については写真2枚目にある看板に書かれている。写真1枚目のお堂の向こうに橋が見えているが、はるか昔、平城京の時代にはそこには羅城門があった、看板に書かれた由緒にはこのお地蔵様はその頃からずっとここにあるとされている。ちなみにこの郡界橋、その「郡」と言う字がちょっと気になって調べてみると、以前はこの佐保川を境にして東側が添上郡、西側が添下郡と言っていたので、その境界と言うことで付けられた・・・でいいんかな?大和郡山と言う地名は昔からあったわけだから、その境界になる所と言うことも考えられるし、まあにわかで物を言うわけにはいけないのでこの話はこれくらいにしておきましょう。

















大和郡山の中心部はついこの前にも十三町で取り上げました、町中には国道のような大きな道は通っておらず、狭い道が碁盤の目状に町を貼り巡っている。もう何度もここでは紹介したことがある古い町並、文化財の建物、大和郡山城の櫓をバックに走る近鉄電車、まあ見飽きた風景と言えばそれまでなのですが、その至る所でお地蔵様やそのお堂を見つけることができる。いつの時代からあったものかは分からないが古くからある城下町の中でお守りのように奉られていたのだろうか、お堂の中で雨風を凌ぐようにたたずんでいるものが多いが、扉がないものはその表情を拝むこともできる・・・と言うことで町並をお地蔵様を通して再発見してみようと思ったのですが、もう何度も走り回ったことがある所だけにどうも話が膨らみませんねえ、ちょっと市の中心部から外れた方へ、更に奈良盆地のいろいろな町へと足を伸ばしてみることとしましょうか。その模様については次回からは順次公開していきたいと思います、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。         まちみち


No.1258 滋賀の旅2019年秋編(4)・・・御代参街道から八日市へ

2020-01-16 10:30:33 | 旅行記
よろしくお願いします。














滋賀の旅2019年秋編も中盤戦、前回は竜王町を走り妹背の里と言う遊園地で万葉歌碑を巡りました。さて、ここからは山越え、雪野山ふるさと街道と言う道を進んで行ってトンネルを抜けると東近江市へと入る、今回もやって来ました東近江市、滋賀の南部を走ると大概この市を通ることにポイントとなる所です。トンネルによる山越えが終わるとそこからは平坦部、途中で見かけた寺院にチョイ立ち寄りで写真を撮って、その後は田園風景が広がる中を八日市を目指して進んで行きます。





















近江鉄道が見えてくるとそこはもう何回か来たことがある所、ここからは知っている道を進んで行こうと言うことで鉄道線に沿う御代参街道へと入る、以前近江鉄道各駅巡りの時と、2年前の夏に大阪桐蔭の試合を聞きながら走ったことがある道です。旧街道の雰囲気が漂う町並、所々に道標や常夜燈、お地蔵様や小寺院などがあり、先を急ぎたいところだがそれらを見かけると相棒君を止めては写真撮影でなかなか前に進んで行かない、僕の悪い癖・・・。旧街道は八日市付近に入ると緩やかなカーブの繰り返し、休日の午後に差し掛かる頃だが町並の中では人の姿はほとんど見かけない、ただ狭い道なのに車の通りは割とあって気をつけて進んで行かなければならない。写真下4枚にあるのは八日市の中心部に近い所にある薬師寺、薬師寺と言うと西ノ京にある大寺院を思い出すが全国には同じ名前のついた寺院がいくつもある、薬師如来を本尊とするところからつけられた寺院名で西ノ京にあるのが大本山となっているとのこと・・・ん、これはまた巡りの材料ができたかな、所在地を見ると関西や愛知県内に多いみたいなので考えてみようか。













八日市の中心部にはアーケードの商店街があるがこの日は何かのイベントがあって通ることができなかった、ここでの目的はこの商店街を抜けた所にある神社にある万葉歌碑、しかし通れないとなると仕方ないので周辺の道を迂回してその神社へとたどり着く。この日は他の場所でもイベントが行われていて町中が賑やかな感じ、旧街道の静かさとはまる対照的な感じだが町に活気があるのはやっぱりいいことだ、まあ自転車は冷たい目で見られがちだが。せっかく八日市駅に来たのだから電車の写真も撮っておきたい、と思ったがここの駅舎は結構立派でホームの雰囲気はうかがえない。駅から少し離れた所の線路沿いに地蔵堂があり、その脇からホームの様子をうかがうことができた、黄色い近江鉄道の車両がホームのない留置線に停まっているのが見えている。近江鉄道は毎回外から見るばかり、経営は厳しいと言うニュースも最近よく見かける、乗ってあげたいところなんやけどなあ、まあ自分(一人称)一人が乗ったところでどうなるってわけではないんですけどね。
さて、ここからは折り返すような形で近江鉄道線に沿って近江八幡市方面へと向かいます。旅もいよいよ終盤に差し掛かろうとしているところですが、そろそろ帰りのことも考えなければならないところ、輪行する駅はどこにするか、ここは思案のしどころです。ところでこの走りの大きな目的が万葉歌碑巡り、それについてはここまでお預け状態になってしまっています、次回はそちらの方をまとめてのお伝えとして、旅の後半戦へとつなげていこうと思います、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。           まちみち